五月の朝は、五時半に始まる。
目覚ましが鳴る前に目が覚めるのは、階下から父の声が上がってくるからだ。
日供祭の祝詞だ。
意味の取れない古い言葉が、板張りの床を伝って布団の下まで届いてくる。子守唄より先に覚えた音だ。低く、平らで、抑揚がない。あの調子で毎朝欠かさず唱え続けて、父は三十年になるらしい。
俺は天井の木目を睨んだまま、あと五分、と念じる。
念じたところで、五分後には起きる。起きなければ、父が黙って階段を上がってくるからだ。怒鳴るわけではない。ただ襖の前に立って、何も言わずに戻っていく。あれが一番こたえる。
作務衣に着替えて外へ出ると、空気にはまだ夜の色が残っていた。
長崎の朝は、海から始まる。
斜面にびっしりと張りついた家々の屋根の向こうで、港の水面が白く光り始めている。稲佐山の輪郭が、少しずつ空から切り出されていく。家々の隙間からは、枇杷の木の緑が鮮やかに主張していた。
俺は物置から竹箒を取った。
柄が、手の形に凹んでいる。誰の手なのかは知らない。父のものか、祖父のものか、それより前か。握ると、俺の指はその凹みに吸い込まれるように収まった。
参道を掃く。
楠は常緑樹だ。冬に丸裸になることはない。
だからといって葉を落とさないわけではなくて、この木は一年中、少しずつ古い葉を捨てている。春が一番ひどい。新しい葉を出すために、去年の葉をまとめて手放すのだ。
掃いても、掃いても、終わらない。
石畳の目地に入り込んだ葉を掻き出しているあいだに、背後の石段にはもう新しい葉が散っている。振り返って、また掃く。
終わりがないことを、俺は小学校に上がる前から知っている。
手水舎の水を替える。
柄杓を伏せて並べ直し、龍の口の詰まりを指で押し出す。五月でも、この水は冷たい。指先が痺れて、しばらく感覚が戻らなかった。
拝殿の板の間を拭くころには、東の空が白んでいる。神饌の膳を下げに、父が奥から出てくる気配がした。
俺は祝詞を、全部そらで言える。
小学校の低学年のころ、父の後ろに正座させられて、意味も分からないまま音だけを覚えさせられた。間違えるたびに、父は最初から唱え直させた。夏の暑い日も、冬の板の間の冷たさも、あの音と一緒に体に入っている。
今でも、口が勝手に動く。
檻というのは、外側にあるものだと思っていた。
そうではないと気づいたのは、わりと最近だ。
「慶祐くん。今日も精が出るねぇ」
石段の下から声がした。
坂の途中に住んでいる婆さんだ。名前は知っている。知っているが、俺はいつも「おはようございます」としか言わない。
「早うから、感心なことやねぇ」
「いえ」
「宮司さんも、これで安心しとらすやろ。息子さんがこげん立派になんなって」
婆さんは賽銭箱の前で二礼二拍手をして、それから、なぜか俺のほうにも軽く頭を下げた。
拝まれている、と思った。
俺個人にではない。俺の背中の向こうにある、三百年ぶんの何かに対してだ。この人たちの目に映っているのは俺ではなくて、次にこの箒を持つ人間、という記号でしかない。
「ありがとうございます」
俺は愛想笑いを返して、箒を動かした。そうしていれば、会話は終わる。終わらせ方だけは、うまくなった。
社務所の授与所には、御守りが並んでいる。
学業成就、交通安全、安産祈願、厄除け。
朝の仕事のひとつが、その補充だ。段ボールから取り出して、木の枡に色ごとに並べていく。緑、紺、朱、白。並べ方の順番は決まっていて、崩すと父に直される。
中身は、白木の小さな板だ。
何百と触ってきた。袋の厚みだけで、入っているかどうかが分かる。
空のまま並んでいる御守りほど間の抜けたものはない。逆に、入っているものは分かる。厚みが違うのではない。持ったときに、指が勝手に丁寧になる。
父は「板やなかぞ」と言う。あれは神さまの分身だから、落とすな、跨ぐな、片手で扱うな、と。
意味は分からない。分からないまま、俺の手はそのとおりに動く。
去年の秋、中学の同級生の母親が学業成就を買っていったことがあった。息子に、と言っていた。俺はそれを紙袋に入れて、両手で渡した。作法どおりに。
その同級生とは、中学の三年間、一度も同じクラスにならなかった。名前と顔が一致する程度の間柄だ。それでも母親のほうは俺を覚えていて、「宮部さんとこの子やろ」と言った。
