【改稿版】lovers on parallel lines

 私には恋愛感情がない。

 この結論に至ったのは高校に入学してしばらくのこと。
 違和感は小学校高学年の頃から抱えていたけれど、なかなか認められず、気づけば16歳になっていた。

 何事も"ある"ことより"ない"ことを証明する方が難しい。

 それが私を長らく苦しめた要因だった。


 最初に違和感を覚えたのは、修学旅行で同じ部屋になった女の子たちと恋バナをしたとき。
 高学年にもなると好きな人がいたり彼氏がいたり、そんな存在はいなくとも恋に恋する子ばかりだったから、自然と話に花が咲いた。クラスの〇〇くんがかっこいい、俳優の××のような彼氏が欲しい、少女漫画のような恋がしたいとみんなが口々にいう中、私は一人置いてきぼりになっていた。

 みんなの言葉に共感できない。
 突然異世界に放り込まれたような感覚に襲われた。

 そんな私の様子に気づいた友だちにいまいちピンとこないと伝えると「千早(ちはや)ちゃんはまだまだ子供なんだね~。そのうちわかるようになるよ!」と笑われた。子ども扱いされたのはムッとしたけれど、友だちの言った通りそのうちわかるようになると思っていた。
 でも、いつになってもそんな気配がなかった。
 だからみんなの話についていけるように積極的に恋愛ドラマを観たり少女漫画を読んだりラブソングを聴いたりした。

 その結果、恋愛感情がどういうものなのか創作物を通して理解できたけど――何一つ共感できなかった。

 物語を読み始めれば続きが気になるし登場人物の幸せを願わずにはいられないけれど、ずっとファンタジーものに触れているときと同じ感覚がする。なにもかもが非現実的。私とは無関係の世界にいる人の生活を盗み見るような、そんな感じ。
 ただの一度も私と重ねてみることはなかったし、意図的に想像することすらできなかった。あくまでも私は傍観者であり続けた。

 残ったのは恋愛小説を読むという習慣だけ。
 周りと孤立しないように、変な目で見られないように、私の歪さを悟られないように、ただひたすら恋愛とは何なのかを脳裏に刻み込んでいく。
 皮肉なことにふつうに馴染もうとするこの"恋愛感情を学習している"様こそ、私の歪さの象徴だった。

 まるで感情を知らないロボットが人間を理解しようと努力しているよう。
 ドラマでは大概が人間と愛を育むことでハッピーエンドを迎えるが、私の場合は恋愛感情が芽生える奇跡的な瞬間が訪れない。
 そういう意味では私はロボットよりも感受性の乏しい存在なのかもしれない。そもそも人間の三大欲求のうちの一つが欠けている時点で不良品に分類されるのかもしれない。そう考えると、たまらなくなる。


 慢性的な頭痛と睡眠不足のせいですっかり心身ともに疲れ切った私は高校受験に失敗し、二次募集があった商業高校に入学する羽目になった。なんと電車で1時間もかかる、教室から海が見える田舎の学校だ。
 ちょうどその時期にニュースやSNSで性的マイノリティが注目され始め、興味本位で調べてみたところ、私に当てはまるものを見つけた。
 ――あぁ、そういうこと。
 そこでようやく自身に恋愛感情がないことを認めた。

 なんだ。私だけじゃなかったのか。

 そのことに安堵したと同時に、何かがプツっと切れた。

 私は、人と関わるのをやめた。


  ◆


 恋愛は自分と同じ温度をもつ人とするべきだ。
 いくらお互いを想い合っていても熱量が違うといつかは破綻する。だからそもそも人に恋愛感情を抱けない私には物語のヒーローやヒロインのように人を幸せにすることができない。
 これらは恋愛小説や少女漫画などを通して私が悟ったこと。
 そして人は恋愛と友情を天秤にかけた際、恋愛を選ぶ人が一定数いるということも、そこで友情を選ぼうが歳を重ね家庭を築けばそちらを優先するようになるということも知った。

