六月に入ると、長崎の街は灰色の帳に包まれた。降り止まぬ雨音が、すり鉢状の街を底まで浸していく。
憂鬱で、どこか甘い水の匂いがする季節が、音もなく忍び寄っていた。
石畳の坂道は常に濡れて黒く光り、家々の軒先では紫陽花が重たげに頭を垂れている。飽和した水気が肌にまとわりつく。その逃げ場のない粘り気が、俺の焦燥感をじわじわと煽っていくようだった。
若菜が転校してきて二ヶ月。
彼女は、クラスに馴染むどころか、その派手な外見と刺々しい態度で、完全に浮いた存在になっていた。
西田の軽口も、月島の静かな気遣いも、今の彼女には届かない。彼女は頑ななまでに「東京帰りの余所者」を演じ続けていた。
そんなある日の放課後。
進路指導室の前には、雨音に混じって重苦しい沈黙が漂っていた。
「宮部。お前の成績なら、地元の国立も十分狙えるが……本気なのか? 宮崎の『航空大学校』というのは」
担任の高比良先生が、黒縁眼鏡の奥からじっと俺を見据える。
手元の資料には、俺の偏差値と、志望校の判定が並んでいる。ぎりぎり合格圏内ではある。だが、航空大は学力だけでなく、身体検査や適性検査も含めた、極めて狭き門だ。生半可な覚悟で書ける進路ではないことを、俺も先生も分かっていた。
俺は迷わず頷いた。
「はい。パイロットになるには、あそこが一番の近道です。それ以外、考えてません」
「家業のこともあるだろう。御影の宮司様――お父さんは、何とおっしゃっている?」
「……いえ、まだ話してはいません」
俺は膝の上で拳を握りしめた。
父が知れば、激昂するのは目に見えている。莫大な費用、危険な職業、そして跡継ぎ問題。反対する材料には事欠かない。
「ですが、説得します。……無理なら、勘当されてでも行きます」
強い口調で断言した。
この湿った箱庭のような街で、地面に縛り付けられて一生を終えるなんて御免だ。俺は自分の人生の操縦桿を、自分の手で握りたい。
「……そうか。お前の意志が固いなら、もうこれ以上は言わん」
先生は短く溜め息をつき、資料を閉じた。
「ただ、宮部の意志だけではどうにもならないこともある。学費や保証人の問題だ。ご両親ときちんと話し合ってから、もう一度面談させてくれ」
背後の扉が微かに開く気配がした。
面談を終えて廊下に出ると、長椅子に若菜が座っていた。次の順番だったらしい。
スカートの布を膝の上で握り込み、青白い顔で俯いている。
目が合うと、彼女は気まずそうに視線を逸らした。俺の「勘当されてでも行く」という言葉が耳に入ったのかもしれない。
* * *
校舎を出ると、雨は本降りになっていた。
傘を差してオランダ坂を下っていると、後ろからパシャパシャと水を跳ね上げる足音が近づいてきた。
「……慶祐」
若菜だった。透明なビニール傘の下で、彼女は複雑な表情を浮かべていた。
この二ヶ月、俺たちは隣同士に住んでいながら、まともに会話らしい会話をしていない。
「どうしたと」
「あんた……本気なん? 勘当されてでも行くって」
「盗み聞きとは趣味が悪いな」
「ごめん、聞こえてしもうたんよ」
俺は歩調を緩めずに答えた。雨脚が強く、声を張らないとかき消されそうだ。
「本気ばい。こんな坂だらけの街、地面に縛り付けられて生きるのはもううんざりなんよ。俺はこの『御影神社の跡取り』っていうレッテルを剥がして、自分の翼で、広い世界へ飛び出したいんよ」
「……ふうん。宮崎、やったっけ」
若菜の声が、雨音に溶けて消え入りそうに響いた。
「いいよなぁ。あんたは、自分の行きたい場所があって。……私は、どこに行っても中途半端やけん」
その響きに含まれた自嘲と、俺への微かな棘に、胃の腑が熱くなるのを感じた。
彼女の纏う「東京帰りの倦怠感」は、濡れたアスファルトのように冷たく、俺の必死な覚悟――狭き門である航空大への挑戦を、あざ笑っているようだった。
喉の奥から、苦い感情がせり上がってくる。
お前は一度、その広い世界を見たじゃないか。それなのに、勝手に傷ついて戻ってきて、俺の夢まで否定するような目を向けやがって。
だから俺は言ってしまったのだ。決定的な一言を。
「おう。こっちにおったら出会いもなかろうもん。ここを出れば、もっとこう……」
「もっと?」
「お前みたいに、帰ってくる場所ば探しとる奴やなくて。……もっと遠くまで行きたがっとる奴と会えるかもしれんやろ」
「――」
「『蝶々夫人』のごたる、って言えばよかとか。淑やかに見えて、ほんとは船に乗って出ていきたか女とか」
それは、長崎の人間ならではのブラックジョークのつもりだった。
あるいは、変わってしまった幼馴染への、不器用な当てつけだったのかもしれない。
だが、その言葉が彼女の最も柔らかい部分を、無慈悲に抉ったことに、俺は気づく余裕もなかった。
「………」
若菜が、弾かれたように顔を上げた。
雨に濡れた前髪の隙間から見えたその瞳は、怒りとも、悲しみともつかない色で揺れていた。
唇が震え、何かを言いかけて、噛み殺す。
「……そうね。そんな美人と出逢えたらええね、慶祐」
絞り出すような声だった。
ふいに、彼女は俺から視線を逸らすと、傘を放り出して脱兎のごとく駆け出した。
東小島の入り組んだコンクリートの階段を一段飛ばしに駆け上がっていく。
「おい、若菜! カサ!」
俺の声は、強まった雨足にかき消された。
追いかけようとして、俺は足を止めた。
今、彼女に何を言えばいい? 謝るのか? それとも笑い飛ばせばいいのか?
