ユキイロノセカイ

 膝から崩れるのと、(かえで)が駆け寄ってくるのとは、ほぼ同時だった。

「ごめんっ! ホントごめんっ!」

 あたしのからだを支えひた謝る、泣きそうな顔。
 目前のそれが、どこか他人事のように感じてならない。

「楓……あたし、平気だよ? だって全然、痛くない……」
「……え?」

 痛覚が麻痺したとかじゃない。
 本気で痛くないんだ。
 その証拠に、血は一滴も流れていない。

「……なんだ、これ……」

 楓は患部を凝視しながら、先程のあたしと同じつぶやきを漏らす。
 刺さっているのに怪我をしていない。
 それにこのナイフ、あたしの見間違いじゃなかったら……

「ショータイムはおしまいよ」

 次の瞬間、信じられない出来事が起こる。
 煙が霧散するように、ナイフが姿を消したのだ。
 まただ……さっきはひとりでに飛んできたし、おかしい、あり得ない。
 でも事実、楓に拘束された場所から、紗倉(さくら)は1歩たりとも動いていない。
 一体なにが起きたの……?

「ふふ……私は5年前に生まれ変わったの。そう、神にね!」

 ……ヤバイ、本格的にヤバイぞこれは。
 精神異常者が一流マジシャンに?
 最悪な組み合わせでしょ。
 気を抜いたら、引きずり込まれる。

「信じるも信じないもあなた方次第。ただ、先に断っておくわね。ひさしく人間と接していなかったものだから、加減がわからないの。痛くしてしまったらごめんなさいね?」

 言葉の終わりを待たず、グニャリと、美しい笑みが歪む。
 ……違う、正確には空間ごと歪んでいる。
 闇にとける女の幻影。
 弾かれたように辺りを見回せど、すがたは認められない。

「ユキさん、こっちに!」

 ふいに腕を引かれ、つられて駆け出す。

「無理させてごめん。あと少しの辛抱だからがんばって……!」

 楓に手を引かれ、暗闇の中を疾走する。
 やがて階段へさしかかり、うっすらと明かりを見つけた。
 出口だ……!
 夢中になって駆け下りる。

「ひゃっ!」

 そして、絶望する。
 明かりの正体は外から射し込む街灯なんかじゃない。
 投げ放ったはずのライトだ。
 足もとには、鮮烈に刻まれた……楓の血痕。
 あたしたちは、逃げ出したその場所にもどってきたのだ。

「ウソ、だろ。こんなこと、あるわけ……」

 ――迷子の迷子の子猫ちゃんたち。迷路は気に入って頂けたかしら?

 すがたは見えない。
 闇の中を鈴が転がるように、女の声だけがこだまする。

 ――喜んで。あなたたちには、特別なゴールを用意しているのよ。

 クスクスと、どこから聞こえるかわからない笑い声が耳障りだ。

 ――あまりイジメると、可哀想だものね。私が直々におむかえするわ。

〝5階〟であるはずの部屋に、ピチョン……ピチョン……とひびく水音。
 徐々に近づくそれは、魔の足音のようで。

「さぁいらっしゃい――(ゆき)さぁん?」

 視界が揺れる。
 からだが後ろに傾ぐ。
 女の力とは思えない。
 引っ張るこの感触は、そもそも人間の手じゃない。