父は「値段やなかぞ」と言う。初穂料ばい、と。
千円を受け取って、神さまの分身を渡す。渡された人は、それに願いを預ける。
預けられたものが何なのか、俺たちは確かめない。
開けてはならないと、理屈より先に体が覚えている。祝詞と同じだ。
拝殿の裏手に回り、渡り廊下の埃を払う。
その先、境内のいちばん奥に、蔵がある。
白い土壁は所々剥げ落ちて、下地の土が牛の斑のように覗いている。引き戸の把手は錆びていて、開けるたびに軋んだ音がする。
中身は、代替わりのたびに仕舞い込まれてきたものの堆積だ。古い神具、朽ちた木箱、誰かの嫁入り道具。父はときどき「あすこはいつか整理せんばね」と言うが、俺が物心ついてから一度も整理されたことはない。
掃除の範囲に蔵は入っていない。入っていないから、開ける理由もない。
俺はその引き戸を、今朝も素通りした。
社務所に戻ると、味噌汁の匂いがしていた。
「慶祐、時間」
母が茶碗を差し出す。
父は普段着に戻って、新聞を畳んだところだった。今日は昼から地鎮祭が入っていると、母が言っていた。
飯を掻き込むあいだ、父は何も言わない。俺も言わない。この家の朝食は、五分で終わる。
制服に着替えて、石段を降りる。
三百段。数えたのは一度きりで、それ以来数えていない。
若菜の家の前を通った。
隣の隣、瓦の色が褪せた平屋。二階のカーテンは閉まったままだ。
三年前までは、この時間、あいつが家の前で待っていた。「遅か」と怒りながら。
石段を降りきったところで、俺は一度だけ空を見上げた。
飛行機雲が、港の上を東へ引かれていく。
音は聞こえない。あんなに高いところを飛んでいても、あれには行き先がある。
俺は五時半に起きて葉を掃き、制服に着替えて坂を降りる。明日も、その次も。
行き先のないその繰り返しを、俺は「日常」と呼ばされていた。
高校の教室では、すでに幾つかのグループが出来上がっていた。
部活の話、流行りの音楽の話、週末の予定。
そんな色彩豊かな青春のタペストリーの中で、一つだけ、ぽつんと色が抜け落ちた場所があった。
窓際の後ろから二番目。若菜の席だ。
彼女は休み時間になるたび、イヤホンを耳に押し込み、机に突っ伏して、或いは窓の外をぼんやりと眺めて「われ関せず」の壁を作っている。
茶色い髪と、短く詰めたスカート。その派手な外見は、カトリック系のこの学校では異質すぎて、誰も容易には近づけないオーラを放っている。
「……おい、長与」
その壁に、無遠慮にボールを投げ込む男が一人いた。
クラスのお調子者である西田だ。彼は空気を読む能力が欠落しているのか、あるいは読みすぎた上で無視しているのか、懲りずに若菜に絡みに行っている。
「今日の放課後、クラスの有志で歓迎会ばしようって話になっとるんやけど、お前も来んね? 駅前のファミレス」
「……パス」
若菜は顔も上げずに答えた。
「そげん言わんで。せっかく東京から来たんやけん、向こうの話とか聞かせてよ」
「興味ないけん、そんなの。……忙しいから、ごめん」
拒絶の言葉は鋭利で、西田もさすがに苦笑して頭をかいた。
クラスの空気が少しだけ白らむ。
その様子を、少し離れた席から月島明里が静かに見つめていた。彼女は手元の文庫本から視線を上げることなく、けれどその瞳は、若菜の纏う孤独の正体を値踏みしているように見えた。
俺は、苛立ち紛れにシャープペンの芯を折った。
パキリ、という乾いた音が、俺の胸中のモヤモヤと重なる。
(……何やってんだ、あいつは)
昔の若菜は、誰とでもすぐに打ち解ける陽だまりのような奴だった。
泥だらけになって男子に混ざり、膝を擦りむいてもヘラヘラ笑っていた幼馴染。
あいつと一番よく居たのは、境内の蔵だった。
中学二年の夏。アスファルトが陽炎で歪むような日でも、あの土壁の内側だけはひんやりとしていた。部活が休みになると、俺と若菜は示し合わせたようにあそこへ潜り込んで、裸電球の下で何時間も無駄に過ごした。
「宮部んちの蔵、クーラーより涼しか」
若菜はそう言って、いつも同じ木箱の上に胡座をかいた。麦茶の水筒と、駄菓子屋のビニール袋と、家から持ってきた漫画。持ち込むものは決まっていた。
俺たちはガラクタを漁った。