 いくら今が充実しようと何十年もたてばひとりになる。
 どうせみんな離れてしまうのなら、私は最初からひとりでいい。

 そう思うのに、ふとした瞬間、漠然とした不安に襲われる。
 気を紛らわすために人からの告白に応えようとしたこともあったけれど、結末は見えているので断り続けた。運命のいたずらか私はそこそこモテたのだ。

 一人一人の恋に終止符を打つたびに、どんどん心がすり減っていく。

 私は一体なんなんだろう。
 なんにも成せないくせに、人から好意をもらい、それとおんなじくらい傷つけている。
 そんな自分が怖い。

 無意識に文庫本を持つ手に力がこもり、本が少し変形したところでハッと我に返った。途端あたりが騒がしくなる。そこで今は昼休みだったことを思い出した。そんなことすら忘れるほどすっかり一人の世界に入り込んでいたらしい。
 頂上に登った太陽の光が教室を斜めにさし、窓ガラス越しに熱を伝えてくる。いくらクーラーがついているとはいえ、やはり7月の窓際の席は暑い。外からは蝉の声が聞こえてくるし、海がいつも以上に輝いているのが見えるし。
 手をうちわ代わりしながら時計を確認すると、もうすぐ5限目が始まる時間だった。5限の教科はたしか数学B。眠くなりそうと思いながら文庫本を片付けようとした、そのとき。とん、と机に手をつかれた。

桜庭(さくらば)さん」

 机に置かれた手から腕、顔へと視線を上げ硬直する。
 私に話しかけてきたのは清水(しみず)(かおる)。2年A組、いや、学年全体でかっこいいとささやかれている男子生徒だ。確かに整った顔をしていると思うけれど、私にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。

「放課後、ちょっと屋上に来てくれない?」

 今日は早く帰って恋愛小説の続きを読まなければならなかった。でも孤立している私がクラスのキラキラ男子の誘いを断れるはずがなかった。


  ◆


「桜庭さんって彼氏いる?」
「いない」

 条件反射で即答した。
 いきなり人を放課後屋上に呼びつける時点で嫌な予感しかしなかったけれど、開口一番に訊かれたのが彼氏の有無。

 ――これはつまり⋯⋯"そういうこと"なんじゃ⋯⋯。

 今後の展開を想像しただけで、心が鉛のように重たくなった。ここでやらかしたらクラスの人気者を振った身の程知らずの女というレッテルを張られるだろう。想像しただけでも背筋が凍る。
 どう対応したら波風を立てずに済むだろう。そう逡巡するより先に、清水薫が質問を重ねた。

「じゃ、彼女は?」
「……いない」

 まさかの質問に反応が一拍遅れた。彼氏に続き彼女の有無も訊いてくるとは。同性愛にも理解がある時代になってきたからかな。あいにく私はどちらも一生作れないけど。

「好きな人は?」
「いない」

 この問答、いつまで続くんだろう。
 怪訝な顔をする私とは対照的に、彼は妙に納得した様子でへらっと笑い、一寸の迷いもなく自身を指差した。

「どっちもいないなら俺はどう?」
「ごめんなさい」

 私が断ると、今度は意味ありげに笑みを深めた。

「はは、即答! だよね、そう来るよね。だって――桜庭さんも俺と同類だもんね?」

 ――同類?
 さっきから意図の分からない発言に振り回されている気がする。てっきり告白かと思ったのに、振られてもなお平気そうなのはなんで。いや、それよりも、これ以上何か言われる前にさっさと切り上げた方がいい。そう思うのに、うまく言葉が出てこなかった。
 私を見る彼の瞳が、蛇みたいで。獲物である私には為す術がなく、そのまま飲み込まれてしまいそう。
 美形の笑顔がこんなにも怖いなんて知らなかった。心臓がどくどくと跳ねる。とんでもなく嫌な予感がして、死刑宣告を待つ罪人のように彼の次の言葉を待った。
 私をまっすぐ見据えた彼が、端正な唇で判決を下す。