分からないまま、俺はその場に立ち尽くした。
「……くそっ」
俺は転がった彼女の傘を拾い上げると、舌打ちをして坂を登り始めた。
指先に残る傘の柄の冷たさが、自分の吐いた言葉の残酷さを突きつけてくるようだ。
いくら自分が追い詰められていたとはいえ、あんな言い方はなかった。明らかに若菜を傷つけてしまった。
今すぐ追いかけて謝るべきだ。
だが、足は動かなかった。家に帰れば頑固な父が待ち構えている。そっちの対応で手一杯だという言い訳が、俺の卑怯な背中を押していた。
御影神社の鳥居をくぐる。
バケツをひっくり返したような豪雨が、視界を白く染めていた。
ふと、境内の奥、手水舎の方に気配を感じて、俺は足を止めた。
「……?」
目を凝らすが、雨のカーテンに遮られてよく見えない。
風で揺れる木の枝か、あるいは野良猫だろうか。こんな土砂降りの日に、人がいるはずがない。若菜も、とっくに家に着いているはずだ。……そう思うことにした。
(……あとで、ちゃんと謝りに行こう)
俺は濡れた前髪をかき上げ、逃げるように自宅の玄関へと走った。
ほんの数メートル。
その雨のカーテンの向こうに、ずぶ濡れで立ち尽くす彼女がいたことに気づかないまま、俺は乱暴に引き戸を開けた。
「ただいま……」
土間に足を踏み入れた瞬間、湿った空気とは違う、重苦しい気配が肌を刺す。
居間の障子が少し開いており、そこから父の背中が見えた。白衣に袴姿。祭事のあとで着替えていないのか、その背筋は年老いてもなお神木の如く真っ直ぐで、俺を威圧するには十分だった。
「慶祐……そこに座りなさい」
俺が濡れたローファーを脱ぐ音に反応し、父が振り返ることもなく言った。低く、地を這うような声だ。
俺は覚悟を決め、濡れた靴下のまま上がり框を越え、父の背後に正座した。
「高比良先生から電話があった」
父がゆっくりとこちらに向き直る。その眼光は、怒りというよりは、得体の知れない冷たさを帯びていた。
「家族で進路について話し合ってほしいとな。『宮崎の航空大学校』……間違いないか?」
「……ああ。そうたい」
俺は畳に指を立てて、顔を上げた。
「俺は、パイロットになりたい。そのために、航空大へ行く」
「いつ決めた」
「……ずっと前からだ」
「ならば何故、一言も相談しなかった」
父の声の温度が、氷点下まで下がった気がした。
「学費はどうするつもりだ。寮生活の費用は。そもそも、あの学校の倍率を知っとるんか。身体検査も相当厳しかとばい」
「知っとうよ! 調べたさ! 学費だって、国立やけん私大よりは安いし、奨学金だってある!」
「金だけの問題じゃなか!」
父の怒声が、薄暗い居間に響き渡った。
俺はビクリと肩を震わせた。父は膝に置いた拳を震わせ、俺を射抜くように睨みつけていた。
「人生の岐路だぞ。それを、親に一言の相談もなく、担任にだけ伝えて既成事実にするつもりやったとか。……お前は、それほどまでに私らが信用ならんのか」
その言葉には、明らかな失望が含まれていた。
違う、と言いかけて、声にならなかった。
信用していないわけじゃない。
ただ、言えば反対されると分かっていたから。
御影の跡取りという鎖を引き合いに出されるのが怖かったからだ。
若菜にも、父にも、俺は結局、自分の都合ばかり押し付けている。そんな自己嫌悪が、逆に反発心となって喉元までせり上がった。
「……言えば絶対、反対するやろ」
「当たり前だ!」
父が畳を叩いた。
「パイロットだと? 何千人もの命を預かる仕事ぞ。生半可な覚悟で務まるもんじゃなか。それに、お前には守るべきものがあるやろうが」
「守るべきものって、この神社のことか?」
俺の中で、何かが切れた。
雨音にかき消されまいとしていた焦燥と、若菜を傷つけた自分への苛立ちが、導火線に火をつける。
「俺の人生は、このカビ臭い社を守るためにあるわけじゃなか! 代々続く封印だか何だか知らんけど、そんな目に見えんもんのために、俺は一生この坂の上に縛り付けられるんか!」
俺は立ち上がり、父を見下ろすように叫んだ。
「俺は嫌だ! 地面ばかり見て、過去ばかり振り返って生きるのは御免だ! 俺はここから飛び立ちたいんよ! 重力を振り切って、あの雲の向こう側へ行きたいんだ!」
「慶祐ッ!」
父が立ち上がった。その迫力に、俺は一歩後ずさる。
殴られるかと思った。だが、父の拳は空中で止まり、行き場をなくしたように震えていた。
父は、深く息を吐き出し、静かに、しかし絶対的な命令として告げた。
「……頭を冷やせ」
「親父……」
「お前のその考えこそが、驕りだ。地に足も着いていない人間に、空など飛べるものか」
父は冷徹に言い放った。
「今日の飯は抜きだ。蔵へ行って、埃を払ってこい。あそこの静寂の中で、己の未熟さと向き合ってこい」
反論しようとして、俺は口を噤んだ。
何を言っても無駄だ。今の俺の言葉は、父にはただの子供の癇癪にしか聞こえていない。そして実際、俺は若菜に対しても、子供じみた癇癪をぶつけたばかりだった。
俺は舌打ちを一つ残し、逃げるように土間を出た。
* * *
社務所から渡り廊下を抜け、裏手にある蔵へと向かう。
重厚な土壁に囲まれたその場所は、雨の湿気すら拒絶するようにひんやりとしていた。
引き戸を開けると、暗闇と共に、線香と古紙が混ざったような独特の匂いが鼻を突く。澱んだ時間は、ここだけ明治の昔から止まっているようだ。
俺は裸電球のスイッチを入れ、適当な木箱に腰を下ろした。
掃除なんてする気はない。
ただ、この静寂に身を浸して、ささくれ立った神経を鎮めたかった。
脳裏に浮かぶのは、雨の中で走り去った若菜の背中だ。
(……言いすぎた、かな)
あいつが落としていったビニール傘は、まだ玄関の傘立てに突き刺さったままだ。
『蝶々夫人』。
あんな当てつけ、言うつもりじゃなかった。ただ、あいつが東京で何を見て、何に傷ついてきたのかも知ろうとせず、自分の夢を否定されたことへの反発だけで、俺は一番言ってはいけない言葉を投げつけた。
若菜は「どこに行っても中途半端」だと自嘲していた。
俺はその言葉の裏にある彼女の痛みから、目を逸らし続けていた。
なぜ戻ってきたのか。東京で何があったのか。あの派手なメイクの下で、あいつが何を怖がっていたのか。
俺はなにひとつ、聞こうとしなかった。
自分の夢を守ることに必死で、傷ついた幼馴染の悲鳴に耳を塞ぎ、あろうことか自分の苛立ちをぶつける捌け口にしたのだ。
『地に足も着いていない人間に、空など飛べるものか』
父の言葉がリフレインする。
その通りだ。俺は、足元にいる幼馴染のことさえちゃんと見てやれなかったくせに、空ばかり見上げていた。
「くそっ……」
俺は足元のガラクタを軽く蹴った。
やり場のない怒りと、自己嫌悪。
