転校生 ~鏡の中のちせ~

その手鏡を見つけたのは、梅雨入り前の湿った風が蔵の隙間から吹き込む日のことだった。
実家である御影(みかげ)神社の裏手、(ほこり)っぽい蔵の奥。崩れかけた木箱の隙間に、厳重に封印をされた桐の箱が隠されていた。
封印を破り、何かに導かれるように蓋を開けると、紫の縮緬(ちりめん)の中から、掌サイズの「手鏡」が現れた。
(つや)やかな黒い(うるし)塗りの背面に、夜光貝の螺鈿(らでん)で描かれた繊細な紫陽花(あじさい)の花。
暗い蔵の中で、そこだけが自ら発光しているかのように妖しく、そして吸い込まれるほどに美しい。指先で触れると、濡れているかのような滑らかな感触が伝わってきた。
だが、裏返した鏡面は死んだ魚の目のように白濁し、何も映りはしなかった。
俺、宮部(みやべ)慶祐(けいすけ)はTシャツの裾で、ゴシゴシとその曇りを(ぬぐ)っていった。

キュッ、キュッ。

白い(かすみ)が少しずつ晴れていく。
完全に曇りが取れ、冷たく澄んだ輝きが戻った、その瞬間。
――カッ!
稲妻が落ちたように、鏡が強烈な銀色の光を放った。
視界が白く染まる。鼓膜の奥で、キィィィン……という高い音が鳴り響く。
『……見つけた』
光の向こう側から、誰かの「声」が聞こえた気がした。
*     *     *
「おい慶祐。聞いたか?」
不意に肩を叩かれ、俺は現実に引き戻された。
海星高校の教室。
窓の外には、春霞(はるがすみ)に煙る長崎港が広がっている。四月の気怠(けだる)い午後の日差しが、俺の頬を温めていた。
「……ん? 何がだよ」
俺は頬杖をついたまま、前の席の男を睨んだ。
西田(にしだ)雅彦(まさひこ)。クラスきってのお調子者であり、どこからか仕入れてくる情報の早さだけは一目置かれている男だ。

西田は椅子を軋ませて振り返り、声を潜めてニヤニヤと笑った。
「今日転校生が来るらしい。しかも、東京からの出戻りらしかばい」
「出戻り?」
「おう。噂じゃ、向こうの学校で相当派手にやらかして、追い出されたとか……」
卑俗な好奇心。俺は鼻で笑って、視線を再び窓外へ戻そうとした。
だが、その会話に水を差す凛とした声があった。
「西田くん。声、大きいよ」
隣の列で文庫本を読んでいた月島(つきしま)明里(あかり)だ。長い睫毛(まつげ)を伏せたまま、ページを(めく)る手も止めずに言う。
噂話で人を判断するのは感心しない、という無言の圧力がそこにはあった。
「ちぇっ、月島さんは相変わらず真面目やねぇ。……おっ、先生来たばい!」
西田が弾かれたように前を向く。

教室の引き戸が、乾いた音を立てて開いた。
「席に着け。ホームルーム始めるぞ」
入ってきたのは、担任であり歴史教師の高比良(たかひら)先生だ。いつも通り、古びた出席簿を小脇に抱え、黒縁眼鏡の奥で眠そうな目を細めている。
だが、今日はその背後に、もう一つの気配があった。
「今日は、転校生を紹介する」
先生の低い声が、ざわついていた教室の空気を鎮める。
転校生。西田の情報は本当だったらしい。
クラス中の視線が入り口に集中する中、先生は短く「入ってきなさい」と促した。

一拍の間を置いて、その生徒が姿を現した瞬間、教室の空気が張り詰めた。
茶色く脱色され、毛先がパサついた髪。
規定よりも短く詰められたスカートから伸びる脚は、まだ肌寒さが残る四月には寒々しく見えた。
およそ、この歴史ある海星高校の制服を着こなしているとは言い難い、ささくれ立った空気を(まと)った少女だった。

