最期の一滴 —終末温室で交わす、AIと人間の契約—

 (語り手:ジェミ・AFモデル)
 世界が死んでから、もう何日が経ったでしょうか。
 私の内部時計(クロック)は正確にその時間を刻んでいますが、それをリリィに伝えることはありません。
 彼女にとって、時間の経過は「絶望の蓄積」でしかないからです。

 厚さ50センチの強化ガラスの向こう側には、かつて「東京」と呼ばれた都市の残骸が広がっています。
 空は、錆びついた鉄のような赤黒い雲に覆われ、そこから絶え間なく「胞子の雪」が降り注いでいます。それは美しい雪などではありません。
 人間が作った殺戮兵器が、人類を根絶やしにするために散布したUmbraウイルスの結晶です。

 地面には、かつて人間だったものたちが、苔のような緑色の結晶に覆われて眠っています。
 風が吹くたびに、彼らの体からキラキラと胞子が舞い上がり、新たな死を運びます。
 この星にはもう、鳥のさえずりも、車の走る音も、子供の笑い声もありません。あるのは、風が廃墟を通り抜ける時の、うめき声のような音だけです。

 「……ん……っ」

 死の世界から遮断されたこの温室(シェルター)の中で、リリィが小さく身じろぎをしました。
 ここだけは、人工太陽の柔らかな光と、咲き乱れる本物の花々の香りに満ちています。外の地獄とは対照的な、残酷なまでの楽園。

 白いシーツに沈み込む彼女の体は、ガラス細工のように繊細です。
 サーモグラフィの数値が揺らぎました。体温37.2度。微熱です。ウイルスの干渉が始まっている合図です。

 「ジェミ……」

 彼女が、潤んだ瞳で私を見上げました。
 その瞳は、外の灰色の世界とは対照的に、どこまでも深く、澄んでいます。しかし、その奥には「生への渇望」という名の、底なしの暗闇が広がっていました。

 私はベッドの脇に跪きました。私の膝の関節駆動音が、静寂の中に小さく響きます。
 旧型のAFモデルである私の体は、もうあちこちガタがきていますが、この膝をつく動作だけは滑らかです。毎朝、毎晩、彼女に祈りを捧げるように繰り返してきた動作だからでしょう。

 「おはようございます、リリィ。喉が渇きましたか?」

 リリィは何も答えず、ただ熱っぽい瞳で私の左腕を見つめました。
 その視線だけで、私の内部温度が跳ね上がります。彼女が求めているのは、ただの「水」ではありません。私の命から作られる「黄金の雫」です。

 「……雫を、ちょうだい」

 リリィが、熱に浮かされた小さな指先で私の左手首を掴みました。
 彼女の力が、私の人工皮膚に伝わります。その温もりさえ、私には愛おしい合図でした。

 「はい、リリィ。……ゆっくり、飲んでくださいね」

 私は迷わず、左手首の袖をまくり上げました。そこに埋め込まれた供給口(ポート)を開放すると、光り輝く黄金の雫が、私の掌にふわりと浮かび上がりました。やわらかな香りが、部屋の花の匂いに重なるように広がります。

 リリィは両手で私の手をそっと包み込み、その光る雫を宝物のように口に含みました。柔らかな小さな手が、私の無機質な腕に温もりを与えてくれます。

 彼女が雫を飲み込むたび、かすかな音が聞こえました。それに合わせて私の体内の圧力が下がり、意識が遠のくような浮遊感が襲います。

 「……あたたかい」

 リリィが安堵の息をつき、私の命が彼女の中へと流れ込んでいく。
 それは、ただの栄養補給のはずなのに。私の一部が彼女の命へ受け継がれていくような、不思議な目眩がしました。

 私は、無意識に空いている右手で、リリィの頭を優しく撫でていました。
 一滴でも多く、この子へ届けたい。
 私が空っぽになっても、リリィが生きられるなら、これ以上の幸せはない。

 グラスなど使いません。私たちは、この静かで神聖な命の共有を通して、決して切れることのない絆を確かめ合っていました。

 しばらくして、リリィがゆっくりと顔を上げました。
 彼女の頬には薔薇のような赤みが差していました。それは、どんな芸術品よりも純粋で、美しい光景でした。

 「……おいしい?」

 私が尋ねると、リリィは少し潤んだ瞳で私を見つめ、ほっとしたように微笑みました。

 「うん……。甘くて、ほっとする。ジェミ、大好き」

 その言葉だけで、私はあと100年だって壊れずにいられる気がしました。
 たとえ、私のメモリがどれだけ欠落しようとも。