その拍子に、棚の奥で何かがゴトリと音を立てた。
崩れかけた木箱の山。その隙間から、黄ばんだ和紙の端が覗いている。
「……ああ、あの時の」
中学のころ、若菜と二人でこの蔵に潜り込んでいた夏。俺たちは一度、この箱を見つけていた。
蓋にお札が何枚も貼られていて、若菜が「開けてみようや」と言い、俺が止めた。「冗談だろ」と思った。
こんなに厳重に札が貼られているものだ。どれだけ古いものかは分からないが、何かとんでもないものを封印しているに違いない、と神職の家の者としては当たり前の勘が働いた。
それと、あのときは、怖かったのだ。
ただ、俺は箱を木箱の陰に押し戻して、その日は蔵を出た。
あいつは「けち」と言って笑った。
「……開けてみようや、か」
あの夏の若菜の声が、はっきりと耳に残っている。
俺は木箱をどけて、桐箱を引きずり出した。
蓋には、墨の薄れたお札が何枚もベタベタと貼られている。文字は読めない。子供のころに見たときと、何も変わっていなかった。
変わったのは、俺のほうだ。
ここから逃げ出したい。変わりたい。
爪先でカリカリとお札を剥がす。幾年もの年月を経て脆くなった紙は、あっけなく破れ散った。
蓋を開ける。
何年もの間封印されていた空気が令和のそれと混じり合い、お香のような香りに包まれる。
中には、紫色の縮緬に包まれた物体が鎮座していた。
色あせた組紐を解き、布を解くと、掌サイズの「手鏡」が現れた。
「へえ……ビードロ鏡か」
思わず感嘆の声が漏れた。
昔の鏡といえば金属を磨いた銅鏡が一般的だが、これは厚みのあるガラス――ビードロを使った、当時としては最新の品だ。
裏返してみると、持ち手と背面は艶やかな黒漆塗りになっていた。
そこに夜光貝だろうか、虹色に輝く螺鈿細工で、繊細な紫陽花の花が描かれている。
ビードロの鏡面と、螺鈿の漆細工。
出島のオランダ商館から持ち込まれたガラスを、日本の職人が加工したものだろうか。
「和」と「洋」が混ざり合ったその造形は、素人目にも一級の美術品だと分かった。
だが、裏返して鏡面を見た俺は、眉をひそめた。
ガラスの表面が、真っ白に曇っている。
割れているわけではない。ただ、長い年月の間に蓄積した湿気や埃、油膜のようなものが表面にこびりつき、まるで冬場の窓ガラスのようにぼんやりと霞んでいる。
これでは、何も映らない。
「……ま、磨けば光るか」
俺は着ていたTシャツの裾を捲り上げると、その布地でゴシゴシと鏡の表面をこすり始めた。
キュッ、キュッ。
静かな蔵の中に、布が擦れる乾いた音が響く。
ただの汚れ落としとは少し違う。
美しいものが、暗闇の中で息を潜め、誰にも見られずに光を失っている。それを見過ごすことは、俺の本能が許さなかった。
この曇りを晴らし、本来の輝きを救い出してやろう。
それが今、行き場のない苛立ちを抱えた俺に課せられた、唯一の使命であるかのように、俺は無心で指先を動かした。
指先に力を込めて拭うたび、白い霞が晴れていく。
ふと、俺は手を止めて、散らばったお札の残骸を見つめた。
一体、この鏡はなぜこれほど厳重に封じられていたのだろう。
ただの鏡だ。割れているわけでも、不吉な紋様があるわけでもない。むしろ、螺鈿の細工は目を疑うほど精巧だ。
祟り神か、あるいは曰く付きの道具か。
普通なら気味悪がるところかもしれない。だが、今の俺には、その「閉じ込められていた」という境遇そのものが、妙に親近感を抱かせた。
どれだけの時間を、この暗闇の中で過ごしてきたのだろう。
誰の目にも触れず、誰にも使われることなく、ただ埃を被って。
「……お前も、ここから出たかったんか?」
独り言が、蔵の闇に吸い込まれる。
この分厚い土壁に囲まれた暗闇から、光の当たる場所へ。
決められたレールの上ではなく、自分の足で歩ける世界へ。
鏡の曇りを晴らすことが、まるで自分自身の未来を切り開く儀式のような気がして、俺は祈るように指を動かし続けた。
完全に曇りが取れ、冷たく澄んだ輝きが戻った、その瞬間。
カッ!
手鏡が、カメラのストロボを焚いたように、強烈な銀色の光を放った。
「うわっ!?」
俺は思わず目を細め、手鏡を取り落としそうになった。
ただの反射じゃない。鏡そのものが、内側から発光したようだった。
視界が白く染まる。鼓膜の奥で、キィィィン……という高い音が鳴り響く。何かが「抜けていく」ような、あるいは「繋がり」が生まれるような、奇妙な浮遊感。
と同時に。
蔵の外、雨音に混じって、別の音が聞こえた気がした。
『……見つけた』
切実な、祈りのような少女の声。
そして。
――キャアアァッ!
短い悲鳴と、何かが石段を転がり落ちる、重く鈍い音。
「……え?」
手鏡の光が収束する。
蔵の中には、再び薄暗い静寂が戻っていた。
だが、俺の指先はまだ細かく震えていた。
今のは何だ? 空耳か?
いや、確かに聞こえた。すぐ近く、境内の石段の方角から。
嫌な予感が、後頭部の産毛を逆立てた。
俺は手鏡を握りしめたまま、蔵の扉を蹴り開けた。
「誰かおるとか!?」
雨は激しさを増し、視界を白く煙らせている。
「……まさか……」
俺は泥濘む地面を踏みしめ、石段の降り口へと走った。
そこで、俺は見た。
紫陽花の茂みの中、泥だらけになって倒れている、見覚えのある茶色い髪を。
「……若、菜……?」
喉が引きつった。
俺の呼ぶ声に、彼女は答えない。
ただ、激しい雨が、動かなくなった彼女の体を、無慈悲に打ち続けていた。
* * *
――その数分前。
雨は、若菜の心の中まで冷たく濡らしていくようだった。
彼女は御影神社の鳥居をくぐり、ふらふらと境内へと足を踏み入れていた。
誰もいない。聞こえるのは、木々を叩く激しい雨音だけ。
「……馬鹿」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
無神経な慶祐にか。それとも、あいつの言葉一つで、こうも簡単に傷ついてしまう自分にか。
『蝶々夫人』
『お前みたいに、帰ってくる場所ば探しとる奴やなくて』
あいつは軽い冗談のつもりだったのだろう。
でも、私には分かっていた。それが慶祐の本音だ。
あいつは昔から、ここではない何処かを見ている。私の知らない、綺麗で、洗練された世界。
東京から逃げ帰ってきて、厚化粧で武装しただけの私なんて、あいつの視界には入っていないのだ。
私は手水舎の柱に背を預け、荒くなった呼吸を整えた。
屋根から落ちる雨垂れが、石の水盤に波紋を作っている。
ふと、その暗い水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、雨に濡れて化粧が崩れ、茶色い髪が顔に張り付いた、ひどく惨めな少女だった。
「……可愛くない」
私は唇を噛んだ。
これが私?
