ユキイロノセカイ

「そんなっ……まさかっ……雪が、楓の……でも雪は元気で、ふれられてっ!」
「ユキさん、落ち着いて!」
「ウソだ! あんなに笑ってたのに、雪が、雪が……!」

 雪が、死んでる……なんて。

「う、ぁ……っ!」
「ユキさんっ!?」

 痛い……痛い痛い痛い。
 頭が真っ二つに割れそうだ……からだだって、沸騰したみたいに熱い……

「熱が悪化したのか! くそ……ユキさん、俺につかまって。早くここを出よう!」

 まるで地震が起きたよう。
 平衡感覚を保てない。
 耳鳴りで遮られる断片的な声を頼りに、腕をのばす。
 やっとの思いで鉛みたいなまぶたをこじ開けたとき、楓の向こうの闇が揺らいだ。

「美しい愛情ですこと。一途で、健気で……つくづく出来損ないの弟ね」

 瞬間、楓が身を反転させる。
 闇の中からゆらり、ゆらりと現れた彼女は、1歩ごとに恐怖であたしたちを(なぶ)るよう。

 大きな背があたしをかばう。
 広げた両腕はふるえ、それでも頑として、楓は悪魔を睨みつけている。
 終始弓なりに口端を曲げていた沙倉だったが、このときはじめて、面白くなさげに眉をしかめた。

「……生意気な目をするようになったのね。そんなに愛しているなら、奪えばよかったじゃない」
「俺は、おまえとはちがう。私利私欲のために、彼女を傷つける真似はしない」
「ふふっ……本当に可愛げのない子! 私がせっかく手助けをしてあげたのに、どうしてみずから茨の道を進もうとするのかしら! ねぇ楓、あなたが幸さんをモノにしてさえいれば、全部上手く行ったのよ……?」

 事情を知り、言葉の意味が少しでも理解できる今、紗倉がどんなに狂っているのかもわかる。

「あなたがいたから、彼はうなずいてくれなかった。あなたが中途半端だから、幸さんは未だに彼を想っている。あなたがいたから、あなたがいたから……!」
「ざけんな。あんたの人間性に欠陥があったから、ふたりとも拒否したんでしょ。責任転嫁すんのはお門違いだろうが……!」
「あら、ひがみかしら? そうよねぇ、私に彼を盗られてしまいそうなんですものね」

 言葉が通じない。
 この人になにを言っても無駄だ。
 楓も同感のようで、息を殺し、隙をうかがう。

「ただ困ったことに、彼の澄んだ瞳も曇らされたようなの。兄弟そろって同じ人を愛す……なんて悲劇なんでしょうね! バッドエンドは悲しいわ……ですから、私が正気に戻してさしあげるの」

 ――ギラリ。

 鈍い銀の光源は……ナイフ。
 艶めかしい笑みで刀身の冷たさを確認するすがたは、まさに凶器へ頬ずりをする犯罪者だ。

「今度はちゃあんと受け取ってね、楓?」
「逃げて楓! ……楓っ!?」

 楓は動かない。あたしがいるから。

 血の気が引く。
 声にならない悲鳴が口内で消える。
 のどが切り裂かれるまさに寸前だった。
 楓はからだをひねり、紗倉の右手首をつかむ。

「俺は、おまえが嫌ってる〝男〟だ。ナメんじゃねぇ」

 思わず二の腕をさするほど、ドスの効いた低音だった。
 はじめて目にする、楓の激昂。
 ギリギリと容赦なく手首を締めつけられ、ついに紗倉がナイフを取り落とす。
 楓は鼻を鳴らし、床に転がったそれをかかとでふみつけた。
 形勢逆転。
 敗因は、楓を見下したその慢心。

「ずいぶんと……お利口になったじゃないの」
「悪あがきはよせよ。今度こそ警察に突き出してやる」
「ふふ、あはははっ!」
「……なにがおかしい」
「あなたに私が貶められると? あり得ないわ! 考え違いも甚だしい! あはははっ!」

 狂っているがゆえに、常人の危機感も欠如しているのか。
 なんにせよ、丸腰なら怖いことはない。あとは人数の利だ。

「こんなとこに長居したくない。行こ、楓。見張るの手伝う」

 あたしも楓も、油断したつもりは毛頭なかった。
 それでも、壁に手を付き慎重に立ち上がったあたしを、紗倉は嗤う。

「――隙ありよ」

 甘美な艷声が耳に届いた直後、息が詰まる。

「…………ユキ、さ……ユキさんッ!」

 なんだよ楓、顔真っ青にして。
 口にしたつもりが、上手くお腹に力が入らなくて、声にはならない。

「な……んだコレ……」

 楓の視線を辿り、目を見張る。
 違和感を覚えた腹部に、深々と、銀の刃が突き刺さっていたのだ。