二度と帰らないと思っていた故郷に足を踏み入れることになったのは、仕事でそこに行く用事が出来てしまったからだった。
「大西さん、あなた、たしかこのあたり出身だったよね」
そう言って、上司の堀部さんが、一枚の用紙を差し出してきた。A4のコピー用紙の左上には『フェースシート』と記載されている。福祉の現場で活用される、利用者の情報がまとめられた書類だ。
『このあたり出身』と堀部さんが示したのは、そこに記載されている利用者の現住所だった。視線を落とした瞬間、見覚えのある……と表現するには生半可すぎる感覚が全身を突き抜けた。胸のあたりに石が落ちてきて、それを慌てて受け止めたかのような衝撃。ごくりと唾を飲み込んで、心臓が早鐘を打っているのを悟られないように努めた。
「荒木美枝子様。八十九歳……」
私は、住所の上に書かれている、利用者の名前を読んだ。声に出すつもりはなかったが、結果的に読み上げていることに、あとになって気付いた。
「そう。ほら、キーパーソンの息子さんがこっちにいるから、本人を近くに呼び寄せるつもりなんじゃない」
堀部さんは、なんてことないふうに笑った。マグカップに入れていたコーヒーを飲み干して、再びパソコンに向かう。彼女がキーボードを叩く音が、しばらくのあいだ部屋の中に響いた。
堀部さんは、私が勤める有料老人ホーム『楓の杜』で、責任者の仕事をしている。現場に出て利用者さんの介助をすることもあるが、どちらかというと運営側——端的にいえば、営業や家族対応、デスクワークなどを担うほうが多い。私も彼女とおなじ立場だが、社歴も年齢も堀部さんのほうが上のため、彼女を上司のように見ている。
「実調、行かなきゃいけないんだけど、大西さんに頼もうと思ってるの。ほら、ここからだと遠方だし、土地勘のない人に行ってもらうより、大西さんだったら安心でしょ」
実調というのは、実態調査の略称で、これからホームで受け入れようとするお年寄りが住んでいるところに直接出向いて、現在の本人の状況を実際に把握することだ。
これまでに受け入れた利用者も、施設長と私や堀部さんで分担して実調に行っているが、県を跨ぐどころか、片道六百キロも離れた地まで赴くのは初の試みだ。
遠方に住むお年寄りの受け入れは、提出された書類のみで可否を決めることもあるのに、今回は現地に私を寄越そうとしているのは、私が入社以来、一度も故郷に帰っていないということを堀部さんなりに気遣っているからかもしれない。
世間では、生まれ育った土地というだけで、そこには懐かしさや安らぎがあるものと思われている。そこから離れて暮らしていれば、なおさらだ。久しぶりに帰れば変わらない景色に胸をなで下ろし、昔なじみの味を口にすれば、忘れていた自分を取り戻せる。故郷とは、そういう温かい場所であるらしい。
けれど、誰にとってもそうとは限らない。離れて初めて、まともに息ができる土地もある。二度と目にしたくない景色も、聞きたくない言葉も、思い出すだけで身体が当時に引き戻される場所もある。生まれ育ったという事実だけで、そこを好きになる義務などない。
少なくとも、私にとって故郷は、帰る場所ではない。土地勘があることと、そこへ帰りたいことは、まるで別の話だった。
しかし、帰りたくないから実調に行くのも断る……というのも色々と詮索されそうで、どちらにしても気が進まなかった。なるべく波風を立てずに生きていきたい。生まれ育った町を厭うのにどんな理由があるのかと、これからずっと好奇心を持たれて仕事をしていかなければならなくなるより、いっときの我慢でその後の平穏を手に入れられるなら、私は間違いなく後者を選ぶ。べつに里帰りをしたところで死ぬわけでもない。さっさと仕事を終わらせて、なんなら日帰りでこちらに帰ればいいのだ。
「わかりました。……私が行きます」
「じゃあ、決まりね」
堀部さんは私の返事を最後まで聞かないうちに、パソコンの画面を切り替えた。予定表を開き、空いている日の欄を順番に確認していく。
「先方の都合を聞いてみる。午前中は移動で潰れるだろうから、十四時くらいが無難かな」
受話器を肩と頬のあいだに挟みながら、堀部さんはフェースシートに記載された番号を押した。荒木さんが現在入所している介護老人保健施設だ。
呼び出し音が鳴っているあいだにも、もう片方の手は止まらず、経路検索の画面に出発地と到着地を入力している。
「お世話になっております。有料老人ホーム楓の杜の堀部と申します。荒木美枝子様のご入居にあたり、実態調査の日程についてご相談したくお電話いたしました」
電話口へ向けた声だけが、普段より一段柔らかくなる。先方の返答を聞きながら、堀部さんは卓上カレンダーの一日を赤いペンで囲んだ。
「はい。では、来週の水曜日、十四時に職員一名がお伺いいたします。担当は大西です」
「当日は、ご本人様の普段のご様子が分かる方にも同席をお願いできますでしょうか。はい、よろしくお願いいたします」
受話器を置くと、今度は総務宛てのメールを開いた。
「朝一番の新幹線なら、昼すぎには向こうへ着けそう。駅から先は車がないと厳しいみたいだから、レンタカーも押さえておくね」
堀部さんはそう言って、出張申請書のひな型を呼び出した。目的欄に「入居前実態調査」、交通手段の欄に「鉄道・レンタカー」と打ち込み、私の名前を選択する。
「帰りは何時でもいい?」
「できれば、その日のうちに戻りたいです」
私が答えると、堀部さんは「了解」と短く言い、帰路の候補をいくつか並べた。実調が多少長引いても間に合う便を選び、予約画面を進めていく。迷う時間はほとんどなかった。
「乗車券は会社で手配するから、当日はこれを持っていって。レンタカー代と高速代は立て替えで、領収書を忘れないようにね」
印刷機が動き出し、旅程表と地図が順番に吐き出されてきた。堀部さんはそれらを揃え、端を机の上で二度叩いてから、透明なファイルに差し込んだ。私には旅程表も地図も必要ないし、レンタカーで目的地に行くには高速を使わないことも知っている。
「あと、荒木さんの医療情報は先方から追加で送ってもらうことになってる。届いたら印刷して一緒に入れておくから」
ファイルが私の前に置かれた。
「大西さん、土地勘あるなら助かるわ。向こうでお昼くらい食べる時間は取れると思うから、無理しないでね」
堀部さんはそう言って笑うと、すでに次の仕事へ取りかかっていた。
机の上に残された旅程表には、出発時刻から帰着予定まで、一日の動きが隙間なく記されていた。
堀部さんは、移動で午前中が潰れると言っていたが、午前六時過ぎに発車する電車に乗れば、向こうに到着するのは十一時くらいだ。向こうの駅から目的地の介護老人保健施設までは車で十五分……余裕を持って三十分もあれば着くだろう。
知識はあればあるほど便利だ。こうして、紙に書いていない細部の情報まで頭に浮かんでくる。
駅からの道程。その町並み。通りに並んでいる信号が変わるまでの時間の長さ。道路の陽当たりや空気の匂い。そのなにもかもが、住んでいた当時のままの景色で、頭の中に流れ込んできた。
駅の周辺を抜けてしばらく行くと、道沿いの店や住宅は次第にまばらになっていく。視界を遮る建物が減り、その向こうに田畑とため池が現れる。平らな土地を細い水路が縫い、夏には伸びた稲の葉が風に押されて、同じ方向へいっせいに傾いた。
私の実家がある場所は、駅から歩いて帰れるような場所ではない。学校には自転車で通っていたし、途中に駅も線路もないから、当時は鉄道とは無縁だった。
池の土手に沿って延びる道も、田畑のあいだを抜ける細い道も、私は覚えている。その道の先にある家へ、私は毎日帰っていた。
学校から戻ると、まず祖母のいる部屋を確かめた。昼の薬をきちんと飲んだかを確認する。汚れた衣類があれば洗濯機へ運び、台所に立って夕食の支度をする。祖母が食べ終えるまでそばを離れられず、ようやく自分の食事に手をつけるころには、味噌汁の表面から湯気が消えていた。
夜になれば、寝床へ連れていった。それで一日が終わるとは限らなかった。深夜に物音がすれば目を覚まし、祖母が廊下へ出ていないかを確かめた。何度布団へ戻しても、しばらくするとまた襖の開く音がした。
翌朝には何事もなかったように制服を着て、学校へ向かった。
あの道を通って家へ戻ることは、私にとって帰宅ではなかった。授業を終えたあと、もうひとつの仕事場へ向かうことだった。給料もなく、休みもなく、辞めたいと言うことさえ許されない仕事場へ。
六時間目が終わると、私は誰よりも早く教科書を鞄へ詰め込んだ。
「恵美、今日も寄っていかないの?」
友人が、机のそばまでやってきて尋ねた。私の家から逆方向にある学校の最寄り駅の近くにはショッピングモールがあって、彼女らはそこで放課後のひとときを過ごすのが日課になっているのだ。
「ごめん。今日はちょっと用事があるから」
私は鞄を肩へ掛けながら答えた。今日は、ではなかった。昨日も、一昨日も、その前の日も同じだった。
家で祖母の世話をしなければならないとは言えなかった。
それを口にした瞬間、私と友人たちのあいだに、取り返しのつかない線が引かれるような気がしていた。放課後になにを食べるかで笑っている彼女たちと、祖母が便を漏らしていないかを心配している私。その違いを知られたくなかった。
駐輪場から自転車を出し、校門を抜けた。
帰り道の前半には、まだ店や住宅があった。信号で止まれば、同じ制服を着た生徒たちが隣に並ぶ。自転車の籠に鞄を放り込み、どこに遊びに行こうか相談をしながらゆっくり走る彼らを、私は次々と追い越した。
急いで帰りたいわけではなかった。しかし、帰らなければならなかった。
祖母が一人で外へ出ているかもしれない。薬を飲み忘れているかもしれない。台所で火を使っているかもしれない。そう考えるだけで、足は勝手にペダルを強く踏み込んだ。
進むにつれて、道沿いの建物は少なくなっていった。視界の両側に田畑が広がり、ため池の水面が西日の色を映していた。向かい風の強い日は、平らな道なのに坂を上っているようだった。汗で制服の背中が張りついても、立ち止まって休む気にはなれなかった。
玄関を開けると、家の中の匂いを確かめた。
焦げた匂いはしないか。排泄物の臭いが漂っていないか。祖母が転んだまま動けずにいる気配はないか。無事に椅子へ座っている姿を見つけたときも、安心できるのは一瞬だけだった。
「おかえり。遅かったなあ」
祖母は、テレビから目を離さないまま言った。
遅くはないだろうと言いたかった。授業が終わると同時に学校を出て、寄り道もせずに帰ってきたのだ。それでも私は言い返さなかった。
「ただいま。薬、飲んだ?」
私は鞄を床へ置きながら尋ねた。
「そんなもん、知らん」
祖母は不機嫌そうに答えた。
テーブルの上には、朝に用意しておいた薬が残っていた。もう薬は飲めないが、水分補給をしてもらわないと困る。
私は水を汲み、祖母が飲み終わるまで隣に立った。それから洗濯物を取り込み、浴槽を洗い、夕食の支度を始める。
祖母の食事は、食べやすい大きさに切らなければならなかった。硬いものを出せば噛めないと言われ、薄味にすれば味がしないと怒られた。昨日はすんなり食べたものを、翌日は嫌いだと言って箸を投げることもあった。
「こんなもん、食べられへん」
そんなとき、祖母はそう言って、煮物の入った小鉢を押し返す。私は落ちた箸を拾い、新しいものと取り替えた。腹が立っても、顔には出さないようにした。怒らせれば食事に時間がかかり、そのぶん自分のことをする時刻が遅くなると覚えたからだ。
祖母が食事を終えるまで隣に座り、口へ運ぶ量を見ていた。途中で立ち上がろうとすれば椅子へ戻し、喉を詰まらせれば背中をさすった。
食器を片づけ、汚れた衣類を着替えさせ、祖母を寝床へ連れていったあとで、ようやく自分の夕食を茶碗によそった。
味噌汁は冷めていた。温め直すことはできた。けれど、加熱の音で祖母が起きるかもしれないと思うと、それすら面倒だった。私は台所に立ったまま、冷えた味噌汁を飲んだ。
友人たちは今ごろ、家族と一緒に温かい夕食を食べているのだろうか。そう考えたのは、ほんの一瞬だった。
奥の部屋から、襖の開く音がした。碗を置き、廊下へ向かった。祖母は寝床を抜け出し、暗い廊下の真ん中に立っていた。
「家に帰らなあかん」
祖母は、怯えた顔で私を見た。
「ここが家やんか。な、おばあちゃんもう寝よう」
私は祖母の手をとりながら答えた。
「違う。私はおばあちゃんやない。あんた、誰や」
祖母は私の手を振り払った。爪が手の甲を掠めた。痛がっている暇はなかった。祖母が玄関へ向かう前に抱き留め、もう一度寝床へ連れていかなければならなかった。
宿題を始められたのは、日付が変わる少し前だった。机に問題集を開いても、文字は頭に入ってこなかった。瞬きをするたび、そのまま眠りに落ちそうになった。それでも翌朝には提出しなければならない。宿題が出来ない理由で、祖母を言い訳にするつもりはなかったし、そもそも、家庭の事情とやらを誰かに話そうとも思わなかった。
私が祖母の世話をしていることは、近所の大人たちも知っていた。買い物袋を自転車の籠へ入れているところを見られれば、偉いと言われた。祖母を病院へ連れていけば、孝行な孫だと褒められた。
でも、誰も、代わろうとは言わなかった。誰も、学校へ通う子供が担うには重すぎるとは言わなかった。
褒められるたびに、私がしていることは正しいのだと決めつけられた。つらいと言えば、良い孫ではなくなる。逃げたいと言えば、祖母を見捨てる冷たい人間になる。
だから私は、何も言わなかった。朝になれば制服を着て、自転車に乗った。学校では眠気を隠し、友人たちと同じように笑った。放課後になれば、再び長い道を走って家へ戻った。
誰にも知られないまま、毎日、子供から介護者へ戻った。
シングルマザーだった母は、私たちを養うために、運送業者の配達員として、朝から晩までずっと働いていた。母はそんな自分の人生に、恨み言ひとつ言わなかった。だから私も、なにも言えなかった。一日くらい友達と遊びたくても、テストの点数が下がっても、祖母に投げられた携帯電話の画面が割れても、ぐっと感情を押し込んだ。
毎朝、私が目を覚ますころには、母はもう家を出ていた。夜になって帰ってくると、私が残しておいた夕食をかき込むように食べた。ひどい日には、ダイニングの椅子に座ったまま眠っていることもあった。
母が怠けていたわけではない。祖母を私に押しつけて、自分だけ楽をしていたわけでもない。食費も光熱費も、私の学費も、祖母の通院費も、すべて母がひとりで稼いでいた。母が働かなければ、私たちは生きていけなかった。
だから、助けてほしいとは言えなかった。母が疲れていることを、私は知っていた。靴下を脱いだ足が浮腫んでいた。手首にはいつも湿布を巻いている。そんな母に、祖母の介護までしてほしいとは言えなかった。
「今日、おばあちゃんどうやった?」
夜遅くに帰宅した母は、弁当箱を流しへ置きながら尋ねた。
「いつもと一緒」
私は教科書から顔を上げずに答えた。
本当は、夕方に祖母が玄関から外へ出ようとした。風呂へ入れるときには腕を叩かれた。夕食をほとんど食べず、薬も吐き出した。それでも、そんなことをひとつずつ話せば、母は眠る時間を削って祖母のそばにいるだろうと思った。
「そっか。ありがとうな」
母は疲れ切った顔に笑みを浮かべた。
その言葉を聞くたび、私はなにも言えなくなった。母にとっての「ありがとう」は、私を労うための言葉だったのだろうが、私には、明日も頼むと言われているように聞こえた。母が頭を下げるほど、私は祖母の世話を放り出せなくなった。
誰かひとりが悪かったわけではない。
母は家族を養うために働き、私は母の代わりに祖母を見た。そうしなければ暮らしが成り立たなかった。家族の中に生じた穴へ、いちばん小さく、いちばん断りにくい人間が嵌め込まれただけだったのだ。