東京でも馴染めず、地元でも浮いて、好きな男の子には、帰る場所を探しているだけだと見抜かれている。
こんなの、私じゃない。なりたかった自分じゃない。
――変わりたい。
心の奥底から、悲鳴のような願いが溢れ出した。
今の私じゃない、誰かに。
慶祐が憧れるような、綺麗で、強くて、愛される誰かに。
「こんな自分……消えてしまえばよか」
その言葉が、唇から零れ落ちた、その瞬間だった。
カッ!
背後の闇――社務所の裏にある蔵の方角で、強烈な閃光が走った気がした。
雷? いいえ、違う。
光と同時に、私の目の前にある手水舎の水面が、白く発光したのだ。
「……え?」
私は目を見開いた。
光る水面の中で、私の顔がぐにゃりと歪む。
茶色い髪が黒く染まり、派手な化粧が溶け落ちていく。
そして、そこには――。
見たこともない、黒髪の美しい少女が微笑んでいた。
『……見つけた』
水底から、鈴を転がすような声が響いた。
耳ではなく、頭の中に直接響く、甘く、懐かしい声。
次の瞬間、強烈な引力が私の意識を吸い込んだ。
へその緒を掴まれて、無理やり引きずり出されるような感覚。魂が弾き飛ばされ、代わりに「別の何か」が、冷たい水流となって私の中へ流れ込んでくる。
「あ……」
意識を乗っ取られた体が、糸の切れた人形のようによろめいた。
後ずさりした足が、濡れた石畳の上で空を切る。
そこは、急な石段の降り口だった。
世界が反転する。
重力が私を捕まえ、石段へと叩きつける。
「――キャアアァッ!」
悲鳴は、私のものであって、私のものではなかった。
視界が明滅し、紫陽花の色彩が泥の色に塗り潰されていく。
痛みよりも先に、深い闇が私を飲み込んだ。
私が「私」でいられたのは、そこまでだった。
* * *
市民病院の待合室は、冷房が効きすぎていて肌寒かった。
消毒液の匂い。硬いベンチの感触。
俺は泥だらけの服のまま、頭を抱えて座っていた。爪の間に入り込んだ泥が、いくら擦っても落ちない。
隣には、連絡を受けて駆けつけた若菜の祖母が、数珠を握りしめて震えている。俺の母がその背中をさすり、父は腕を組んで、手術室のランプを睨みつけていた。
「……長与さんのご家族の方」
ドアが開き、白衣の医師が出てきた。
弾かれたように全員が立ち上がる。
「命に別状はありません。あれだけの階段を落ちて、打ちどころが良かったのは奇跡です。骨折も見当たりません」
「よかった……!」
若菜の祖母がその場に崩れ落ちる。俺も、詰めていた息を大きく吐き出した。
だが、医師の表情は晴れやかではなかった。
「ただ……脳震盪の影響か、まだ意識が戻りません。こればかりは、本人の覚醒を待つしかありません」
* * *
一般病棟の個室に移された若菜は、深く眠っていた。
点滴のチューブが繋がれ、頭には白い包帯が巻かれている。
窓の外はすっかり日が暮れ、雨上がりの夜空に月が懸かっていた。
俺はベッドの脇に立ち、その寝顔を見下ろした。
いつもの勝気な表情は消え、血の気を失った顔は、まるで精巧な蝋人形のように静かだった。
(俺のせいだ)
胸の奥で、どす黒い後悔が渦巻く。
俺があんなことを言わなければ。あいつの逃げ場所を奪うようなことを言わなければ、こんなことにはならなかった。
「……ごめん」
俺は小さく呟いた。
もし目が覚めたら、ちゃんと謝ろう。東京の話も、蝶々夫人の話も、全部取り消すから。
だから、頼む。早く目を覚ましてくれ。
その願いが、通じたのか。
若菜の瞼が、ピクリと動いた。
「あ……若菜?」
俺が身を乗り出す。祖母と両親もベッドを囲む。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。
焦点の合わない瞳が、天井の蛍光灯を映し、やがて周囲の大人たちを順に見回していく。
「若菜、分かるか? 俺だ、慶祐だ」
俺は必死に呼びかけた。
若菜の視線が、俺の顔で止まる。
数秒の沈黙。
俺は、彼女が「うるさいわね」と憎まれ口を叩いてくれるのを待った。
だが。
彼女の瞳に灯ったのは、見たこともないような――湖面のように静かで、温かな光だった。
「……ああ」
彼女の唇が動き、溜め息のような声が零れた。
それは、俺がよく知っている幼馴染の声帯を使っているはずなのに、まるで別人の響きを持っていた。
鈴を転がすような、上品で、どこか古風な響き。
「やっと……やっとお会いできました」
彼女は点滴の管も気にせず、そっと俺の方へと手を伸ばした。
その仕草の、あまりの優雅さに、俺は息を呑んだ。
「慶次郎さま。……ずっと、お待ちしておりました」
「……は?」
病室の空気が凍りついた。
慶次郎。
それは確か、社務所の奥にある写真の中にしかいない、とっくの昔に死んだ俺の曾祖父さんの名前だ。
「若菜……? どうした、俺だぞ」
俺は戸惑いながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「医者が言ってた、記憶の混濁ってやつか……? 俺が誰か、分からんのか」
俺が縋るように尋ねると、彼女は困ったように眉を下げ、愛おしそうに微笑んだ。
「わかな……? いいえ、慶次郎さま。私は『ちせ』でございます。お忘れになってしまったのですか?」
俺のポケットの中で、あの手鏡が熱を持ったようにカチリと音を立てた気がした。