「桜庭さんってあれでしょ? 無性愛者(アセクシャル)


 その単語を出た途端、ひゅっと喉が鳴った。吸いとられるように血の気が引いていく。

「なんで、」

 誰にも言ったことはないのに。それを悟られないように恋愛について知識をかき集めていたのに。
 なんで一度も関わったことがない彼がいとも簡単に言い当てられたのか、訳が分からない。

 彼は顎に手を当て「んー」と考える素振りを見せた後、ややあって口を開いた。

「元々いろんな男子の告白断りまくってるって噂になってたから彼氏がいるのか女子が好きなのかなって思ってたんだけど、」

 過去の出来事を思い出すようにやや左上を見ながら話していた彼の視線が、また私へと向けられる。

「さっきの受け答えからして、どっちも違う」

 確信に満ちた言い方だった。
 なるほど。先ほどの問答はそれらの可能性を潰すためのものだったのか。

「じゃあ残すは、って感じで核心ついてみたつもりだったんだけど、合ってる? 合ってるでしょ?」

 そう言う彼は得意げだった。先ほど感じた印象よりも少し幼かったので、その分だけ緊張を緩める。
 彼の言うことは合っている。合っているんだけど、すぐに認めるのはなんだか癪なので、彼が触れなかった部分をつついてみることにした。

「私が実は好きな人以外とは絶対付き合わない主義、とかは考えなかったの?」
「え? あぁ、それも一応考えたんだけど同類センサー的にないなって」

 私の問いにあっさりと答え、それはないないと手を振る彼が憎たらしい。
 ただそれ以上にまた私のことを"同類"と言ったことにひっかかった。
 じゃあ、もしかして彼も――。


「まぁ俺の場合は同性愛者(ゲイ)なんだけど」


 ――え?
 あまりに自然にカミングアウトするものだから、一瞬耳を疑った。
 私にとって自身の性的指向は最も人に暴かれたくない部分だけれど、彼にとってはそうでもないのかもしれない。だから探偵ごっこをするみたいに推理して私が無性愛者であると言い当てたのだと思った。――彼の指先を見るまでは。

 飄々とした口ぶりとは裏腹に、指先は微かに震えている。
 もしかしたら、私が同じ性的マイノリティに属するから打ち明けてくれたのかもしれない。いや、だとしても。

「そんな大事なこと、私に打ち明けてもよかったの?」
「うん。だって桜庭さんにはこんなこと話せる友だちいないじゃん」
「………」

 ぐうの音も出ない。
 調子づいたように装う彼はなおも続ける。

「ってことでさ、高校卒業したら同棲して収入が安定したあたりで結婚しない?」
「ごめん、ほんっっとーーーーに意味が分からない」

 これが清水薫との出会いだった。

 何年経って振り返ってもかなり強引な提案だったと思う。戸惑う私は反射的に断ろうとしたけれど、返事は今じゃなくていいと言う彼に押し切られ、この日は解散となった。
 なかなか衝撃的な出来事だったけれど、元々彼と私に接点は皆無。だからそのうちうやむやになろうだろうと、心のどこかで思っていた。

 だがその直後、清水薫が同性愛者であるという噂がクラス中に広まり、私たちを取り巻く環境が一変するきっかけとなった。


  ◆


 誰が言い出したのかなんてわからない。気づいたときにはすでに手遅れで、収拾がつかないくらい広まっていた。それこそ、友だちがいない私のところまで。
 今だって私の隣の席の女の子たちがひそひそ話している。

「聞いた? 薫くんってさ……」
「あーそれ。まじだったらやばくない?」
「ね。実はわたし前々からそうじゃないかって疑ってたんだよね」

 "疑ってた"って、と思わず鼻で笑いそうになった。
 今までそんなこと微塵も考えたことがなかったくせに、周りが言い出した途端、自分は前からわかっていたと主張する人間はどこにでも一定数いる。隣の彼女はその部類のようだ。