当時はまだ、『ヤングケアラー』という言葉は一般に知られていなかった。名前のないものは、問題として見つけてもらえない。祖母の世話をするのは家族として当たり前で、働きづめの母を助けるのも娘として当たり前なのだと、私自身がそう思っていた。誰かにおかしいと言われたこともなければ、助けを求めるための言葉も持っていなかった。だからあの日々は、つらいかどうかを考えるより先に、毎朝目を覚ませばそこにある、ただの暮らしだったのだ。
新幹線に乗るのは、いつぶりだろうか。関西から関東に移って、私はほとんど遠出をしなかった。仕事に忙殺されていたわけではない。旅行に行くにしても、そんな『きっかけ』がなかったからだ。
東京駅で在来線から新幹線に乗り換える。華やかな店舗が並び、昼夜問わず人々でごった返すコンコースも、もう歩き慣れた。上京したばかりの頃は、目的地の路線に乗るまでに何十分も駅の中を彷徨っていたのが懐かしい。案内板を見上げては立ち止まり、人の流れを邪魔して舌打ちをされ、余計に焦って自分がどちらから来たのかさえ分からなくなった。
いまでは、頭上の表示を逐一確かめなくても、新幹線の改札まで迷わず歩ける。覚えようと努力したわけではない。何度も行き来するうちに、いつの間にか身体が道順を覚えていた。
故郷の道と同じだった。
忘れようとしても忘れられない場所がある一方で、覚えようとしなくても身についていく場所もある。東京駅の雑踏を難なく通り抜けられるようになったことは、こちらで過ごした年月が、故郷で暮らした年月に負けないほど長くなった証拠のように思えた。
新幹線の改札へ向かう途中、駅弁を並べた店の前で足が止まった。まだ朝の早い時間だというのに、店頭には色とりどりの弁当が隙間なく並び、出張へ向かうらしいスーツ姿の人たちが、商品を手に取っては裏返し、熱心に中身を確かめている。
その中に、見覚えのある弁当があった。
茶褐色の蛸壺を模した陶器の容器に、蛸や穴子、煮物を盛りつけたものだ。これから私が向かう地域の名物として知られており、遠く離れた東京でも売られているのだ。
存在は昔から知っていたが、食べたことはなかった。それでも、その弁当は私の故郷の味として紹介されていた。
故郷の味という言葉には、そこに生まれ育った者なら、誰もがおなじものを懐かしく思うはずだという響きがあるが、私にはそういうものを囲んで家族と笑った記憶など、どこを探しても出てこない。
値札を見ると、買えない金額ではなかった。いまの私は、自分で働いて得たお金で、自分が食べたいものを選べる。出発までの時間にも余裕があり、買おうと思えばすぐに買うことができた。
それなのに、私は手を伸ばさなかった。陶器の容器は食べ終えたあとも荷物になる。向こうで昼食を取る時間もあるだろう。そういくつも理由を並べているうちに、後ろから来た人が私の横を通り、迷うことなくおなじ弁当を手に取った。
その人にとっては、これから始まる旅を楽しむための食事なのだろう。懐かしい味かもしれないし、初めて食べる名物なのかもしれない。あるいは単に、壺が欲しいのかもしれない。理由がどうであっても、そこに特別な覚悟は要らない。食べ物をひとつ選ぶだけのことに、これほど考え込んでいる自分がおかしくなった。
私は弁当から目を離し、新幹線の改札へ向かった。嫌いだから買わなかったわけではない。好きなのか嫌いなのかを決められるほど、私はその味を知らなかった。
新幹線のホームには、まだ朝の早い時間だというのに、出張らしいスーツ姿の人や、大きな荷物を引いた旅行客が列を作っている。これから遠くへ行くという高揚があるのか、眠そうな顔をしていても、どこか楽しげに見えた。
私だけが、これから向かう場所から逃げ帰るための時刻を、すでに気にしていた。
指定された車両に乗り込み、窓側の席へ腰を下ろす。鞄から旅程表を取り出すと、堀部さんが隙間なく組んだ予定が、改めて目に入った。到着、レンタカーの受け取り、実調、返却、帰りの列車。そのどこにも、故郷を懐かしむための時間など設けられていない。
それでよかった。私は観光に行くのではない。荒木さんの状態を確認し、必要な情報を持ち帰る。ただそれだけの出張だ。
やがて扉が閉まり、車体がゆっくりと動き始めた。ホームに並ぶ人々の姿が後方へ流れ、屋根の下から朝の光へ抜けていく。
東京の建物が遠ざかっていくのを見ながら、私はようやく、自分が本当に故郷へ向かっているのだと実感した。
高層ビルの隙間に見えていた空は、ひどく狭かった。線路沿いの建物が次々と視界を横切り、屋上に設置された貯水槽や、洗濯物の干されたベランダが一瞬だけ現れては消えていく。こちらで暮らし始めた頃には、どこまでも続いているように思えた街も、新幹線の速さにかかれば、ほんの短い時間で遠ざかっていった。
車内には、朝食を摂る人の気配があった。包装を開く音がして、どこからか珈琲の匂いが漂ってくる。通路を挟んだ向かいの席では、スーツ姿の男性がおにぎりを頬張っている。誰もがそれぞれの目的地へ向かいながら、移動に必要な時間を、ごく普通の朝の一部として過ごしている。
都会を離れるにつれて、空が広くなる。建物のあいだに土の色が増え、水を張った田が光を反射する。故郷へ近づいているから似ているのではない。日本のどこにでもある景色なのだろう。それでも、ため池の水面や平らな土地を目にするたび、記憶の中にある風景が勝手に重なった。
まだ、ずっと遠い。何度も自分にそう言い聞かせた。
いま窓の外に見えている道を、私は自転車で走ったことはない。あの田畑の先に実家はない。あの家の中で、祖母が私を待っているわけでもない。
分かっているのに、車体が西へ進むほど、身体の一部だけが時間を遡っていくようだった。
高校を卒業し、故郷を離れた日も、新幹線に乗った。あのときは、列車が故郷から離れるほど、身体が軽くなったが、今日は、その逆だった。
おなじような座席に座り、おなじように窓の外を眺めているのに、列車はかつて逃げ出した場所へ私を運んでいる。
いまの私は、制服を着て自転車を漕いでいた高校生ではない。やりたくもない介護を押しつけられる家族でもない。自分の職場に受け入れる人の状態を確認するため、仕事としてあの土地へ向かっているのだ。
新大阪駅で、再び在来線に乗り換える。聞こえてくる話し声の抑揚が、記憶の中のものとおなじになる。あれだけ染みついていたはずのそれが、妙によそよそしく聞こえる。会話の内容など聞いていないのに、語尾だけが耳にはっきりと残った。
到着した新快速に乗り込むと、車内には朝の通勤時間を過ぎたあとの静けさがあった。空いている席へ腰を下ろし、鞄を膝の上に置く。新幹線では遠くへ流れていた景色が、今度は窓のすぐそばを通り過ぎていった。
大きな駅を過ぎるたび、乗客が少しずつ入れ替わった。買い物袋を足元へ置いた女性や、病院の診察券らしいものを手にした老人が乗ってくる。彼らにとっては、どこかへ帰る途中か、いつもの用事へ向かうための電車なのだろう。私だけが、ひとつ駅を過ぎるごとに、過去との距離を測っていた。
途中で普通列車へ乗り換えた。速度が落ち、停車する駅の間隔が短くなる。扉が開くたびに、夏の熱気が冷房の効いた車内へ入り込み、すぐに閉じ込められた。車内放送から流れる駅名は、すべて知っている。最近口に出したことも、長いあいだ目にしたこともない。それでも耳は迷わず聞き分けた。
目的の駅が近づくと、私は旅程表を鞄へ戻した。
降りる準備をするだけのことなのに、立ち上がるまでに少し時間がかかった。列車が止まり、扉が開いても、前に立つ乗客が歩き出すまで足が動かなかった。
ホームへ降りた瞬間、知っている匂いがしたような気がして、すぐに否定した。改札を出て、予約していたレンタカーの営業所へ向かった。手続きを済ませ、鍵を受け取って運転席へ乗り込む。車内には、陽に温められた座席と芳香剤の匂いが籠もっていた。
目的地の住所をカーナビへ入力する。案内を開始する必要などなかった。駅前を出て、どの道を進み、どこで曲がればいいのか、画面に経路が表示されるより先に頭へ浮かんでいた。
それでも私は、音声案内の開始ボタンを押した。
自分の記憶を頼りに帰ってきたのではない。道が変わっているかもしれないし、そうなればもはやここは知らない場所だ。知らない場所を、機械に教えられながら走るのだ。
そういうことにしておきたかった。
生まれてから高校を卒業するまでに費やした時間とおなじくらいの期間を、私は関東で過ごした。
十八年という年月は、短くはない。関東に来たばかりの頃には聞き慣れなかった言葉も、いまでは耳に引っかからなくなった。こちらで働き始め、仕事を覚え、何度か職場を変えた。故郷を離れたばかりの私は、いつか自分があの土地の人間ではなくなる日が来るのだと思っていた。長く暮らした場所の記憶も、別の土地で生きていれば少しずつ薄まり、やがて他人の町を思い出すような距離まで遠ざかるのだと信じていた。
実際には、時間が記憶を消してくれたわけではない。
風の匂いも、道の曲がり方も、夕方になると西日が正面から差し込む場所も、いまも覚えている。祖母の声も、襖の開く音も、冷めた味噌汁を飲んだ台所の暗さも、なくなってはいない。
でも、故郷で過ごした時間だけが私の人生ではなくなった。高校生だった頃の記憶に引き戻されそうになっても、そのあとに積み重ねた年月まで消えるわけではない。
車を走らせる道路は、結局記憶の中のものとほとんど変わっていなかった。道路沿いの店の看板が変わっていたり、当時は病院だった場所にローカルチェーンのスーパーが出来ていたり、新たに道路工事が始まっていたりしたが、そのどれもが記憶を少しだけアップデートさせるにとどまっていた。
カーナビが次の交差点を左折するよう告げるより先に、私は左の方向指示器を出していた。画面に残された距離が減るにつれて、知らない場所を走っているという言い訳も、使えなくなっていった。
道路はしばらく直進せよと、ナビも示している。そういえばこの先に、うどんとそばの店があったはずだ。『ころうどん』や『ころそば』というメニューが名物で、おなじ敷地内に、うどん屋とそば屋がそれぞれ別の建物で構えられている。風情ある古民家風の建物には、半世紀以上続く老舗の風格が漂っている。
町の名前を冠するその店には、私も何度か行ったことがあるが、連れ立った人の意見がうどんとそばにそれぞれ分かれたらどうするのだろうと、当時から思っていた。
おなじ敷地内にあるとはいえ、店内はつながっていない。うどんを食べたい人とそばを食べたい人が一緒に来れば、どちらかが譲るしかないのだろうと思っていた。そんな余計な心配をしながらも、私自身はいつも祖母が選んだうどん屋へ入った。祖母はそばよりうどんを好み、母も、祖母が食べやすいほうにすればいいと言った。私がどちらを食べたいか、尋ねられた記憶はないが、実は私はそば派なのだ。それは祖母が好むものとおなじものを好物にしたくないという反発が生みだした嗜好だったのかは定かではない。
今日はひとりだった。誰かと意見を合わせる必要も、食べたいものを譲る必要もない。うどんとそばのどちらを選ぶかは、私ひとりで決められる。
実調まではまだ時間がある。朝からなにも食べておらず、空腹を自覚した途端、胃のあたりが遅れて訴えはじめた。
そばを食べていこうと思った。
駐車場にはすでに何台もの車が停まっていた。平日ならまだ空いているだろうと思っていたが、繁盛しているらしい。
そば屋の入口まで歩き、格子戸を開けた。屋外の明るさに慣れていた目には、店内が一瞬暗く見えた。古い梁を残した天井は高く、磨かれた木の床に、窓から差し込む光が細長く落ちている。外観は記憶にあるものと大きく変わっていなかったが、年月を経て黒みを増した柱や、使い込まれた建具には、私が知らない十八年も積み重なっていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」
店員が帳場の奥から出てきて尋ねてきたので、私は短く、「はい」と答えた。
案内されたのは、囲炉裏を囲んだテーブルだった。おもにひとりかふたりの客が案内される場所なのだろう。すでに先客がいて、相席のようになった。差し出された冷たいお茶をひと口飲むと、長い移動で乾いていた喉がようやく潤った。
卓上の品書きを開いた。そばだけでも種類が多く、温かいものと冷たいもの、天ぷらや丼の付いた定食が並んでいる。目当ての品はすぐに見つかった。写真には、そばの上に卵黄や刻み海苔が盛られ、器の中心に天ぷらが添えられている。櫛形に切ったレモンの上には、ひとつまみのわさびが乗っている。
「お決まりですか」と近づいてきた店員に、冷たい『天ころそば』を注文した。
注文を終えると、私はさりげなく店内を見渡した。食器の触れ合う音と、周囲の控えめな話し声が聞こえる。こうしているあいだにも、客は絶えない。入口の傍には待ちが出来ていて、いずれも近隣から来た人達にみえた。
関西弁のイントネーションが懐かしい。関東に住んでいると、私の喋り方は目立つらしく、すぐに出身地を見抜かれることが常だった。
使っている言葉自体は、関東の人たちとそれほど変わらないつもりでいる。それでも、単語のどこを高くし、どこで音を落とすかまでは、意識して変えられなかった。いまだに職場で初対面の家族と話していても、ひと通りの挨拶を終えるころには、「ご出身は西のほうですか」と尋ねられる。こちらが答える前から、相手はすでに確信しているような顔をしていた。
関東で暮らし始めた頃は、話すたびに出身地を言い当てられることが、故郷から名札をぶら下げたまま歩いているようで落ち着かなかった。土地を離れれば、それまでの自分も少しずつ薄まっていくと思っていたのに、言葉だけは身体の奥へ染みついたまま残った。
だからといって、無理に直そうとしたことはない。語尾を合わせ、知らずに使っていた方言を標準語へ置き換えるうち、言葉遣いは自然と変わった。仕事では相手に聞き取りやすい速さで話し、強く響きそうな表現は避けるようになった。それでも、気が緩んだときや、思いがけないことに驚いたときには、かつての抑揚がそのまま口から出た。
こちらでは目立っていた私の声が、この店では周囲の話し声に紛れていた。
隣の席から聞こえる笑い声も、店員が注文を繰り返す声も、入口で待つ客同士の会話も、どこで音が上がり、どこで落ちるのかを考えなくても分かる。聞き慣れていたはずの調子が、十八年ぶんの距離を隔てて耳へ届いている。
懐かしいと思う一方で、その中へ戻ったような気はしなかった。
関東では故郷の人間だと見抜かれ、この土地では、長く離れていた人間として周囲の声を聞いている。どちらにいても、完全にその場所へ溶け込んでいるとは言い切れない。
それでも、自分の声をどちらか一方へ決める必要はないのだろう。
ここで身についた抑揚も、関東で覚えた言葉遣いも、どちらもいまの私が話す声なのだから。
注文を受けた店員が伝票を厨房へ運ぶと、暖簾の向こうで短い返事が聞こえた。
料理を待っているあいだ、私は卓上に置かれた蕎麦の作り方の説明書と、厨房の様子を交互に眺めていた。
朝のうちに石臼で挽かれたらしいそば粉は、気温や湿度に合わせて加える水の量を調整され、すでに生地へと仕上げられている。粉のひと粒ひと粒へ均等に水を含ませるよう、指先で細かな塊を作り、それらを寄せ集めてひとつにまとめているそうだ。厨房にいる職人は、手のひらで押し、折り返し、内部に残った空気を抜きながら、表面にひびのない円い生地へ整えていく。
打ち粉を広げた台の上で生地を押し潰し、麺棒に巻きつけながら薄く延ばす。向きを変えるたびに厚みを確かめ、四角く整えた生地を幾重にも畳む。そば包丁が一定の間隔でまな板を叩き、細く切り揃えられた麺が、打ち粉をまとったまま一人前ずつ分けられていた。
注文が入ると、大きな釜の湯が勢いよく沸く中へ、一人前のそばがほぐしながら落とされる。沈んだ麺はすぐに浮き上がり、湯の対流に乗って釜の中を回り始めた。箸で何度も掻き回すことはせず、麺同士が固まらない程度に動きを整え、茹で上がる瞬間を見計らっている。