窓から差し込む月光が、生まれ変わった「転校生」を青白く照らし出していた。
憂鬱で、どこか甘い水の匂いがする季節が、音もなく忍び寄っていた。
石畳の坂道は常に濡れて黒く光り、家々の軒先では紫陽花が重たげに頭を垂れている。飽和した水気が肌にまとわりつく。その逃げ場のない粘り気が、俺の焦燥感をじわじわと煽っていくようだった。
若菜が転校してきて二ヶ月。
彼女は、クラスに馴染むどころか、その派手な外見と刺々しい態度で、完全に浮いた存在になっていた。
西田の軽口も、月島の静かな気遣いも、今の彼女には届かない。彼女は頑ななまでに「東京帰りの余所者」を演じ続けていた。
そんなある日の放課後。
進路指導室の前には、雨音に混じって重苦しい沈黙が漂っていた。
「宮部。お前の成績なら、地元の国立も十分狙えるが……本気なのか? 宮崎の『航空大学校』というのは」
担任の高比良先生が、黒縁眼鏡の奥からじっと俺を見据える。
手元の資料には、俺の偏差値と、志望校の判定が並んでいる。ぎりぎり合格圏内ではある。だが、航空大は学力だけでなく、身体検査や適性検査も含めた、極めて狭き門だ。生半可な覚悟で書ける進路ではないことを、俺も先生も分かっていた。
俺は迷わず頷いた。
「はい。パイロットになるには、あそこが一番の近道です。それ以外、考えてません」
「家業のこともあるだろう。御影の宮司様――お父さんは、何とおっしゃっている?」
「……いえ、まだ話してはいません」
俺は膝の上で拳を握りしめた。
父が知れば、激昂するのは目に見えている。莫大な費用、危険な職業、そして跡継ぎ問題。反対する材料には事欠かない。
「ですが、説得します。……無理なら、勘当されてでも行きます」
強い口調で断言した。
この湿った箱庭のような街で、地面に縛り付けられて一生を終えるなんて御免だ。俺は自分の人生の操縦桿を、自分の手で握りたい。
「……そうか。お前の意志が固いなら、もうこれ以上は言わん」
先生は短く溜め息をつき、資料を閉じた。
「ただ、宮部の意志だけではどうにもならないこともある。学費や保証人の問題だ。ご両親ときちんと話し合ってから、もう一度面談させてくれ」
背後の扉が微かに開く気配がした。
面談を終えて廊下に出ると、長椅子に若菜が座っていた。次の順番だったらしい。
スカートの布を膝の上で握り込み、青白い顔で俯いている。
目が合うと、彼女は気まずそうに視線を逸らした。俺の「勘当されてでも行く」という言葉が耳に入ったのかもしれない。
* * *
校舎を出ると、雨は本降りになっていた。
傘を差してオランダ坂を下っていると、後ろからパシャパシャと水を跳ね上げる足音が近づいてきた。
「……慶祐」
若菜だった。透明なビニール傘の下で、彼女は複雑な表情を浮かべていた。
この二ヶ月、俺たちは隣同士に住んでいながら、まともに会話らしい会話をしていない。
「どうしたと」
「あんた……本気なん? 勘当されてでも行くって」
「盗み聞きとは趣味が悪いな」
「ごめん、聞こえてしもうたんよ」
俺は歩調を緩めずに答えた。雨脚が強く、声を張らないとかき消されそうだ。
「本気ばい。こんな坂だらけの街、地面に縛り付けられて生きるのはもううんざりなんよ。俺はこの『御影神社の跡取り』っていうレッテルを剥がして、自分の翼で、広い世界へ飛び出したいんよ」
「……ふうん。宮崎、やったっけ」
若菜の声が、雨音に溶けて消え入りそうに響いた。
「いいよなぁ。あんたは、自分の行きたい場所があって。……私は、どこに行っても中途半端やけん」
その響きに含まれた自嘲と、俺への微かな棘に、胃の腑が熱くなるのを感じた。
彼女の纏う「東京帰りの倦怠感」は、濡れたアスファルトのように冷たく、俺の必死な覚悟――狭き門である航空大への挑戦を、あざ笑っているようだった。
喉の奥から、苦い感情がせり上がってくる。
お前は一度、その広い世界を見たじゃないか。それなのに、勝手に傷ついて戻ってきて、俺の夢まで否定するような目を向けやがって。
だから俺は言ってしまったのだ。決定的な一言を。
「おう。こっちにおったら出会いもなかろうもん。ここを出れば、もっとこう……」
「もっと?」
「お前みたいに、帰ってくる場所ば探しとる奴やなくて。……もっと遠くまで行きたがっとる奴と会えるかもしれんやろ」
「――」
「『蝶々夫人』のごたる、って言えばよかとか。淑やかに見えて、ほんとは船に乗って出ていきたか女とか」
それは、長崎の人間ならではのブラックジョークのつもりだった。
あるいは、変わってしまった幼馴染への、不器用な当てつけだったのかもしれない。
だが、その言葉が彼女の最も柔らかい部分を、無慈悲に抉ったことに、俺は気づく余裕もなかった。
「………」
若菜が、弾かれたように顔を上げた。
雨に濡れた前髪の隙間から見えたその瞳は、怒りとも、悲しみともつかない色で揺れていた。
唇が震え、何かを言いかけて、噛み殺す。
「……そうね。そんな美人と出逢えたらええね、慶祐」
絞り出すような声だった。
ふいに、彼女は俺から視線を逸らすと、傘を放り出して脱兎のごとく駆け出した。
東小島の入り組んだコンクリートの階段を一段飛ばしに駆け上がっていく。
「おい、若菜! カサ!」
俺の声は、強まった雨足にかき消された。
追いかけようとして、俺は足を止めた。
今、彼女に何を言えばいい? 謝るのか? それとも笑い飛ばせばいいのか?