錆びた鉄鉢、歯の欠けた櫛、玉が三つ足りない算盤。どれも誰かが使っていたはずのもので、どれも誰も覚えていない。若菜は古い簪を髪に挿してみせて、似合わない、と俺が言うと、木箱の上から蹴りを入れてきた。
日が傾くと、格子窓から埃が光の筋になって降りてくる。
蝉の声は土壁に遮られて遠く、時々、港のほうから汽笛が響いた。
「ここ、時間が止まっとるみたいやね」
木箱に寝転がって、若菜が天井の梁を見上げていた。
「止まっとるんやなくて、置いていかれとるだけたい」
「同じことやん」
「違う。止まっとるなら、いつか動く」
俺は膝を抱えて、剥がれかけた土壁を見ていた。
「俺は、いつかここば出ていく」
「知っとるよ」
若菜はこっちを見もせずに答えた。
「慶祐、昔からそればっかり言いよるもん」
「笑うなら笑え」
「笑っとらんよ」
それから少し黙って、あいつは言った。
「私はおるけん」
「は?」
「慶祐がおらんくなっても、私はここにおる。ばあちゃんもおるし、この蔵もあるし」
だから安心して行ってよかよ、と、若菜は笑った。
その顔を、俺は正面から見なかった。見ていれば、何か違ったのかもしれない。
その年の秋に、若菜の父親の東京転勤が決まった。
冬のあいだに話が固まって、発ったのは春休みの終わりだった。
前の晩、俺は交通安全のお守りを一つ、あいつに押し付けた。授与所から黙って持ち出したやつだ。
そして翌朝、俺は蔵にいた。
行けばよかったのだ。
石段を降りて、車が出るのを待って、手のひとつも振ればよかった。
それだけのことが、どうしてもできなかった。
「行ってらっしゃい」と言えば、あいつが本当に行ってしまう気がした。
裸電球もつけずに、俺は暗い蔵の中で、車のドアが閉まる音を聞いていた。
木箱の上には、若菜が置いていった漫画が一冊、そのまま残っていた。
続きが気になるから預かっとって、と言われた巻だ。
最初の三ヶ月は、あいつからよく連絡が来た。
制服が可愛くない、電車が混みすぎ、坂がないから足が鈍る。写真も送られてきた。俺の知らない駅の名前と、俺の知らない色をした空。
夏を過ぎたあたりから、間隔が空き始めた。
秋には月に一度になり、冬には季節の挨拶だけになり、一年経つころには途絶えた。
俺も追いかけなかった。
追いかけて何を言えばいいのか分からなかったし、たぶん、置いていかれたことを認めたくなかったのだと思う。あいつは外へ出た。俺はここに残った。それだけの話を、こじらせていた。
そして今年の四月、あいつは何の前触れもなく、俺の教室の窓際に座っていた。
三年ぶりやね、と言って。
漫画は、まだ蔵の木箱の上にある。
それがどうだ。東京から戻ってきた彼女は、まるで傷ついた野良猫のように毛を逆立て、誰の差し伸べる手にも噛みつこうとしている。
東京という街は、そこまで人を変えてしまうものなのか。
俺は窓の外へ視線を逃がした。
眼下には、今日も変わらず長崎の港が広がっている。
ここから見える景色は、十年一日、何も変わらない。その停滞感が、今の俺にはひどく息苦しかった。
* * *
下校時刻。
結局、家が近所である俺と若菜は、なんとなく一緒に帰るのが日課になっていた。
言葉を交わすわけではない。ただ、二メートルほどの距離を保ち、黙々と坂を登るだけだ。
その日は珍しく、若菜の方から口を開いた。
「……慶祐は、いいよね」
唐突な言葉だった。
東山手の洋館の脇を通り過ぎ、生活道路の急な階段に差し掛かったあたりだ。
「は? 何がだよ」
「今日、西田に誘われとったやん。週末にみんなで遊ぶとか、なんとか。……断ったん?」
「ああ。模試も近いし、親父の手伝いもあるけんね」
俺がそっけなく答えると、若菜は「ふうん」と鼻を鳴らした。
「余裕やね。断っても、また誘われるって分かっとるけん」
「なんじゃそれ。嫌味か?」
俺は眉をひそめて振り返った。
若菜は、どこか遠くを見るような目で、眼下に広がる長崎の街並みを見下ろしている。
「嫌味やないよ。ただ、羨ましいだけ」
「羨ましい?」
「ここに居場所があるってことがよ。……私は、向こうでもこっちでも、結局『余所者』やけん」
その言葉には、俺の知らない三年間――東京での生活の重みが滲んでいた。
