ユキイロノセカイ

「兄さんが自殺なんてするわけない。だけどあいつと落ちていたことも、あいつの亡骸が見つかっていないのも事実だった。わけわかんなくなったよ……」

 10階から飛び降りたなら、タダでは済まないだろうに。
 楓の混乱も最もだ。

「仮に、喜んでいいのかもわからない奇跡が起きていたとして、あの人が今頃あたしたちの前に現れた理由って、なんなんだろう……」

 想い人はいない。残ったのは楓。
 あたしが傷の存在を知っていたというだけで、楓の想いを見抜いたあの人。
 殺し損ねた楓に再び危害を加えるつもりなら、なんであたしを抱かせようとしたの?

 ……そうすることが、あの人にとってのメリットだった?

 あたしと楓が結ばれること。
 あたしたちがそろっていなくなること。

 ……もしかして、あたし? あたしも邪魔だった?

 あたしなにかしたっけ?
 あの人とは赤の他人もいいところだよ。
 会ったことなんて、あの日しかないし……

「…………いや、待って。ちょっと待って」

 あたしはあの日、見たじゃないか。
 笑顔で(せつ)と話すあの人を。
 あの人があたしに告げた〝記憶障害〟のことも、ちがっていた。
 雪はあたしを忘れたりしなかった。

〝こんなやり方できみを守ろうなんて、間違っていたんだ……!〟
〝時間がないんだ! 早くしないと、あの人に見つかってしまう!〟
〝この先に、きっといる。あの子がいてくれるから……頼って。そしてどうか……〟

 のどを枯らすように訴えた雪が、最後に残した言葉は。

〝どうか……ぼくのことは忘れて〟

 あの子と、幸せになって――と。

「楓……っ!」

 グイと腕を引っ張れば、楓の歩みが止まった。

「ユキさん……?」
「教えて。楓のお兄さんの名前は、なに?」

 その瞬間、限界まで見開かれる焦げ茶色の瞳。
 つばを呑む音。
 ……沈黙。

「ユキさんの話を聞いたとき、クリスマスカードを見たとき」
「……え?」
「まさかとは、思ってたんだ。……やっぱり、まぐれじゃなかった」

 向き直る動作が、やけに長く感じる。
 おたがい強張った表情。
 楓はあたしの目線にかがみ、ゆっくりと口をひらく。

「ゆき……白雪の雪と書いて……セツ。俺の兄さんは、月森雪(つきもりせつ)だ」
「ッ!!」

 ――大きくなったねぇ。
 ――こらっ、喧嘩はダメです!
 ――ほんとはやさしい子なんだよね。
 ――かえくんは、ぼくの大切な弟だよ。

 脳裏を駆けめぐる声。あたしの記憶じゃないのに……あたしは、知ってる。

〝幸ちゃん! かえくん!〟

 ふたつの声音が、ひとつの笑顔にかさなった。