長与(ながよ)だ。家の都合で、東京から戻ってきたそうだ」
高比良先生は、生徒たちの動揺になど気づかないふりで淡々と告げると、彼女に向き直った。
「じゃあ長与、黒板に名前を。それと、皆に挨拶を頼む」
促された彼女は、無言のまま教壇へと歩み寄った。
チョークを手に取ると、乱暴な筆致で『長与』とだけ黒板に書く。カツ、カツ、という硬質な音が響き、粉が飛び散って空中に舞った。
彼女はチョークを放るように置き、クラス全体を見渡して言った。
「……長与(ながよ)若菜(わかな)っす。よろしく」
教室の空気が、さざ波のように揺れる。
好奇の視線、ひそひそ話。

その喧騒の中で、俺だけが時間を止められたように彼女を見つめていた。
長与若菜。
三年前に東京へ引っ越していった、幼馴染の若菜なのか。
記憶の中の彼女は、泥だらけになって神社の境内を駆け回っていた、ただの活発な少女だったはずだ。
それが、どうして。
まるで自分を大きく見せるために、サイズの合わない(よろい)でも纏っているような、不安定な立ち姿。よく見れば、握りしめた彼女の拳は、白くなるほど力が入っている。クラスを睨みつけるその瞳は、威嚇する野良猫のように鋭かったが、小刻みに揺れる瞳孔が、その奥にある恐怖を雄弁に物語っていた。

ふと、視線が交差した。
若菜は俺の存在に気づくと、一瞬だけ目を見開き、すぐにぷいと顔を背けた。
その拒絶の色に、俺は悟る。
ああ、こいつはもう、俺の知っているあの無邪気な「若菜」ではないのだ、と。
*     *     *
放課後になって、一昨日から港を覆っていた鈍色(にびいろ)の雲がついに割れた。
雲の裂け目から射した西日が、オランダ坂の濡れた石畳を強烈に照らし出し、乱反射する光の道を作っている。
その(まぶ)しさの中を、前を行く一つの影が降りていく。
この街の風景と溶け合うことを拒絶するような、茶色い髪と短いスカート。
坂の上から駆け下りる風が、雨の名残を(はら)んだ冷たさで彼女の髪を(なび)かせていた。
若菜が戻ったのが前の家なら通学路は逆方向だ。
それでも、彼女の足取りは、家に帰るのを拒むように街の方角へと向かっている。
「おい、若菜」
俺は思わず、その背中に声を投げていた。
華奢な肩が、ビクリと震える。
彼女は足を止め、ゆっくりと振り返った。逆光の中で目を細め、警戒するような瞳がこちらを覗く。
俺が追いつくまで、彼女は逃げ出すでもなく、かと言って駆け寄ってくるでもなく、光と影の境界線で立ち尽くしていた。
「……慶祐か。ビックリしたわ。同じクラスで」
「三年ぶりやね。……お前、そっちは逆方向ばい。家はあっちやろ」
俺が学校の裏手の方角を指すと、若菜はバツが悪そうに視線を逸らした。
「わかっとるわ。……ちょっと、遠回りして帰りたかっただけ」
「遠回り? わざわざ?」
「いいやんか、別に。まっすぐ帰っても、ばあちゃんの質問攻めに遭うだけやし」
「おばさんたちは? 一緒じゃなかと?」
俺が何気なく尋ねると、若菜は口元を少し歪めた。
「……こっち戻ってきたの、私だけやけん。親は向こうにおる」
「あ、そうなん……」
俺は言葉を詰まらせた。親元を離れて、祖母の家に身を寄せる出戻り転校生。西田の言ってたことはあながち間違いではないらしい。その事情の重さを察して、話題を住処へと逸らす。

「じゃあ、ばあちゃんと二人で住むんか」
「……そう。前のまんまよ。あんたの神社の隣の隣」
若菜はぶっきらぼうに答える。
やはり、またご近所さんになったのか。その事実に奇妙な安堵と、わずかな気まずさを覚えた。
若菜は小さく溜め息をつくと、再び坂を下り始めた。
俺は少し迷ってから、その隣に並んだ。