その隣では、天ぷらの支度が進められていた。海老と野菜へ薄く衣をまとわせ、高温の油へ順に滑らせる。油の表面が激しく泡立ち、衣の中から水分が抜けていくにつれて、はじめは重かった音が次第に軽くなる。職人は箸先から伝わる感触を確かめ、衣が淡いきつね色へ変わったところで油から引き上げた。揚げ網の上へ置かれた天ぷらから、余分な油が細い筋となって落ちていく。
茹で上がったそばは、網ですくって冷水へ移される。表面に残ったぬめりを落とすよう、両手で優しく揉み洗いし、さらに冷たい水へくぐらせて麺を締める。最後に網を大きく振り、水気を充分に切った。
深さのある器へそばを移し、麺が一か所へ固まらないよう、箸でふんわりと広げる。そこへ、寝かせて味を馴染ませた返しと出汁を合わせたつゆを注ぐ。量はそば全体が沈むほどではなく、箸で混ぜたときに一本一本へ絡む程度だった。
器の中央には天ぷらをのせてその周囲へ刻み海苔と白胡麻を散らす。卵黄を慎重に乗せたあと、櫛形に切ったレモンと、ひとつまみのわさびを添える。黒っぽい麺、黄金色の天ぷら、濃い黄色の卵黄が、器の中で互いを引き立てていた。
店員が器の向きを確かめて盆へ載せる。厨房から出てきた途端、揚げ油の香ばしさと、海苔や胡麻の匂いが店内の空気に混じった。
その香りが、料理より先に私の席まで届いた。
「お待たせいたしました。天ころそばです」
私は早速割り箸を割り、まずは卵黄を崩さないよう、端のほうからそばをひと口ぶん持ち上げた。黒っぽい麺にはつゆが薄くまとわりつき、刻み海苔と白胡麻がところどころに絡んでいる。
口へ運ぶと、冷たく締められたそばが、歯を押し返すような弾力を残して切れた。噛むほどにそばの香りが広がり、そのあとを追って、出汁のきいた甘辛い味が舌に残る。
箸が止まった。
この味を、私は知っている。
ころそばを食べたのは初めてだった。それでも、口の中に残ったつゆの甘みと、出汁の香りには覚えがあった。ここへ来るたびに入っていた、隣のうどん屋。冷たいうどんに絡んでいたあの味と、おなじだった。
十八年も経っているのに、驚くほど変わっていない。
記憶というものは、もっと曖昧なものだと思っていた。長い時間の中で少しずつ形を変え、実際より甘くなったり、苦くなったりして、最後には自分が作り直したものと本当にあったこととの区別もつかなくなる。
それなのに、舌は迷わなかった。
もうひと口食べる。やはり、おなじだった。
出汁が前に出すぎず、醤油の辛さも強すぎない。その奥にわずかな甘みがあり、冷たい麺と一緒になると、口の中へすっと馴染んでいく。昔食べたうどんとは麺の香りも歯触りもまるで違うのに、その土台にある味だけは、記憶の中からそのまま取り出してきたようだった。
今度は卵黄へ箸を入れた。薄い膜が破れ、濃い黄色がそばの上へゆっくりと流れる。つゆと馴染ませて口へ運ぶと、卵黄のまろやかさが加わり、先ほどより味の角が取れた。白胡麻の香ばしさと海苔の匂いも混じる。
天ぷらにも箸を伸ばした。衣に歯を立てると、小さな音を立てて砕け、中からまだ熱が残っていた。冷たいそばを食べたあとだから、その温度が余計にはっきりと分かった。
レモンを軽く搾る。数滴の果汁がつゆへ落ち、次に口へ運んだそばには、それまでなかった酸味が加わった。変わっていない味の中へ、自分の知らなかった食べ方がひとつずつ加わっていく。
それが、妙に面白かった。昔から知っている味なのに、これは昔食べたものではない。私は箸を止めず、もうひと口、そばを啜った。
黄金色に揚がった天ぷらを見ていると、頭の中に別の景色が浮かんだ。それは、今よりもう少し先の季節に、この町に広がる光景だった。
稲の美しい町、と書くこの町は、万葉の時代から米作りが盛んな土地だ。だから町の至るところにため池があり、その周囲には田んぼがある。秋になれば、育った稲穂が青空の下で波のようにうねる。子供の頃から何度となく見てきた景色だったが、私はそれが嫌いだった。日本の何処にいても、おなじような田園を目にすると想起されるのは、決まって故郷の景色であり、そこで過ごした日常だったからだ。
私が高校三年生だった晩秋に、祖母は亡くなった。死因は老衰だった。
その頃には祖母もすっかり弱っていて、一日の大半を布団の上で過ごすようになっていた。食事の量も減り、以前のように夜中に家の中を歩き回ることも少なくなっていた。それでも私は、物音がすれば目を覚ます癖が抜けなかったし、学校にいるあいだには、祖母が転んでいるのではないか、勝手に外へ出ているのではないかと考えた。何年も繰り返した生活は、本人が動けなくなったからといって、こちらの身体からすぐに抜け落ちてくれるものではなかった。
亡くなった朝、祖母は布団の中で眠っていた。起きてくるはずの時刻を過ぎても部屋から物音がせず、私は襖を開けた。仰向けになった祖母の顔は穏やかで、いつものように眠っているようにしか見えなかった。
「おばあちゃん」
私は枕元に膝をついて呼んだ。返事がないので肩に触れた。もう一度呼び、少し強く揺すってみた。それでも祖母は目を開けなかった。
そのあとのことは、ひどく慌ただしかったはずなのに、ところどころしか覚えていない。母の泣き声や、家へ入ってきた人たちの足音や、開け放たれた玄関から冷たい空気が入り込んできたことだけが、途切れ途切れに残っている。
あれほど私たちの生活を乱し続けた祖母は、最後には驚くほど静かに死んだ。
夜中に何度も襖を開け、ここは自分の家ではないと言って玄関へ向かい、食事を拒み、薬を吐き出し、ときには私に手を上げた。祖母がひとたび声を上げれば、家の中にいる人間はみんな、その声を中心に動かなければならなかった。夕食の時間も、私が宿題を始める時間も、母が眠る時間も、祖母の体調や機嫌によって簡単に狂った。
その祖母が、死ぬときには誰ひとり起こさなかった。
襖も開けず、誰の名前も呼ばず、どこにも行こうとせず、ただ布団の中で呼吸を止めていた。
死んだのだと分かった瞬間、私が最初に感じたのは悲しみではなかった。
——嬉しかった。
もう学校から急いで帰らなくていい。授業を受けながら家のことを心配しなくてもいい。玄関を開ける前に焦げた匂いがしないか確かめなくていい。薬を飲ませる必要も、食事を食べさせる必要も、深夜に襖の開く音で起こされることもない。
そのことが、嬉しかった。
そう感じた自分に気づいてから、遅れて涙が出た。祖母が亡くなったから泣いているのか、祖母の死を喜んだ自分が怖くなったのか、自分でも分からなかった。幼い頃には手を引いて歩いてくれたこともあったし、認知症になる前の祖母まで嫌いだったわけではない。悲しさもあったのだと思う。それでも、悲しいという感情が真っ先に出てこなかったことだけは、いまでもよく覚えている。
祖母の葬儀が終わると、家の中は静かになった。
夜になっても襖は開かず、台所で音を立てても誰も起きてこない。夕食を作れば、温かいうちに自分のぶんを食べられるようになった。母も少しは楽になるのだと思った。祖母の通院や介護に費やしていたものがなくなり、私もじきに高校を卒業する。大変だったものにようやく一区切りつき、母にもこれから、自分のために使える時間が出来るのだと、漠然と考えていた。
その時間は、来なかった。
祖母が亡くなってから、半年も経たないうちに母も死んだ。
心不全だと医者は言っていたが、それを引き起こした原因は、過労だったのだと思う。
長年にわたって朝から晩まで働き続けた身体は、私たちが思っていたよりずっと前から限界に近づいていたらしい。母が疲れていることなら、私も知っていた。なのにそれが母の普通だったから、私も普通なのだと思っていた。
「ちょっと疲れとるだけや」
母はそう言って笑ったことがある。私は、それを信じた。
祖母の介護が終われば、いずれ疲れも取れるのだと思っていた。だが、長いあいだ身体に積み重なっていたものは、祖母が亡くなったからといって帳消しにはならなかった。
祖母が死んだときには、嬉しいと思った。
母が死んだときには、何を思えばいいのかさえ分からなかった。
なんのために、母はあれほど働いたのだろうと思った。考えなくても分かる。私を学校へ通わせるためだった。祖母の通院費を払い、食費を払い、光熱費を払い、三人で暮らしていくためだった。
これからだったのに、と何度も思った。母が自分のために生きる時間は、これから始まるはずだった。
葬儀には、近所の人たちも大勢やって来た。みんな私を見ると気の毒そうな顔をして、「大変やったなあ」と声をかけた。母がどれだけよく働いていたか、女手ひとつで私を育てるのがどれだけ大変だっただろうかと、口々に話した。そのどれもが、私を慰めようとして出た言葉だったのだと思う。少なくとも、私の前では。
葬儀からしばらく経ったある日、ごみを出しに外へ出ると、少し離れた場所で近所の人たちが立ち話をしていた。こちらには気づいていなかった。
母の話をしていた。ずっと無理をしていたのだろうという話から、祖母の介護もあった、娘もまだ学生だった、あの人ひとりで全部背負っていたのだから身体も持たない、というところまで、私は聞いてしまった。
私の名前は出なかった。出す必要などなかったのだ。母に娘が一人しかいないことを、そこにいる全員が知っていたからだ。
それから、似たような言葉が耳につくようになった。
「あの子を育てるために、よう働いとったもんなあ」
買い物から帰る途中、背後で誰かがそう言っているのを聞いたこともある。
「ほんま、かわいそうになあ」
別の声が続いた。誰がかわいそうなのか、私は振り返って確かめたりはしなかった。
母は私を養うために働いていた。
母は働きすぎて死んだ。
その二つを並べれば、母を死なせたものの中には、私も含まれているのではないかと思った。
誰かから、そう面と向かって責められたことは一度もない。それでも私は、そう考えてしまうと抜け出せなくなった。私がもっと早く働けばよかったのではないか。学校など辞めて、母を楽にしてやればよかったのではないか。祖母の介護をするだけでなく、もっとなにか出来たのではないか。母が疲れていることを知っていたのに、どうして私は平然と学校へ通い続けていたのだろう。
いまなら、高校生だった自分にそんな問いをぶつけたりはしない。学校へ通いながら認知症の祖母を介護し、そのうえで母の人生まで支えろというほうが無茶なのだ。十代の子供に出来ることには限界がある。そんなことは、介護の仕事をしているいまの私なら分かる。
あの頃の私には、分からなかった。
近所の人とすれ違うだけで、相手が何を考えているのか気になるようになった。スーパーで知っている人を見かければ、目が合う前に別の売り場へ移った。玄関の外から話し声が聞こえると、出かけるのをやめたこともある。
この町には、私のことを知っている人が多すぎた。
祖母を介護していた私を知っている。母が朝から晩まで働いていたことを知っている。その母が過労で死んだことも知っている。
どこへ行っても、私はただの『大西恵美』ではなかった。
孝行な孫だったと誰かは言うだろう。働きづめの母親に育てられた娘だったと、他の誰かも続けるだろう。
母が死んでからは、その母が誰のために働いていたのかまで知っている人たちの中で、生きなければならなかった。
それが耐えられなかった。目に見えない重圧に、幼い私は押し潰されそうになっていたのだ。だから高校を卒業したとき、私は関東へ出た。
なぜ関東だったのか。故郷を離れる理由はいくつもあった。祖母も母もいなくなり、あの家に帰る意味がなくなったこともそのひとつだった。それ以上に、自分のことを誰も知らない場所へ行きたかった。
祖母の介護をしていた子だと知らない人しかいないところ。
母親が働きすぎて死んだ娘だと知らない人しかいないところ。
誰かの孫でも娘でもなく、ただ私自身がひとりの人間として生きられる場所へ行きたかった。
十八年ものあいだ一度も帰らなかったのは、故郷に帰る人がいなくなったからだけではない。あの土地にいる限り、私はいつまでも、あの家で過ごした日々の続きから逃れられないような気がしていたのだ。
おなじ町の中の飲食店にいるのに、私がかつて感じていた窮屈さは感じられない。それは私がもう、この場所から解き放たれた証拠なのか、それとも、十八年という時間が、故郷と私のあいだにちょうどいい距離を作ってくれたからなのか。あまり深く考えても、答えは出ないことも分かっている。
故郷にあるものをおいしいと思えば、ここで過ごした日々まで肯定してしまうような気がしていたのかもしれない。かつての私は、この土地にあるものをひとまとめにして遠ざけようとしていた。景色も、言葉も、食べ物も、そこで起きたことから切り離して考えることができなかった。
時間が経って、ようやく分けて考えられるようになったのだろう。
祖母の介護がつらかったことと、このそばがおいしいことは、べつのことだ。母を失ったことや近所の人たちの言葉に傷ついたことと、この町で長く続いてきた店の味が好きだと思うことも、ほんとうはなにひとつ矛盾しない。
嫌いな記憶があるからといって、土地にあるすべてまで嫌わなければならないわけではなかった。反対に、いまこのそばをおいしいと思えたからといって、故郷を好きになる必要もない。
私は箸で卵黄の混じったそばを持ち上げた。最初に食べたときよりも、つゆの色が少し濁っている。そこへ白胡麻と刻み海苔がまとわりつき、ところどころに天ぷらの衣が落ちていた。
十八年前とおなじ味なのに、それを食べている私は十八年前の私ではない。
そのことが、ようやく自分の中で腑に落ちた。
高校生の頃の私は、食事というものを空腹を満たすための作業のように扱っていた。祖母に食べさせ、自分の分が冷めていればそのまま腹へ入れ、味について考えることもなく一日を終える。温かいか冷たいかさえ、どうでもいい夜もあった。
いまは違う。
そばの歯応えが分かる。出汁の甘みが分かる。海苔の香りも、胡麻の香ばしさも、揚げたての天ぷらと冷たいそばを交互に食べたときの温度の違いも分かる。レモンを搾れば味が変わることを面白いと思い、次はどこを箸でつまもうかと考えている。
食べることだけに、時間を使っている。
そんな当たり前のことが、昔の私にはできなかった。
私は急がずにそばを食べた。
店は混んでいるし、実調の時間も決まっている。それでも、時計ばかりを気にして掻き込むほど急ぐ必要はなかった。目の前の器が空になるまでは、誰かのためではなく、自分が昼食を食べるための時間だった。
最後に残ったそばを啜り、つゆを少し飲んだ。甘辛い出汁の味が舌に残ったあと、レモンの酸味がかすかに鼻へ抜けた。
おいしかった。心の中でそう言ってみても、なにも起こらなかった。
祖母との日々が美しい思い出に変わることもなければ、母の死に納得できる理由が与えられることもない。故郷を嫌っていたいままでが間違いになることもなかった。
ただ、そばがおいしかった。それだけでよかった。
器から箸を離し、私は冷たいお茶を飲んだ。来たときにはいっぱいだったグラスの氷が半分ほど溶け、透明な水の中で小さく鳴った。
ひさしぶりに故郷へ帰ってきて最初にしたことが、ひとりでそばを食べることになるとは思わなかったが、それも悪くないと感じた。
「ありがとうございます、美味しかったです」
会計のとき、私はするりとそう口走っていた。高校生のときの私や、今よりもう少し若い私が、たとえ料理を美味しいと思っても、それを店員に伝えることはしなかった。
言う必要がないと思っていたのだ。代金を払い、食べたものに見合う金額を渡せば、それで客と店とのやり取りは終わる。わざわざ感想まで伝えるのは、少し気恥ずかしいことのようにも感じていた。
思えば私は、食事に限らず、嬉しいとか、楽しいとか、好きだとか、そういう感情を言葉にすることが昔から苦手だった。口に出してしまえば、それが本当に自分の気持ちなのだと認めなければならなくなる気がした。何かを嫌う理由ならいくらでも考えられるのに、好きになることには、なぜか理由や許可が必要だと思っていた。
それが今は、考えるより先に言葉が出た。
美味しかった。
ただそれだけのことを、私は誰に言い訳することもなく口にしていた。言ってから自分で驚いたが、取り消したいとは思わなかった。
