恋愛短歌小説~三十一文字から始まる物語。この短歌、恋愛小説にしてみました~

【短歌】
恋という名前をつければ簡単で名前をつけない今も好きです 


【短歌をテーマにした物語】
 彼とは、毎週金曜日の放課後に会う。

 約束をしているわけではない。

 ただ、駅前の小さな喫茶店で顔を合わせることが多くて、いつの間にか、そこが二人の居場所になっていた。

「今日も来たんだ」

 私が先に席に着いていると、彼は決まってそう言う。

「そっちこそ」

「俺はここのコーヒーが好きだから」

「私もここのケーキが好きだから」

 そんな会話をして、向かい合って座る。

 彼はブラックコーヒーを飲み、私はミルクティーを飲む。

 学校であったこと、最近見た映画のこと、駅前に新しくできた店のこと。

 特別な話なんて、ほとんどしない。

 それでも、彼と過ごす時間は心地よかった。

 沈黙が続いても気まずくない。

 無理に笑わせようとしなくても、自然に笑える。

 帰り際には「またね」と言って、それぞれの家に帰る。

 ただ、それだけ。

 それだけなのに、私は金曜日が好きだった。

     *

 彼と初めて会ったのは、二年前の春だった。

 大学の講義で隣の席になり、私が落としたペンを拾ってくれたのが始まりだった。

 それから、課題について話すようになり、昼食を一緒に食べるようになり、帰り道が同じ日は駅まで並んで歩くようになった。

 彼は私の話をよく聞いてくれた。

 私が失敗して落ち込んでいるときは、無理に励まさず、隣で話を聞いてくれた。

 私が嬉しいことを話すと、自分のことのように笑ってくれた。

 そんな彼を、いつから好きになったのだろう。

 はっきりとした瞬間は覚えていない。

 気づいたときには、彼に会える日を楽しみにしていた。

 彼から届く短いメッセージを、何度も読み返していた。

 ほかの人と楽しそうに話す彼を見て、胸の奥が少しだけ痛くなった。

 それでも、私は何も言わなかった。

 彼に好きな人がいるのか、恋人がいるのか。

 そんなことを聞く勇気もなかった。

 聞いてしまえば、今の関係が変わってしまうかもしれないから。

 私たちは、友達だった。

 少なくとも、周りから見ればそうだった。

 そして私自身も、彼の前では「友達」という言葉に守られていた。

     *

 ある金曜日、喫茶店で彼が言った。

「俺、来月から遠くに行くんだ」

 ミルクティーを飲もうとしていた手が止まった。

「遠くって?」

「仕事。実家のある町に戻ることになったんだ」

「……そうなんだ」

 それ以上、何も言えなかった。

 彼はいつもと同じ調子で、仕事のことや引っ越しのことを話した。

 私は笑って相づちを打った。

 よかったね、と言った。

 新しい場所でも頑張ってね、と言った。

 本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。

 行かないで。

 寂しいよ。

 これからも、金曜日に会いたい。

 言いたい言葉はいくつもあったのに、どれも口に出せなかった。

 彼が帰ったあと、私は一人で喫茶店に残った。

 冷めたミルクティーを見つめながら、ようやく自分の気持ちに向き合った。

 私は彼が好きだ。

 友達だから一緒にいたいのではない。

 話が合うから会いたいのでもない。

 彼が笑うと嬉しくて、彼がいなくなると寂しい。

 彼の明日にも、その先の未来にも、自分がいたらいいと思っている。

 これは、きっと恋なのだ。

 恋という名前をつけてしまえば、簡単だった。

 好きだと伝えればいい。

 返事をもらえばいい。

 そうすれば、私たちの関係には、今とは違う名前がつくのかもしれない。

 けれど、その名前をつけることで、今まで当たり前にあったものまで失ってしまう気がした。

 毎週金曜日に会うこと。

 何でもない話をすること。

 帰り際に、またねと笑うこと。

 私は、それがなくなるのが怖かった。

 だから、最後まで言えなかった。

     *

 彼が引っ越す前の、最後の金曜日。

 いつもの喫茶店で、私たちは向かい合って座っていた。

「来週から、ここに来ても誰もいないんだな」

 彼が冗談めかして言った。

「お店の人はいるでしょ」

「そういう意味じゃないんだけど」

 彼は笑った。

 私も笑った。

 笑いながら、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。

「今まで、ありがとう」

 彼が言った。

「お前と話す時間、俺、結構好きだったよ」

 私は顔を上げた。

 彼は窓の外を見ていた。

「なんかさ、特別なことをしなくても、気楽にいられるっていうか。そういう相手って、意外と少ないんだよな」

「……うん」

「向こうに行っても、たまには連絡するよ」

「うん。待ってる」

 私は笑った。

 きっと、これでいい。

 彼にとって私は、大切な友達なのだろう。

 私にとって彼は、それ以上の人だった。

 それだけの違いだ。

 店を出て、駅まで一緒に歩いた。

 いつもの道。

 いつもの夕暮れ。

 いつもと同じように、彼が隣にいる。

 それが今日で最後になるのだと思うと、一歩ずつ進むのが惜しかった。

 駅に着くと、彼は改札の前で立ち止まった。

「じゃあ、元気で」

「うん。そっちも」

 彼が手を振る。

 私は手を振り返した。

 彼の姿が人混みに消えていく。

 その背中を見ながら、私は心の中でつぶやいた。

 好きだったよ。

 ずっと、好きだった。

 友達という名前では足りないくらいに。

 でも、その気持ちに別の名前をつけることは、最後までできなかった。

     *

 彼がいなくなってから、金曜日は少し長くなった。

 喫茶店に行くこともなくなった。

 ミルクティーを飲みながら、何でもない話をする相手もいなくなった。

 それでも、彼からは時々メッセージが届いた。

『こっちは思ったより寒い』

『駅前に新しい店ができてた』

『この前話してた映画、やっと見たよ』

 私はそのたびに返信した。

 以前と変わらない会話。

 以前と変わらない距離。

 ただ、隣に座って話すことは、もうできない。

 ある夜、彼から短いメッセージが届いた。

『そっちは元気? またそっちに行くことがあったら、あの店に行こう』

 私は何度も文章を読み返した。

 そして、ゆっくりと返信を打った。

『うん。楽しみにしてる』

 送信して、スマートフォンを胸に抱えた。

 嬉しかった。

 また会えるかもしれない。

 あの店で、また向かい合って話せるかもしれない。

 それだけで、明日が少し楽しみになった。

 私はまだ、彼が好きだった。

 もう会えなくなったわけではない。

 恋人になれなかったからといって、好きだった気持ちが消えるわけでもない。

 この気持ちを、無理に忘れる必要はないのかもしれない。

 恋という名前をつければ、簡単だった。

 好きだと伝えれば、何かが変わったのかもしれない。

 けれど、名前をつけなかったからこそ、今もこうして大切に思える気持ちがある。

 いつか、この想いが別の形に変わる日が来るかもしれない。

 彼ではない誰かを、好きになる日が来るかもしれない。

 それでも今は、まだ。

 彼から届くメッセージに笑ってしまう自分を、否定したくなかった。

 私は窓の外を見た。

 街の明かりが、ひとつずつ灯り始めていた。

 会えなくても、隣にいなくても、名前をつけなくても。

 私の中には、確かに残っているものがある。

 それを恋と呼ぶかどうかは、今は決めなくてもいい。

 ただ、ひとつだけわかっている。

 私は今も、彼が好きだ。

 恋という名前をつければ簡単で。

 名前をつけない今も、好きです。