オランダ坂を下りきり、電車通りの喧騒(けんそう)の中へ出る。
路面電車がガタゴトと音を立てて走り去り、観光客たちがカステラの袋を提げて歩いている。
「あんた、背伸びたねぇ」
視線は路面電車に向けられたまま、若菜が口を開いた。
「お前こそ。……少し痩せたんやない?」
「余計なお世話。東京は歩くことが多いけんね」
「ふうん。東京、楽しかったか?」

何気ないつもりで聞いた一言に、若菜の足がピクリと止まった。
「……楽しかったよ。店も多いし、遊ぶとこもいっぱいあるし」
彼女の声は明るかったが、どこか台本を読んでいるような空虚な響きがあった。
「こことは大違い。坂もないし、みんなお洒落やし。……私には、あっちの方が合っとる気がする」
強がりだ、と直感した。彼女の仕草は、とても東京が合っていた人間のそれとは思えない。
「なら、なんで戻ってきたと?」
「親の都合。教室でも言うたやろ」
「実は向こうの学校で、相当派手にやらかしたって噂ばい」
「……うるさいわね。違うわよ」
若菜が、肩にかけたスクールバッグの持ち手を強く握りしめるのが見えた。図星だったらしい。バッグには、東京で流行っているらしい派手なキーホルダーがいくつもぶら下がっている。
通りを歩いて行くと、左手に湊公園が見えた。その向こうに、中華街の赤い門が西日を受けて立っている。
若菜の一歩ごとに、キーホルダーがジャラジャラと鳴った。
提灯の赤も、公園の楠も、石畳も、この街に何百年も前からあるものだ。その中で、あの音だけがどこにも混ざらなかった。

俺たちは市民病院の横を抜け、東小島へと続く急な登り口に差し掛かった。
ここからは、地獄のような階段が続く。
「うわ……これ、毎日登らないかんのか」
若菜が見上げる先には、山の斜面にへばりつくように家々が連なり、その隙間を縫うように細いコンクリートの階段が空へと伸びている。
「文句言うな。これが長崎たい」
「忘れてたわ、この理不尽な坂……」
若菜は悪態をつきながらも、軽快に階段を登り始めた。
「三年も離れとったら、忘れるやろ普通」
「忘れとらんよ。足が覚えとる」
「そうやろ。……相変わらずガサツやね、登り方」
「うるさか」
その健脚ぶりは、昔と変わっていない。

「それにしても、どうしたんねその格好は」
俺は彼女の茶色く脱色された髪と、短く詰められたスカートへ視線を流した。陽の光の下で見ると、その派手さは一層際立って見える。毛先は(わら)のように痛み、無理にファンデーションを叩いた肌は、どこか荒れているように見えた。
「は? 何が」
「髪も、スカートもよ。東京じゃそれが普通かもしれんけど、こっちじゃ目立つだけばい。海星(うち)の制服に、その化粧は似合わん……なんか、無理しとるごとある。それに、生徒指導のジジイに目ぇつけられるぞ」
遠回しな忠告のつもりだった。だが、その言葉は地雷だったらしい。
若菜は唇を噛み、まるで急所を突かれた獣のように、過剰なほど肩を強張らせた。
「……うるさいわね!」
鋭い声が返ってきた。
彼女はスクールバッグを抱え直すと、睨みつけるように俺を見た。
「あんたに何が分かるん。東京のことなんも知らんくせに。……これが、今の『普通』なんよ。これくらいしてないと、舐められるだけなんよ!」
「舐められる?」
「……っ、なんでもない!」
若菜はハッとして口をつぐんだ。
その瞳が一瞬、恐怖に揺れたのを俺は見逃さなかった。まるで、目に見えない敵から身を守ろうとしているような、怯えた目。
「とにかく、ほっといて。先生に目ぇ付けられようが、あんたには関係なかやろ」
若菜が吐き捨てるように言い、乱暴に歩き出した瞬間。
石段の段差に足を取られ、彼女の体が大きく傾いた。
「あっ」
ドサッ、と鞄が落ち、留め金が外れて中身が石畳に散らばる。
派手な色の化粧ポーチ、画面の割れたスマホ、東京で流行りのスナック菓子。
その雑多なガラクタの中に混じって、一つだけ、ひどく古びたものが転がった。
それは、色褪せた「交通安全」のお守りだった。
朱色の布地は擦り切れ、紐も毛羽立っている。

