ユキイロノセカイ

 がむしゃらに走り、凍結した路面に足を取られて派手に転ぶ。
 投げ出された紙袋から、ミルクティー色のダッフルコートが飛び出した。

「どうしてっ……なんでよぉ、雪……っ!」

 膝の擦り傷より、胸が軋んだ。
 コートを抱きしめると、抱きしめられたぬくもりが蘇るようで、とうとう頭が容量オーバーを起こす。
 もう、なにがなんだかわからないよ……

「血が出ているわ。大丈夫?」

 ガラスを鳴らしたような澄んだ声が、頭上から耳に届く。
 あたしのそばにかがみ込んだ女性は、さっきの。

「追いかけてきて正解だったわ。少し待ってね、手当てをするから」
「……あなた、は」
「私はさくら。あなたは、雪さんを知っているのね?」

 ハンカチで手早く処置を施す女性、さくらさんを呆然と見つめる。
 雪と親しげに会話を交わしていたひと。

「あたしの、かん違いだったみたいで」
「ムリしなくていいのよ。すぐにわかったわ、とても親しかったのよね、可哀想に。……幸さん、と言ったかしら。あなたの知っている雪さんとさっきの彼は、同じひとよ」
「意味が、わかりません」
「……ここは寒いわね。場所を変えましょうか」

 ちょうど止血も済み、さくらさんに手を貸されて立ち上がる。
 店に入ろうかと提案されたが、あたしは一刻も早く事実が知りたかった。
 近くのベンチに並んで腰かけ少し。
 さくらさんは口を開く。

「雪さんと話していて、忘れっぽいって感じたことはない?」
「……あります。自分の歳もすぐに出てこなくて」
「それには理由があってね。彼は、記憶障害を患っているの。ある一定の期間をすぎると、それまでのことをすべて忘れてしまうような」
「そんな……じゃあ、あたしのことを覚えてなかったのは」

 さくらさんは静かにうなずき、視線を灰色がかった冬空へ飛ばす。

「5年前のことよ。不慮の事故に遭って、雪さんは障害を負ってしまったの。その日以来、彼の脳は記憶することを拒むようになってしまった」
「記憶を……拒む?」
「嫌な記憶を消し去りたかったんでしょうね。どんなものであっても、事故以降の記憶は一定期間を過ぎるとリセットされる。いまの雪さんは、5年前の雪さんのままなの」
「記憶は、戻らないんですか」
「ごめんなさい……いろいろ試してきたんだけど」

 あたしが知らない雪。
 あれが5年前の雪だとするなら、さくらさんを覚えていたのは。

「雪さんとは長いお付き合いをさせてもらっていてね。事故のことを知っているのが、家族以外に私しかいなかったみたいで。私が雪さんを支えなきゃ……って」

 やんわりとつつまれているけど、その言葉に隠れた事実に、嫌でも気づいてしまう。
 さくらさんは素敵な女性だ。
 親切だし、美人だし、あたしとは大違い。
 雪のとなりに、ピッタリな。

「幸さん、雪さんのこと、どうか悪く思わないであげて?」
「そう、ですね……忘れちゃったもんは、仕方ないです」

 バカ。
 全然仕方なくなんてないだろ。

「よかった。あなたもどうか、お気に病まずに」

 それでも、意思とは裏腹に言葉はつむがれる。

「さくらさんみたいなひとがそばにいて、雪は幸せ者だ……」

 ――別れは突然。
 あたしは、一瞬にして喪失感につつまれる。
 そうして気づく。
 街に、雪は降っていなかったと。