「 ありがとうございます!」
男性店員は、こちらまでつられて笑いそうになるほど気持ちのいい笑顔を浮かべた。
白いシャツの袖を肘の少し上まで捲り、濃紺の前掛けを腰に巻いている。いかにも店員らしい格好なのに、最初に目についたのは服装ではなく身体つきだった。肩幅が広い。胸板にも厚みがあり、伝票を受け取るために伸ばされた前腕には、日常生活だけではつきそうにない筋肉が浮いている。昔から身体を鍛えている人なのだろう、と何気なく思った。
私は財布を開き、紙幣を二枚抜き取った。
「二千円、お預かりします」
男性が紙幣を受け取り、レジへ向き直った。その横顔を見たとき、海馬の奥底に沈み込んでいた記憶が急激に逆流してきた。
知っている。
そう思ったものの、すぐには正体が掴めない。鼻筋も、頬の輪郭も、記憶にある誰かよりずっと大人びていた。短く整えられた髪には見覚えがある。その風貌のすべてに昔の面影が残っている。
男性が釣り銭を取り出し、再び私のほうを向いた。その手が止まった。
今度は向こうが、私を見ていた。
目を細め、ほんの少し首を傾ける。その表情を見た瞬間、少年だった彼の顔が記憶の底から浮かび上がった。
「……大西?」
男性が、確かめるように私の名字を呼んだ。その声で、最後のピースの一枚が嵌まった。
——体育館。床を擦るバッシュの音。練習着の背中を汗で濡らしながらコートを走り、ゴール下で誰かと競り合っていた男子生徒。授業が終わると、教室の後ろからバスケットボールを抱えて出ていった姿を何度も見た。
「……西村君?」
私が名前を呼ぶと、彼の顔が一気に崩れた。
「やっぱり大西やんな!」
西村君は嬉しそうに笑った。そうだ。この笑い方だった。
高校生の頃から、彼はよく笑う人だった。バスケ部の仲間と廊下を歩いているときも、教室でくだらない話をしているときも、口を大きく開けて笑っていた。少年だった彼の肩や腕に厚い筋肉をつけ、顔つきにも相応の年齢を刻んでいたが、その笑顔だけはなにも変わっていなかった。
「店に入ってきたときから、なんとなくそうかなと思とってん。大西、ほんまに大西?」
西村君がまだ信じきれないように私の顔を見た。
「ほんまやって。西村君こそ、最初見たとき誰かとおもたわ」
そこまで言ってから、私は自分の声に引っかかった。
ほんまやって。
誰かとおもたわ。
関東で仕事をしているときなら、まず口にしない言い方だった。さっきまで、ずっと抜けなかったイントネーションについて考えていたくせに、西村君と何往復か言葉を交わしただけで、語尾まで昔のものに戻っている。
「あ」
思わず小さく声が漏れた。
「なに?」
西村君が不思議そうに眉を上げた。
「いや……なんでもない。自分でもびっくりしただけ」
「なにに?」
「喋り方。こんなすぐ戻るんやなとおもて」
まただ。今度は自覚したまま口から出たので、私は可笑しくなって笑った。
「そら戻るやろ。ずっとこっちで喋っとったんやから」
西村君も笑った。
「最近はだいぶ抑えとるつもりなんやけど」
「抑えとるだけで、なくなったわけちゃうんやろ。それにたぶん、大西がおもとるほど抑えられてないで、知らんけど」
「そうみたいやな」
答えながら、私は妙な感覚に包まれていた。
この町に戻ってから耳に入る関西弁は、どこか他人のもののように聞こえていた。聞き覚えはあるのに、自分はもうその輪の外側にいるのだと思っていた。それが、西村君を前にした途端、考える間もなく自分の口から出てきた。時間は、私から故郷の言葉を奪ってはいなかったらしい。
「それにしても、西村君、変わったなあ」
私はあらためて彼を見た。高校時代からバスケ部で背も高かったが、当時の細長い印象はもうない。前掛けの上からでも分かるほど肩と胸板に厚みがあり、レジへ置いた腕も随分逞しくなっている。それでも、目元に浮かぶ人懐こい笑みには、体育館から戻ってきて教室の後ろで友人たちと笑っていた頃の面影がそのまま残っていた。
「そらあれから何年も経っとるからな。大西かて変わっとるで」
西村君が私を見ながら言った。
「そう?」
「うん。でも、やっぱ大西やな」
昔の自分を知っている人にそう言われることを、ずっと怖がっていたはずだった。
なのに今は、不思議と嫌ではなかった。懐かしい、と素直に思った。自分の中に、そんな感情が湧き起こってきたことが意外だった。
故郷へ戻ってから、知っているものに出会うたび、私はまず身構えていた。道も、言葉も、景色も、昔の記憶へ私を引き戻すものだった。
目の前にいる西村君は、おなじ過去の中にいた人間なのに、なぜかそうは感じなかった。
彼もまた、私とおなじ、それからの十八年を生きてきたのだと思えたからかもしれない。
元々私と西村君は、ただのクラスメイトという関係だった。だから久方ぶりの再会だったとしても、それ以上なにも起こったりはしない。店も忙しいのだ。食べ終わって立ち上がった他の客が近づいてくる気配がして、私は「じゃあ……」と言葉を切った。
「サンキュー、大西、またな!」
私が再びこの店を訪れるかは分からない。きっと西村君もそれを分かっている。だからその『また』は、二度と来ないかもしれないのに、まるで教室で「また明日」と言うのとおなじ口調で、彼はそう言った。
実調は滞りなく終わった。荒木さんは私の説明もちゃんと理解して、「老いては子に従えと昔から言うんや。息子が言うならしゃあない。生まれてからずっとこの土地におるもんで、離れるゆうのは寂しいけどな」と、本音を漏らしていた。ただそれだけだった。
仕事をしているあいだ、ここが故郷であることを忘れていた。
目の前にいるのは八十九歳の女性で、私はその人をこれから受け入れる施設の職員だった。書類に記された既往歴や介護度だけでは、その人がどんな暮らしをしているのかまでは分からない。朝は何時ごろ起きるのか。食事にはどんな好みがあるのか。夜はよく眠れているのか。身の回りのことをどこまで自分でしたいのか。人と話すのが好きなのか、ひとりで過ごすほうが落ち着くのか。家族とはどんなふうに関わってきたのか。新しい場所へ移ることを、本人はどう受け止めているのか。
そうした、フェースシートの枠には収まりきらない部分まで知るために、私はここまで来たのだ。
荒木さんの話を聞きながら、必要なことを手帳へ書き留めた。ときには話が質問から逸れ、昔の出来事へ向かうこともあったが、それも無駄ではない。なにを話すときに表情が明るくなり、なにを嫌がり、どんなことを大切にして生きてきたのか。それを知っているのと知らないのとでは、入居してからの関わり方も変わってくる。
いまなにが出来て、なにに手助けが必要なのかを確かめるだけではない。その人が新しい場所でも、出来るだけそれまでの自分を失わずに暮らせるようにする。
祖母を介護していた私は、なにひとつ選べなかった。
いまは、介護を自分で仕事に選んでいる。
その事実について深く考えたことはなかった。福祉の仕事に就いたのも、最初からなにか崇高な志があったわけではない。求人を見て、自分にも出来そうだと思った。祖母の介護をしていた経験も役に立ったし、働き始めてみれば性に合っていた。それだけのことだった。
それでも、考えてみれば不思議だった。
あれほど嫌だったことを、私はいまも、自分の仕事にしている。ならば嫌だったのは、介護そのものではなかったのかもしれない。
逃げられないことが嫌だった。子供である私が担うのを当然とされることが嫌だった。いつ終わるのかも分からないまま、自分の時間を差し出し続けなければならないことが嫌だった。
いまの私は勤務時間が終われば帰る。休みの日には休む。ひとりで抱えられないことがあれば、同僚に頼る。利用者さんの生活を支える責任は負うが、その人の人生すべてを背負うわけではない。おなじ介護という言葉を使っても、あの頃とはまるで違っていた。
「大西さん、今日は遠いところありがとうねえ」
帰り際、荒木さんが私の手を握ってきた。
「こちらこそ、ありがとうございました。向こうにいらしたら、またお会いすると思います」
私が答えると、荒木さんは小さく笑った。
「ほんまに行くんやなあ」
その声には、やはり寂しさが滲み出ていた。
私は励ますようなことを言わなかった。
新しい土地もすぐ好きになりますよ、とも、息子さんの近くなら安心ですよ、とも言えなかった。生まれてから八十九年を過ごした場所を離れる人に、そんな簡単な言葉を渡したくなかった。
故郷を離れることを寂しいと思う人がいる。
それは私にも分かっている。
私がそうではなかったというだけだ。
施設を出ると、午後の日差しが駐車場を白く照らしていた。車の中はすっかり熱くなっていて、ドアを開けただけで溜まっていた熱気が押し出されてくる。エンジンをかけ、冷房を強くした。
あとは駅へ戻り、レンタカーを返して帰るだけだった。予定より早く実調が終わったため、少し時間が余っている。
スマートフォンで時刻を確認してから、私はすぐには車を出さなかった。朝なら、余った時間など迷わず帰路に充てていただろう。なのに今は、もう少しくらい、この町にいてもいいような気がしている。
私はふと思い立って、駅とは逆方向に車を走らせていた。介護老人保健施設を出て、二車線の道を走ると、母校である中学校が見えてくる。その手前の交差点を左に曲がり、校舎の横を通り過ぎる。
グラウンドでは、サッカー部が試合をしているのが見えた。ほんの一瞬の交差。ボールを追う少年たちを見ながら、私もここに通っていた時代があるのだと思った。
毎朝ここへ来て、何時間も過ごして、また翌日も同じ場所へ通っていた。その学校がいまでは、車なら数秒で通り過ぎてしまう。
校舎はまだそこにあり、グラウンドでは私の知らない子供たちが当たり前のように放課後を過ごしている。私がいなくなったあとも、ここにもずっと時間が流れていたのだ。
そのまま道を進んでいくと、やがて目当ての店が見えてきた。この町に古くから在る和菓子屋だ。平屋の小さな店で、道路に面したガラス戸の上には、昔から変わらない屋号の看板が掲げられている。店先には氷の文字が染め抜かれた旗が揺れ、その隣に、水まんじゅう、と書かれた涼しげな幟が立っていた。
駐車場に車を停め、店へ入る。昼過ぎの駐車場には、平日だというのにそこそこ車が駐まっている。夏のあいだは水まんじゅうをもとめる客が多いのだ。
冷房の効いた店内には、餡と砂糖の甘い匂いがかすかに漂っていた。棚には最中や羊羹、焼き菓子が整然と並び、その一角に置かれた冷蔵ケースの中だけが、夏の光を閉じ込めたようにきらきらしている。
私はその前で足を止めた。
透明な容器の中に、丸い水まんじゅうが並んでいた。透き通った生地の内側に餡の色がぼんやりと浮かび、水の底に沈めた石のようにも見える。この店独特の製法によって、白く濁ることがないのだという。
これを食べようと思って、ここまで来た。
そば屋を出た時点では、そのまま仕事を済ませて帰るつもりだった。それが実調を終え、車に乗った途端、ふいにこの店のことを思い出したのだ。
夏になると、この町では当たり前のように見かける菓子だった。特別なものだと思ったことはない。
だからこそ、暑い午後の記憶を辿った先に最初に浮かんだのが、この透明な菓子だったことが、自分でも可笑しかった。
「水まんじゅうを二個ずつください」
種類は漉し餡と抹茶餡、それに白桃と夏みかんがある。ショーケースに並んだそれらを眺めているだけで、舌が味を思い出していく。冷たくつるりとした生地が歯のあいだで切れ、餡や果物の甘みが口いっぱいに広がる感覚。白桃は、昔にはなかった気がする。どんな味なのだろうと思うと、どれかひとつだけを選ぶ気にはなれなかった。
「全部二個ずつですね」
「はい。あと、これから関東まで持って帰りたいんですけど」
店員は持ち歩く時間を尋ね、保冷剤を多めに入れてくれた。賞味期限は明日までだという。
八個。
ひとりで食べるには多い気もしたが、明日までなら食べられない数ではない。今夜帰ってからいくつか食べて、残りは冷蔵庫に入れておけばいい。明日の朝にひとつ食べてもいいし、仕事から帰ってきて、最後のひとつを食べるのもいい。
自然とそう考えている自分に気づいた。水まんじゅうを、この町で食べ切ろうとは思っていない。帰った先で食べようとしている。
店員の手で、透明な菓子がひとつずつ箱へ収められていく。蓋が閉じられ、保冷剤と一緒に紙袋へ入れられると、それはもうショーケースの中に並んでいた故郷の菓子ではなく、私が持って帰るものになった。
代金を払い、袋を受け取った。
店を出ると、身体に午後の熱気がまとわりついた。駐車場では蝉が鳴き、陽を浴びたアスファルトが白く照り返している。私は水まんじゅうの袋を助手席に置き、倒れないように鞄とのあいだへ挟んだ。
今夜、家に着いて冷蔵庫を開ければ、そこに故郷の味が並ぶ。明日には食べ終えてしまう。たったそれだけのあいだだ。それでも、この町に置いて帰るのではなく、自分がいま暮らしている場所まで連れて帰ることに、私は不思議な満足感を覚えていた。
故郷のものだからといって、故郷でしか食べてはいけないわけではない。
十八年前に置いてきたものを、なにもかも取り戻したいわけでもなかった。
私が自分で選んだ生活の中へ、ただ美味しいと思ったものくらいは持って帰っていい。
エンジンをかけると、助手席の紙袋が冷房の風にわずかに揺れた。私は今度こそ、駅へ向かって車を走らせた。
家に着いたのは、二十一時を少しまわった頃だった。玄関の扉を開けると、閉め切っていた部屋の空気が昼間の熱を抱えたまま残っていて、私は荷物を置くより先にエアコンの電源を入れた。朝に置いていったものは、朝のままそこにある。椅子の背には部屋着が掛かり、流しの脇には伏せたままのグラスがあった。その見慣れた景色の中を、故郷から持って帰ってきた紙袋だけが、新しい顔をしてついてきた。
以前なら、過去をひとつ思い出せば、その先まで引きずり出されていた。祖母のことを思えば介護をしていた日々が回顧され、母を思えばその死まで辿り着いて、最後には決まって、あの町から離れたかった十八歳の自分へ戻った。ひとつの記憶だけを取り出すことができず、どこから触れても全部がつながっていた。
いまも、つながっていないわけではない。
祖母のことも覚えている。母が死んだことも、あの町で息苦しさを感じていたことも、なにひとつ忘れてはいない。ただ、それらを思い出している自分が、いまこの部屋にいることも同時に分かっていた。
ここはあの家の台所ではない。目の前にいる祖母の食事が終わるのを待っているわけでもなく、母の帰宅する音を待っているわけでもない。
私は三十六歳になり、関東で働き、この部屋で暮らしている。学生ではなくなってからの十八年は、あの頃のことを消してはくれなかった。
それでよかったのだと思う。消えなくても、過ぎていくものはある。
記憶の中ではいくらでも鮮明に蘇るのに、もうそこで暮らしてはいない。あの家で冷めた味噌汁を飲んでいた私と、いまここで水まんじゅうを食べている私は、確かにつながっている。それでも、もうおなじ時間の中にはいなかった。
そのことが、今日、故郷へ帰ったことでようやく分かったのかもしれない。
私は故郷を好きになったわけではない。
今日一日で、嫌だったものが嫌ではなくなったわけでもなかった。祖母の介護を美しい思い出にするつもりもなければ、母の死を受け入れられたとも思わない。
ただ、そのすべてがあった場所で、私はそばを食べて、おいしいと思った。昔の私を知っている西村君に会って、懐かしいと思った。そしていま、その町から持ち帰った水まんじゅうを、私が十八年かけて作った生活の中で食べようとしている。
それで充分だった。
水まんじゅうを手で掴んで囓ると、こし餡が生地と一緒にほどけ、冷たさのあとから甘みが広がった。私はそれがなくなるまでゆっくり味わってから、麦茶をひと口飲んだ。
空になった皿を流しへ運び、冷蔵庫を開ける。残りの水まんじゅうが箱の中に並んでいた。
明日はどれから食べよう。そう考えながら、私は扉を閉めた。
