花火、灰色、青い空

 花火大会から数日後。
「もういい、放っておいて!」
 そう叫び、僕は母の制止の声を振り切って家を飛び出した。
 あれからまた両親に進路の話をした。しかし全く聞き入れてもらえなかった。その後も進路のことを話題に出すだけで会話を打ち切られ、とりつく島もない。そんな日が何日も続き、ついに限界を迎えてしまったのだ。
 財布とスマホだけ持って駅に走り、たまたま到着した電車に飛び乗る。ささやかな家出はきっと長く続かない。でも今はここにいたくなかった。
 母から何度も着信やメッセージが届いたので、門限までには帰るとだけ送り、あとは無視することにした。心臓がばくばくと音を立てており、呼吸を落ち着かせるために深く息を吐き出す。
 どこに行こうかと思いながら電車に揺られたけれど、降りたのは予備校の最寄り駅だった。知らない場所まで行く勇気は僕にはなかったのだ。

 予備校の前を通り過ぎ、あてもなくふらふらと歩く。やがて着いたのはあの神社だった。さほど広くない境内には人の姿はない。蝉の合唱が響き渡り、生ぬるい風が木の葉を揺らしている。
 僕は額の汗を手で拭いながら木陰に腰を下ろした。空を見上げてみると、白い雲がゆっくりと流れていた。
 初めて学校の屋上に行った日もこんな晴天だった。そしてそこで灰塚先輩に出会って、進路の悩みを相談して、この境内で一緒に花火を見て……。
 あの夜のことを思い出す。花火を見上げるきれいな横顔、少し掠れた低い声、僕の髪を撫でる優しい手。繋いだ手の温かさは忘れられない。
「灰塚先輩……」
 無性に灰塚先輩に会いたくなった。
 スマホを取り出して、灰塚先輩の連絡先を表示する。まだ連絡を交わしたことはなかった。僕は用もなく連絡するタイプではないし、彼もそうらしい。
 連絡……してみようか。もしかしたらバイト中で出られないかもしれない。はっきりした用件もなく連絡したら迷惑かもしれない。それでも、灰塚先輩の声を聞きたいと思った。
 僕は勇気を振り絞り、通話ボタンをタップした。
 緊張しているのか、鼓動が早鐘を打っている。しばらく待ち、やっぱり出ないかと思って電話を切ろうとしたところで呼び出し音が途切れた。
『……青野くん?』
「はっ、灰塚先輩、こんにちは!」
『はい、こんにちは。どうしたの?』
 スピーカーの向こうから気だるげな灰塚先輩の声が聞こえた。もしかして、具合でも悪い?
「先輩、大丈夫ですか?」
『何が?』
「なんだか、声に元気がないので」
『ああ、今起きたから』
 今って、昼過ぎだけど……。夏休みだから夜更かししたのかな。起こしてしまって申し訳ない。
『それで、何かあった?』
「えっと……」
 どうしよう。何を話すか考えていなかった。迷ったけれど、僕は正直に打ち明けることにした。
「あの……先輩の声が聞きたくて」
『……え?』
「あっ、す、すみません! おかしいですよね!」
 灰塚先輩は黙り込んでしまった。ああ、やっぱり言うんじゃなかった……。後悔していると、受話器の向こうから軽い咳払いが聞こえた。
『……不意打ちだね』
「何がですか?」
『いや、何でもないよ。それより今どこにいるの。家?』
「あ、いえ……神社です。花火大会の時の」
『何してんの、そんなところで』
「べ、別に何も……」
 こんな答え方で誤魔化せるとは思わないけれど、家を飛び出してきたとは言いづらかった。しばらく間が空いて、灰塚先輩はそっか、と呟いた。
『今から行くから待ってて』
「えっ?」
『すぐ着くから』
「ええっ!?」
 通話が切れてしまった。灰塚先輩が来てくれる……どうしてそんなことをしてくれるんだろう。でも先輩に会いたいと思った。


