* * *
障子越しの泣き声を耳にした陣は、気配を消したまま、そっとその場を去る。
「これは奇遇ですね」
ちょうど縁側を曲がったところで、竜頭面の男が立ちはだかることになるのだが。
「なにかご用でしょうか、立花さま」
陣の問いへ、すぐに返答はない。
竜頭面からのぞいた千菊のくちびるは、ゆるりと弧を描いている。
だが面越しに陣へそそがれるまなざしは、どうだろうか。
「じつは長年、疑問に思っていたことがありまして。それはもう、知りたくて知りたくて、たまらなかったことが」
千菊の口調は丁寧なものだが、有無を言わせぬ気迫がにじむ。
常人ならば、身がすくんで動けなくなるところだろう。
「私はこう見えて、お会いした方のお顔をすべて記憶できる『特技』があるんです」
──戦乱の世において、わずかな油断が命取りとなる。
ゆえに蘭雪は、ささいな出会いであっても、相手をまず疑うようになった。
『特技』は、その末に身についたものだ。
「ですがおひとり……どうしても、お顔をよく思いだせない方がいらっしゃるのです。思い返せば、その方との出会いも不思議なものでした」
顔がわからずとも、魂にきざまれた記憶がある。
「あれはそう、遠い夏の出来事──澄みわたった空に、突如として雷鳴が轟いた日。とある男性が、私のもつ『天鼓丸』を見せてほしいとたのみ込んできたことがありましてね」
ぴくりと、かすかに陣が身じろぐ。
それを千菊は見逃さなかった。
「彼のすがたをまったく思いだせないのです。さながら、妖狐に惑わされたかのようだ」
千菊は陣を見据えたまま、決定的なひと言を放つ。
「ほんとうに不思議ですよね。そう思われませんか? 陣さま──いいえ、虎尾先生」
……ひゅうう。
どこからか風が吹き、庭の木々をざわめかせる。
「ふふっ、あははっ! やっぱり立花センセはごまかせないわねぇ!」
沈黙を突き破るように、陣、いや虎尾が高らかに笑う。
「でも、だから? 『真実』を知って、あなたになにができるの?」
追及されているというのに、虎尾はこてりと首をかしげるのみ。
「何事も、ふみ込みすぎてはいけない領域があるというものよ」
薄墨色の袖で口もとを覆いながら、くすくすと笑みをもらす虎尾。
「──アタシの邪魔はしないで。これは警告よ」
刹那、千菊の肌がぞわりと粟立つ。
千菊を捉えた唐茶色の双眸は、妖しげにきらめいており。
「あとすこし……もうすこしですべてが上手くいくの。よいこは黙って見ていることね」
──びゅおう!
突風に視界を奪われる。
その一瞬のうちに、虎尾のすがたは消え失せていた。
「……虎尾先生、やはり、あなたは……」
静まり返った縁側に、ひとり。
千菊に応える者は、だれもいない。