故郷の味をおいしいと思えるまでに、ずいぶん時間がかかったな。
「大西さん、あなた、たしかこのあたり出身だったよね」
そう言って、上司の堀部さんが、一枚の用紙を差し出してきた。A4のコピー用紙の左上には『フェースシート』と記載されている。福祉の現場で活用される、利用者の情報がまとめられた書類だ。
『このあたり出身』と堀部さんが示したのは、そこに記載されている利用者の現住所だった。視線を落とした瞬間、見覚えのある……と表現するには生半可すぎる感覚が全身を突き抜けた。胸のあたりに石が落ちてきて、それを慌てて受け止めたかのような衝撃。ごくりと唾を飲み込んで、心臓が早鐘を打っているのを悟られないように努めた。
「荒木美枝子様。八十九歳……」
私は、住所の上に書かれている、利用者の名前を読んだ。声に出すつもりはなかったが、結果的に読み上げていることに、あとになって気付いた。
「そう。ほら、キーパーソンの息子さんがこっちにいるから、本人を近くに呼び寄せるつもりなんじゃない」
堀部さんは、なんてことないふうに笑った。マグカップに入れていたコーヒーを飲み干して、再びパソコンに向かう。彼女がキーボードを叩く音が、しばらくのあいだ部屋の中に響いた。
堀部さんは、私が勤める有料老人ホーム『楓の杜』で、責任者の仕事をしている。現場に出て利用者さんの介助をすることもあるが、どちらかというと運営側——端的にいえば、営業や家族対応、デスクワークなどを担うほうが多い。私も彼女とおなじ立場だが、社歴も年齢も堀部さんのほうが上のため、彼女を上司のように見ている。
「実調、行かなきゃいけないんだけど、大西さんに頼もうと思ってるの。ほら、ここからだと遠方だし、土地勘のない人に行ってもらうより、大西さんだったら安心でしょ」
実調というのは、実態調査の略称で、これからホームで受け入れようとするお年寄りが住んでいるところに直接出向いて、現在の本人の状況を実際に把握することだ。
これまでに受け入れた利用者も、施設長と私や堀部さんで分担して実調に行っているが、県を跨ぐどころか、片道六百キロも離れた地まで赴くのは初の試みだ。
遠方に住むお年寄りの受け入れは、提出された書類のみで可否を決めることもあるのに、今回は現地に私を寄越そうとしているのは、私が入社以来、一度も故郷に帰っていないということを堀部さんなりに気遣っているからかもしれない。
世間では、生まれ育った土地というだけで、そこには懐かしさや安らぎがあるものと思われている。そこから離れて暮らしていれば、なおさらだ。久しぶりに帰れば変わらない景色に胸をなで下ろし、昔なじみの味を口にすれば、忘れていた自分を取り戻せる。故郷とは、そういう温かい場所であるらしい。
けれど、誰にとってもそうとは限らない。離れて初めて、まともに息ができる土地もある。二度と目にしたくない景色も、聞きたくない言葉も、思い出すだけで身体が当時に引き戻される場所もある。生まれ育ったという事実だけで、そこを好きになる義務などない。
少なくとも、私にとって故郷は、帰る場所ではない。土地勘があることと、そこへ帰りたいことは、まるで別の話だった。
しかし、帰りたくないから実調に行くのも断る……というのも色々と詮索されそうで、どちらにしても気が進まなかった。なるべく波風を立てずに生きていきたい。生まれ育った町を厭うのにどんな理由があるのかと、これからずっと好奇心を持たれて仕事をしていかなければならなくなるより、いっときの我慢でその後の平穏を手に入れられるなら、私は間違いなく後者を選ぶ。べつに里帰りをしたところで死ぬわけでもない。さっさと仕事を終わらせて、なんなら日帰りでこちらに帰ればいいのだ。
「わかりました。……私が行きます」
「じゃあ、決まりね」
堀部さんは私の返事を最後まで聞かないうちに、パソコンの画面を切り替えた。予定表を開き、空いている日の欄を順番に確認していく。
「先方の都合を聞いてみる。午前中は移動で潰れるだろうから、十四時くらいが無難かな」
受話器を肩と頬のあいだに挟みながら、堀部さんはフェースシートに記載された番号を押した。荒木さんが現在入所している介護老人保健施設だ。
呼び出し音が鳴っているあいだにも、もう片方の手は止まらず、経路検索の画面に出発地と到着地を入力している。
「お世話になっております。有料老人ホーム楓の杜の堀部と申します。荒木美枝子様のご入居にあたり、実態調査の日程についてご相談したくお電話いたしました」
電話口へ向けた声だけが、普段より一段柔らかくなる。先方の返答を聞きながら、堀部さんは卓上カレンダーの一日を赤いペンで囲んだ。
「はい。では、来週の水曜日、十四時に職員一名がお伺いいたします。担当は大西です」
「当日は、ご本人様の普段のご様子が分かる方にも同席をお願いできますでしょうか。はい、よろしくお願いいたします」
受話器を置くと、今度は総務宛てのメールを開いた。
「朝一番の新幹線なら、昼すぎには向こうへ着けそう。駅から先は車がないと厳しいみたいだから、レンタカーも押さえておくね」
堀部さんはそう言って、出張申請書のひな型を呼び出した。目的欄に「入居前実態調査」、交通手段の欄に「鉄道・レンタカー」と打ち込み、私の名前を選択する。
「帰りは何時でもいい?」
「できれば、その日のうちに戻りたいです」
私が答えると、堀部さんは「了解」と短く言い、帰路の候補をいくつか並べた。実調が多少長引いても間に合う便を選び、予約画面を進めていく。迷う時間はほとんどなかった。
「乗車券は会社で手配するから、当日はこれを持っていって。レンタカー代と高速代は立て替えで、領収書を忘れないようにね」
印刷機が動き出し、旅程表と地図が順番に吐き出されてきた。堀部さんはそれらを揃え、端を机の上で二度叩いてから、透明なファイルに差し込んだ。私には旅程表も地図も必要ないし、レンタカーで目的地に行くには高速を使わないことも知っている。
「あと、荒木さんの医療情報は先方から追加で送ってもらうことになってる。届いたら印刷して一緒に入れておくから」
ファイルが私の前に置かれた。
「大西さん、土地勘あるなら助かるわ。向こうでお昼くらい食べる時間は取れると思うから、無理しないでね」
堀部さんはそう言って笑うと、すでに次の仕事へ取りかかっていた。
机の上に残された旅程表には、出発時刻から帰着予定まで、一日の動きが隙間なく記されていた。
堀部さんは、移動で午前中が潰れると言っていたが、午前六時過ぎに発車する電車に乗れば、向こうに到着するのは十一時くらいだ。向こうの駅から目的地の介護老人保健施設までは車で十五分……余裕を持って三十分もあれば着くだろう。
知識はあればあるほど便利だ。こうして、紙に書いていない細部の情報まで頭に浮かんでくる。
駅からの道程。その町並み。通りに並んでいる信号が変わるまでの時間の長さ。道路の陽当たりや空気の匂い。そのなにもかもが、住んでいた当時のままの景色で、頭の中に流れ込んできた。
駅の周辺を抜けてしばらく行くと、道沿いの店や住宅は次第にまばらになっていく。視界を遮る建物が減り、その向こうに田畑とため池が現れる。平らな土地を細い水路が縫い、夏には伸びた稲の葉が風に押されて、同じ方向へいっせいに傾いた。
私の実家がある場所は、駅から歩いて帰れるような場所ではない。学校には自転車で通っていたし、途中に駅も線路もないから、当時は鉄道とは無縁だった。
池の土手に沿って延びる道も、田畑のあいだを抜ける細い道も、私は覚えている。その道の先にある家へ、私は毎日帰っていた。
学校から戻ると、まず祖母のいる部屋を確かめた。昼の薬をきちんと飲んだかを確認する。汚れた衣類があれば洗濯機へ運び、台所に立って夕食の支度をする。祖母が食べ終えるまでそばを離れられず、ようやく自分の食事に手をつけるころには、味噌汁の表面から湯気が消えていた。
夜になれば、寝床へ連れていった。それで一日が終わるとは限らなかった。深夜に物音がすれば目を覚まし、祖母が廊下へ出ていないかを確かめた。何度布団へ戻しても、しばらくするとまた襖の開く音がした。
翌朝には何事もなかったように制服を着て、学校へ向かった。
あの道を通って家へ戻ることは、私にとって帰宅ではなかった。授業を終えたあと、もうひとつの仕事場へ向かうことだった。給料もなく、休みもなく、辞めたいと言うことさえ許されない仕事場へ。
六時間目が終わると、私は誰よりも早く教科書を鞄へ詰め込んだ。
「恵美、今日も寄っていかないの?」
友人が、机のそばまでやってきて尋ねた。私の家から逆方向にある学校の最寄り駅の近くにはショッピングモールがあって、彼女らはそこで放課後のひとときを過ごすのが日課になっているのだ。
「ごめん。今日はちょっと用事があるから」
私は鞄を肩へ掛けながら答えた。今日は、ではなかった。昨日も、一昨日も、その前の日も同じだった。
家で祖母の世話をしなければならないとは言えなかった。
それを口にした瞬間、私と友人たちのあいだに、取り返しのつかない線が引かれるような気がしていた。放課後になにを食べるかで笑っている彼女たちと、祖母が便を漏らしていないかを心配している私。その違いを知られたくなかった。
駐輪場から自転車を出し、校門を抜けた。
帰り道の前半には、まだ店や住宅があった。信号で止まれば、同じ制服を着た生徒たちが隣に並ぶ。自転車の籠に鞄を放り込み、どこに遊びに行こうか相談をしながらゆっくり走る彼らを、私は次々と追い越した。
急いで帰りたいわけではなかった。しかし、帰らなければならなかった。
祖母が一人で外へ出ているかもしれない。薬を飲み忘れているかもしれない。台所で火を使っているかもしれない。そう考えるだけで、足は勝手にペダルを強く踏み込んだ。
進むにつれて、道沿いの建物は少なくなっていった。視界の両側に田畑が広がり、ため池の水面が西日の色を映していた。向かい風の強い日は、平らな道なのに坂を上っているようだった。汗で制服の背中が張りついても、立ち止まって休む気にはなれなかった。
玄関を開けると、家の中の匂いを確かめた。
焦げた匂いはしないか。排泄物の臭いが漂っていないか。祖母が転んだまま動けずにいる気配はないか。無事に椅子へ座っている姿を見つけたときも、安心できるのは一瞬だけだった。
「おかえり。遅かったなあ」
祖母は、テレビから目を離さないまま言った。
遅くはないだろうと言いたかった。授業が終わると同時に学校を出て、寄り道もせずに帰ってきたのだ。それでも私は言い返さなかった。
「ただいま。薬、飲んだ?」
私は鞄を床へ置きながら尋ねた。
「そんなもん、知らん」
祖母は不機嫌そうに答えた。
テーブルの上には、朝に用意しておいた薬が残っていた。もう薬は飲めないが、水分補給をしてもらわないと困る。
私は水を汲み、祖母が飲み終わるまで隣に立った。それから洗濯物を取り込み、浴槽を洗い、夕食の支度を始める。
祖母の食事は、食べやすい大きさに切らなければならなかった。硬いものを出せば噛めないと言われ、薄味にすれば味がしないと怒られた。昨日はすんなり食べたものを、翌日は嫌いだと言って箸を投げることもあった。
「こんなもん、食べられへん」
そんなとき、祖母はそう言って、煮物の入った小鉢を押し返す。私は落ちた箸を拾い、新しいものと取り替えた。腹が立っても、顔には出さないようにした。怒らせれば食事に時間がかかり、そのぶん自分のことをする時刻が遅くなると覚えたからだ。
祖母が食事を終えるまで隣に座り、口へ運ぶ量を見ていた。途中で立ち上がろうとすれば椅子へ戻し、喉を詰まらせれば背中をさすった。
食器を片づけ、汚れた衣類を着替えさせ、祖母を寝床へ連れていったあとで、ようやく自分の夕食を茶碗によそった。
味噌汁は冷めていた。温め直すことはできた。けれど、加熱の音で祖母が起きるかもしれないと思うと、それすら面倒だった。私は台所に立ったまま、冷えた味噌汁を飲んだ。
友人たちは今ごろ、家族と一緒に温かい夕食を食べているのだろうか。そう考えたのは、ほんの一瞬だった。
奥の部屋から、襖の開く音がした。碗を置き、廊下へ向かった。祖母は寝床を抜け出し、暗い廊下の真ん中に立っていた。
「家に帰らなあかん」
祖母は、怯えた顔で私を見た。
「ここが家やんか。な、おばあちゃんもう寝よう」
私は祖母の手をとりながら答えた。
「違う。私はおばあちゃんやない。あんた、誰や」
祖母は私の手を振り払った。爪が手の甲を掠めた。痛がっている暇はなかった。祖母が玄関へ向かう前に抱き留め、もう一度寝床へ連れていかなければならなかった。
宿題を始められたのは、日付が変わる少し前だった。机に問題集を開いても、文字は頭に入ってこなかった。瞬きをするたび、そのまま眠りに落ちそうになった。それでも翌朝には提出しなければならない。宿題が出来ない理由で、祖母を言い訳にするつもりはなかったし、そもそも、家庭の事情とやらを誰かに話そうとも思わなかった。
私が祖母の世話をしていることは、近所の大人たちも知っていた。買い物袋を自転車の籠へ入れているところを見られれば、偉いと言われた。祖母を病院へ連れていけば、孝行な孫だと褒められた。
でも、誰も、代わろうとは言わなかった。誰も、学校へ通う子供が担うには重すぎるとは言わなかった。
褒められるたびに、私がしていることは正しいのだと決めつけられた。つらいと言えば、良い孫ではなくなる。逃げたいと言えば、祖母を見捨てる冷たい人間になる。
だから私は、何も言わなかった。朝になれば制服を着て、自転車に乗った。学校では眠気を隠し、友人たちと同じように笑った。放課後になれば、再び長い道を走って家へ戻った。
誰にも知られないまま、毎日、子供から介護者へ戻った。
シングルマザーだった母は、私たちを養うために、運送業者の配達員として、朝から晩までずっと働いていた。母はそんな自分の人生に、恨み言ひとつ言わなかった。だから私も、なにも言えなかった。一日くらい友達と遊びたくても、テストの点数が下がっても、祖母に投げられた携帯電話の画面が割れても、ぐっと感情を押し込んだ。
毎朝、私が目を覚ますころには、母はもう家を出ていた。夜になって帰ってくると、私が残しておいた夕食をかき込むように食べた。ひどい日には、ダイニングの椅子に座ったまま眠っていることもあった。
母が怠けていたわけではない。祖母を私に押しつけて、自分だけ楽をしていたわけでもない。食費も光熱費も、私の学費も、祖母の通院費も、すべて母がひとりで稼いでいた。母が働かなければ、私たちは生きていけなかった。
だから、助けてほしいとは言えなかった。母が疲れていることを、私は知っていた。靴下を脱いだ足が浮腫んでいた。手首にはいつも湿布を巻いている。そんな母に、祖母の介護までしてほしいとは言えなかった。
「今日、おばあちゃんどうやった?」
夜遅くに帰宅した母は、弁当箱を流しへ置きながら尋ねた。
「いつもと一緒」
私は教科書から顔を上げずに答えた。
本当は、夕方に祖母が玄関から外へ出ようとした。風呂へ入れるときには腕を叩かれた。夕食をほとんど食べず、薬も吐き出した。それでも、そんなことをひとつずつ話せば、母は眠る時間を削って祖母のそばにいるだろうと思った。
「そっか。ありがとうな」
母は疲れ切った顔に笑みを浮かべた。
その言葉を聞くたび、私はなにも言えなくなった。母にとっての「ありがとう」は、私を労うための言葉だったのだろうが、私には、明日も頼むと言われているように聞こえた。母が頭を下げるほど、私は祖母の世話を放り出せなくなった。
誰かひとりが悪かったわけではない。
母は家族を養うために働き、私は母の代わりに祖母を見た。そうしなければ暮らしが成り立たなかった。家族の中に生じた穴へ、いちばん小さく、いちばん断りにくい人間が嵌め込まれただけだったのだ。
当時はまだ、『ヤングケアラー』という言葉は一般に知られていなかった。名前のないものは、問題として見つけてもらえない。祖母の世話をするのは家族として当たり前で、働きづめの母を助けるのも娘として当たり前なのだと、私自身がそう思っていた。誰かにおかしいと言われたこともなければ、助けを求めるための言葉も持っていなかった。だからあの日々は、つらいかどうかを考えるより先に、毎朝目を覚ませばそこにある、ただの暮らしだったのだ。
