ユキイロノセカイ

「ユキさーん! ぐうぜーん!」

 人ごみの向こうから、ほーら来た来た。
 そよ風みたいな軽快さで駆け寄ってきたよ。
 そんでよぉく見えるわ、ブンブンふり回してるしっぽが。
 かまってほしい感満載の大型犬を、ジト目で見上げる。

「見てた?」
「へ?」
「あたしが来るとこ。見てた?」
「いや、つい今気づいたとこ。なんで?」
「仕事に支障をきたすおそれがあったから」

 バイト先がバレて、押しかけられるのはごめんだしね。
 ダルい。想像しただけであーダルい。

「まぁとりあえずは、よし」
「そのガッツポーズ、傷つくな……」
「文句あんのか」
「ひょっとしてユキさん、機嫌悪い?」
「そりゃあ聞きたくもない話を、延々と聞かされたらな」
「話?」
「クリスマスの亡霊! 巷で有名でしょ!」
「…………ああ。この近くのビルに出るっていう、亡霊の話か」

 なにか思い当たったように、楓は髪と同じ焦げ茶色の瞳を細めた。

「知ってるの?」
「わりと昔から有名だからな。何年か前に屋上から飛び降り自殺したひとの悪霊が、棲みついてるって」
「詳しいね」
「ちらっと聞いた程度なんだけどさ……飛び降りたのが女のひとって話だから、忘れるに忘れられなくなった、みたいな?」

 つぶやく楓の顔色は少し白い。
 心なしか、頬も強張っているような気が。
 ただでさえ女嫌いなのに、酷な話をさせたか。

「ユキさんは、興味があるの?」
「あたし? まっさか。物好きなカップルが季節外れの肝試ししてるのを、滑稽だなって思ってるとこ」
「そうだな。仮にもひとが死んでる場所だし、安易に近づかないほうがいい」
「……楓?」

 どうしたんだ、今日はやけに、落ち着いた物言いをする。

「もし悪霊にユキさん連れてかれたら、俺発狂する、絶対!」
「なんだ、幽霊信じてんのか」
「当たり前じゃん! ユキさんは怖くないわけ!?」
「全然。幽霊なんているわけないでしょ」
「それが、いるんだって!」
「あーはいはい、幽霊なんて興味ない。だから心霊スポットにも行きません。これでオッケー?」
「わぁあ約束だよぉおお! 破ったらぎゅうってするぅううう!」
「もうしてる! 離せ! バカ!」

 この間慰めてやってからというもの、スキンシップが激化した気がする。ハグなんてザラ。
 腕の中でひとしきりジタバタしていたら、楓がふと真顔になる。
 射抜くようにのぞき込まれては、嫌な予感しかしない。

「……ユキさん」
「なんだ」
「胸キュン窃盗罪で、俺にタイホされちゃってください」
「ふざけろ」

 わりとマジな目だった。
 先手必勝。
 身の危険を察知してすぐ、思いっきり爪先をブーツのヒールでふみつけてやったら。

「公務執行妨害だー!」
「ちょ、楓……!」

 両腕でぎゅうぎゅう。頬をスリスリ。
 窮地を脱するどころか悪化しましたよ、えぇ。

 つーか楓! なんか面白がってない?
 ヘラヘラしやがって酒気帯びか、切符切られろよ!
 なんて思うだけで離してくれる楓ではない。

「冤罪で訴えるが、よいか」
「執行猶予なし無期懲役っ!」
「おねがい検察仕事してぇっ!」

 あぁバカらしい。
 いつものバカみたいな光景だ。

「……俺の前に、出てくんな」

 そんな中で、たったひと言を拾えなかった。
 だから、いつになく騒いだ楓の真意を、このときのあたしは知るよしもなかった。