だが、今の俺には、その痛みに寄り添う余裕はなかった。
むしろ、彼女の言葉は、俺の神経を逆撫でするものだった。
「居場所、ねえ」
俺は口の端だけで笑った。
「お前にはそう見えるかもしれんけどな、俺にとっちゃ、ここはただの『柵』だらけの檻ばい」
「……檻?」
「おう。どこに行っても『御影神社の跡取り』として見られる。近所の婆さん連中は、俺が将来神主になることを疑いもしとらん。俺自身の意思なんて、誰も見とらんけん」
俺は鞄のベルトを強く握りしめた。
若菜には分からないだろう。一度ここを出て、外の世界を知っている彼女には。
この閉鎖的な坂の街で、重力に縛られるように、あらかじめ敷かれたレールの上を歩かされる息苦しさが。
「俺は、宮崎に行く。あそこにある航空大学校に入って、パイロットになるつもりだ」
俺は空を見上げて断言した。
「自分の力で空を飛ぶんよ。雲の上に行けば、御影の歴史も、跡取りの責任も関係なか。何者でもない一人の人間として、自分の翼で勝負できる」
熱を込めて語る俺を、若菜は静かに見つめていた。
その瞳の奥に、眩しいものを見るような、あるいは諦めのような色が揺蕩っていることに、俺は気づかないふりをした。
「……そう。あんたにとっては、ここは飛び立つための滑走路でしかないんやね」
「滑走路ですらない。ただの足枷たい」
会話はそこで途切れた。
俺たちはまた、無言で坂道を登り始めた。
靴底がコンクリートを叩く音だけが、不規則なリズムで響く。
石段の下まで来て、若菜がふいに足を止めた。
視線の先には、鳥居がある。その向こう、木立の奥に、蔵の白い壁がわずかに覗いていた。
あいつは、たっぷり三秒はそこを見ていた。
(……まだ、あるぞ)
言いかけて、やめた。
漫画のことも、あの夏のことも、口にした瞬間に「昔の話」になってしまう気がした。今の若菜が、それを昔の話として片付けたら、俺はたぶん立ち直れない。
「なん?」
視線に気づいた若菜が、こちらを見た。
「なんも」
「変な顔しとる」
「元からたい」
若菜は鼻で笑って、それきり鳥居のほうを見なかった。
石段の前で、若菜は「じゃあね」と短く言い残し、隣家の玄関へと走っていった。
一人残された俺の目の前には、石段の上に巨大な鳥居がそびえ立っている。
御影神社。
一礼して鳥居をくぐると、肌にまとわりつく空気が一変する。
そこは、山肌を浸食するように増殖した住宅街の中に、奇跡的に残された緑の空白地帯だった。
樹齢数百年を数えるであろう楠の巨木たちが、境内を覆い隠している。
あの日――八月九日、爆風に乗って降ってきた火の粉で、この木々は葉を焼かれ、枯れ木同然になったという。その後何年かの後、新芽が芽吹き、今では何事もなかったかのように青々とした葉を茂らせている。
すぐ隣まで民家の軒先が迫り、生活音が聞こえる距離だというのに、この結界の内側だけは音が遠い。
足元の石畳は、長い歳月を吸い込んだ苔に覆われ、ところどころビロードのように湿った青緑色に染まっている。
風が吹くたびに、頭上の枝葉がさわさわと擦れ合い、まるで海鳴りのような音を立てる。
こぢんまりとした拝殿は、風雨に晒されて木肌が黒く変色しているが、その佇まいは古武士のように厳格だ。
巨木たちが盾となったおかげで、あの日、爆風に軋みながらも倒壊を免れたという社殿。このあたりでは、潰れた家はいくつもあったらしい。
この「生き残ってしまった」という事実さえも、今の俺には呪いのように感じられた。
参道の脇に控える狛犬は、角が取れて丸くなっているが、その瞳は今も静かにこの場所への侵入者を見定めているように見える。
美しい、と言う者もいる。
坂の街の隙間に息づく、癒やしの杜だと。
だが、今の俺にとってこの場所は、開発からも、時代の流れからも取り残された「澱み」でしかなかった。
一度入れば、二度と出られない。
あの爆風すら跳ね返したこの重苦しい緑の結界が、俺の未来を絡め取り、物理的にも精神的にもこの土地に縛り付けようとしている。
俺は、頭上を覆う枝葉の隙間から、わずかに覗く青空を見上げた。
あそこへ行ってみたい。