新幹線に乗るのは、いつぶりだろうか。関西から関東に移って、私はほとんど遠出をしなかった。仕事に忙殺されていたわけではない。旅行に行くにしても、そんな『きっかけ』がなかったからだ。
東京駅で在来線から新幹線に乗り換える。華やかな店舗が並び、昼夜問わず人々でごった返すコンコースも、もう歩き慣れた。上京したばかりの頃は、目的地の路線に乗るまでに何十分も駅の中を彷徨っていたのが懐かしい。案内板を見上げては立ち止まり、人の流れを邪魔して舌打ちをされ、余計に焦って自分がどちらから来たのかさえ分からなくなった。
いまでは、頭上の表示を逐一確かめなくても、新幹線の改札まで迷わず歩ける。覚えようと努力したわけではない。何度も行き来するうちに、いつの間にか身体が道順を覚えていた。
故郷の道と同じだった。
忘れようとしても忘れられない場所がある一方で、覚えようとしなくても身についていく場所もある。東京駅の雑踏を難なく通り抜けられるようになったことは、こちらで過ごした年月が、故郷で暮らした年月に負けないほど長くなった証拠のように思えた。
新幹線の改札へ向かう途中、駅弁を並べた店の前で足が止まった。まだ朝の早い時間だというのに、店頭には色とりどりの弁当が隙間なく並び、出張へ向かうらしいスーツ姿の人たちが、商品を手に取っては裏返し、熱心に中身を確かめている。
その中に、見覚えのある弁当があった。
茶褐色の蛸壺を模した陶器の容器に、蛸や穴子、煮物を盛りつけたものだ。これから私が向かう地域の名物として知られており、遠く離れた東京でも売られているのだ。
存在は昔から知っていたが、食べたことはなかった。それでも、その弁当は私の故郷の味として紹介されていた。
故郷の味という言葉には、そこに生まれ育った者なら、誰もがおなじものを懐かしく思うはずだという響きがあるが、私にはそういうものを囲んで家族と笑った記憶など、どこを探しても出てこない。
値札を見ると、買えない金額ではなかった。いまの私は、自分で働いて得たお金で、自分が食べたいものを選べる。出発までの時間にも余裕があり、買おうと思えばすぐに買うことができた。
それなのに、私は手を伸ばさなかった。陶器の容器は食べ終えたあとも荷物になる。向こうで昼食を取る時間もあるだろう。そういくつも理由を並べているうちに、後ろから来た人が私の横を通り、迷うことなくおなじ弁当を手に取った。
その人にとっては、これから始まる旅を楽しむための食事なのだろう。懐かしい味かもしれないし、初めて食べる名物なのかもしれない。あるいは単に、壺が欲しいのかもしれない。理由がどうであっても、そこに特別な覚悟は要らない。食べ物をひとつ選ぶだけのことに、これほど考え込んでいる自分がおかしくなった。
私は弁当から目を離し、新幹線の改札へ向かった。嫌いだから買わなかったわけではない。好きなのか嫌いなのかを決められるほど、私はその味を知らなかった。
新幹線のホームには、まだ朝の早い時間だというのに、出張らしいスーツ姿の人や、大きな荷物を引いた旅行客が列を作っている。これから遠くへ行くという高揚があるのか、眠そうな顔をしていても、どこか楽しげに見えた。
私だけが、これから向かう場所から逃げ帰るための時刻を、すでに気にしていた。
指定された車両に乗り込み、窓側の席へ腰を下ろす。鞄から旅程表を取り出すと、堀部さんが隙間なく組んだ予定が、改めて目に入った。到着、レンタカーの受け取り、実調、返却、帰りの列車。そのどこにも、故郷を懐かしむための時間など設けられていない。
それでよかった。私は観光に行くのではない。荒木さんの状態を確認し、必要な情報を持ち帰る。ただそれだけの出張だ。
やがて扉が閉まり、車体がゆっくりと動き始めた。ホームに並ぶ人々の姿が後方へ流れ、屋根の下から朝の光へ抜けていく。
東京の建物が遠ざかっていくのを見ながら、私はようやく、自分が本当に故郷へ向かっているのだと実感した。
高層ビルの隙間に見えていた空は、ひどく狭かった。線路沿いの建物が次々と視界を横切り、屋上に設置された貯水槽や、洗濯物の干されたベランダが一瞬だけ現れては消えていく。こちらで暮らし始めた頃には、どこまでも続いているように思えた街も、新幹線の速さにかかれば、ほんの短い時間で遠ざかっていった。
車内には、朝食を摂る人の気配があった。包装を開く音がして、どこからか珈琲の匂いが漂ってくる。通路を挟んだ向かいの席では、スーツ姿の男性がおにぎりを頬張っている。誰もがそれぞれの目的地へ向かいながら、移動に必要な時間を、ごく普通の朝の一部として過ごしている。
都会を離れるにつれて、空が広くなる。建物のあいだに土の色が増え、水を張った田が光を反射する。故郷へ近づいているから似ているのではない。日本のどこにでもある景色なのだろう。それでも、ため池の水面や平らな土地を目にするたび、記憶の中にある風景が勝手に重なった。
まだ、ずっと遠い。何度も自分にそう言い聞かせた。
いま窓の外に見えている道を、私は自転車で走ったことはない。あの田畑の先に実家はない。あの家の中で、祖母が私を待っているわけでもない。
分かっているのに、車体が西へ進むほど、身体の一部だけが時間を遡っていくようだった。
高校を卒業し、故郷を離れた日も、新幹線に乗った。あのときは、列車が故郷から離れるほど、身体が軽くなったが、今日は、その逆だった。
おなじような座席に座り、おなじように窓の外を眺めているのに、列車はかつて逃げ出した場所へ私を運んでいる。
いまの私は、制服を着て自転車を漕いでいた高校生ではない。やりたくもない介護を押しつけられる家族でもない。自分の職場に受け入れる人の状態を確認するため、仕事としてあの土地へ向かっているのだ。
新大阪駅で、再び在来線に乗り換える。聞こえてくる話し声の抑揚が、記憶の中のものとおなじになる。あれだけ染みついていたはずのそれが、妙によそよそしく聞こえる。会話の内容など聞いていないのに、語尾だけが耳にはっきりと残った。
到着した新快速に乗り込むと、車内には朝の通勤時間を過ぎたあとの静けさがあった。空いている席へ腰を下ろし、鞄を膝の上に置く。新幹線では遠くへ流れていた景色が、今度は窓のすぐそばを通り過ぎていった。
大きな駅を過ぎるたび、乗客が少しずつ入れ替わった。買い物袋を足元へ置いた女性や、病院の診察券らしいものを手にした老人が乗ってくる。彼らにとっては、どこかへ帰る途中か、いつもの用事へ向かうための電車なのだろう。私だけが、ひとつ駅を過ぎるごとに、過去との距離を測っていた。
途中で普通列車へ乗り換えた。速度が落ち、停車する駅の間隔が短くなる。扉が開くたびに、夏の熱気が冷房の効いた車内へ入り込み、すぐに閉じ込められた。車内放送から流れる駅名は、すべて知っている。最近口に出したことも、長いあいだ目にしたこともない。それでも耳は迷わず聞き分けた。
目的の駅が近づくと、私は旅程表を鞄へ戻した。
降りる準備をするだけのことなのに、立ち上がるまでに少し時間がかかった。列車が止まり、扉が開いても、前に立つ乗客が歩き出すまで足が動かなかった。
ホームへ降りた瞬間、知っている匂いがしたような気がして、すぐに否定した。改札を出て、予約していたレンタカーの営業所へ向かった。手続きを済ませ、鍵を受け取って運転席へ乗り込む。車内には、陽に温められた座席と芳香剤の匂いが籠もっていた。
目的地の住所をカーナビへ入力する。案内を開始する必要などなかった。駅前を出て、どの道を進み、どこで曲がればいいのか、画面に経路が表示されるより先に頭へ浮かんでいた。
それでも私は、音声案内の開始ボタンを押した。
自分の記憶を頼りに帰ってきたのではない。道が変わっているかもしれないし、そうなればもはやここは知らない場所だ。知らない場所を、機械に教えられながら走るのだ。
そういうことにしておきたかった。
生まれてから高校を卒業するまでに費やした時間とおなじくらいの期間を、私は関東で過ごした。
十八年という年月は、短くはない。関東に来たばかりの頃には聞き慣れなかった言葉も、いまでは耳に引っかからなくなった。こちらで働き始め、仕事を覚え、何度か職場を変えた。故郷を離れたばかりの私は、いつか自分があの土地の人間ではなくなる日が来るのだと思っていた。長く暮らした場所の記憶も、別の土地で生きていれば少しずつ薄まり、やがて他人の町を思い出すような距離まで遠ざかるのだと信じていた。
実際には、時間が記憶を消してくれたわけではない。
風の匂いも、道の曲がり方も、夕方になると西日が正面から差し込む場所も、いまも覚えている。祖母の声も、襖の開く音も、冷めた味噌汁を飲んだ台所の暗さも、なくなってはいない。
でも、故郷で過ごした時間だけが私の人生ではなくなった。高校生だった頃の記憶に引き戻されそうになっても、そのあとに積み重ねた年月まで消えるわけではない。
車を走らせる道路は、結局記憶の中のものとほとんど変わっていなかった。道路沿いの店の看板が変わっていたり、当時は病院だった場所にローカルチェーンのスーパーが出来ていたり、新たに道路工事が始まっていたりしたが、そのどれもが記憶を少しだけアップデートさせるにとどまっていた。
カーナビが次の交差点を左折するよう告げるより先に、私は左の方向指示器を出していた。画面に残された距離が減るにつれて、知らない場所を走っているという言い訳も、使えなくなっていった。
道路はしばらく直進せよと、ナビも示している。そういえばこの先に、うどんとそばの店があったはずだ。『ころうどん』や『ころそば』というメニューが名物で、おなじ敷地内に、うどん屋とそば屋がそれぞれ別の建物で構えられている。風情ある古民家風の建物には、半世紀以上続く老舗の風格が漂っている。
町の名前を冠するその店には、私も何度か行ったことがあるが、連れ立った人の意見がうどんとそばにそれぞれ分かれたらどうするのだろうと、当時から思っていた。
おなじ敷地内にあるとはいえ、店内はつながっていない。うどんを食べたい人とそばを食べたい人が一緒に来れば、どちらかが譲るしかないのだろうと思っていた。そんな余計な心配をしながらも、私自身はいつも祖母が選んだうどん屋へ入った。祖母はそばよりうどんを好み、母も、祖母が食べやすいほうにすればいいと言った。私がどちらを食べたいか、尋ねられた記憶はないが、実は私はそば派なのだ。それは祖母が好むものとおなじものを好物にしたくないという反発が生みだした嗜好だったのかは定かではない。
今日はひとりだった。誰かと意見を合わせる必要も、食べたいものを譲る必要もない。うどんとそばのどちらを選ぶかは、私ひとりで決められる。
実調まではまだ時間がある。朝からなにも食べておらず、空腹を自覚した途端、胃のあたりが遅れて訴えはじめた。
そばを食べていこうと思った。
駐車場にはすでに何台もの車が停まっていた。平日ならまだ空いているだろうと思っていたが、繁盛しているらしい。
そば屋の入口まで歩き、格子戸を開けた。屋外の明るさに慣れていた目には、店内が一瞬暗く見えた。古い梁を残した天井は高く、磨かれた木の床に、窓から差し込む光が細長く落ちている。外観は記憶にあるものと大きく変わっていなかったが、年月を経て黒みを増した柱や、使い込まれた建具には、私が知らない十八年も積み重なっていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」
店員が帳場の奥から出てきて尋ねてきたので、私は短く、「はい」と答えた。
案内されたのは、囲炉裏を囲んだテーブルだった。おもにひとりかふたりの客が案内される場所なのだろう。すでに先客がいて、相席のようになった。差し出された冷たいお茶をひと口飲むと、長い移動で乾いていた喉がようやく潤った。
卓上の品書きを開いた。そばだけでも種類が多く、温かいものと冷たいもの、天ぷらや丼の付いた定食が並んでいる。目当ての品はすぐに見つかった。写真には、そばの上に卵黄や刻み海苔が盛られ、器の中心に天ぷらが添えられている。櫛形に切ったレモンの上には、ひとつまみのわさびが乗っている。
「お決まりですか」と近づいてきた店員に、冷たい『天ころそば』を注文した。
注文を終えると、私はさりげなく店内を見渡した。食器の触れ合う音と、周囲の控えめな話し声が聞こえる。こうしているあいだにも、客は絶えない。入口の傍には待ちが出来ていて、いずれも近隣から来た人達にみえた。
関西弁のイントネーションが懐かしい。関東に住んでいると、私の喋り方は目立つらしく、すぐに出身地を見抜かれることが常だった。
使っている言葉自体は、関東の人たちとそれほど変わらないつもりでいる。それでも、単語のどこを高くし、どこで音を落とすかまでは、意識して変えられなかった。いまだに職場で初対面の家族と話していても、ひと通りの挨拶を終えるころには、「ご出身は西のほうですか」と尋ねられる。こちらが答える前から、相手はすでに確信しているような顔をしていた。
関東で暮らし始めた頃は、話すたびに出身地を言い当てられることが、故郷から名札をぶら下げたまま歩いているようで落ち着かなかった。土地を離れれば、それまでの自分も少しずつ薄まっていくと思っていたのに、言葉だけは身体の奥へ染みついたまま残った。
だからといって、無理に直そうとしたことはない。語尾を合わせ、知らずに使っていた方言を標準語へ置き換えるうち、言葉遣いは自然と変わった。仕事では相手に聞き取りやすい速さで話し、強く響きそうな表現は避けるようになった。それでも、気が緩んだときや、思いがけないことに驚いたときには、かつての抑揚がそのまま口から出た。
こちらでは目立っていた私の声が、この店では周囲の話し声に紛れていた。
隣の席から聞こえる笑い声も、店員が注文を繰り返す声も、入口で待つ客同士の会話も、どこで音が上がり、どこで落ちるのかを考えなくても分かる。聞き慣れていたはずの調子が、十八年ぶんの距離を隔てて耳へ届いている。
懐かしいと思う一方で、その中へ戻ったような気はしなかった。
関東では故郷の人間だと見抜かれ、この土地では、長く離れていた人間として周囲の声を聞いている。どちらにいても、完全にその場所へ溶け込んでいるとは言い切れない。
それでも、自分の声をどちらか一方へ決める必要はないのだろう。
ここで身についた抑揚も、関東で覚えた言葉遣いも、どちらもいまの私が話す声なのだから。
注文を受けた店員が伝票を厨房へ運ぶと、暖簾の向こうで短い返事が聞こえた。
料理を待っているあいだ、私は卓上に置かれた蕎麦の作り方の説明書と、厨房の様子を交互に眺めていた。
朝のうちに石臼で挽かれたらしいそば粉は、気温や湿度に合わせて加える水の量を調整され、すでに生地へと仕上げられている。粉のひと粒ひと粒へ均等に水を含ませるよう、指先で細かな塊を作り、それらを寄せ集めてひとつにまとめているそうだ。厨房にいる職人は、手のひらで押し、折り返し、内部に残った空気を抜きながら、表面にひびのない円い生地へ整えていく。
打ち粉を広げた台の上で生地を押し潰し、麺棒に巻きつけながら薄く延ばす。向きを変えるたびに厚みを確かめ、四角く整えた生地を幾重にも畳む。そば包丁が一定の間隔でまな板を叩き、細く切り揃えられた麺が、打ち粉をまとったまま一人前ずつ分けられていた。
注文が入ると、大きな釜の湯が勢いよく沸く中へ、一人前のそばがほぐしながら落とされる。沈んだ麺はすぐに浮き上がり、湯の対流に乗って釜の中を回り始めた。箸で何度も掻き回すことはせず、麺同士が固まらない程度に動きを整え、茹で上がる瞬間を見計らっている。
その隣では、天ぷらの支度が進められていた。海老と野菜へ薄く衣をまとわせ、高温の油へ順に滑らせる。油の表面が激しく泡立ち、衣の中から水分が抜けていくにつれて、はじめは重かった音が次第に軽くなる。職人は箸先から伝わる感触を確かめ、衣が淡いきつね色へ変わったところで油から引き上げた。揚げ網の上へ置かれた天ぷらから、余分な油が細い筋となって落ちていく。