分からないまま、俺はその場に立ち尽くした。
「……くそっ」
俺は転がった彼女の傘を拾い上げると、舌打ちをして坂を登り始めた。
指先に残る傘の柄の冷たさが、自分の吐いた言葉の残酷さを突きつけてくるようだ。
いくら自分が追い詰められていたとはいえ、あんな言い方はなかった。明らかに若菜を傷つけてしまった。
今すぐ追いかけて謝るべきだ。
だが、足は動かなかった。家に帰れば頑固な父が待ち構えている。そっちの対応で手一杯だという言い訳が、俺の卑怯な背中を押していた。
御影神社の鳥居をくぐる。
バケツをひっくり返したような豪雨が、視界を白く染めていた。
ふと、境内の奥、手水舎の方に気配を感じて、俺は足を止めた。
「……?」
目を凝らすが、雨のカーテンに遮られてよく見えない。
風で揺れる木の枝か、あるいは野良猫だろうか。こんな土砂降りの日に、人がいるはずがない。若菜も、とっくに家に着いているはずだ。……そう思うことにした。
(……あとで、ちゃんと謝りに行こう)
俺は濡れた前髪をかき上げ、逃げるように自宅の玄関へと走った。
ほんの数メートル。
その雨のカーテンの向こうに、ずぶ濡れで立ち尽くす彼女がいたことに気づかないまま、俺は乱暴に引き戸を開けた。
「ただいま……」
土間に足を踏み入れた瞬間、湿った空気とは違う、重苦しい気配が肌を刺す。
居間の障子が少し開いており、そこから父の背中が見えた。白衣に袴姿。祭事のあとで着替えていないのか、その背筋は年老いてもなお神木の如く真っ直ぐで、俺を威圧するには十分だった。
「慶祐……そこに座りなさい」
俺が濡れたローファーを脱ぐ音に反応し、父が振り返ることもなく言った。低く、地を這うような声だ。
俺は覚悟を決め、濡れた靴下のまま上がり框を越え、父の背後に正座した。
「高比良先生から電話があった」
父がゆっくりとこちらに向き直る。その眼光は、怒りというよりは、得体の知れない冷たさを帯びていた。
「家族で進路について話し合ってほしいとな。『宮崎の航空大学校』……間違いないか?」
「……ああ。そうたい」
俺は畳に指を立てて、顔を上げた。
「俺は、パイロットになりたい。そのために、航空大へ行く」
「いつ決めた」
「……ずっと前からだ」
「ならば何故、一言も相談しなかった」
父の声の温度が、氷点下まで下がった気がした。
「学費はどうするつもりだ。寮生活の費用は。そもそも、あの学校の倍率を知っとるんか。身体検査も相当厳しかとばい」
「知っとうよ! 調べたさ! 学費だって、国立やけん私大よりは安いし、奨学金だってある!」
「金だけの問題じゃなか!」
父の怒声が、薄暗い居間に響き渡った。
俺はビクリと肩を震わせた。父は膝に置いた拳を震わせ、俺を射抜くように睨みつけていた。
「人生の岐路だぞ。それを、親に一言の相談もなく、担任にだけ伝えて既成事実にするつもりやったとか。……お前は、それほどまでに私らが信用ならんのか」
その言葉には、明らかな失望が含まれていた。
違う、と言いかけて、声にならなかった。
信用していないわけじゃない。
ただ、言えば反対されると分かっていたから。
御影の跡取りという鎖を引き合いに出されるのが怖かったからだ。
若菜にも、父にも、俺は結局、自分の都合ばかり押し付けている。そんな自己嫌悪が、逆に反発心となって喉元までせり上がった。
「……言えば絶対、反対するやろ」
「当たり前だ!」
父が畳を叩いた。
「パイロットだと? 何千人もの命を預かる仕事ぞ。生半可な覚悟で務まるもんじゃなか。それに、お前には守るべきものがあるやろうが」
「守るべきものって、この神社のことか?」
俺の中で、何かが切れた。
雨音にかき消されまいとしていた焦燥と、若菜を傷つけた自分への苛立ちが、導火線に火をつける。
「俺の人生は、このカビ臭い社を守るためにあるわけじゃなか! 代々続く封印だか何だか知らんけど、そんな目に見えんもんのために、俺は一生この坂の上に縛り付けられるんか!」
俺は立ち上がり、父を見下ろすように叫んだ。
「俺は嫌だ! 地面ばかり見て、過去ばかり振り返って生きるのは御免だ! 俺はここから飛び立ちたいんよ! 重力を振り切って、あの雲の向こう側へ行きたいんだ!」
「慶祐ッ!」
父が立ち上がった。その迫力に、俺は一歩後ずさる。
殴られるかと思った。だが、父の拳は空中で止まり、行き場をなくしたように震えていた。
父は、深く息を吐き出し、静かに、しかし絶対的な命令として告げた。
「……頭を冷やせ」
「親父……」
「お前のその考えこそが、驕りだ。地に足も着いていない人間に、空など飛べるものか」
父は冷徹に言い放った。
「今日の飯は抜きだ。蔵へ行って、埃を払ってこい。あそこの静寂の中で、己の未熟さと向き合ってこい」
反論しようとして、俺は口を噤んだ。
何を言っても無駄だ。今の俺の言葉は、父にはただの子供の癇癪にしか聞こえていない。そして実際、俺は若菜に対しても、子供じみた癇癪をぶつけたばかりだった。
俺は舌打ちを一つ残し、逃げるように土間を出た。
* * *
社務所から渡り廊下を抜け、裏手にある蔵へと向かう。
重厚な土壁に囲まれたその場所は、雨の湿気すら拒絶するようにひんやりとしていた。
引き戸を開けると、暗闇と共に、線香と古紙が混ざったような独特の匂いが鼻を突く。澱んだ時間は、ここだけ明治の昔から止まっているようだ。
俺は裸電球のスイッチを入れ、適当な木箱に腰を下ろした。
掃除なんてする気はない。
ただ、この静寂に身を浸して、ささくれ立った神経を鎮めたかった。
脳裏に浮かぶのは、雨の中で走り去った若菜の背中だ。
(……言いすぎた、かな)
あいつが落としていったビニール傘は、まだ玄関の傘立てに突き刺さったままだ。
『蝶々夫人』。
あんな当てつけ、言うつもりじゃなかった。ただ、あいつが東京で何を見て、何に傷ついてきたのかも知ろうとせず、自分の夢を否定されたことへの反発だけで、俺は一番言ってはいけない言葉を投げつけた。
若菜は「どこに行っても中途半端」だと自嘲していた。
俺はその言葉の裏にある彼女の痛みから、目を逸らし続けていた。
なぜ戻ってきたのか。東京で何があったのか。あの派手なメイクの下で、あいつが何を怖がっていたのか。
俺はなにひとつ、聞こうとしなかった。
自分の夢を守ることに必死で、傷ついた幼馴染の悲鳴に耳を塞ぎ、あろうことか自分の苛立ちをぶつける捌け口にしたのだ。
『地に足も着いていない人間に、空など飛べるものか』
父の言葉がリフレインする。
その通りだ。俺は、足元にいる幼馴染のことさえちゃんと見てやれなかったくせに、空ばかり見上げていた。
「くそっ……」
俺は足元のガラクタを軽く蹴った。
やり場のない怒りと、自己嫌悪。