梅雨入り前の生温かい風が、逃げ場のない湿気を運んできて、俺の肌にまとわりついた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めるのは、階下から父の声が上がってくるからだ。
日供祭の祝詞だ。
意味の取れない古い言葉が、板張りの床を伝って布団の下まで届いてくる。子守唄より先に覚えた音だ。低く、平らで、抑揚がない。あの調子で毎朝欠かさず唱え続けて、父は三十年になるらしい。
俺は天井の木目を睨んだまま、あと五分、と念じる。
念じたところで、五分後には起きる。起きなければ、父が黙って階段を上がってくるからだ。怒鳴るわけではない。ただ襖の前に立って、何も言わずに戻っていく。あれが一番こたえる。
作務衣に着替えて外へ出ると、空気にはまだ夜の色が残っていた。
長崎の朝は、海から始まる。
斜面にびっしりと張りついた家々の屋根の向こうで、港の水面が白く光り始めている。稲佐山の輪郭が、少しずつ空から切り出されていく。家々の隙間からは、枇杷の木の緑が鮮やかに主張していた。
俺は物置から竹箒を取った。
柄が、手の形に凹んでいる。誰の手なのかは知らない。父のものか、祖父のものか、それより前か。握ると、俺の指はその凹みに吸い込まれるように収まった。
参道を掃く。
楠は常緑樹だ。冬に丸裸になることはない。
だからといって葉を落とさないわけではなくて、この木は一年中、少しずつ古い葉を捨てている。春が一番ひどい。新しい葉を出すために、去年の葉をまとめて手放すのだ。
掃いても、掃いても、終わらない。
石畳の目地に入り込んだ葉を掻き出しているあいだに、背後の石段にはもう新しい葉が散っている。振り返って、また掃く。
終わりがないことを、俺は小学校に上がる前から知っている。
手水舎の水を替える。
柄杓を伏せて並べ直し、龍の口の詰まりを指で押し出す。五月でも、この水は冷たい。指先が痺れて、しばらく感覚が戻らなかった。
拝殿の板の間を拭くころには、東の空が白んでいる。神饌の膳を下げに、父が奥から出てくる気配がした。
俺は祝詞を、全部そらで言える。
小学校の低学年のころ、父の後ろに正座させられて、意味も分からないまま音だけを覚えさせられた。間違えるたびに、父は最初から唱え直させた。夏の暑い日も、冬の板の間の冷たさも、あの音と一緒に体に入っている。
今でも、口が勝手に動く。
檻というのは、外側にあるものだと思っていた。
そうではないと気づいたのは、わりと最近だ。
「慶祐くん。今日も精が出るねぇ」
石段の下から声がした。
坂の途中に住んでいる婆さんだ。名前は知っている。知っているが、俺はいつも「おはようございます」としか言わない。
「早うから、感心なことやねぇ」
「いえ」
「宮司さんも、これで安心しとらすやろ。息子さんがこげん立派になんなって」
婆さんは賽銭箱の前で二礼二拍手をして、それから、なぜか俺のほうにも軽く頭を下げた。
拝まれている、と思った。
俺個人にではない。俺の背中の向こうにある、三百年ぶんの何かに対してだ。この人たちの目に映っているのは俺ではなくて、次にこの箒を持つ人間、という記号でしかない。
「ありがとうございます」
俺は愛想笑いを返して、箒を動かした。そうしていれば、会話は終わる。終わらせ方だけは、うまくなった。
社務所の授与所には、御守りが並んでいる。
学業成就、交通安全、安産祈願、厄除け。
朝の仕事のひとつが、その補充だ。段ボールから取り出して、木の枡に色ごとに並べていく。緑、紺、朱、白。並べ方の順番は決まっていて、崩すと父に直される。
中身は、白木の小さな板だ。
何百と触ってきた。袋の厚みだけで、入っているかどうかが分かる。
空のまま並んでいる御守りほど間の抜けたものはない。逆に、入っているものは分かる。厚みが違うのではない。持ったときに、指が勝手に丁寧になる。
父は「板やなかぞ」と言う。あれは神さまの分身だから、落とすな、跨ぐな、片手で扱うな、と。
意味は分からない。分からないまま、俺の手はそのとおりに動く。
去年の秋、中学の同級生の母親が学業成就を買っていったことがあった。息子に、と言っていた。俺はそれを紙袋に入れて、両手で渡した。作法どおりに。
その同級生とは、中学の三年間、一度も同じクラスにならなかった。名前と顔が一致する程度の間柄だ。それでも母親のほうは俺を覚えていて、「宮部さんとこの子やろ」と言った。
