「顔を上げてください」
「でも……」
「つづ、きみはよくやってくれました」
こわごわと、鼓御前は視線を上げる。
ふわり。千菊がほほ笑んだ。
いまにも涙がこぼれ落ちそうな鼓御前のほほに、手を添えながら。
「今回の任務は、私がこれまでに担当したなかでも、複雑かつ危険なものでした」
こころやさしい桜の精が、祟り神となったのだ。
単に〝慰〟を祓えばいいという問題ではない。
そしてその原因は、人間の醜い感情。
「ひとが好きなきみにとっては、酷な一件だったでしょう」
「……はい」
気遣わしげな千菊の言葉に、いつしか鼓御前の緊張がゆるむ。
無意識のうちにしぼりだした声は、震えていた。
「ごめんなさい……わたし、ほんとうは、こわくて……」
〝慰〟と対峙することに、恐れはない。
だが今回、鼓御前は『こわい』と思ってしまった。
身勝手な理由でふゆを罵るゆみが。
愛すべき人の子の、醜いすがたが。
「この世にはかぞえきれないほどの神々が存在するように、現代を生きるひともまた、さまざまです」
けれども千菊は、怯える鼓御前を責めはしない。
穏やかな声音で、やさしくほほをなでるだけ。
「なかには身勝手で、傲慢で、欲深い人間もいます。──つづ」
「……はい」
「すべてのひととわかりあうことは、どだい無理なのです。かくいう私もできません」
「あるじさまにも、できないことがおありなんですね……」
「もちろんです。だからね、つづもいっしょにいていやな気分になるひとと、無理に仲良くする必要はないんですよ」
ゆみに対する嫌悪は当然の感情だと、千菊は肯定する。
「人の子も、道を誤ることがある……あるじさまは、そのことを教えてくださろうとしたのですね」
「世の中には、良いものもあれば、悪いものもあります。それを知ることで、物事の善悪を判断できるようになりますから」
良いものと悪いものを見きわめる。
それが善悪の判断だ。
ひとを知る、つまり判断力を磨くことは、悪しきあやかしだけを斬るための糧となる。
今回、千菊がそうしてみせたように。
「わたし、まだまだ知らないことがいっぱいあるみたいです」
ひとのこころを、知りたいと思う。
けれどその思いは、好奇心だけによるものではなくて。
「喜び、怒り、悲しみ……ひとびとが感じるこころを、知りたいです。あるじさまみたいに、なれるように」
たいせつな存在を守る。
そのためにひとのこころを知りたいと、鼓御前は強くねがう。
とここで、ふと鼓御前は気づく。
丸みをおびた青玉の瞳で、千菊がきょとんとこちらを見つめているのだ。
彼にしてはめずらしい表情だ。
「えっと、なにか……?」
「いえ、すこし驚きまして。今回はさすがに、きみに嫌われたかと思っていましたので」
千菊はそこで言葉を切ると、「……ごめんね」と視線を伏せた。
「あ、あるじさま!? 急にどうされたのですか!?」
「ほんとうに謝るべきなのはきみではなく、私です。厳しいことを言って、きみを怖がらせたでしょう」
「厳しいこと……」
千菊の言葉がなにを指しているのか、鼓御前もすぐに思いあたった。
ただ、千菊はすこし思い違いをしているようだ。
──泣いているひまはありません。
──立ちなさい、鼓御前。
あのときのことを何度思い返したとて、千菊を責めることはできそうにない。
「怖いだなんて思いません。あるじさまが叱ってくださったから、わたしは強くなれたんですもの。何度も何度も鍛えられて、強くなる。刀としては本望ですわ」
「つづ……」
鼓御前がはにかむと、千菊も「ふ……」と口もとに笑みをほころばせた。
「いろいろと言いたいことはありますが、いまはやめておきましょう。止まらなくなりそうなので」
「止まらなくなる……なにがですか?」
千菊は答えない。
意味深長な笑みを浮かべるのみだ。
鼓御前の疑問を晴らすかわりに、千菊はこう続けた。
「つづ、体調がいいようなら、今日の午後にお茶をしませんか? きみに会いたいという『お客さま』がいらっしゃるんです」
