* * *
『暮れの鐘』の時刻をすぎた夜間は、外出を許されない。
強力な結界が張りめぐらされた、御三家本家の敷地内をのぞいては。
部屋を抜けだした鼓御前を見咎める者は、だれもいない。
やってきたのは、『映月亭』。
入り口の戸に手をかけ、鼓御前ははたと気づく。
──開いている。
人の気配を、肌で感じる。
(この先に、きっと……!)
確信を胸に、鼓御前は戸を開け放った。
足早に縁側を駆ける。
そして幾許もないうちに、『その光景』を目にする。
──しゃらん。
夜の静寂にころがる、鈴の音。
ふわりとひらめく、白い袖。
三方を湖にかこまれた大広間にて。
鼓御前は、鳶色の髪の少年──桐弥をさがし当てる。
桐弥は白の着流しすがたで、神楽鈴を手にしていた。
鈴の音をひびかせながら、真白い足袋で、すべるように畳の上を移動する。
しゃらん、しゃらん。
白い袖がひらめき、ぽう……と淡い光が灯る。
(まぁ……)
ひとつ、ふたつ、みっつ。
桐弥が神楽鈴を鳴らすたび、その周囲に橙の炎が灯る。
またたく間に、いくつもの淡い炎が、あたりを橙に照らした。
(これが、神楽の舞なのかしら……)
九条家は、火をつかさどる朱雀の加護を受けているという話を思いだす。
(父さまの霊力は、穢れを洗い清めるものだと思っていたけれど……それだけではない)
霊力に属性というものがあるならば、桐弥のそれは水であり、火でもあった。
刀を打つさい、熱した鉄を固めるためには水が必要。それと同じ。
そしてこの瞬間。
桐弥の霊力にやどったものは、火の気配を色濃くしていた。
風もないはずなのに、湖がゆらめき、橙の光が水面にきらきらと反射する。
(きれい……だけど)
桐弥が生みだしたのは、燃えさかる炎ではない。
音もなくあたりを照らす、ともしびだ。
そして、鈴を手に舞う桐弥は──
(どこか……悲しそうで、さみしそう)
あまり感情を表に出さない桐弥が、物憂げで、切実な表情をしていて。
なにかに、祈りを捧げているかのようだった。
しゃらん、しゃらん──……
澄んだ鈴の音。夜闇をなでるようにのばされた華奢な指先に、橙の炎がふれる。
それはまるで、蛍がじゃれついているよう。
美しい光景であるはずだ。
それなのに、桐弥の舞を目にするほど、鼓御前の胸には悲痛な感覚がつたわってくる。
──どうして、そんなに悲しい顔をしていらっしゃるのですか?
思うがままに問いかけて、そのこころにふれることができたなら、どんなによかったか。
けれど、それは叶わなかった。
「…………くっ」
桐弥の手からすべり落ちる神楽鈴。
ふっ……と闇に消え入る橙の炎。
鼓御前がはっと我に返ったとき、桐弥はその場にくずれ落ちていた。
「父さま……? どうなされました、父さま!」
すぐさま駆け寄るも、横たわった桐弥は返事をしない。
は、は……と苦悶の表情で、呼吸がひどく弱い。虫の息といっても過言ではない。
血の気が引くのを、鼓御前は感じた。
「──失礼」
さぁっ……とそよ風が吹き抜ける。
呆然と固まる鼓御前の視界から、桐弥が消えた。
「陣さま……!」
どこからともなく現れた陣が、桐弥の腕をさらい、抱き起こしたのだ。
そのまま自身の胸にもたれさせた桐弥を、陣は薄墨色の袖でつつみ込む。
「また、無理をなさったのでしょう。霊力を使いすぎてはいけないと、あんなに申しあげたのに」
桐弥は身じろぎひとつしない。気を失っているのだ。
「陣さま、父さまは神楽のお稽古をなさっていたのですよね? でも、急に倒れられるなんて……やっぱり、まだ本調子ではなかったのでは」
突然のことで、鼓御前はいまだに戸惑いをかくせない。
そんな鼓御前へ、陣は静かにかぶりをふってみせた。
「いいえ。そんな単純なお話ではありません」
「……え?」
「鼓御前さまがいましがたごらんになったのは、若さまの命のともしびです」
「それは、どういう……」
「旦那さまは察しがよろしい。そうです、この方は生き急いでいる。……わたしがどんなに止めても」
陣がなにを言っているのか、鼓御前はみじんも理解ができない。
とても、たいせつなことを言っている。
それだけはわかるのに。
「……お部屋にもどりましょう、鼓御前さま」
息の詰まるような沈黙ののち。
絞りだすように告げた陣は、そのまま桐弥を抱きあげる。
陣はもう、なにも語らない。
哀愁をおびた背を目にして、鼓御前も口をつぐむ。
いまはなにも問うべきではない、そう悟ったから。
無言で連れ立ち、やがて客間へもどってくる。
「父さま……」
桐弥は陣によって布団へ横たえられた。
鼓御前も同じ布団に入り、寄り添う。
桐弥の胸に顔をうずめ、規則正しい心音を聞いて、ようやく安堵した。
「明日になったら……話していただけますか? 父さまが、抱え込んでいることを」
ぎゅ、と桐弥にしがみつき、鼓御前はまぶたを閉じる。
そうあってほしいと、切に祈りながら。