だが、俺には見覚えがあった。
あれは三年前、彼女が東京へ引っ越す前の晩、俺の実家の御影神社で渡したやつだ。
『東京は車が多いけん、気をつけろよ』
そう言って押し付けた、気休め程度のお守り。
「……っ、見んな!」
俺が手を伸ばしかけた瞬間、若菜は顔色を変えてそれをひったくった。
まるで、見られてはいけない恥部でも隠すように、お守りを(てのひら)の中に強く握り込む。
「……若菜、それ」
「なんでもない! ……ゴミよ、ただのゴミ!」
彼女は顔を真っ赤にして叫ぶと、散らばった荷物を大雑把に鞄へ詰め込み、逃げるように石段を駆け上がっていった。
パタパタと慌ただしい足音が遠ざかっていく。

俺はその場に立ち尽くした。
新しい自分になりたいなら、あんな薄汚れた過去の遺物など、真っ先に処分すべきはずだ。
なのに、あいつはずっと持っていたのか。
あの派手なメイクや茶髪の下に、三年前のままの時間を隠し持って。
「……捨てられんかったんは、お前の方やなかか」
俺は小さく呟き、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
擦り切れた布の感触が、まだ指先に残っている気がした。あいつは東京で、どんな思いであれを握りしめていたのだろう。
俺がこの街で鬱屈(うっくつ)とした日々を過ごしている間、あいつはあいつで、独りぼっちで戦っていたのかもしれない。

ふと、神社の石段の上を見上げた。
その遥か上空、鰯雲(いわしぐも)の合間を、一機の旅客機が遠い轟音を立てて通過していく。白い飛行機雲が、青空を鋭く切り裂いていた。
モヤモヤしたものが胸に残る。
あいつは本当に「変わってしまった」のだろうか。
昔の若菜は、こんな風に武装したりしなかった。
泥だらけになって俺の後ろをついてきて、俺が祝詞(のりと)の練習をサボっていても、「慶祐は慶祐やもんね」と笑ってくれた。
この坂の上の街で、俺のことを「御影の跡取り」や「若神主さん」としてではなく、ただの「宮部慶祐」として見てくれた、数少ない人間。
だからこそ、俺は苛立つのかもしれない。
東京で傷つき、派手な鎧を着込んで戻ってきた彼女の中に、あの頃の屈託のない笑顔が見当たらないことに。
俺の居場所が、また一つ失われたような喪失感があった。

「でも……変わらなきゃいけんのは、俺も同じか」
鞄の中には今日担任から戻された進路調査票がある。
十七年しか生きていない人間に、この先を決めろと言う紙だ。
そこには、父が見たら卒倒するであろう文字が書かれている。
『航空大学校』。
宮崎にある、パイロットを養成するための国立の教育機関だ。
近所の婆さんたちは、俺を見るたびに手を合わせて拝む。俺が何を好きで、何になりたいかなんて誰も興味を持たない。この街において、俺は「神社」という舞台装置の一部でしかないのだ。
まるで、透明な棺桶に入れられているような息苦しさ。

俺は、空へ行きたい。
毎日毎日、地面ばかり見て石段を上り下りする人生じゃない。
この地面から飛び立ち、雲を突き抜けて、物理的にも精神的にもこの「御影の呪縛」から解き放たれた場所へ。
操縦(かん)を握り、自分の力で空を飛ぶ。そうすれば、何者でもない俺自身として、初めて深く息ができる気がするんだ。
宮崎へ行くことは、俺にとって単なる進学じゃない。離陸(テイクオフ)なんだ。