父は「値段やなかぞ」と言う。初穂料ばい、と。
千円を受け取って、神さまの分身を渡す。渡された人は、それに願いを預ける。
預けられたものが何なのか、俺たちは確かめない。
開けてはならないと、理屈より先に体が覚えている。祝詞と同じだ。
拝殿の裏手に回り、渡り廊下の埃を払う。
その先、境内のいちばん奥に、蔵がある。
白い土壁は所々剥げ落ちて、下地の土が牛の斑のように覗いている。引き戸の把手は錆びていて、開けるたびに軋んだ音がする。
中身は、代替わりのたびに仕舞い込まれてきたものの堆積だ。古い神具、朽ちた木箱、誰かの嫁入り道具。父はときどき「あすこはいつか整理せんばね」と言うが、俺が物心ついてから一度も整理されたことはない。
掃除の範囲に蔵は入っていない。入っていないから、開ける理由もない。
俺はその引き戸を、今朝も素通りした。
社務所に戻ると、味噌汁の匂いがしていた。
「慶祐、時間」
母が茶碗を差し出す。
父は普段着に戻って、新聞を畳んだところだった。今日は昼から地鎮祭が入っていると、母が言っていた。
飯を掻き込むあいだ、父は何も言わない。俺も言わない。この家の朝食は、五分で終わる。
制服に着替えて、石段を降りる。
三百段。数えたのは一度きりで、それ以来数えていない。
若菜の家の前を通った。
隣の隣、瓦の色が褪せた平屋。二階のカーテンは閉まったままだ。
三年前までは、この時間、あいつが家の前で待っていた。「遅か」と怒りながら。
石段を降りきったところで、俺は一度だけ空を見上げた。
飛行機雲が、港の上を東へ引かれていく。
音は聞こえない。あんなに高いところを飛んでいても、あれには行き先がある。
俺は五時半に起きて葉を掃き、制服に着替えて坂を降りる。明日も、その次も。
行き先のないその繰り返しを、俺は「日常」と呼ばされていた。
高校の教室では、すでに幾つかのグループが出来上がっていた。
部活の話、流行りの音楽の話、週末の予定。
そんな色彩豊かな青春のタペストリーの中で、一つだけ、ぽつんと色が抜け落ちた場所があった。
窓際の後ろから二番目。若菜の席だ。
彼女は休み時間になるたび、イヤホンを耳に押し込み、机に突っ伏して、或いは窓の外をぼんやりと眺めて「われ関せず」の壁を作っている。
茶色い髪と、短く詰めたスカート。その派手な外見は、カトリック系のこの学校では異質すぎて、誰も容易には近づけないオーラを放っている。
「……おい、長与」
その壁に、無遠慮にボールを投げ込む男が一人いた。
クラスのお調子者である西田だ。彼は空気を読む能力が欠落しているのか、あるいは読みすぎた上で無視しているのか、懲りずに若菜に絡みに行っている。
「今日の放課後、クラスの有志で歓迎会ばしようって話になっとるんやけど、お前も来んね? 駅前のファミレス」
「……パス」
若菜は顔も上げずに答えた。
「そげん言わんで。せっかく東京から来たんやけん、向こうの話とか聞かせてよ」
「興味ないけん、そんなの。……忙しいから、ごめん」
拒絶の言葉は鋭利で、西田もさすがに苦笑して頭をかいた。
クラスの空気が少しだけ白らむ。
その様子を、少し離れた席から月島明里が静かに見つめていた。彼女は手元の文庫本から視線を上げることなく、けれどその瞳は、若菜の纏う孤独の正体を値踏みしているように見えた。
俺は、苛立ち紛れにシャープペンの芯を折った。
パキリ、という乾いた音が、俺の胸中のモヤモヤと重なる。
(……何やってんだ、あいつは)
昔の若菜は、誰とでもすぐに打ち解ける陽だまりのような奴だった。
泥だらけになって男子に混ざり、膝を擦りむいてもヘラヘラ笑っていた幼馴染。
あいつと一番よく居たのは、境内の蔵だった。
中学二年の夏。アスファルトが陽炎で歪むような日でも、あの土壁の内側だけはひんやりとしていた。部活が休みになると、俺と若菜は示し合わせたようにあそこへ潜り込んで、裸電球の下で何時間も無駄に過ごした。
「宮部んちの蔵、クーラーより涼しか」
若菜はそう言って、いつも同じ木箱の上に胡座をかいた。麦茶の水筒と、駄菓子屋のビニール袋と、家から持ってきた漫画。持ち込むものは決まっていた。
