恋愛短歌小説~三十一文字から始まる物語。この短歌、恋愛小説にしてみました~

【短歌】
名前呼ぶ君の声だけ特別で振り向くたびに恋だと気づく 
 

【短歌をテーマにした物語】
 最初は、何とも思っていなかった。

 同じクラスになった春、彼は私の斜め後ろの席に座っていた。

 明るくて、誰とでも気軽に話せる人。休み時間には友達に囲まれていて、教室のどこにいても彼の笑い声が聞こえてくる。

 私はといえば、目立つことが苦手で、仲のいい友達と静かに過ごすのが好きだった。

 だから、彼とはあまり関わることがないと思っていた。

「ねえ、紗季」

 初めて名前を呼ばれたのは、六月の雨の日だった。

「これ、落としたよ」

 振り向くと、彼が私の消しゴムを持っていた。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 彼は笑って、消しゴムを私の手のひらに置いた。

 それだけのことだった。

 たったそれだけなのに、なぜか彼の声が耳に残った。

 けれど、そのときはまだ、気のせいだと思っていた。

 それから少しずつ、彼と話す機会が増えた。

 体育の授業で同じチームになったり、日直の仕事を一緒にしたり。帰りのホームルームが終わったあと、偶然、昇降口で顔を合わせることもあった。

「紗季、今日の数学の宿題やった?」

「やったよ」

「うそ、早いな。あとで答え合わせさせて」

「自分でやりなよ」

「厳しいなあ」

 そんなふうに笑い合うようになった。

 彼は、私以外の女の子の名前もよく呼んでいた。

「美咲、これ見て!」

「奈々、次の体育って何だっけ?」

「由衣、先生が呼んでたよ」

 誰に対しても自然で、気さくで、分け隔てがない。

 それが彼のいいところなのだと思う。

 だから、私の名前を呼ぶことだって、彼にとっては何でもないことなのだろう。

 そう思っていた。

 ある日の昼休み。

 友達とお弁当を食べていると、教室の向こうから彼の声が聞こえた。

「おーい、紗季!」

 私は、考えるより先に顔を上げていた。

「これ、昨日借りたノート。ありがとな」

 彼は私の机まで来ると、ノートを差し出した。

「うん。役に立った?」

「めっちゃ助かった。今度、ジュースおごるよ」

「別にいいのに」

「俺がそうしたいの」

 そう言って、彼はまた笑った。

 彼が自分の席に戻ったあとも、私はしばらくノートを見つめていた。

「……紗季?」

 隣にいた友達が、不思議そうに私の顔をのぞき込む。

「なに?」

「今、すごい顔してたよ」

「どんな顔?」

「好きな人を見てる顔」

「えっ?」

 思わず声が裏返った。

「ち、違うよ!」

「そう? 名前呼ばれた瞬間、すぐ振り向いたじゃん」

「それは、呼ばれたから……」

「私がさっきから何回も呼んでたときは、全然気づかなかったのに?」

 そう言われて、私は言葉に詰まった。

 確かに、そうだった。

 友達の声も、教室のざわめきも、いつも耳に入っているはずなのに。

 彼が私の名前を呼ぶと、なぜかすぐにわかる。

 遠くにいても。

 誰かと話していても。

 ほかのことを考えていても。

 その声だけは、聞き逃さない。

 私はそっと、彼のいるほうを見た。

 彼は友達と笑いながら、次の授業の準備をしていた。

 いつもと同じ横顔。

 いつもと同じ笑い声。

 なのに、胸の奥が落ち着かない。

 その日の放課後、私は忘れ物を取りに教室へ戻った。

 誰もいない教室は、昼間とは別の場所みたいに静かだった。

 机の中から教科書を取り出していると、廊下から足音が聞こえた。

「紗季?」

 聞き慣れた声。

 振り向くと、彼が教室の入口に立っていた。

「まだ帰ってなかったんだ」

「忘れ物しちゃって」

「そっか。俺も部活の前に忘れ物取りに来たんだよ」

 彼は自分の机からタオルを取り出すと、私のほうを向いた。

「じゃあ、また明日な。紗季」

 名前を呼んで、手を振る。

 たったそれだけ。

 彼にとっては、きっといつもと変わらない挨拶だ。

 けれど私は、返事をするまでに少し時間がかかってしまった。

「……うん。また明日」

 彼が廊下の向こうへ消えていく。

 私は、誰もいなくなった教室で、小さく息を吐いた。

 どうしてだろう。

 名前を呼ばれただけなのに。

 たった一言、また明日と言われただけなのに。

 こんなにも嬉しくて、こんなにも寂しい。

 明日も会えるとわかっているのに、もう一度、彼の声が聞きたいと思ってしまう。

 そのとき、ようやく気づいた。

 私は、彼に名前を呼ばれるのが好きなのだ。

 彼が私を見つけてくれることが嬉しい。

 彼が私に話しかけてくれることが嬉しい。

 そして、彼がほかの誰かではなく、私の名前を呼ぶ、その瞬間が。

 どうしようもなく、特別なのだ。

 翌朝。

 教室に入ると、彼が友達と話していた。

 私に気づいた彼が、いつものように笑う。

「おはよう、紗季!」

 私は振り向いた。

 そして、今度は少しだけ勇気を出して笑い返した。

「おはよう!」

 たったそれだけの挨拶。

 それなのに、昨日よりも胸が弾んでいる。

 彼の声が聞こえるたび、きっと私は振り向いてしまうだろう。

 彼が私の名前を呼んでくれるたび、嬉しくなってしまうだろう。

 いつか、この気持ちが彼に伝わる日が来るのかはわからない。

 それでも今は、この小さな幸せを大切にしていたい。

 名前を呼ばれるたびに、心が動く。

 振り向くたびに、彼をもっと好きになっていく。

 私の恋は、きっとこんなふうに始まったのだ。

 名前呼ぶ、君の声だけ、特別で。

 今日も私は、君の声に振り向いている。