あの日。
予報をはるかに上回る大雪が人々の足を遠ざけ、彼女の凶行を促した。
パサ……と乾いた音を立てたのは、ぼくの傘だったろうか。
声は音にならず、ひゅう、とのどが鳴るばかり。
「せつにい、さん……逃げ、て……」
「……かえ、くん? かえくんッ!」
行ってきます!
今朝も元気に登校していった弟は、見るも無残な姿で横たわっていた。
冷たい床は、鮮烈な紅の海。
夢中で駆け寄った。
抱き起こすだけで錆びた鉄のにおいが鼻を突き、ねっとりと生温かい血液が両手を濡らす。
「かえくん、しっかりして! 目を開けてよ! おねがいだからっ!」
「お待ちしていましたわ、雪さん」
この惨状にふさわしくない、落ち着いた声がひびく。
コツ、コツ……とヒールの音が、やけによく聞こえて。
「私からのプレゼントは、気に入っていただけましたか?」
ふり返った先に、鮮血の滴る銀の刃。
見上げた先で、返り血を浴びてなお嬉々としてほほ笑む、美しい顔があった。
一瞬で、すべてを理解する。
「沙倉さん! どうしてっ……こんなにむごいことを!」
「雪さんのせいですよ。あなたが、楓ばかり気にかけるから……」
「ぼくの、せい……? ぼくが、今夜のお誘いをお断りしたからですか……?」
「そうです。私、本当に悲しくて、寂しくて……」
「だからといって、許されることではない!」
ひどく両肩を跳ねさせた沙倉さんの瞳に、じわりと涙がにじむ。
それもそうだろう。
ここまで激怒したのは、ぼくも生まれてはじめてだから。
「ちがう……私はただ、雪さんにふり向いてほしくて……」
彼女はうわ言のようにくり返している。
(……今が、チャンスか)
一刻も早く弟を助けるために、コートのポケットへ、そっと手をすべり込ませる――
「納得いきませんっ!」
けれど荒ぶる叫びとともに、スマートフォンが宙を舞った。
勢いよく床に叩きつけられたそれに、追い討ちのごとく鋭い刃が突き立てられる。
はじかれた右手の、ほんの3cmほど横で。
「きちんと殺せていたなら、私だけを見てくださったのでしょうか……」
一瞬で距離を詰めた彼女は、まばたきもせず、ぼくを一心に捉えている。
それなのに意識はどこか別方向を向いており、えぐるように刃をねじ込むすがたが、弟に向けられた怒りだと思うと……
「楓を殺めるのは、あなたの愛情です。生かすのもまた、しかり」
「――!」
「楓を本当に愛しているなら……私といらしてください」
憤りの目を向けられたことで、彼女の何かが壊れたらしい。
間近に迫る瞳の、なんと暗いこと……
「……わかり、ました」
すべてを投げ打ち、ぼくと死ぬつもりか。
容易にはかり知れたけれども、うなずいた。
通話手段はガラクタと化し、もう選択肢などないのだから。
自身のスマートフォンをちらつかせる彼女。
唇を噛みしめ、美しい笑みに続いて階段へと足を向ける。
恐怖よりも、遠ざかる弟のことが、ただただ気がかりでならなかった。
予報をはるかに上回る大雪が人々の足を遠ざけ、彼女の凶行を促した。
パサ……と乾いた音を立てたのは、ぼくの傘だったろうか。
声は音にならず、ひゅう、とのどが鳴るばかり。
「せつにい、さん……逃げ、て……」
「……かえ、くん? かえくんッ!」
行ってきます!
今朝も元気に登校していった弟は、見るも無残な姿で横たわっていた。
冷たい床は、鮮烈な紅の海。
夢中で駆け寄った。
抱き起こすだけで錆びた鉄のにおいが鼻を突き、ねっとりと生温かい血液が両手を濡らす。
「かえくん、しっかりして! 目を開けてよ! おねがいだからっ!」
「お待ちしていましたわ、雪さん」
この惨状にふさわしくない、落ち着いた声がひびく。
コツ、コツ……とヒールの音が、やけによく聞こえて。
「私からのプレゼントは、気に入っていただけましたか?」
ふり返った先に、鮮血の滴る銀の刃。
見上げた先で、返り血を浴びてなお嬉々としてほほ笑む、美しい顔があった。
一瞬で、すべてを理解する。
「沙倉さん! どうしてっ……こんなにむごいことを!」
「雪さんのせいですよ。あなたが、楓ばかり気にかけるから……」
「ぼくの、せい……? ぼくが、今夜のお誘いをお断りしたからですか……?」
「そうです。私、本当に悲しくて、寂しくて……」
「だからといって、許されることではない!」
ひどく両肩を跳ねさせた沙倉さんの瞳に、じわりと涙がにじむ。
それもそうだろう。
ここまで激怒したのは、ぼくも生まれてはじめてだから。
「ちがう……私はただ、雪さんにふり向いてほしくて……」
彼女はうわ言のようにくり返している。
(……今が、チャンスか)
一刻も早く弟を助けるために、コートのポケットへ、そっと手をすべり込ませる――
「納得いきませんっ!」
けれど荒ぶる叫びとともに、スマートフォンが宙を舞った。
勢いよく床に叩きつけられたそれに、追い討ちのごとく鋭い刃が突き立てられる。
はじかれた右手の、ほんの3cmほど横で。
「きちんと殺せていたなら、私だけを見てくださったのでしょうか……」
一瞬で距離を詰めた彼女は、まばたきもせず、ぼくを一心に捉えている。
それなのに意識はどこか別方向を向いており、えぐるように刃をねじ込むすがたが、弟に向けられた怒りだと思うと……
「楓を殺めるのは、あなたの愛情です。生かすのもまた、しかり」
「――!」
「楓を本当に愛しているなら……私といらしてください」
憤りの目を向けられたことで、彼女の何かが壊れたらしい。
間近に迫る瞳の、なんと暗いこと……
「……わかり、ました」
すべてを投げ打ち、ぼくと死ぬつもりか。
容易にはかり知れたけれども、うなずいた。
通話手段はガラクタと化し、もう選択肢などないのだから。
自身のスマートフォンをちらつかせる彼女。
唇を噛みしめ、美しい笑みに続いて階段へと足を向ける。
恐怖よりも、遠ざかる弟のことが、ただただ気がかりでならなかった。