 十五分ほど待っていたら、額に汗を浮かべた灰塚先輩が現れた。急いで来てくれたのか、少し息を弾ませている。
「お待たせ」
「灰塚先輩!」
 たった数日ぶりだというのに、長い間会っていなかったような気がする。灰塚先輩は僕の隣に腰を下ろした。
「外は暑いな……」
「すみません。わざわざ来てもらって」
「いいよ、近所だし」
 灰塚先輩はTシャツの襟ぐりを摘まんでぱたぱたと風を送った。鎖骨がちらりと覗き、見てはいけない気がして思わず目を逸らす。
「青野くん、夏期講習は?」
「えーと……はい……」
 サボってしまった、と言えなくて俯くと、灰塚先輩は僕の頭をぽんぽんと撫でた。
「まあ、たまにはそういう日もあるよね」
 たぶん、灰塚先輩は全部分かっている。涙が滲みそうになって、僕は何度か瞬きをした。
 どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。僕なんて、両親と将来の夢の話すらできず、かといって本気で家出をする勇気もない意気地なしだ。せっかく励ましてもらったのに……。自分の不甲斐なさが嫌になる。
 灰塚先輩がゆっくりと立ち上がり、僕の頭から手が離れた。髪に残る温もりはすぐに溶けてなくなり、どことなく寂しさを感じる。
「暑いしどこか入ろうよ。青野くん、ゲーセン行ってみる? この前行きたいって言ってたよね」
「でも……いいんですか?」
「いいよ、今日は暇だし。青野くんの気分転換にもなるんじゃない?」
「あの、灰塚先輩!」
 僕はこちらに背を向けた灰塚先輩を咄嗟に呼び止めた。
「もし良かったら……手、繋いでもらえませんか」
「え……」
「はぐれないように……」
 人のいない境内ではぐれるはずなんてない。でも寂しさがそうさせたのだろうか、僕はそんなことを口走っていた。灰塚先輩はしばし目を瞠り、そしてふわりと笑った。その優しい笑顔に胸が跳ねる。
「いいよ」
 差し出された右手が僕の左手を握る。少し汗ばんだ感触に突然現実味が湧いてきて、自分がとんでもなく恥ずかしい発言をしたんだと気づいた。
「す、す、すみません! 変なこと言って!」
「変かな?」
「だってこんなの……」
「俺は嬉しいけど」
「それって……?」
 意味を聞き返す間もなく、灰塚先輩は僕の手を引いて歩き出した。ただそれだけのことで、落ち込んでいた心が上向いていく気がした。


 連れてこられたのは駅前のゲームセンターだった。前を通ったことはあるけれど、中に入ったのは初めてだ。
「青野くん、どれやりたい?」
 店内は騒がしく、会話をする時には必然的に顔を近づけることになる。灰塚先輩の整った顔が寄せられてどきどきした。
「よ、よく分からないです」
「じゃあ一通り見てみよう。やってみたいのがあったら教えて」
 灰塚先輩は手を繋いだまま店内を進んでいく。たまに周囲からの視線を感じて恥ずかしかったけれど、僕も離れがたくてそのまま歩き続けた。むず痒いような、落ち着かないような、何とも言えない気持ちだ。
 きょろきょろしながら歩いているとクレーンゲームのコーナーで気になるものを見つけた。
「先輩、これやってみたいです」
 僕が指差したのは犬のぬいぐるみだ。円らな瞳のポメラニアンがガラス越しにこちらを見ている。
「ちょっと難しそうだけど、取れるかな」
「僕、やってみます」
 お金を入れて慎重にアームを動かしてみる。しかし人生初のクレーンゲームは空振りに終わった。
「も、もう一回……」
「掴んで持ち上げるより、押したり引っ掛けたりして少しずつ動かしていった方がいいよ」
 灰塚先輩に助言してもらいながら何回か挑戦してみたものの、ぬいぐるみはほんの僅かに動いただけで全く取れる気配がない。これ、本当に取れるのかな。詐欺なんじゃないだろうか。
「俺もやってみるよ」
 選手交代。灰塚先輩は慣れているようで、迷いなくアームを操作していく。びくともしなかったぬいぐるみが倒れて大きく動き、何度か繰り返すうちに獲得口に近づいていく。
 しばらく時間をかけ、ようやくぬいぐるみが落ちてきた。
「はい、取れた」
「先輩、すごい! 上手いんですね!」
「こういうのはコツと運だから」
「あの、お金は……」
「いいよ。お小遣い少ないんでしょ? 俺が持っててもしょうがないし、持って帰りなよ」
「はい……ありがとうございます。大事にします」
 片手で抱えられるくらいの大きさのぬいぐるみは、柔らかい毛がふわふわしていて触り心地が良かった。
「青野くん、ぬいぐるみ好きなの?」
「ぬいぐるみ……というか、犬が好きなんです。うちの犬に似てるなって思ったら欲しくなっちゃいました」
「犬飼ってるんだ」
「はい、モモっていいます。ポメラニアンの女の子で、すごく可愛いんですよ」
 親戚の家で生まれたモモを引き取ったのは小学三年生の頃だった。モモは僕の兄弟同然の存在で、よく懐いてくれている。学校に行く前に早起きして散歩するのは大変な時もあるけれど、僕は勉強のことを考えなくていいその時間が好きだった。
「中学生の時に、モモが高いところから落ちて足を骨折しちゃったんです。今はきれいに治って、元気に走り回ってるんですけど」
「もしかして、それで獣医に?」
「はい。その頃から将来は獣医になりたいって思うようになりました。でも……」
 両親の猛反対を思い出して胸が苦しくなる。ぬいぐるみを抱える手に力が入った。
「花火大会の後、両親にもう一度話したんですけど、全然聞いてもらえなくて……なんだか全部嫌になって、飛び出してきちゃいました」
 言うつもりはなかったのに、灰塚先輩の前だと何でも話してしまいたくなる。不思議な人だ。
「なるほどね、まず話をできたことは褒めてあげよう」
「でも何も進展してないですよ」
「少しずつでもいいんだよ」
 灰塚先輩の手が僕の髪をかき混ぜるように撫でる。くすぐったくて肩を竦めた。
「それで、青野くんはどうしたい?」
「……僕は……」
 勢いで家を出たけれど、こんなことをしても何の解決にもならないと分かっていた。きっと本当は、誰かに胸の内を聞いてほしかったのだと思う。
「……やっぱり諦めたくないです。今日先輩と話したら、改めてそう思いました」
「そっか。じゃあ逃げずに向き合わないとね」
「はい……先輩に会えて良かったです」
 ようやく笑みを向けられると、灰塚先輩は目を何度か瞬かせた。
「青野くんって、本当……」
「え?」
「……ううん。俺で良ければ、いつでも話聞くよ」
「はい、ありがとうございます!」
 もう一度優しく頭を撫でてくれる手が心地よくて、僕は自然と笑顔になった。
「ところでそのぬいぐるみ、青野くんに似てない?」
「えっ?」
 灰塚先輩に言われて、ぬいぐるみの顔をまじまじと見てみる。モモには似ていると思うけれど、僕にも似ているのかな? 自分ではよく分からない。
「そうですか?」
「似てるよ。すごく可愛い」
 そう言った灰色の瞳は、ぬいぐるみではなく僕を見つめていた。