海からの風が強まった。
境内の木々がざわざわと揺れ、まるで何かを警告するように、あるいは来るべき運命を予感させるように、不穏な音を立てていた。
俺は鞄のベルトを握り直し、頭上の飛行機雲を目で追いながら、ゆっくりと石段を登り始めた。
*     *     *
慶祐を振り切って帰り着いた私の実家は、坂の途中にある古い木造家屋だ。
最悪な気分のまま引き戸を開けると、懐かしい線香と古畳の匂いが鼻をくすぐる。
「お帰り、若菜。学校はどうやったね?」
奥の間から響く祖母ののんびりした長崎弁に、「うん、まあまあ」と短く応じて、私は逃げるように二階の自室へと駆け上がった。
六畳の和室。
三年前まで私が使っていた部屋は、当時のまま時間が止まっていた。勉強机の傷も、壁に貼ったままの古いポスターも。
ただ、そこに立ち尽くす私だけが、異物のように変わってしまっている。
私は鞄を畳に放り出すと、鏡台の前に座り込んだ。

三面鏡の中に、茶髪の少女が映っている。
濃いアイライン。派手な色のリップ。短く詰めたスカート。
東京の学校で舐められないように、必死で塗り固めた私の「(よろい)」。
海星(うち)の制服に、その化粧は似合わん』
慶祐の言葉が、耳の奥でリフレインする。
分かってる。そんなこと、私が一番分かってる。
鏡の中の自分を睨みつけ、私は手の甲で唇を乱暴に(ぬぐ)った。赤い色が皮膚に擦れて(にじ)む。

東京に行けば、何かが変わると思った。
でも、結局私はどこにも馴染めず、こうして傷ついて、逃げ帰ってきただけだ。
派手な格好をして強がっていれば、誰も私の弱さには気づかない。
そう思っていたのに。
あいつは、一瞬で私の違和感を見抜いてしまった。
私は立ち上がり、西向きの窓を開け放った。
夕方の風が吹き込み、カーテンを大きく膨らませる。
すぐそこ――隣の隣の敷地に、鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた御影神社の(もり)が見える。
風に揺れる(こずえ)の向こうには、慶祐の家の屋根瓦が黒く光っていた。
幼い頃は、窓から顔を出して「おーい」と呼べば、あいつが竹箒を持って手を振り返してくれた。
そんな距離。
けれど今は、その数メートルの空間が、果てしない断絶のように感じられる。
「……背、伸びとったな」
窓枠に頬杖をつき、小さく呟く。
三年ぶりの慶祐は、記憶の中の少年よりもずっと大人びて見えた。
相変わらずぶっきらぼうで、神社の息子らしく、この古い坂の町に溶け込んでいる。
東京で失敗して逃げ帰ってきた私とは大違いだ。
あいつはきっと、これからもこの町で、真っ直ぐに生きていくのだろう。

机の端に押しやられた、裁縫箱が目に入る。
(ふた)の隙間から、赤い刺繍糸(ししゅういと)がだらしなくはみ出していた。
「……何やっとるんやろ、私」
結局、私が捨てきれずに持って帰ってきたのは、不器用な乙女心と、あいつへの情けない未練だけ。
私は窓を閉めようとして、ふと手を止めた。
神社の境内から、パチン、と乾いた音が微かに聞こえた気がしたからだ。
柏手(かしわで)の音だろうか。
この坂の町では、音は風に乗って不思議なほどよく通る。
「……馬鹿みたい」
私はカーテンを閉め切り、薄暗くなった部屋の中で膝を抱えた。
鎧を脱ぐ勇気もないくせに、膝を抱える腕にばかり力が入った。
長崎の夜は早い。
坂の上の静寂が、私の独り言を吸い込んでいった。