ユキイロノセカイ

「なくなってしまう前に、あのビルで、たしかめたいことがあるんだ」

 いつかはそう言い出すだろうと予感してたから、うなずくのに抵抗はなかった。

 ヒュオオオー……
 最後におとずれてから1ヶ月弱。

 例のビルは屋上の陥落を受けて、いよいよ解体工事が始まったという。
 その話通り、ほとんどが骨格のみを残し、野ざらしになっていた。
 今はないビルの屋上を見上げた(せつ)が、静かに瞳を閉じてしばらく。

「……やっぱり。だから(ゆき)ちゃんは、ぼくのことを呼びとめてくれたんだね」

 スゥ……と深呼吸をした雪は、ゆっくりとチョコレート色の瞳をひらく。

「未来は、ふたつあったんだ」

〝0は1に、なり得ないんだ!〟

 楓に訴えかけられて気づいた、真実。

 あたしの運命を肩代わりしたのなら、そもそも雪が息をしているはずがなかったんだ。
 だから0じゃない、これは1なんだと確信した。

 ずっと謎だったそのからくりを、「全部解けた」と雪は続ける。

「幸ちゃんはあの夜、ぼくの記憶を見たでしょう」
「……うん。頭の中に、流れ込んできた」
「それと同じようなことが、かすかな痕跡程度だけど……ぼくにもあったんだ」
「……初耳なんですけど」
「目が覚めて、ぼくも色んな感覚が鈍ってたしね。確証が持てなかったんだよ。それが、ここに来てハッキリわかった」

 屋上から落ちた。
 にも関わらず、5年という長い年月をへて雪が意識を取りもどした理由は。

紗倉(さくら)さんの記憶が、ぼくに流れ込んできたんだ」

 良家のお嬢様。
 生まれた瞬間から用意された線路に、疑問を抱いていた幼少時。

 思春期、はじめてひとりの少女として恋心を抱いた相手は、彼女の家柄に目をつけ弄んだ末、社会的に抹殺された。
 愛した男の無残な末路と、追い詰めた親。
 肉親すら、彼女は信じられなくなった。

 己が生きている意味は何なのか?
 彼女は、すがるように追い求める。
 ただ、壊れた心を愛でつつんで欲しくて。

「どんな過去があっても、彼女の犯した罪を許すことはできない」

 スッと瞳を細め、静かに言葉をつむぐ雪から、いつもの無邪気さは感じられない。
 彼を傷つけ、彼の宝物を傷つけた。
 その結果として、彼をかつてないほど激怒させた出来事なんだ。
 いい想い出であるはずがない。

「でも、彼女を追い詰めたものがあるということを、ぼくらは知った。だから、すべてをないがしろにしてはいけないんだ」

 散々傷つけられたんだ、同情してやる義理だってない。それでも。

「紗倉さんは、最期に過ちを悔いた。きみが〝生きろ〟と存在を肯定したから、生きたいと願えた――その想いを、ぼくは託されたんだね」

 一度言葉を切った雪の表情は、胸のわだかまりがすべて解けたような、穏やかなものだった。
 悲しむ楓を見ていられず、自分は死んだものと思い込んだまま、病院を飛び出した雪。

 本当は、生霊だったんだ。
 ひとたび願えば、月森雪(つきもりせつ)は、簡単に未来を取りもどせたことだろう。
 そして佐藤幸(さとうゆき)は、人知れずその生涯を終えていたことだろう。

 けれど、神様は〝交換〟という形であたしたちを出会わせた。
 生きたいと心から願う者が、そうあれるように。
 雪とふれ合い、生きたいと願うようになった。
 そんなあたしの運命を雪が肩代わりしてくれて、雪の運命を、紗倉が肩代わりした。

 ふつう0は1になり得ないけど、1は、0になり得るね。
 雪の1は、あたしの1に。
 紗倉の1は、雪の1に。
 こうなることすら、神様はお見通しだったのだろうか?

「とんでもない人だったけど……雪を想う気持ちは、本物だったんだね」

 自分のことで精いっぱい。
 そのクセ他人に命を賭けちゃうほど、バカで、儚くて、美しいんだね、人間ってのはさ。
 おそらくいないだろう彼女の残像をたどるように、今一度空を見上げる。

「あなたに譲っていただいた未来を、彼女と共に歩んで行きます」

 雪のつぶやきを、どこからか吹き下ろした風が、拾っていった。