ユキイロノセカイ

「かえ、でっ……おねがいだから離して! 楓っ!」

 わずかな息継ぎの合間、声を上げる。
 がむしゃらな訴えもむなしく、キスで濡れそぼった熱い唇が、首筋に押し当てられた。

「あッ……!」
「生々しい光景ね。男の醜さがよくわかるわ。ねぇ幸さん、もうおわかりでしょ? 抵抗する分つらいだけよ。そろそろ楓に身をゆだねなさいな」
「やだぁっ! 楓ッ!」

 いやいやと首をふれば頬にキスが落とされ、次は耳朶……

「……ごめんユキさん、俺のせいで」

 だけど、密着していなければ聞こえない程度の、かすかな声がした。
 聞き間違いじゃない。

「俺が隙を作るから逃げて。いいね」
「そんなっ――」

 ふさがれる唇。
 ふれるだけのやさしいキスの後、楓は愛おしげにあたしの髪を梳いて。

「……最後くらいは、想い出もらってもいいよなぁ……?」
「か、えで……なにを……」
「愛してるよ、幸…………そして」

 ――サヨウナラ。

 切ないほほ笑みを残し、身をひるがえす。

「きゃああっ!」

 顔を押さえ、うずくまる紗倉。
 楓が渾身の力で投げ放ったライトの光、そして衝撃を、顔面で受け止めたのだ。

「行けッ!!」

 追い立てられるように立ち上がる。
 視界の端で紗倉につかみかかる楓……彼が間もなく崩れ落ちる様を、目の当たりにする。

 ……発作だ。

 沙倉に刻み込まれた悪夢が、年月をへてなお、楓へ魔の手をのばす。

「よくもっ……!」
「楓にさわんな、妖怪ババアッ!」

 喧嘩とは縁遠い。
 そんなあたしのちっぽけな拳が、空振り三振でもわずかな距離を生んでくれた。
 立て続く強襲に、沙倉は逃げるようにして闇の中へ姿をとけ込ませた。
 あたしはきびすを返し、肩で息をくり返す楓に駆け寄った。

「ユキさ……なん、で……」
「あんたはあたしの一番にはなれない。けど月森楓は、ひとりしかいないだろ! たったひとりしかいない、特別なバカ弟子なんだよボゲェッ!!」

 もう誰も見捨てたくない。
 だから簡単に死にに行くようなバカはやめろ!
 まだあたしがいるだろが!

 我慢ならなくなって、思いのまま、感情のままに楓を力いっぱい抱きしめた。
 キツイくらい、両腕を首に回して。

「オラ、とっととずらかるぞバカ弟子!」
「いってぇっ!」

 容赦なく、両耳を引っ張る。
 安堵の涙で情けない顔を、見られてしまわないように。

「ちょ、そこ耳です……少しは労って……」
「師匠に口答えたぁ威勢のいいバカだ。そーいやおまえ、足速かったなぁ。師匠乗っけて逃げろ」
「5階から駆け下りんの!?」
「たりめーだろ。ずらかるのに上がってどうすんだ。バンジーでもやんのか。いいこと教えてやろうか、死ぬぞ」
「知ってる!」
「つーか漫才してる場合じゃなかった!」

 楓の手首を引っつかみ、よっしゃ逃げるぞスタコラサッサ。

「もうやだユキさん……大好き、愛してる」
「うわああ痒いッ、背中が痒いッ!」
「速いよユキさん、その調子!」
「ひぎゃああああっ! 痒みが手先にもぉおおおおッ!」

 手首をつたい、ギュッと握られた手。
 いままさにあたしを追い越した楓は、史上最高にだらしないふにゃふにゃスマイルだった。