その拍子に、棚の奥で何かがゴトリと音を立てた。
崩れかけた木箱の山。その隙間から、黄ばんだ和紙の端が覗いている。
「……ああ、あの時の」
中学のころ、若菜と二人でこの蔵に潜り込んでいた夏。俺たちは一度、この箱を見つけていた。
蓋にお札が何枚も貼られていて、若菜が「開けてみようや」と言い、俺が止めた。「冗談だろ」と思った。
こんなに厳重に札が貼られているものだ。どれだけ古いものかは分からないが、何かとんでもないものを封印しているに違いない、と神職の家の者としては当たり前の勘が働いた。
それと、あのときは、怖かったのだ。
ただ、俺は箱を木箱の陰に押し戻して、その日は蔵を出た。
あいつは「けち」と言って笑った。
「……開けてみようや、か」
あの夏の若菜の声が、はっきりと耳に残っている。
俺は木箱をどけて、桐箱を引きずり出した。
蓋には、墨の薄れたお札が何枚もベタベタと貼られている。文字は読めない。子供のころに見たときと、何も変わっていなかった。
変わったのは、俺のほうだ。
ここから逃げ出したい。変わりたい。
爪先でカリカリとお札を剥がす。幾年もの年月を経て脆くなった紙は、あっけなく破れ散った。
蓋を開ける。
何年もの間封印されていた空気が令和のそれと混じり合い、お香のような香りに包まれる。
中には、紫色の縮緬に包まれた物体が鎮座していた。
色あせた組紐を解き、布を解くと、掌サイズの「手鏡」が現れた。
「へえ……ビードロ鏡か」
思わず感嘆の声が漏れた。
昔の鏡といえば金属を磨いた銅鏡が一般的だが、これは厚みのあるガラス――ビードロを使った、当時としては最新の品だ。
裏返してみると、持ち手と背面は艶やかな黒漆塗りになっていた。
そこに夜光貝だろうか、虹色に輝く螺鈿細工で、繊細な紫陽花の花が描かれている。
ビードロの鏡面と、螺鈿の漆細工。
出島のオランダ商館から持ち込まれたガラスを、日本の職人が加工したものだろうか。
「和」と「洋」が混ざり合ったその造形は、素人目にも一級の美術品だと分かった。
だが、裏返して鏡面を見た俺は、眉をひそめた。
ガラスの表面が、真っ白に曇っている。
割れているわけではない。ただ、長い年月の間に蓄積した湿気や埃、油膜のようなものが表面にこびりつき、まるで冬場の窓ガラスのようにぼんやりと霞んでいる。
これでは、何も映らない。
「……ま、磨けば光るか」
俺は着ていたTシャツの裾を捲り上げると、その布地でゴシゴシと鏡の表面をこすり始めた。
キュッ、キュッ。
静かな蔵の中に、布が擦れる乾いた音が響く。
ただの汚れ落としとは少し違う。
美しいものが、暗闇の中で息を潜め、誰にも見られずに光を失っている。それを見過ごすことは、俺の本能が許さなかった。
この曇りを晴らし、本来の輝きを救い出してやろう。
それが今、行き場のない苛立ちを抱えた俺に課せられた、唯一の使命であるかのように、俺は無心で指先を動かした。
指先に力を込めて拭うたび、白い霞が晴れていく。
ふと、俺は手を止めて、散らばったお札の残骸を見つめた。
一体、この鏡はなぜこれほど厳重に封じられていたのだろう。
ただの鏡だ。割れているわけでも、不吉な紋様があるわけでもない。むしろ、螺鈿の細工は目を疑うほど精巧だ。
祟り神か、あるいは曰く付きの道具か。
普通なら気味悪がるところかもしれない。だが、今の俺には、その「閉じ込められていた」という境遇そのものが、妙に親近感を抱かせた。
どれだけの時間を、この暗闇の中で過ごしてきたのだろう。
誰の目にも触れず、誰にも使われることなく、ただ埃を被って。
「……お前も、ここから出たかったんか?」
独り言が、蔵の闇に吸い込まれる。
この分厚い土壁に囲まれた暗闇から、光の当たる場所へ。
決められたレールの上ではなく、自分の足で歩ける世界へ。
鏡の曇りを晴らすことが、まるで自分自身の未来を切り開く儀式のような気がして、俺は祈るように指を動かし続けた。
完全に曇りが取れ、冷たく澄んだ輝きが戻った、その瞬間。
カッ!
手鏡が、カメラのストロボを焚いたように、強烈な銀色の光を放った。
「うわっ!?」
俺は思わず目を細め、手鏡を取り落としそうになった。
ただの反射じゃない。鏡そのものが、内側から発光したようだった。
視界が白く染まる。鼓膜の奥で、キィィィン……という高い音が鳴り響く。何かが「抜けていく」ような、あるいは「繋がり」が生まれるような、奇妙な浮遊感。
と同時に。
蔵の外、雨音に混じって、別の音が聞こえた気がした。
『……見つけた』
切実な、祈りのような少女の声。
そして。
――キャアアァッ!
短い悲鳴と、何かが石段を転がり落ちる、重く鈍い音。
「……え?」
手鏡の光が収束する。
蔵の中には、再び薄暗い静寂が戻っていた。
だが、俺の指先はまだ細かく震えていた。
今のは何だ? 空耳か?
いや、確かに聞こえた。すぐ近く、境内の石段の方角から。
嫌な予感が、後頭部の産毛を逆立てた。
俺は手鏡を握りしめたまま、蔵の扉を蹴り開けた。
「誰かおるとか!?」
雨は激しさを増し、視界を白く煙らせている。
「……まさか……」
俺は泥濘む地面を踏みしめ、石段の降り口へと走った。
そこで、俺は見た。
紫陽花の茂みの中、泥だらけになって倒れている、見覚えのある茶色い髪を。
「……若、菜……?」
喉が引きつった。
俺の呼ぶ声に、彼女は答えない。
ただ、激しい雨が、動かなくなった彼女の体を、無慈悲に打ち続けていた。
* * *
――その数分前。
雨は、若菜の心の中まで冷たく濡らしていくようだった。
彼女は御影神社の鳥居をくぐり、ふらふらと境内へと足を踏み入れていた。
誰もいない。聞こえるのは、木々を叩く激しい雨音だけ。
「……馬鹿」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
無神経な慶祐にか。それとも、あいつの言葉一つで、こうも簡単に傷ついてしまう自分にか。
『蝶々夫人』
『お前みたいに、帰ってくる場所ば探しとる奴やなくて』
あいつは軽い冗談のつもりだったのだろう。
でも、私には分かっていた。それが慶祐の本音だ。
あいつは昔から、ここではない何処かを見ている。私の知らない、綺麗で、洗練された世界。
東京から逃げ帰ってきて、厚化粧で武装しただけの私なんて、あいつの視界には入っていないのだ。
私は手水舎の柱に背を預け、荒くなった呼吸を整えた。
屋根から落ちる雨垂れが、石の水盤に波紋を作っている。
ふと、その暗い水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、雨に濡れて化粧が崩れ、茶色い髪が顔に張り付いた、ひどく惨めな少女だった。
「……可愛くない」
私は唇を噛んだ。
これが私?