俺たちはガラクタを漁った。
錆びた鉄鉢、歯の欠けた櫛、玉が三つ足りない算盤。どれも誰かが使っていたはずのもので、どれも誰も覚えていない。若菜は古い簪を髪に挿してみせて、似合わない、と俺が言うと、木箱の上から蹴りを入れてきた。
日が傾くと、格子窓から埃が光の筋になって降りてくる。
蝉の声は土壁に遮られて遠く、時々、港のほうから汽笛が響いた。
「ここ、時間が止まっとるみたいやね」
木箱に寝転がって、若菜が天井の梁を見上げていた。
「止まっとるんやなくて、置いていかれとるだけたい」
「同じことやん」
「違う。止まっとるなら、いつか動く」
俺は膝を抱えて、剥がれかけた土壁を見ていた。
「俺は、いつかここば出ていく」
「知っとるよ」
若菜はこっちを見もせずに答えた。
「慶祐、昔からそればっかり言いよるもん」
「笑うなら笑え」
「笑っとらんよ」
それから少し黙って、あいつは言った。
「私はおるけん」
「は?」
「慶祐がおらんくなっても、私はここにおる。ばあちゃんもおるし、この蔵もあるし」
だから安心して行ってよかよ、と、若菜は笑った。
その顔を、俺は正面から見なかった。見ていれば、何か違ったのかもしれない。
その年の秋に、若菜の父親の東京転勤が決まった。
冬のあいだに話が固まって、発ったのは春休みの終わりだった。
前の晩、俺は交通安全のお守りを一つ、あいつに押し付けた。授与所から黙って持ち出したやつだ。
そして翌朝、俺は蔵にいた。
行けばよかったのだ。
石段を降りて、車が出るのを待って、手のひとつも振ればよかった。
それだけのことが、どうしてもできなかった。
「行ってらっしゃい」と言えば、あいつが本当に行ってしまう気がした。
裸電球もつけずに、俺は暗い蔵の中で、車のドアが閉まる音を聞いていた。
木箱の上には、若菜が置いていった漫画が一冊、そのまま残っていた。
続きが気になるから預かっとって、と言われた巻だ。
最初の三ヶ月は、あいつからよく連絡が来た。
制服が可愛くない、電車が混みすぎ、坂がないから足が鈍る。写真も送られてきた。俺の知らない駅の名前と、俺の知らない色をした空。
夏を過ぎたあたりから、間隔が空き始めた。
秋には月に一度になり、冬には季節の挨拶だけになり、一年経つころには途絶えた。
俺も追いかけなかった。
追いかけて何を言えばいいのか分からなかったし、たぶん、置いていかれたことを認めたくなかったのだと思う。あいつは外へ出た。俺はここに残った。それだけの話を、こじらせていた。
そして今年の四月、あいつは何の前触れもなく、俺の教室の窓際に座っていた。
三年ぶりやね、と言って。
漫画は、まだ蔵の木箱の上にある。
それがどうだ。東京から戻ってきた彼女は、まるで傷ついた野良猫のように毛を逆立て、誰の差し伸べる手にも噛みつこうとしている。
東京という街は、そこまで人を変えてしまうものなのか。
俺は窓の外へ視線を逃がした。
眼下には、今日も変わらず長崎の港が広がっている。
ここから見える景色は、十年一日、何も変わらない。その停滞感が、今の俺にはひどく息苦しかった。
* * *
下校時刻。
結局、家が近所である俺と若菜は、なんとなく一緒に帰るのが日課になっていた。
言葉を交わすわけではない。ただ、二メートルほどの距離を保ち、黙々と坂を登るだけだ。
その日は珍しく、若菜の方から口を開いた。
「……慶祐は、いいよね」
唐突な言葉だった。
東山手の洋館の脇を通り過ぎ、生活道路の急な階段に差し掛かったあたりだ。
「は? 何がだよ」
「今日、西田に誘われとったやん。週末にみんなで遊ぶとか、なんとか。……断ったん?」
「ああ。模試も近いし、親父の手伝いもあるけんね」
俺がそっけなく答えると、若菜は「ふうん」と鼻を鳴らした。
「余裕やね。断っても、また誘われるって分かっとるけん」
「なんじゃそれ。嫌味か?」
俺は眉をひそめて振り返った。
若菜は、どこか遠くを見るような目で、眼下に広がる長崎の街並みを見下ろしている。
「嫌味やないよ。ただ、羨ましいだけ」
「羨ましい?」
「ここに居場所があるってことがよ。……私は、向こうでもこっちでも、結局『余所者』やけん」
その言葉には、俺の知らない三年間――東京での生活の重みが滲んでいた。