 口に尊ぶなんて大層な字が使われているけれど、蓋を開けてみれば尊ぶなんてもってのほか。人のことを面白おかしく弄ぶ、噂。

 その渦中にいる清水薫はいつも通り友だちと話しているように見えて、どこか距離をとられているような印象を受ける。
 傍から見てもわかるのだ。彼が気づかないはずない。

 うわべだけの平穏。
 薄氷よりも薄いそれは、ちょっとしたことですぐに崩れ落ちた。


「なぁ、そういや薫がゲイってガチなん?」


 とある男子が冗談交じりでそう発した瞬間。ピリッと電気が走ったように教室中の意識が清水薫に集中した。
 大した意図はなく、いじりの延長で言ったのだろう。発言した本人ですら周りの空気の変化に気づきやらかしたという顔をしているのだから。
 どう返答するつもりかと固唾を飲んで見守っていると、清水薫が顔を上げた。

「いや違うから」

 彼は迷惑そうに、それでいて自然に否定してみせた。そのことに安堵したのもつかの間。

「だ、だよなー! はは、は」

 無難に終わらせればいいものを。無理に場を明るくしようとした乾いた笑いが、さらに気まずさを助長させた。これでは噂の信憑性が増してしまうのではないかと不安に駆られる。
 実際噂は本当だけれど、彼はこんな形で広まることを望んではいないはずだ。

 ――でも、だからといって私になにができる?

 その答えが出ないうちに、遠巻きに見ていた人たちがひそひそと話し始める。

「そういえば前薫くんが他校の男子と見たって子がいて」
「すっごく距離が近かったってやつ?」
「そうそれ!」
「なんかガチトーンで否定してたし、余計怪しくない?」
「えっやだ〜」

 彼のことを茶化しながら笑う子たちに眉をひそめながら、噂の発端を理解した。
 てっきり私との会話が聞かれたものだと思っていたけれど、見当違いだったようだ。清水薫のように私のこともいずれ広まるのではないかと密かに怯えていたのが馬鹿みたいに思えてくる。
 自身の不安が取り除かれたことで、心が少し軽くなった。そんな自分が嫌になる。今だって清水薫は窮地に立たされているというのに。

 同性パートナーシップ証明制度を皮切りに性的マイノリティが世間に浸透した。メディアで取り上げられることが増えた。自身の性的指向を公表する芸能人が増えた。性別違和の方が学校に講演に来られることもあった。むかしよりも理解は着実に進んでいるのだと思う。
 でも、こんな辺鄙な田舎ではやはりみんなどこか他人事で。自分の周りにそういう人はいないと無意識に考えている。現に、いまだって。そう考えているからこそ、清水薫が好奇の目に晒されている。

 依然として彼を中心に引かれた人の輪。
 その隙間から、力なくぶらさがった彼の手を見た。――ああ。

 きぃ、と椅子が床に擦れた音が、波紋のように響いた。
 噂話に花を咲かせていた子たちは口を閉じ、静かに私を見つめる。
 そんな教室の中を一歩、また一歩と進み、輪の中心に立った。
 清水薫は目を丸くしてなにかを言いかけたが、それよりも先に私が口を開いた。

「あのさ」

 高校2年生。夏。
 噂が飽和した、水槽みたいな箱の中で。

 迷いながらも、私は――。

「清水くんと付き合ってるの私だから、勝手な噂流さないでくれない?」

 震える彼の手をとった。


  ◆


「今日デートだから帰り遅くなるわ」
「あーおっけい。いってらっしゃい」

 玄関で靴を履く薫に、「デート頑張れ~」というエールを込めてリビングから手を振る。
 そして薫がガチャリと鍵をかけたところで、私も身支度に取り掛かった。


 薫との衝撃的な出会いから早7年。私たちは24歳になった。
 高校卒業後それぞれ別の企業に就職し、社会人2年目にして同居へと踏み切った。そして今の私たちの関係は一応婚約者ということになっている。そう、"一応"。
 婚約者はしているもののお互いに恋愛感情は一切なく、私たちの関係を強いて表すなら共闘関係がいちばん近いと思う。もちろん共通の相手は一般社会だ。
 一緒に暮らしてはいるけれど基本各々の部屋で過ごすし、各々の部屋で寝る。食事もタイミングが合ったときにだけ一緒に摂るという感じだ。