 それから灰塚先輩と別れて家路についた。僕の家出はほんの数時間、夕飯前に終わった。
 玄関を開ける前に深呼吸をする。今日は相当怒られるだろう。緊張と恐怖はあったが、それだけじゃない。今度こそ、自分の思いを両親に伝えると心に決めた。
「ただいま」
 声をかけながらドアを開くと、リビングの方からぱたぱたとスリッパで駆けてくる足音が聞こえた。
「どこ行ってたの!」
 案の定、母は切羽詰まった表情をしていた。次いで父もやって来て、深く息を吐く。
「まったく……せめて連絡くらい返しなさい」
「……ごめんなさい」
 初めての反抗だったから、もっと怒鳴られるかと思っていた。しかし両親の顔に浮かんでいたのは怒りよりも憔悴だった。
「心配かけてごめんなさい。でも……僕の話、ちゃんと聞いてほしくて」
 話すなら今しかない。灰塚先輩の言葉に背中を押されながら、ゆっくりと思いを紡ぐ。
「僕、モモを助けてくれたお医者さんみたいになりたい。自分の手で動物を助けて、その家族を笑顔にしたいんだ。挑戦しないで諦めたら、きっと一生後悔すると思う」
「……」
 両親はお互いに顔を見合わせると、僕に視線を戻した。
「……今まで聞いてあげられなくてごめんね。もう一回、ちゃんとみんなで話しましょう」
「……うん」
 その日、久しぶりに家族三人で食卓を囲んだ。そして、夜が更けるまで本音で話し合った。



 翌日、灰塚先輩に電話をかけて事の顛末を知らせた。
『そっか、分かってもらえたんだ』
「はい。家から通うっていう条件つきですけど……今までのことも謝ってくれました」
『良かった、一歩前進だね』
 スマホ越しの灰塚先輩の声は明るくて、僕もますます嬉しくなってくる。
「灰塚先輩、本当にありがとうございました」
『俺は話を聞いただけだよ』
「そんなことないです。先輩がいてくれたから、勇気が出たんです」
 そう言うと、灰塚先輩は小さく笑った。
『ありがと。じゃあ、次は俺も勇気を出してみようかな』
「先輩も?」
『今度会った時、青野くんに話したいことがあるんだ。聞いてくれるかな』
「今じゃ駄目なんですか?」
『うーん……直接伝えたいから』
 改まってどうしたんだろう。でも、きっと大切な話なんだ。それなら断る理由はない。
「分かりました。楽しみにしてます」
『楽しみ……か。うん、よろしく』
 灰塚先輩はどこか楽しそうな声色だ。よく分からないけれど、先輩が楽しいなら僕も嬉しいと思った。
 次の約束をして通話を終え、カレンダーに目を向けた。今度会えるのは三日後の日曜日。
 ああ、早く先輩に会いたいな。