茹で上がったそばは、網ですくって冷水へ移される。表面に残ったぬめりを落とすよう、両手で優しく揉み洗いし、さらに冷たい水へくぐらせて麺を締める。最後に網を大きく振り、水気を充分に切った。
深さのある器へそばを移し、麺が一か所へ固まらないよう、箸でふんわりと広げる。そこへ、寝かせて味を馴染ませた返しと出汁を合わせたつゆを注ぐ。量はそば全体が沈むほどではなく、箸で混ぜたときに一本一本へ絡む程度だった。
器の中央には天ぷらをのせてその周囲へ刻み海苔と白胡麻を散らす。卵黄を慎重に乗せたあと、櫛形に切ったレモンと、ひとつまみのわさびを添える。黒っぽい麺、黄金色の天ぷら、濃い黄色の卵黄が、器の中で互いを引き立てていた。
店員が器の向きを確かめて盆へ載せる。厨房から出てきた途端、揚げ油の香ばしさと、海苔や胡麻の匂いが店内の空気に混じった。
その香りが、料理より先に私の席まで届いた。
「お待たせいたしました。天ころそばです」
私は早速割り箸を割り、まずは卵黄を崩さないよう、端のほうからそばをひと口ぶん持ち上げた。黒っぽい麺にはつゆが薄くまとわりつき、刻み海苔と白胡麻がところどころに絡んでいる。
口へ運ぶと、冷たく締められたそばが、歯を押し返すような弾力を残して切れた。噛むほどにそばの香りが広がり、そのあとを追って、出汁のきいた甘辛い味が舌に残る。
箸が止まった。
この味を、私は知っている。
ころそばを食べたのは初めてだった。それでも、口の中に残ったつゆの甘みと、出汁の香りには覚えがあった。ここへ来るたびに入っていた、隣のうどん屋。冷たいうどんに絡んでいたあの味と、おなじだった。
十八年も経っているのに、驚くほど変わっていない。
記憶というものは、もっと曖昧なものだと思っていた。長い時間の中で少しずつ形を変え、実際より甘くなったり、苦くなったりして、最後には自分が作り直したものと本当にあったこととの区別もつかなくなる。
それなのに、舌は迷わなかった。
もうひと口食べる。やはり、おなじだった。
出汁が前に出すぎず、醤油の辛さも強すぎない。その奥にわずかな甘みがあり、冷たい麺と一緒になると、口の中へすっと馴染んでいく。昔食べたうどんとは麺の香りも歯触りもまるで違うのに、その土台にある味だけは、記憶の中からそのまま取り出してきたようだった。
今度は卵黄へ箸を入れた。薄い膜が破れ、濃い黄色がそばの上へゆっくりと流れる。つゆと馴染ませて口へ運ぶと、卵黄のまろやかさが加わり、先ほどより味の角が取れた。白胡麻の香ばしさと海苔の匂いも混じる。
天ぷらにも箸を伸ばした。衣に歯を立てると、小さな音を立てて砕け、中からまだ熱が残っていた。冷たいそばを食べたあとだから、その温度が余計にはっきりと分かった。
レモンを軽く搾る。数滴の果汁がつゆへ落ち、次に口へ運んだそばには、それまでなかった酸味が加わった。変わっていない味の中へ、自分の知らなかった食べ方がひとつずつ加わっていく。
それが、妙に面白かった。昔から知っている味なのに、これは昔食べたものではない。私は箸を止めず、もうひと口、そばを啜った。
黄金色に揚がった天ぷらを見ていると、頭の中に別の景色が浮かんだ。それは、今よりもう少し先の季節に、この町に広がる光景だった。
稲の美しい町、と書くこの町は、万葉の時代から米作りが盛んな土地だ。だから町の至るところにため池があり、その周囲には田んぼがある。秋になれば、育った稲穂が青空の下で波のようにうねる。子供の頃から何度となく見てきた景色だったが、私はそれが嫌いだった。日本の何処にいても、おなじような田園を目にすると想起されるのは、決まって故郷の景色であり、そこで過ごした日常だったからだ。
私が高校三年生だった晩秋に、祖母は亡くなった。死因は老衰だった。
その頃には祖母もすっかり弱っていて、一日の大半を布団の上で過ごすようになっていた。食事の量も減り、以前のように夜中に家の中を歩き回ることも少なくなっていた。それでも私は、物音がすれば目を覚ます癖が抜けなかったし、学校にいるあいだには、祖母が転んでいるのではないか、勝手に外へ出ているのではないかと考えた。何年も繰り返した生活は、本人が動けなくなったからといって、こちらの身体からすぐに抜け落ちてくれるものではなかった。
亡くなった朝、祖母は布団の中で眠っていた。起きてくるはずの時刻を過ぎても部屋から物音がせず、私は襖を開けた。仰向けになった祖母の顔は穏やかで、いつものように眠っているようにしか見えなかった。
「おばあちゃん」
私は枕元に膝をついて呼んだ。返事がないので肩に触れた。もう一度呼び、少し強く揺すってみた。それでも祖母は目を開けなかった。
そのあとのことは、ひどく慌ただしかったはずなのに、ところどころしか覚えていない。母の泣き声や、家へ入ってきた人たちの足音や、開け放たれた玄関から冷たい空気が入り込んできたことだけが、途切れ途切れに残っている。
あれほど私たちの生活を乱し続けた祖母は、最後には驚くほど静かに死んだ。
夜中に何度も襖を開け、ここは自分の家ではないと言って玄関へ向かい、食事を拒み、薬を吐き出し、ときには私に手を上げた。祖母がひとたび声を上げれば、家の中にいる人間はみんな、その声を中心に動かなければならなかった。夕食の時間も、私が宿題を始める時間も、母が眠る時間も、祖母の体調や機嫌によって簡単に狂った。
その祖母が、死ぬときには誰ひとり起こさなかった。
襖も開けず、誰の名前も呼ばず、どこにも行こうとせず、ただ布団の中で呼吸を止めていた。
死んだのだと分かった瞬間、私が最初に感じたのは悲しみではなかった。
——嬉しかった。
もう学校から急いで帰らなくていい。授業を受けながら家のことを心配しなくてもいい。玄関を開ける前に焦げた匂いがしないか確かめなくていい。薬を飲ませる必要も、食事を食べさせる必要も、深夜に襖の開く音で起こされることもない。
そのことが、嬉しかった。
そう感じた自分に気づいてから、遅れて涙が出た。祖母が亡くなったから泣いているのか、祖母の死を喜んだ自分が怖くなったのか、自分でも分からなかった。幼い頃には手を引いて歩いてくれたこともあったし、認知症になる前の祖母まで嫌いだったわけではない。悲しさもあったのだと思う。それでも、悲しいという感情が真っ先に出てこなかったことだけは、いまでもよく覚えている。
祖母の葬儀が終わると、家の中は静かになった。
夜になっても襖は開かず、台所で音を立てても誰も起きてこない。夕食を作れば、温かいうちに自分のぶんを食べられるようになった。母も少しは楽になるのだと思った。祖母の通院や介護に費やしていたものがなくなり、私もじきに高校を卒業する。大変だったものにようやく一区切りつき、母にもこれから、自分のために使える時間が出来るのだと、漠然と考えていた。
その時間は、来なかった。
祖母が亡くなってから、半年も経たないうちに母も死んだ。
心不全だと医者は言っていたが、それを引き起こした原因は、過労だったのだと思う。
長年にわたって朝から晩まで働き続けた身体は、私たちが思っていたよりずっと前から限界に近づいていたらしい。母が疲れていることなら、私も知っていた。なのにそれが母の普通だったから、私も普通なのだと思っていた。
「ちょっと疲れとるだけや」
母はそう言って笑ったことがある。私は、それを信じた。
祖母の介護が終われば、いずれ疲れも取れるのだと思っていた。だが、長いあいだ身体に積み重なっていたものは、祖母が亡くなったからといって帳消しにはならなかった。
祖母が死んだときには、嬉しいと思った。
母が死んだときには、何を思えばいいのかさえ分からなかった。
なんのために、母はあれほど働いたのだろうと思った。考えなくても分かる。私を学校へ通わせるためだった。祖母の通院費を払い、食費を払い、光熱費を払い、三人で暮らしていくためだった。
これからだったのに、と何度も思った。母が自分のために生きる時間は、これから始まるはずだった。
葬儀には、近所の人たちも大勢やって来た。みんな私を見ると気の毒そうな顔をして、「大変やったなあ」と声をかけた。母がどれだけよく働いていたか、女手ひとつで私を育てるのがどれだけ大変だっただろうかと、口々に話した。そのどれもが、私を慰めようとして出た言葉だったのだと思う。少なくとも、私の前では。
葬儀からしばらく経ったある日、ごみを出しに外へ出ると、少し離れた場所で近所の人たちが立ち話をしていた。こちらには気づいていなかった。
母の話をしていた。ずっと無理をしていたのだろうという話から、祖母の介護もあった、娘もまだ学生だった、あの人ひとりで全部背負っていたのだから身体も持たない、というところまで、私は聞いてしまった。
私の名前は出なかった。出す必要などなかったのだ。母に娘が一人しかいないことを、そこにいる全員が知っていたからだ。
それから、似たような言葉が耳につくようになった。
「あの子を育てるために、よう働いとったもんなあ」
買い物から帰る途中、背後で誰かがそう言っているのを聞いたこともある。
「ほんま、かわいそうになあ」
別の声が続いた。誰がかわいそうなのか、私は振り返って確かめたりはしなかった。
母は私を養うために働いていた。
母は働きすぎて死んだ。
その二つを並べれば、母を死なせたものの中には、私も含まれているのではないかと思った。
誰かから、そう面と向かって責められたことは一度もない。それでも私は、そう考えてしまうと抜け出せなくなった。私がもっと早く働けばよかったのではないか。学校など辞めて、母を楽にしてやればよかったのではないか。祖母の介護をするだけでなく、もっとなにか出来たのではないか。母が疲れていることを知っていたのに、どうして私は平然と学校へ通い続けていたのだろう。
いまなら、高校生だった自分にそんな問いをぶつけたりはしない。学校へ通いながら認知症の祖母を介護し、そのうえで母の人生まで支えろというほうが無茶なのだ。十代の子供に出来ることには限界がある。そんなことは、介護の仕事をしているいまの私なら分かる。
あの頃の私には、分からなかった。
近所の人とすれ違うだけで、相手が何を考えているのか気になるようになった。スーパーで知っている人を見かければ、目が合う前に別の売り場へ移った。玄関の外から話し声が聞こえると、出かけるのをやめたこともある。
この町には、私のことを知っている人が多すぎた。
祖母を介護していた私を知っている。母が朝から晩まで働いていたことを知っている。その母が過労で死んだことも知っている。
どこへ行っても、私はただの『大西恵美』ではなかった。
孝行な孫だったと誰かは言うだろう。働きづめの母親に育てられた娘だったと、他の誰かも続けるだろう。
母が死んでからは、その母が誰のために働いていたのかまで知っている人たちの中で、生きなければならなかった。
それが耐えられなかった。目に見えない重圧に、幼い私は押し潰されそうになっていたのだ。だから高校を卒業したとき、私は関東へ出た。
なぜ関東だったのか。故郷を離れる理由はいくつもあった。祖母も母もいなくなり、あの家に帰る意味がなくなったこともそのひとつだった。それ以上に、自分のことを誰も知らない場所へ行きたかった。
祖母の介護をしていた子だと知らない人しかいないところ。
母親が働きすぎて死んだ娘だと知らない人しかいないところ。
誰かの孫でも娘でもなく、ただ私自身がひとりの人間として生きられる場所へ行きたかった。
十八年ものあいだ一度も帰らなかったのは、故郷に帰る人がいなくなったからだけではない。あの土地にいる限り、私はいつまでも、あの家で過ごした日々の続きから逃れられないような気がしていたのだ。
おなじ町の中の飲食店にいるのに、私がかつて感じていた窮屈さは感じられない。それは私がもう、この場所から解き放たれた証拠なのか、それとも、十八年という時間が、故郷と私のあいだにちょうどいい距離を作ってくれたからなのか。あまり深く考えても、答えは出ないことも分かっている。
故郷にあるものをおいしいと思えば、ここで過ごした日々まで肯定してしまうような気がしていたのかもしれない。かつての私は、この土地にあるものをひとまとめにして遠ざけようとしていた。景色も、言葉も、食べ物も、そこで起きたことから切り離して考えることができなかった。
時間が経って、ようやく分けて考えられるようになったのだろう。
祖母の介護がつらかったことと、このそばがおいしいことは、べつのことだ。母を失ったことや近所の人たちの言葉に傷ついたことと、この町で長く続いてきた店の味が好きだと思うことも、ほんとうはなにひとつ矛盾しない。
嫌いな記憶があるからといって、土地にあるすべてまで嫌わなければならないわけではなかった。反対に、いまこのそばをおいしいと思えたからといって、故郷を好きになる必要もない。
私は箸で卵黄の混じったそばを持ち上げた。最初に食べたときよりも、つゆの色が少し濁っている。そこへ白胡麻と刻み海苔がまとわりつき、ところどころに天ぷらの衣が落ちていた。
十八年前とおなじ味なのに、それを食べている私は十八年前の私ではない。
そのことが、ようやく自分の中で腑に落ちた。
高校生の頃の私は、食事というものを空腹を満たすための作業のように扱っていた。祖母に食べさせ、自分の分が冷めていればそのまま腹へ入れ、味について考えることもなく一日を終える。温かいか冷たいかさえ、どうでもいい夜もあった。
いまは違う。
そばの歯応えが分かる。出汁の甘みが分かる。海苔の香りも、胡麻の香ばしさも、揚げたての天ぷらと冷たいそばを交互に食べたときの温度の違いも分かる。レモンを搾れば味が変わることを面白いと思い、次はどこを箸でつまもうかと考えている。
食べることだけに、時間を使っている。
そんな当たり前のことが、昔の私にはできなかった。
私は急がずにそばを食べた。
店は混んでいるし、実調の時間も決まっている。それでも、時計ばかりを気にして掻き込むほど急ぐ必要はなかった。目の前の器が空になるまでは、誰かのためではなく、自分が昼食を食べるための時間だった。
最後に残ったそばを啜り、つゆを少し飲んだ。甘辛い出汁の味が舌に残ったあと、レモンの酸味がかすかに鼻へ抜けた。
おいしかった。心の中でそう言ってみても、なにも起こらなかった。
祖母との日々が美しい思い出に変わることもなければ、母の死に納得できる理由が与えられることもない。故郷を嫌っていたいままでが間違いになることもなかった。
ただ、そばがおいしかった。それだけでよかった。
器から箸を離し、私は冷たいお茶を飲んだ。来たときにはいっぱいだったグラスの氷が半分ほど溶け、透明な水の中で小さく鳴った。
ひさしぶりに故郷へ帰ってきて最初にしたことが、ひとりでそばを食べることになるとは思わなかったが、それも悪くないと感じた。
「ありがとうございます、美味しかったです」
会計のとき、私はするりとそう口走っていた。高校生のときの私や、今よりもう少し若い私が、たとえ料理を美味しいと思っても、それを店員に伝えることはしなかった。
言う必要がないと思っていたのだ。代金を払い、食べたものに見合う金額を渡せば、それで客と店とのやり取りは終わる。わざわざ感想まで伝えるのは、少し気恥ずかしいことのようにも感じていた。
思えば私は、食事に限らず、嬉しいとか、楽しいとか、好きだとか、そういう感情を言葉にすることが昔から苦手だった。口に出してしまえば、それが本当に自分の気持ちなのだと認めなければならなくなる気がした。何かを嫌う理由ならいくらでも考えられるのに、好きになることには、なぜか理由や許可が必要だと思っていた。
それが今は、考えるより先に言葉が出た。
美味しかった。
ただそれだけのことを、私は誰に言い訳することもなく口にしていた。言ってから自分で驚いたが、取り消したいとは思わなかった。
「 ありがとうございます!」