「でも……」
「つづ、きみはよくやってくれました」
こわごわと、鼓御前は視線を上げる。
ふわり。千菊がほほ笑んだ。
いまにも涙がこぼれ落ちそうな鼓御前のほほに、手を添えながら。
「今回の任務は、私がこれまでに担当したなかでも、複雑かつ危険なものでした」
こころやさしい桜の精が、祟り神となったのだ。
単に〝慰〟を祓えばいいという問題ではない。
そしてその原因は、人間の醜い感情。
「ひとが好きなきみにとっては、酷な一件だったでしょう」
「……はい」
気遣わしげな千菊の言葉に、いつしか鼓御前の緊張がゆるむ。
無意識のうちにしぼりだした声は、震えていた。
「ごめんなさい……わたし、ほんとうは、こわくて……」
〝慰〟と対峙することに、恐れはない。
だが今回、鼓御前は『こわい』と思ってしまった。
身勝手な理由でふゆを罵るゆみが。
愛すべき人の子の、醜いすがたが。
「この世にはかぞえきれないほどの神々が存在するように、現代を生きるひともまた、さまざまです」
けれども千菊は、怯える鼓御前を責めはしない。
穏やかな声音で、やさしくほほをなでるだけ。
「なかには身勝手で、傲慢で、欲深い人間もいます。──つづ」
「……はい」
「すべてのひととわかりあうことは、どだい無理なのです。かくいう私もできません」
「あるじさまにも、できないことがおありなんですね……」
「もちろんです。だからね、つづもいっしょにいていやな気分になるひとと、無理に仲良くする必要はないんですよ」
ゆみに対する嫌悪は当然の感情だと、千菊は肯定する。
「人の子も、道を誤ることがある……あるじさまは、そのことを教えてくださろうとしたのですね」
「世の中には、良いものもあれば、悪いものもあります。それを知ることで、物事の善悪を判断できるようになりますから」
良いものと悪いものを見きわめる。
それが善悪の判断だ。
ひとを知る、つまり判断力を磨くことは、悪しきあやかしだけを斬るための糧となる。
今回、千菊がそうしてみせたように。
「わたし、まだまだ知らないことがいっぱいあるみたいです」
ひとのこころを、知りたいと思う。
けれどその思いは、好奇心だけによるものではなくて。
「喜び、怒り、悲しみ……ひとびとが感じるこころを、知りたいです。あるじさまみたいに、なれるように」
たいせつな存在を守る。
そのためにひとのこころを知りたいと、鼓御前は強くねがう。
とここで、ふと鼓御前は気づく。
丸みをおびた青玉の瞳で、千菊がきょとんとこちらを見つめているのだ。
彼にしてはめずらしい表情だ。
「えっと、なにか……?」
「いえ、すこし驚きまして。今回はさすがに、きみに嫌われたかと思っていましたので」
千菊はそこで言葉を切ると、「……ごめんね」と視線を伏せた。
「あ、あるじさま!? 急にどうされたのですか!?」
「ほんとうに謝るべきなのはきみではなく、私です。厳しいことを言って、きみを怖がらせたでしょう」
「厳しいこと……」
千菊の言葉がなにを指しているのか、鼓御前もすぐに思いあたった。
ただ、千菊はすこし思い違いをしているようだ。
──泣いているひまはありません。
──立ちなさい、鼓御前。
あのときのことを何度思い返したとて、千菊を責めることはできそうにない。
「怖いだなんて思いません。あるじさまが叱ってくださったから、わたしは強くなれたんですもの。何度も何度も鍛えられて、強くなる。刀としては本望ですわ」
「つづ……」
鼓御前がはにかむと、千菊も「ふ……」と口もとに笑みをほころばせた。
「いろいろと言いたいことはありますが、いまはやめておきましょう。止まらなくなりそうなので」
「止まらなくなる……なにがですか?」
千菊は答えない。
意味深長な笑みを浮かべるのみだ。
鼓御前の疑問を晴らすかわりに、千菊はこう続けた。
「つづ、体調がいいようなら、今日の午後にお茶をしませんか? きみに会いたいという『お客さま』がいらっしゃるんです」



