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苧環とひなを見送るころには、小腹が空く八つ時になっていた。
「つづは人気者ですね」
「あるじさま?」
鼓御前がひとりになった頃合いを見はからって、千菊がやってくる。
「いっしょにどうですか?」
千菊は替えの茶と、黒蜜のかかったくずきりを手にしていた。
おそらく虎尾に持たされたものだろう。
「はい、もちろんです!」
鼓御前はふたつ返事でうなずく。
きらきらと陽光を反射する湖面をながめながら、千菊とふたり。
ひんやりとのどごしのいいくずきりをひとくち食べ、そっととなりを見る鼓御前。
千菊は静かに茶を口にしているところだった。
そこでふと疑問に思う。
念のため九条家で療養をしていた千菊だが、そのあいだ、竜頭の面をつけたすがたを一切見ていない。
「今日も、お面はおつけになられていないのですね」
「そうですね。あれはもう、私には必要ないのかもしれません」
「必要ない……?」
「竜の角は、折れてしまいましたから」
千菊がふり返る。
柔和な笑みを浮かべているが、鼓御前にはどこか、それがさびしげに見えた。
「きみを守るのは、私の使命だと思っていました。私だけがなせることだと。それが、今回の私の敗因ですね」
「あるじさま……」
千菊はたった独りで『鬼』に挑み、そして敗北した。
それはまぎれもない事実であった。
「葵葉に、『あんたはひとを頼るのが下手すぎ』と言われました。ふふっ、なにも言い返せなくて、いっそ清々しいくらいです。……つづ」
「はい」
「愛しいきみのためなら、私は修羅にだってなれる。そう思っていたんです。けれど……しょせん私は、竜のふりをした人の子にすぎなかった」
鼓御前を映す青玉の瞳が、揺れている。
「今日は、おねがいがあってきました。つづ……いいえ、鼓御前。私を、きみのお付きの覡候補からはずしてくれますか」
「……理由を、うかがっても?」
「葵葉も、莇さんも、立派になりました。きっと、私を超える強い覡になるでしょう。それなのに、きみのそばにいたいと言い張るのは、私の傲慢になります」
「…………」
「きみを守る者は……より強い覡でなければいけません」
そういって、千菊は黙り込む。
この手で鼓御前を守れなかったことを、千菊は酷く悔いている。
「あるじさまのお話は、わかりました」
鼓御前はひとつうなずく。
この数日、千菊がどれだけ悩んで、決断を下したのか。想像に難くない。
千菊の心情を理解した上で、こう告げる。
「ですが、あるじさまのおねがいは却下、です!」
鼓御前は両腕を交差させてバツをつくり、「ぶっぶー!」と拒否を示した。
「……はい?」
これには千菊も、あっけにとられてしまう。
「苧環さまもそうでしたけれど……逃げるのは悪いだとか、強くないといけないだとか。男性ってなんでそうなのかしら!」
鼓御前はぷりぷりと怒りながら、「よろしいですか、あるじさま!」と千菊へ詰め寄る。
「まさかいくさで負けなしだったから、わたしが蘭雪さまをお慕いしていたとお思いですか? ちがいます。あなたさまが見ず知らずの刀をたいせつにしてくださる、おやさしい方だったからです」
ひとびとに愛されたからこそ、鼓御前は付喪神となった。
何度でも言おう。
「あるじさまが愛してくださったから、その想いに応えたくて、わたしはここにいます。わたしはあるじさまといっしょにいたい。それ以外に理由は必要ありません」
「つづ……」
「あるじさまもそうですよね? わたし、知ってるんですから!」
「っ……そう、ですね」
ととのった千菊の顔が、ゆがむ。
「私だって……きみと離れたく、ない……」
どれだけそれらしい言葉を並べようと、結局は無意味。
簡単にあきらめられるはずがないのだ。
積年の想いというものは。
「こんな私でも……きみのそばにいて、いいですか?」
千菊の声がふるえている。
「そばにいてほしいです」
鼓御前は答える。
飾らない言葉が、まっすぐに千菊へ届いた。
「困りました。……もう二度と、きみを離せそうにない」
千菊は泣きそうに笑って、鼓御前を抱きしめる。
ぎゅうっと、苦しいくらいだ。
「離さないで、くださいね」
鼓御前も腕をまわし、つつみ込むぬくもりに酔いしれる。
胸からあふれて仕方ないものが、『愛しい』という感情なのだろう。