東京でも馴染めず、地元でも浮いて、好きな男の子には、帰る場所を探しているだけだと見抜かれている。
こんなの、私じゃない。なりたかった自分じゃない。
――変わりたい。
心の奥底から、悲鳴のような願いが溢れ出した。
今の私じゃない、誰かに。
慶祐が憧れるような、綺麗で、強くて、愛される誰かに。
「こんな自分……消えてしまえばよか」
その言葉が、唇から零れ落ちた、その瞬間だった。
カッ!
背後の闇――社務所の裏にある蔵の方角で、強烈な閃光が走った気がした。
雷? いいえ、違う。
光と同時に、私の目の前にある手水舎の水面が、白く発光したのだ。
「……え?」
私は目を見開いた。
光る水面の中で、私の顔がぐにゃりと歪む。
茶色い髪が黒く染まり、派手な化粧が溶け落ちていく。
そして、そこには――。
見たこともない、黒髪の美しい少女が微笑んでいた。
『……見つけた』
水底から、鈴を転がすような声が響いた。
耳ではなく、頭の中に直接響く、甘く、懐かしい声。
次の瞬間、強烈な引力が私の意識を吸い込んだ。
へその緒を掴まれて、無理やり引きずり出されるような感覚。魂が弾き飛ばされ、代わりに「別の何か」が、冷たい水流となって私の中へ流れ込んでくる。
「あ……」
意識を乗っ取られた体が、糸の切れた人形のようによろめいた。
後ずさりした足が、濡れた石畳の上で空を切る。
そこは、急な石段の降り口だった。
世界が反転する。
重力が私を捕まえ、石段へと叩きつける。
「――キャアアァッ!」
悲鳴は、私のものであって、私のものではなかった。
視界が明滅し、紫陽花の色彩が泥の色に塗り潰されていく。
痛みよりも先に、深い闇が私を飲み込んだ。
私が「私」でいられたのは、そこまでだった。
* * *
市民病院の待合室は、冷房が効きすぎていて肌寒かった。
消毒液の匂い。硬いベンチの感触。
俺は泥だらけの服のまま、頭を抱えて座っていた。爪の間に入り込んだ泥が、いくら擦っても落ちない。
隣には、連絡を受けて駆けつけた若菜の祖母が、数珠を握りしめて震えている。俺の母がその背中をさすり、父は腕を組んで、手術室のランプを睨みつけていた。
「……長与さんのご家族の方」
ドアが開き、白衣の医師が出てきた。
弾かれたように全員が立ち上がる。
「命に別状はありません。あれだけの階段を落ちて、打ちどころが良かったのは奇跡です。骨折も見当たりません」
「よかった……!」
若菜の祖母がその場に崩れ落ちる。俺も、詰めていた息を大きく吐き出した。
だが、医師の表情は晴れやかではなかった。
「ただ……脳震盪の影響か、まだ意識が戻りません。こればかりは、本人の覚醒を待つしかありません」
* * *
一般病棟の個室に移された若菜は、深く眠っていた。
点滴のチューブが繋がれ、頭には白い包帯が巻かれている。
窓の外はすっかり日が暮れ、雨上がりの夜空に月が懸かっていた。
俺はベッドの脇に立ち、その寝顔を見下ろした。
いつもの勝気な表情は消え、血の気を失った顔は、まるで精巧な蝋人形のように静かだった。
(俺のせいだ)
胸の奥で、どす黒い後悔が渦巻く。
俺があんなことを言わなければ。あいつの逃げ場所を奪うようなことを言わなければ、こんなことにはならなかった。
「……ごめん」
俺は小さく呟いた。
もし目が覚めたら、ちゃんと謝ろう。東京の話も、蝶々夫人の話も、全部取り消すから。
だから、頼む。早く目を覚ましてくれ。
その願いが、通じたのか。
若菜の瞼が、ピクリと動いた。
「あ……若菜?」
俺が身を乗り出す。祖母と両親もベッドを囲む。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。
焦点の合わない瞳が、天井の蛍光灯を映し、やがて周囲の大人たちを順に見回していく。
「若菜、分かるか? 俺だ、慶祐だ」
俺は必死に呼びかけた。
若菜の視線が、俺の顔で止まる。
数秒の沈黙。
俺は、彼女が「うるさいわね」と憎まれ口を叩いてくれるのを待った。
だが。
彼女の瞳に灯ったのは、見たこともないような――湖面のように静かで、温かな光だった。
「……ああ」
彼女の唇が動き、溜め息のような声が零れた。
それは、俺がよく知っている幼馴染の声帯を使っているはずなのに、まるで別人の響きを持っていた。
鈴を転がすような、上品で、どこか古風な響き。
「やっと……やっとお会いできました」
彼女は点滴の管も気にせず、そっと俺の方へと手を伸ばした。
その仕草の、あまりの優雅さに、俺は息を呑んだ。
「慶次郎さま。……ずっと、お待ちしておりました」
「……は?」
病室の空気が凍りついた。
慶次郎。
それは確か、社務所の奥にある写真の中にしかいない、とっくの昔に死んだ俺の曾祖父さんの名前だ。
「若菜……? どうした、俺だぞ」
俺は戸惑いながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「医者が言ってた、記憶の混濁ってやつか……? 俺が誰か、分からんのか」
俺が縋るように尋ねると、彼女は困ったように眉を下げ、愛おしそうに微笑んだ。
「わかな……? いいえ、慶次郎さま。私は『ちせ』でございます。お忘れになってしまったのですか?」
俺のポケットの中で、あの手鏡が熱を持ったようにカチリと音を立てた気がした。
窓から差し込む月光が、生まれ変わった「転校生」を青白く照らし出していた。


