ユキイロノセカイ

「ぐっ!」
「きゃっ!?」

 突然崩れたバランス。
 間一髪で支えられたけれど、予想外の衝撃にまぶたを上げてしまう。
 投げ出されたライトのわずかな光を浴び、苦しげに膝をつく楓が浮かび上がった。

「楓っ――」

 でも呼び声は音にはならず、短い悲鳴がのどの奥で消える。

 錆びた鉄のような……嫌なにおいが、かすかに。
 見間違いであればどんなによかっただろう。
 ライトが照らし出す先、階段手前に浮かび上がったのは、おびただしい赤黒色の染み。

「あれっ――!」
「見るな!」

 強引に抱き寄せられ、胸もとに顔を埋めさせられる。
 視界を奪ったところで、生々しい惨状は消えはしないというのに。
 あれは、紛れもなく血痕。
 楓のものでは、ないと思う。
 だって黒すぎる。ずっとずっと昔のものだ。
 楓は、これがあるとわかって……?

「ねぇ楓、楓は、ここのこと、なにか知ってるんじゃないの?」

 ここに来ることをあんなに嫌がっていたのに、詳しい。
 それも、建物の構造を熟知しているレベルで。
 違和感を覚えるたびに上手くごまかされたけど、いい加減気づく。
 おかしいと。

「ユキさん……」
「教えて、楓……!」

 ぐ、と楓は唇を噛む。
 悲しそうに。それでいて、悔しそうに。
 長い長い沈黙をへて、楓は重い口をひらいた。

「……ここは、飛び降り自殺の現場になった場所……だけど、事実はそんなに簡単じゃない」
「みんなが知ってることと、真実はちがうって?」
「そうだ。俺はここで、かけがえのない家族を奪われたんだ!」
「――人聞きの悪いことを、吹き込まないでくれるかしら?」

 ふたりしかいないはずの廃墟に、艶やかな声がひびき渡る。
 となりで楓のからだが跳ねたのを、あたしは見逃さなかった。
 そして驚愕する。
 楓の顔色が、あまりに蒼白すぎて。

 血の気を失った青紫色の唇をふるわせる楓が、凝視している先の闇。
 足音もなく、ぽうっとロウソクの火が灯るように現れた白いロングコート姿の女性を、あたしは一度だけ目にしたことがある。
 雪の降らなかった日、きれいな黒髪をなびかせて彼と笑い合っていた……

「……さくら、さん?」

 あたしのつぶやきに、蠱惑的な笑みがひとつ、闇の中で花ひらいた。