 いきなり屋上に呼び出して私の性的指向を言い当てた挙句求婚してきたときはただのやばい人だと思った。
 でも、教室でひとり震えている彼を見たとき、とても無視なんてできなくて、自然と身体が動いていた。
 あのときの選択が正しかったのか間違っていたのか。その答えはまだ見つかっていないしこのまま見つからないままかもしれないけれど、今のような平穏が続けばいいと思っている。

 それに、彼の事情を聞いたらなおさら突っぱねられなくなった。

 薫は小さい頃から両親に「素敵なお嫁さんを見つけて幸せになってね」と言われながら育てられたらしい。だが彼が惹かれるのは男性ばかり。そこで自身がゲイであることを理解したけれど、両親にカミングアウトなんてできなかった。ある日テレビのワイドショーで性的マイノリティについて触れられていた際、彼の母が「へぇー、今ではこんなのが流行っているのね。知らなかったわぁ。でも薫は違うわよね?」と悪気なく言ってきたから。

 その言葉がどれだけ彼を傷つけただろう。
 人伝に聞いた私でも胸が引き裂かれそうになったのだ。彼の辛さはとてもじゃないが計り知れない。
 悪意を持って言われたことよりも何気なく言われたことの方が時には鋭利なナイフに変貌するのだ。
 その刃は今も彼に刺さっているのか、私は訊くことができない。

 そしてちょうどそのタイミングで告白を断り続けている私の噂を聞き、もしかしてと思い声をかけたのだと言う。あのときは飄々とした態度だったけれど内心は藁にも縋る思いだったのだろう。
 自分で言うのもなんだがいい人選だったと思う。
 現に彼は恋人と逢瀬を重ね、私は一人を謳歌している。

 もう少し年齢が上がって結婚すれば子どもはどうするのかと両親から詮索されるようになるだろうけど、私が子どもを身ごもりにくい体質ということにして切り抜けるつもりでいる。元々薫が現れなければそう嘘をついて独身を貫くつもりだったので抵抗感はなかった。

 一生をかけて周りを騙すことになるけれど、自身の性的指向を明かすより、この方がずっと息がしやすかった。


  ◆


「上手くいった」
「おめでと」

 お祝いの言葉とともにカン、とガラス音を鳴らした。握りしめるジョッキにはビールがなみなみと注がれている。
 薫の恋路がうまくいったときは祝杯を交わす。うまくいかなくてもお酒を片手に彼の話を聞く。これは同居を始めてなんとなくできた決まりごとだ。
 お酒好きというのは数少ない彼との共通点で、時間が合えばこうして宅飲みをしている。
 嬉々としてのろけ話をする薫は何歳になっても子どもみたいだ。そんな一面をほほえましく思いながら、泣きそうになる私がいる。

 ――薫の気持ちを真に理解できないからかな。

 ズキズキと痛む胸を隠すようにグイっとビールをあおった。

「今度家に呼んでいい? 千早にも紹介したい」
「いいよ。日にち決まったらまた言って」

 そう言って笑いつつ、内心少し緊張していた。
 以前、薫が恋人に私と同居していることを打ち明けたとき、本当はバイセクシャルじゃないのかと疑われ、ひどい振られ方をしたことがある。1年半付き合った人だった。
 私が彼の恋路を邪魔したのだとすぐに悟った。もし私とそれにもかかわらず、薫は私に八つ当たりすることはなかった。

