【短歌】
長い夜 話す言葉も 尽きたあと 隣にいるだけ 愛と知りたり
【短歌をテーマにした物語】
「今日は、疲れたね」
彼女がそう言った。
「うん」
僕はそれだけ返した。
夜の十一時。
窓の外では、静かな雨が降っている。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーが二つ。
テレビはついているけれど、二人とも見ていなかった。
付き合い始めた頃なら、こんな沈黙は怖かっただろう。
何か話さなければ。
楽しませなければ。
そう思って、必死に話題を探したはずだ。
でも今は違う。
彼女が隣にいる。
それだけでよかった。
彼女と出会ったのは、十年前だった。
仕事で知り合った。
最初は、ただの同僚。
毎朝、「おはよう」と挨拶をする程度だった。
それが、仕事帰りに一緒に食事をするようになり、休日にも会うようになった。
付き合い始めた頃は、毎日が新鮮だった。
電話をすれば、何時間でも話せた。
休日には、朝から晩まで一緒にいた。
「話すこと、よくそんなにあるね」
友人に笑われたこともある。
僕たちは笑って答えた。
「好きな人とは、何を話しても楽しいから」
本当にそうだった。
五年後。
僕たちは結婚した。
新しい部屋。
二人分の食器。
二つの歯ブラシ。
朝の「いってらっしゃい」。
夜の「おかえり」。
そんな生活が始まった。
もちろん、毎日が幸せなわけではない。
仕事で嫌なことがあれば、家に帰っても不機嫌だった。
些細なことで喧嘩もした。
言いすぎて後悔することもあった。
それでも翌朝になれば、彼女がキッチンに立っている。
「コーヒー、いる?」
「うん」
たったそれだけ。
それだけで、昨日の喧嘩が少し遠くなる。
ある年の冬。
僕は仕事で大きな失敗をした。
責任を感じて、帰宅してからも何も話せなかった。
「どうしたの?」
彼女に聞かれても、
「何でもない」
と答えた。
本当は、全部聞いてほしかった。
でも、自分から話す気力がなかった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、隣に座った。
テレビもつけずに。
僕も黙っていた。
時計の針だけが進んでいく。
一時間。
二時間。
やがて、僕はぽつりと言った。
「……失敗した」
彼女は何も聞き返さなかった。
ただ、
「そっか」
とだけ言った。
それからしばらくして、
「明日も会社、行く?」
「……うん」
「じゃあ、今日はもう寝よう」
それだけだった。
励ます言葉もなかった。
大丈夫という言葉もなかった。
でも、その夜。
僕は初めて、安心して泣いた。
それから年月が流れた。
仕事も変わった。
住む場所も変わった。
二人とも少しずつ歳を重ねた。
話す時間は減った。
若い頃のように、何時間も話すことはなくなった。
でも、それは愛が薄れたということではなかった。
むしろ逆だった。
話さなくても分かることが増えていた。
ある夜。
僕たちはリビングで並んでいた。
「今日、何食べたい?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るんだけど」
彼女が笑う。
「じゃあ、カレー」
「昨日もカレーだったよ」
「じゃあ、ラーメン」
「それも先週食べた」
「……じゃあ、任せる」
「最初からそう言ってよ」
二人で笑った。
そして、食事を終えた。
食器を片付ける。
風呂に入る。
テレビを見る。
そんな何でもない夜。
いつの間にか、時計は午前一時を回っていた。
「そろそろ寝ようか」
彼女が言った。
「うん」
でも、二人とも立ち上がらなかった。
静かな部屋。
雨の音。
時計の音。
話すことは、もう何もない。
僕はふと彼女を見た。
彼女も僕を見た。
「……何?」
「いや」
「何よ」
「何でもない」
彼女が笑った。
僕も笑った。
そして、また沈黙した。
若い頃なら、この沈黙を埋めようとしただろう。
けれど今は、何も話さなくてもいい。
隣にいる。
同じ雨の音を聞いている。
同じ夜を過ごしている。
それだけで、不思議なくらい心が満たされている。
僕は彼女の手元を見る。
長い年月を一緒に過ごしてきた手。
昔より少しだけ皺が増えている。
僕の手にも、同じように時間が刻まれている。
「ねえ」
彼女が言った。
「なに?」
「私たち、ずいぶん長く一緒にいるね」
「そうだね」
「話すこと、なくなっちゃったね」
僕は笑った。
「でも、嫌じゃないだろ?」
彼女も笑った。
「うん」
その一言が、なぜか胸に響いた。
僕は思う。
愛とは、毎日「好き」と言うことだけではない。
どこへ行くかを決めることでも。
高価なプレゼントを贈ることでもない。
何も話すことがなくなった夜。
それでも帰りたいと思える場所に、その人がいること。
嬉しい日も。
苦しい日も。
言葉が出てこない日も。
ただ隣にいてくれること。
それが、こんなにも温かい。
彼女が立ち上がった。
「寝ようか」
「うん」
二人で寝室へ向かう。
廊下の明かりを消す。
最後に彼女が振り返った。
「おやすみ」
「おやすみ」
それだけ。
でも、その一言の中に。
十年分の思い出が詰まっているような気がした。
長い夜。
話す言葉は、もう尽きていた。
それでも僕は、幸せだった。
君が隣にいる。
ただ、それだけで。