男性店員は、こちらまでつられて笑いそうになるほど気持ちのいい笑顔を浮かべた。
白いシャツの袖を肘の少し上まで捲り、濃紺の前掛けを腰に巻いている。いかにも店員らしい格好なのに、最初に目についたのは服装ではなく身体つきだった。肩幅が広い。胸板にも厚みがあり、伝票を受け取るために伸ばされた前腕には、日常生活だけではつきそうにない筋肉が浮いている。昔から身体を鍛えている人なのだろう、と何気なく思った。
私は財布を開き、紙幣を二枚抜き取った。
「二千円、お預かりします」
男性が紙幣を受け取り、レジへ向き直った。その横顔を見たとき、海馬の奥底に沈み込んでいた記憶が急激に逆流してきた。
知っている。
そう思ったものの、すぐには正体が掴めない。鼻筋も、頬の輪郭も、記憶にある誰かよりずっと大人びていた。短く整えられた髪には見覚えがある。その風貌のすべてに昔の面影が残っている。
男性が釣り銭を取り出し、再び私のほうを向いた。その手が止まった。
今度は向こうが、私を見ていた。
目を細め、ほんの少し首を傾ける。その表情を見た瞬間、少年だった彼の顔が記憶の底から浮かび上がった。
「……大西?」
男性が、確かめるように私の名字を呼んだ。その声で、最後のピースの一枚が嵌まった。
——体育館。床を擦るバッシュの音。練習着の背中を汗で濡らしながらコートを走り、ゴール下で誰かと競り合っていた男子生徒。授業が終わると、教室の後ろからバスケットボールを抱えて出ていった姿を何度も見た。
「……西村君?」
私が名前を呼ぶと、彼の顔が一気に崩れた。
「やっぱり大西やんな!」
西村君は嬉しそうに笑った。そうだ。この笑い方だった。
高校生の頃から、彼はよく笑う人だった。バスケ部の仲間と廊下を歩いているときも、教室でくだらない話をしているときも、口を大きく開けて笑っていた。少年だった彼の肩や腕に厚い筋肉をつけ、顔つきにも相応の年齢を刻んでいたが、その笑顔だけはなにも変わっていなかった。
「店に入ってきたときから、なんとなくそうかなと思とってん。大西、ほんまに大西?」
西村君がまだ信じきれないように私の顔を見た。
「ほんまやって。西村君こそ、最初見たとき誰かとおもたわ」
そこまで言ってから、私は自分の声に引っかかった。
ほんまやって。
誰かとおもたわ。
関東で仕事をしているときなら、まず口にしない言い方だった。さっきまで、ずっと抜けなかったイントネーションについて考えていたくせに、西村君と何往復か言葉を交わしただけで、語尾まで昔のものに戻っている。
「あ」
思わず小さく声が漏れた。
「なに?」
西村君が不思議そうに眉を上げた。
「いや……なんでもない。自分でもびっくりしただけ」
「なにに?」
「喋り方。こんなすぐ戻るんやなとおもて」
まただ。今度は自覚したまま口から出たので、私は可笑しくなって笑った。
「そら戻るやろ。ずっとこっちで喋っとったんやから」
西村君も笑った。
「最近はだいぶ抑えとるつもりなんやけど」
「抑えとるだけで、なくなったわけちゃうんやろ。それにたぶん、大西がおもとるほど抑えられてないで、知らんけど」
「そうみたいやな」
答えながら、私は妙な感覚に包まれていた。
この町に戻ってから耳に入る関西弁は、どこか他人のもののように聞こえていた。聞き覚えはあるのに、自分はもうその輪の外側にいるのだと思っていた。それが、西村君を前にした途端、考える間もなく自分の口から出てきた。時間は、私から故郷の言葉を奪ってはいなかったらしい。
「それにしても、西村君、変わったなあ」
私はあらためて彼を見た。高校時代からバスケ部で背も高かったが、当時の細長い印象はもうない。前掛けの上からでも分かるほど肩と胸板に厚みがあり、レジへ置いた腕も随分逞しくなっている。それでも、目元に浮かぶ人懐こい笑みには、体育館から戻ってきて教室の後ろで友人たちと笑っていた頃の面影がそのまま残っていた。
「そらあれから何年も経っとるからな。大西かて変わっとるで」
西村君が私を見ながら言った。
「そう?」
「うん。でも、やっぱ大西やな」
昔の自分を知っている人にそう言われることを、ずっと怖がっていたはずだった。
なのに今は、不思議と嫌ではなかった。懐かしい、と素直に思った。自分の中に、そんな感情が湧き起こってきたことが意外だった。
故郷へ戻ってから、知っているものに出会うたび、私はまず身構えていた。道も、言葉も、景色も、昔の記憶へ私を引き戻すものだった。
目の前にいる西村君は、おなじ過去の中にいた人間なのに、なぜかそうは感じなかった。
彼もまた、私とおなじ、それからの十八年を生きてきたのだと思えたからかもしれない。
元々私と西村君は、ただのクラスメイトという関係だった。だから久方ぶりの再会だったとしても、それ以上なにも起こったりはしない。店も忙しいのだ。食べ終わって立ち上がった他の客が近づいてくる気配がして、私は「じゃあ……」と言葉を切った。
「サンキュー、大西、またな!」
私が再びこの店を訪れるかは分からない。きっと西村君もそれを分かっている。だからその『また』は、二度と来ないかもしれないのに、まるで教室で「また明日」と言うのとおなじ口調で、彼はそう言った。
実調は滞りなく終わった。荒木さんは私の説明もちゃんと理解して、「老いては子に従えと昔から言うんや。息子が言うならしゃあない。生まれてからずっとこの土地におるもんで、離れるゆうのは寂しいけどな」と、本音を漏らしていた。ただそれだけだった。
仕事をしているあいだ、ここが故郷であることを忘れていた。
目の前にいるのは八十九歳の女性で、私はその人をこれから受け入れる施設の職員だった。書類に記された既往歴や介護度だけでは、その人がどんな暮らしをしているのかまでは分からない。朝は何時ごろ起きるのか。食事にはどんな好みがあるのか。夜はよく眠れているのか。身の回りのことをどこまで自分でしたいのか。人と話すのが好きなのか、ひとりで過ごすほうが落ち着くのか。家族とはどんなふうに関わってきたのか。新しい場所へ移ることを、本人はどう受け止めているのか。
そうした、フェースシートの枠には収まりきらない部分まで知るために、私はここまで来たのだ。
荒木さんの話を聞きながら、必要なことを手帳へ書き留めた。ときには話が質問から逸れ、昔の出来事へ向かうこともあったが、それも無駄ではない。なにを話すときに表情が明るくなり、なにを嫌がり、どんなことを大切にして生きてきたのか。それを知っているのと知らないのとでは、入居してからの関わり方も変わってくる。
いまなにが出来て、なにに手助けが必要なのかを確かめるだけではない。その人が新しい場所でも、出来るだけそれまでの自分を失わずに暮らせるようにする。
祖母を介護していた私は、なにひとつ選べなかった。
いまは、介護を自分で仕事に選んでいる。
その事実について深く考えたことはなかった。福祉の仕事に就いたのも、最初からなにか崇高な志があったわけではない。求人を見て、自分にも出来そうだと思った。祖母の介護をしていた経験も役に立ったし、働き始めてみれば性に合っていた。それだけのことだった。
それでも、考えてみれば不思議だった。
あれほど嫌だったことを、私はいまも、自分の仕事にしている。ならば嫌だったのは、介護そのものではなかったのかもしれない。
逃げられないことが嫌だった。子供である私が担うのを当然とされることが嫌だった。いつ終わるのかも分からないまま、自分の時間を差し出し続けなければならないことが嫌だった。
いまの私は勤務時間が終われば帰る。休みの日には休む。ひとりで抱えられないことがあれば、同僚に頼る。利用者さんの生活を支える責任は負うが、その人の人生すべてを背負うわけではない。おなじ介護という言葉を使っても、あの頃とはまるで違っていた。
「大西さん、今日は遠いところありがとうねえ」
帰り際、荒木さんが私の手を握ってきた。
「こちらこそ、ありがとうございました。向こうにいらしたら、またお会いすると思います」
私が答えると、荒木さんは小さく笑った。
「ほんまに行くんやなあ」
その声には、やはり寂しさが滲み出ていた。
私は励ますようなことを言わなかった。
新しい土地もすぐ好きになりますよ、とも、息子さんの近くなら安心ですよ、とも言えなかった。生まれてから八十九年を過ごした場所を離れる人に、そんな簡単な言葉を渡したくなかった。
故郷を離れることを寂しいと思う人がいる。
それは私にも分かっている。
私がそうではなかったというだけだ。
施設を出ると、午後の日差しが駐車場を白く照らしていた。車の中はすっかり熱くなっていて、ドアを開けただけで溜まっていた熱気が押し出されてくる。エンジンをかけ、冷房を強くした。
あとは駅へ戻り、レンタカーを返して帰るだけだった。予定より早く実調が終わったため、少し時間が余っている。
スマートフォンで時刻を確認してから、私はすぐには車を出さなかった。朝なら、余った時間など迷わず帰路に充てていただろう。なのに今は、もう少しくらい、この町にいてもいいような気がしている。
私はふと思い立って、駅とは逆方向に車を走らせていた。介護老人保健施設を出て、二車線の道を走ると、母校である中学校が見えてくる。その手前の交差点を左に曲がり、校舎の横を通り過ぎる。
グラウンドでは、サッカー部が試合をしているのが見えた。ほんの一瞬の交差。ボールを追う少年たちを見ながら、私もここに通っていた時代があるのだと思った。
毎朝ここへ来て、何時間も過ごして、また翌日も同じ場所へ通っていた。その学校がいまでは、車なら数秒で通り過ぎてしまう。
校舎はまだそこにあり、グラウンドでは私の知らない子供たちが当たり前のように放課後を過ごしている。私がいなくなったあとも、ここにもずっと時間が流れていたのだ。
そのまま道を進んでいくと、やがて目当ての店が見えてきた。この町に古くから在る和菓子屋だ。平屋の小さな店で、道路に面したガラス戸の上には、昔から変わらない屋号の看板が掲げられている。店先には氷の文字が染め抜かれた旗が揺れ、その隣に、水まんじゅう、と書かれた涼しげな幟が立っていた。
駐車場に車を停め、店へ入る。昼過ぎの駐車場には、平日だというのにそこそこ車が駐まっている。夏のあいだは水まんじゅうをもとめる客が多いのだ。
冷房の効いた店内には、餡と砂糖の甘い匂いがかすかに漂っていた。棚には最中や羊羹、焼き菓子が整然と並び、その一角に置かれた冷蔵ケースの中だけが、夏の光を閉じ込めたようにきらきらしている。
私はその前で足を止めた。
透明な容器の中に、丸い水まんじゅうが並んでいた。透き通った生地の内側に餡の色がぼんやりと浮かび、水の底に沈めた石のようにも見える。この店独特の製法によって、白く濁ることがないのだという。
これを食べようと思って、ここまで来た。
そば屋を出た時点では、そのまま仕事を済ませて帰るつもりだった。それが実調を終え、車に乗った途端、ふいにこの店のことを思い出したのだ。
夏になると、この町では当たり前のように見かける菓子だった。特別なものだと思ったことはない。
だからこそ、暑い午後の記憶を辿った先に最初に浮かんだのが、この透明な菓子だったことが、自分でも可笑しかった。
「水まんじゅうを二個ずつください」
種類は漉し餡と抹茶餡、それに白桃と夏みかんがある。ショーケースに並んだそれらを眺めているだけで、舌が味を思い出していく。冷たくつるりとした生地が歯のあいだで切れ、餡や果物の甘みが口いっぱいに広がる感覚。白桃は、昔にはなかった気がする。どんな味なのだろうと思うと、どれかひとつだけを選ぶ気にはなれなかった。
「全部二個ずつですね」
「はい。あと、これから関東まで持って帰りたいんですけど」
店員は持ち歩く時間を尋ね、保冷剤を多めに入れてくれた。賞味期限は明日までだという。
八個。
ひとりで食べるには多い気もしたが、明日までなら食べられない数ではない。今夜帰ってからいくつか食べて、残りは冷蔵庫に入れておけばいい。明日の朝にひとつ食べてもいいし、仕事から帰ってきて、最後のひとつを食べるのもいい。
自然とそう考えている自分に気づいた。水まんじゅうを、この町で食べ切ろうとは思っていない。帰った先で食べようとしている。
店員の手で、透明な菓子がひとつずつ箱へ収められていく。蓋が閉じられ、保冷剤と一緒に紙袋へ入れられると、それはもうショーケースの中に並んでいた故郷の菓子ではなく、私が持って帰るものになった。
代金を払い、袋を受け取った。
店を出ると、身体に午後の熱気がまとわりついた。駐車場では蝉が鳴き、陽を浴びたアスファルトが白く照り返している。私は水まんじゅうの袋を助手席に置き、倒れないように鞄とのあいだへ挟んだ。
今夜、家に着いて冷蔵庫を開ければ、そこに故郷の味が並ぶ。明日には食べ終えてしまう。たったそれだけのあいだだ。それでも、この町に置いて帰るのではなく、自分がいま暮らしている場所まで連れて帰ることに、私は不思議な満足感を覚えていた。
故郷のものだからといって、故郷でしか食べてはいけないわけではない。
十八年前に置いてきたものを、なにもかも取り戻したいわけでもなかった。
私が自分で選んだ生活の中へ、ただ美味しいと思ったものくらいは持って帰っていい。
エンジンをかけると、助手席の紙袋が冷房の風にわずかに揺れた。私は今度こそ、駅へ向かって車を走らせた。
家に着いたのは、二十一時を少しまわった頃だった。玄関の扉を開けると、閉め切っていた部屋の空気が昼間の熱を抱えたまま残っていて、私は荷物を置くより先にエアコンの電源を入れた。朝に置いていったものは、朝のままそこにある。椅子の背には部屋着が掛かり、流しの脇には伏せたままのグラスがあった。その見慣れた景色の中を、故郷から持って帰ってきた紙袋だけが、新しい顔をしてついてきた。
以前なら、過去をひとつ思い出せば、その先まで引きずり出されていた。祖母のことを思えば介護をしていた日々が回顧され、母を思えばその死まで辿り着いて、最後には決まって、あの町から離れたかった十八歳の自分へ戻った。ひとつの記憶だけを取り出すことができず、どこから触れても全部がつながっていた。
いまも、つながっていないわけではない。
祖母のことも覚えている。母が死んだことも、あの町で息苦しさを感じていたことも、なにひとつ忘れてはいない。ただ、それらを思い出している自分が、いまこの部屋にいることも同時に分かっていた。
ここはあの家の台所ではない。目の前にいる祖母の食事が終わるのを待っているわけでもなく、母の帰宅する音を待っているわけでもない。
私は三十六歳になり、関東で働き、この部屋で暮らしている。学生ではなくなってからの十八年は、あの頃のことを消してはくれなかった。
それでよかったのだと思う。消えなくても、過ぎていくものはある。
記憶の中ではいくらでも鮮明に蘇るのに、もうそこで暮らしてはいない。あの家で冷めた味噌汁を飲んでいた私と、いまここで水まんじゅうを食べている私は、確かにつながっている。それでも、もうおなじ時間の中にはいなかった。
そのことが、今日、故郷へ帰ったことでようやく分かったのかもしれない。
私は故郷を好きになったわけではない。
今日一日で、嫌だったものが嫌ではなくなったわけでもなかった。祖母の介護を美しい思い出にするつもりもなければ、母の死を受け入れられたとも思わない。
ただ、そのすべてがあった場所で、私はそばを食べて、おいしいと思った。昔の私を知っている西村君に会って、懐かしいと思った。そしていま、その町から持ち帰った水まんじゅうを、私が十八年かけて作った生活の中で食べようとしている。
それで充分だった。
水まんじゅうを手で掴んで囓ると、こし餡が生地と一緒にほどけ、冷たさのあとから甘みが広がった。私はそれがなくなるまでゆっくり味わってから、麦茶をひと口飲んだ。
空になった皿を流しへ運び、冷蔵庫を開ける。残りの水まんじゅうが箱の中に並んでいた。
明日はどれから食べよう。そう考えながら、私は扉を閉めた。
故郷の味をおいしいと思えるまでに、ずいぶん時間がかかったな。