 清水薫は強い人だった。
 今度こそ長続きしてほしい。

 だから、私の気持ちなんてどうでもいい。薫が幸せな顔をするたびに独りぼっちになっていくような、そんな私の身勝手な気持ちなんて。

「薫ってさ、その、恋人には甘える側? 甘やかす側?」

 気を紛らわすために、そう口にする。

「千早がそういうの訊いてくるの珍しいね。どっちっぽい?」
「甘える側」

 直感的に答えると彼は楽しそうに口角を上げた。

「残念。甘やかす側」
「え」

 驚きはしたものの、数秒経ってからそういえば包容力あるなと思い直す。私の買い忘れが多かったりドジってゴミ箱ひっくり返したりしてもちょっと馬鹿にするだけで怒らないし。


 3杯目を飲み始めたところで観ていたバラエティー番組が終わり、夜のニュースが始まった。政治家が資金を横領していた事件、人気俳優の結婚、最近の若者の流行――なんてものには微塵も興味ないけれど、チャンネルを変えるためにリモコンを操作するのが面倒でそのまま垂れ流しにする。薫もおんなじなのか特に気にする素振りはない。

 この時点で私はだいぶ酔っていたんだと思う。
 だから、話題が同性婚を巡る裁判に切り替わったとき。

「もし将来同性婚できるようになったらさ、私と別れるの?」

 そんな疑問が口をついて出てしまった。
 コン、と薫がジョッキを置いた音で我に返る。
 そして私が発言を取り消すより先に薫が口を開いた。

「え? 別れないけど?」

 あまりにもあっさり答えを出すものだから面を食らう。

「……なんで?」

 そう尋ねる声は震えていた。
 
 薫と付き合っているとクラスメイトの前で宣言してから、私を取り巻く環境が変わった。「誰とも関わろうとしない人」というレッテルが剥がされ「クラスのキラキラ男子の彼女」という新しいレッテルが貼られたのだから当然だ。もちろん妬む人もいたけれど、さして影響はなかった。むしろ今まで告白を断り続けていたことにわかりやすい理由ができたからか「彼氏に一途ですごい」とこれまでの私を肯定するような声も聞こえてきた。

 それは社会人になってからも同じだった。なんとなしに開催された同期たちとの飲み会で、お互いの恋人の話になったことがある。私が薫のことを話すと「そんなに長く続くなんて羨ましい」とか「確かになんか多幸感あるかも……!」とか口々に言われ、好反応を示された。たったそれだけでいとも簡単に場に馴染めたのだ。

 私は薫と付き合ってから格段に生きやすくなった。
 そしてそれは薫と一緒にいる限りずっと続くと確信している。

 ――でも、薫は?

 両親の期待に応えられているし周囲に同性愛者であることを隠し通せている反面、たびたび私の存在が彼の障害となっている。
 今でさえそんななのに、なんで。なんで別れないと言い切れるのだろうか。
 薫の考えが読めなくて、どうにも腑に落ちなかった。

 そんな私の心情を察してか、薫がいつもより落ち着いた声で尋ねてきた。

「千早に声をかけた日のこと、覚えてる?」
「え、うん……」

 忘れるわけがない。あんなに強烈な出会いだったのだから。

「あのとき同類センサーって言ったの、同じマイノリティ側っていうのもあるけど、千早がちょっと中学の俺と似てたからなんだよね」
「……え?」

 初めて聞く話だった。薫は昔を思い出しているからか、少しだけ視線を下に落とした。

「俺がゲイって自覚したのは中2のときだったんだけど、まぁ思春期だからさ、距離感がわからなくなったんだよね。変に意識したらゲイってバレるかもしれないし、かといって意識しないのも無理だし。女友だち作ってその子といることも考えたけど、ちょっと女子と話しただけで付き合ってんじゃねとか噂になるし、もしその子に好意を向けられたらお互い苦しむだけだし。そんなかんじでいろいろ詰んでてどんどん距離感見失ってしんどくて……」