だが、今の俺には、その痛みに寄り添う余裕はなかった。
むしろ、彼女の言葉は、俺の神経を逆撫でするものだった。
「居場所、ねえ」
俺は口の端だけで笑った。
「お前にはそう見えるかもしれんけどな、俺にとっちゃ、ここはただの『柵』だらけの檻ばい」
「……檻?」
「おう。どこに行っても『御影神社の跡取り』として見られる。近所の婆さん連中は、俺が将来神主になることを疑いもしとらん。俺自身の意思なんて、誰も見とらんけん」
俺は鞄のベルトを強く握りしめた。
若菜には分からないだろう。一度ここを出て、外の世界を知っている彼女には。
この閉鎖的な坂の街で、重力に縛られるように、あらかじめ敷かれたレールの上を歩かされる息苦しさが。
「俺は、宮崎に行く。あそこにある航空大学校に入って、パイロットになるつもりだ」
俺は空を見上げて断言した。
「自分の力で空を飛ぶんよ。雲の上に行けば、御影の歴史も、跡取りの責任も関係なか。何者でもない一人の人間として、自分の翼で勝負できる」
熱を込めて語る俺を、若菜は静かに見つめていた。
その瞳の奥に、眩しいものを見るような、あるいは諦めのような色が揺蕩っていることに、俺は気づかないふりをした。
「……そう。あんたにとっては、ここは飛び立つための滑走路でしかないんやね」
「滑走路ですらない。ただの足枷たい」
会話はそこで途切れた。
俺たちはまた、無言で坂道を登り始めた。
靴底がコンクリートを叩く音だけが、不規則なリズムで響く。
石段の下まで来て、若菜がふいに足を止めた。
視線の先には、鳥居がある。その向こう、木立の奥に、蔵の白い壁がわずかに覗いていた。
あいつは、たっぷり三秒はそこを見ていた。
(……まだ、あるぞ)
言いかけて、やめた。
漫画のことも、あの夏のことも、口にした瞬間に「昔の話」になってしまう気がした。今の若菜が、それを昔の話として片付けたら、俺はたぶん立ち直れない。
「なん?」
視線に気づいた若菜が、こちらを見た。
「なんも」
「変な顔しとる」
「元からたい」
若菜は鼻で笑って、それきり鳥居のほうを見なかった。
石段の前で、若菜は「じゃあね」と短く言い残し、隣家の玄関へと走っていった。
一人残された俺の目の前には、石段の上に巨大な鳥居がそびえ立っている。
御影神社。
一礼して鳥居をくぐると、肌にまとわりつく空気が一変する。
そこは、山肌を浸食するように増殖した住宅街の中に、奇跡的に残された緑の空白地帯だった。
樹齢数百年を数えるであろう楠の巨木たちが、境内を覆い隠している。
あの日――八月九日、爆風に乗って降ってきた火の粉で、この木々は葉を焼かれ、枯れ木同然になったという。その後何年かの後、新芽が芽吹き、今では何事もなかったかのように青々とした葉を茂らせている。
すぐ隣まで民家の軒先が迫り、生活音が聞こえる距離だというのに、この結界の内側だけは音が遠い。
足元の石畳は、長い歳月を吸い込んだ苔に覆われ、ところどころビロードのように湿った青緑色に染まっている。
風が吹くたびに、頭上の枝葉がさわさわと擦れ合い、まるで海鳴りのような音を立てる。
こぢんまりとした拝殿は、風雨に晒されて木肌が黒く変色しているが、その佇まいは古武士のように厳格だ。
巨木たちが盾となったおかげで、あの日、爆風に軋みながらも倒壊を免れたという社殿。このあたりでは、潰れた家はいくつもあったらしい。
この「生き残ってしまった」という事実さえも、今の俺には呪いのように感じられた。
参道の脇に控える狛犬は、角が取れて丸くなっているが、その瞳は今も静かにこの場所への侵入者を見定めているように見える。
美しい、と言う者もいる。
坂の街の隙間に息づく、癒やしの杜だと。
だが、今の俺にとってこの場所は、開発からも、時代の流れからも取り残された「澱み」でしかなかった。
一度入れば、二度と出られない。
あの爆風すら跳ね返したこの重苦しい緑の結界が、俺の未来を絡め取り、物理的にも精神的にもこの土地に縛り付けようとしている。
俺は、頭上を覆う枝葉の隙間から、わずかに覗く青空を見上げた。
あそこへ行ってみたい。
梅雨入り前の生温かい風が、逃げ場のない湿気を運んできて、俺の肌にまとわりついた。