長い夜 話す言葉も 尽きたあと 隣にいるだけ 愛と知りたり
【短歌をテーマにした物語】
「今日は、疲れたね」
彼女がそう言った。
「うん」
僕はそれだけ返した。
夜の十一時。
窓の外では、静かな雨が降っている。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーが二つ。
テレビはついているけれど、二人とも見ていなかった。
付き合い始めた頃なら、こんな沈黙は怖かっただろう。
何か話さなければ。
楽しませなければ。
そう思って、必死に話題を探したはずだ。
でも今は違う。
彼女が隣にいる。
それだけでよかった。
彼女と出会ったのは、十年前だった。
仕事で知り合った。
最初は、ただの同僚。
毎朝、「おはよう」と挨拶をする程度だった。
それが、仕事帰りに一緒に食事をするようになり、休日にも会うようになった。
付き合い始めた頃は、毎日が新鮮だった。
電話をすれば、何時間でも話せた。
休日には、朝から晩まで一緒にいた。
「話すこと、よくそんなにあるね」
友人に笑われたこともある。
僕たちは笑って答えた。
「好きな人とは、何を話しても楽しいから」
本当にそうだった。
五年後。
僕たちは結婚した。
新しい部屋。
二人分の食器。
二つの歯ブラシ。
朝の「いってらっしゃい」。
夜の「おかえり」。
そんな生活が始まった。
もちろん、毎日が幸せなわけではない。
仕事で嫌なことがあれば、家に帰っても不機嫌だった。
些細なことで喧嘩もした。
言いすぎて後悔することもあった。
それでも翌朝になれば、彼女がキッチンに立っている。
「コーヒー、いる?」
「うん」
たったそれだけ。
それだけで、昨日の喧嘩が少し遠くなる。
ある年の冬。
僕は仕事で大きな失敗をした。
責任を感じて、帰宅してからも何も話せなかった。
「どうしたの?」
彼女に聞かれても、
「何でもない」
と答えた。
本当は、全部聞いてほしかった。
でも、自分から話す気力がなかった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、隣に座った。
テレビもつけずに。
僕も黙っていた。
時計の針だけが進んでいく。
一時間。
二時間。
やがて、僕はぽつりと言った。
「……失敗した」
彼女は何も聞き返さなかった。
ただ、
「そっか」
とだけ言った。
それからしばらくして、
「明日も会社、行く?」
「……うん」
「じゃあ、今日はもう寝よう」
それだけだった。
励ます言葉もなかった。
大丈夫という言葉もなかった。
でも、その夜。
僕は初めて、安心して泣いた。
それから年月が流れた。
仕事も変わった。
住む場所も変わった。
二人とも少しずつ歳を重ねた。
話す時間は減った。
若い頃のように、何時間も話すことはなくなった。
でも、それは愛が薄れたということではなかった。
むしろ逆だった。
話さなくても分かることが増えていた。
ある夜。
僕たちはリビングで並んでいた。
「今日、何食べたい?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るんだけど」
彼女が笑う。
「じゃあ、カレー」
「昨日もカレーだったよ」
「じゃあ、ラーメン」
「それも先週食べた」
「……じゃあ、任せる」
「最初からそう言ってよ」
二人で笑った。
そして、食事を終えた。
食器を片付ける。
風呂に入る。
テレビを見る。
そんな何でもない夜。
いつの間にか、時計は午前一時を回っていた。
「そろそろ寝ようか」
彼女が言った。
「うん」
でも、二人とも立ち上がらなかった。
静かな部屋。
雨の音。
時計の音。
話すことは、もう何もない。
僕はふと彼女を見た。
彼女も僕を見た。
「……何?」
「いや」
「何よ」
「何でもない」
彼女が笑った。
僕も笑った。
そして、また沈黙した。
若い頃なら、この沈黙を埋めようとしただろう。
けれど今は、何も話さなくてもいい。
隣にいる。
同じ雨の音を聞いている。
同じ夜を過ごしている。
それだけで、不思議なくらい心が満たされている。
僕は彼女の手元を見る。
長い年月を一緒に過ごしてきた手。
昔より少しだけ皺が増えている。
僕の手にも、同じように時間が刻まれている。
「ねえ」
彼女が言った。
「なに?」
「私たち、ずいぶん長く一緒にいるね」
「そうだね」
「話すこと、なくなっちゃったね」
僕は笑った。
「でも、嫌じゃないだろ?」
彼女も笑った。
「うん」
その一言が、なぜか胸に響いた。
僕は思う。
愛とは、毎日「好き」と言うことだけではない。
どこへ行くかを決めることでも。
高価なプレゼントを贈ることでもない。
何も話すことがなくなった夜。
それでも帰りたいと思える場所に、その人がいること。
嬉しい日も。
苦しい日も。
言葉が出てこない日も。
ただ隣にいてくれること。
それが、こんなにも温かい。
彼女が立ち上がった。
「寝ようか」
「うん」
二人で寝室へ向かう。
廊下の明かりを消す。
最後に彼女が振り返った。
「おやすみ」
「おやすみ」
それだけ。
でも、その一言の中に。
十年分の思い出が詰まっているような気がした。
長い夜。
話す言葉は、もう尽きていた。
それでも僕は、幸せだった。
君が隣にいる。
ただ、それだけで。