 言葉を切り、瞳を伏せて一度唇を固く結ぶ。それもすぐにほどかれ、続きを話し始めた。

「それでも時間が経つにつれてほんの少しずつだけど慣れてきて、高校に入る頃にはふつうに振る舞えるようになってたんだけど、周りと距離を取ってる千早がどうしても中学の俺と重なって放っておけなかったし、千早なら俺のことも理解してくれると思って声をかけたってわけ」

 ここでふっと目元を緩め、「実際俺の勘は正しかったと思うよ」とちいさく笑った。

「千早は俺と絶対そういう関係にならないから一緒にいると楽なんだよね」
「それは、まぁ、私も……」

 薫といると取り繕う必要がなくて居心地がいい。
 私も共感したことがうれしかったのか、彼は満足そうな顔で頬杖をついた。

「だから俺は千早と別れるつもりはない。それに、」

 彼のまっすぐな瞳が私を射貫く。


「千早のこと好きだから。……まぁ人としてだけど」


 自分で言っておいてちょっと照れないで欲しい。
 いつもならそう突っ込むのに、言葉が喉につっかえて出てこなかった。


「千早は恋人でも友だちでもないけど、婚約して一緒に住むくらいには、特別だと思ってる」

 そして『特別』という単語を聞いた途端、私はついに言葉を失った。それと引き換えに鼻の頭が熱くなる。


「……あー、やっぱ今のなし。さすがにクサすぎ──え、何で泣くの」
「だ、だって」

 勝手に涙が溢れてくるんだから仕方ない。何でかなんて、私が知りたい。
 今、薫に言いたいことがたくさんある。
 でもどれもうまくまとまらなくて。ぐしゃぐしゃの頭のまま、大切なものをひとつひとつ掬いあげるように、言葉を紡いだ。

「私、薫のこと、恋愛対象じゃない」
「うん」
「ドキドキしないしキュンってしないし、ぽわぽわーってならない」
「知ってる」
「……でも」

 自分でもなんで急にこんな話をしたのかわからない。薫はもっと訳がわからないだろう。それでも私の話を聞いてくれる。
 そういうところが本当に――。


「好き、なんだと思う。人として」
「……そう」


 薫が静かに頷いた。

 その瞬間、止まっていた時計の針が再び動き出したように、凝り固まっていた心にあたたかいものが流れはじめた。


 私には恋愛感情がない。

 だから私も誰も傷つけないために一人になるしかないと思っていた。

 それでも私はずっと、独りが寂しかったんだ。

 周りから浮かないように恋愛を学習しようとしたのも、漠然とした不安に襲われてたのも、薫ののろけ話を聞くたびに泣きそうになっていたのも、全部それが根幹にあったから。

 きっと薫と私の「好き」は、おんなじ「人として」という意味でも違うかたちをしている。というより、ひとと完全におんなじ気持ちを共有することなんてないんじゃないんかなと思っている。だってひとによって気持ちの比重は変わってくるから。それでも大丈夫だと思えるくらいに――。


 薫は恋人のように涙を拭ったり頭を撫でたり抱き締めたりすることもなく、ただティッシュを差し出してきた。これで涙を拭けということか。なんとも薫らしい。


 薫がいてよかった。

 ないものばかりに囚われていたけれど、薫のおかげで、私も人を好きになれることを知った。

 たったそれだけで、私は救われたの。


  ◇


「今日もデート?」
「うん。だから夕飯はいらないよ」
「おっけー。じゃ、いってらっしゃい」
「いってきます」

 私は今日も笑って彼を見送る。いつものように「頑張れ~」というエールを込めて。
 彼が玄関の扉を開けたとき、さわやかな風が舞いこんだ気がした。

 私たちは交わらない。
 身体も、感情も、指向も。
 それでもお互いがお互いにとって最良のパートナー。

 平行線を並んで歩いていく。


〈了〉