七月のある晴れた昼休み、僕は短い冒険に出た。
向かうは立入禁止の屋上。扉の鍵が壊れていると担任からたまたま聞き、旅の目的地を決めた。
初めて校則を破る決心をしたことは、僕にとっては一大事だった。受験へのプレッシャーとか、何となく息苦しい周囲からの期待とか……そういったものからほんの僅かな時間、逃れたかったのだ。
ドアノブを握る手に汗が滲む。まるで重罪を犯す気分で力を込めると、金属製の扉がゆっくりと開いていった。
扉の向こうに広がるのは、絵の具で染めたような、澄みきった青い空。たなびく雲の向こうには飛行機が飛び、薫風が頬を撫でながら吹き抜けていった。
別世界に足を踏み入れるかのように、一歩二歩、歩を進める。後ろ手に扉を閉め、頭上に広がる空を見上げて深呼吸をしてみた。
「誰?」
突然どこかから声をかけられ、僕は飛び上がるほど驚いた。慌てて周囲を見回してみると、塔屋の裏の日陰に寝転がっている人の姿があった。
「何してんの」
「え、えっと、あの……」
その人物には見覚えがあった。三年の灰塚先輩だ。
彼は校内ではちょっとした有名人だった。アッシュグレーに染められた髪に、制服はネクタイを外して着崩している。いわゆる不良だった。
地味な外見の僕とは違い、彼の容姿は非常に整っている。切れ長の瞳は彼の名に相応しく灰色で、まるで精巧な作り物のようだった。
彼は素行不良とはいえ暴力沙汰や喫煙といった法に触れる問題行動は起こしておらず、成績も良いので先生たちもあまり強くは言えないらしい。
「君のこと見たことある。誰だっけ」
「二年の青野です」
「ああ、成績優秀者の」
灰塚先輩は何度か頷いた。動いた髪のすき間から、両耳にふたつずつ光るピアスが見える。
確かに、僕は一年生の修了式で全校生徒の前で表彰された。でもまさか知られていたとは思わなかった。
「修了式、出てたんですね」
「どうせサボってるだろうと思った?」
「いえ、その……」
「サボるつもりだったけど、担任に見つかって連れ戻されちゃってさ」
うっかり失礼な質問をしてしまったけれど、灰塚先輩が気を悪くした様子はない。彼は身体を起こして楽しそうに笑った。
「とりあえず、こっち来なよ。そこ暑いだろ」
太陽のせいなのか、はたまた冷や汗か、僕の背中はじっとりと湿っていた。誘われるままに灰塚先輩の隣に腰を下ろす。
「先輩はいつもここにいるんですか」
「サボる時はここ。だってこんなに天気がいいのに、教室に籠ってるなんてもったいないだろ」
屋上で見上げる空は教室の窓から見るよりも広く感じた。サボりの是非はともかく、灰塚先輩の言うことにも一理あるかもしれない。
「で、真面目な優等生が何でここに?」
「えーと……そ、それは……」
何と答えたらいいのか分からなかった。そもそも誰かに会うなんて想定していなかったのだ。そこでようやくはっと気づく。
「あの、このこと、他の人には……」
「黙っててほしい? どうしようかなあ」
灰塚先輩はにやりと笑った。どうしよう、厄介な人に見つかってしまったのかもしれない。
「僕、お金はあんまり……」
「えっ?」
「その、お小遣い少ないので」
口止め料は払えません、と意思表示をすると灰塚先輩はきょとんとして、そしてすぐに声を上げて笑い出した。
「なにそれ、カツアゲされると思った?」
「えっ、あの……違うんですか?」
「ひどいな、そんなことしないよ」
「す、すみません」
灰塚先輩は一頻り笑うと呼吸を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「んー……じゃあ、たまに話し相手になってよ」
「僕がですか?」
「そう。晴れてる日は大抵ここにいるから。それでチャラにしよう」
話し相手……僕は大して面白い話はできないけれど、いいんだろうか。しかしその灰色の瞳に見つめられると断れなかった。
「分かりました……」
またここに来るということは、校則違反を繰り返すということだ。背徳感と罪悪感、それからほんの少しの期待感で胸が音を立てた。
翌日、晴天。昨日の約束どおり、昼休みにまた屋上に向かう。扉を開ければ今日も灰塚先輩は塔屋の日陰に寝転がっていた。
「ほんとに来たんだ」
「先輩が言ったんじゃないですか」
「律儀に不真面目なことするなんて面白いね」
灰塚先輩の隣に腰かけると、彼も起き上がり、フェンスを背もたれにして座った。
今日は風が吹いておらず、日陰にいても汗で身体がべたついてくる。
「もうすぐ夏休みだけど、青野くんはどこか行くの?」
「いえ、ずっと夏期講習です」
「そっか、大変だ。もう進路決めてるの?」
「……」
「青野くん?」
「あ、すみません……」
進路の話をすると胃のあたりが重くなる。暑さとは違う汗をかいてきた。
「大丈夫? 具合悪い?」
灰塚先輩は僕の背中を擦ってくれた。その大きな手から体温が伝わってきて、暑いはずなのに不快感はなかった。
「あの……先輩、ひとつ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「先輩の志望校は……?」
「俺は専門だよ。調理師免許取ろうかなって」
「料理好きなんですね」
「まあね。うちの親、結構放任なんだ。自分の飯は自分で用意してたらハマっちゃってさ」
「そう、ですか……」
やっぱり、この時期の三年生はもう明確に将来を見据えているんだ。得体のしれない焦燥感が胸をざわつかせ、ここから逃げ出したくなるような心持ちにさせる。
「……実は……僕、医学部を目指してるんです」
「へえ、それはすごい」
「でも……でも、本当は獣医になりたいんです」
僕は俯いて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
両親の強い希望に押され、僕もずっと医学部に進むべきだと思っていた。けれど、自分のやりたいことに気づいてからは、これでいいのかとずっと迷っていた。
「それ、親には?」
「一度話したんですけど、猛反対されました」
どうして知り合ったばかりの灰塚先輩にこんな話をしているんだろう。でも言葉が止まらなかった。よく知らない相手だからこそ話せるのかもしれない。
「それで諦めちゃうんだ」
「……」
「ふうん……。まあ、一度反対されただけで諦めるくらいなら辞めた方がいいんじゃないの」
「え……」
顔を上げると灰色の瞳と目が合った。灰塚先輩は僕をじっと見ていた。笑ってはいなかった。
「本気なら説得してみなよ。受験までまだ一年もあるんだから」
「で、でも……」
「親に反対されても、家出てバイトしながら学費稼ぐとか、奨学金借りるとか、やり方は色々あるだろ。せっかく頭いいんだから、お勉強以外にも頭使いな」
「……」
僕だって何も考えていないわけじゃない。色々な制度について調べたし、県外の大学も視野に入れている。それでも、両親には夢を応援してもらいたい。そう思うのはいけないことなんだろうか。
「……諦めたくないに決まってるじゃないですか」
震える声を絞り出す。握った拳に力が入り、爪の先が白くなった。
「やっと自分の夢が見つかったんです。諦めたくない!」
思わず叫ぶと、灰塚先輩は目を丸くした。
「なんだ、でかい声出せるじゃん」
「あ……すみません、うるさくて」
「いや……むしろ興味深いかも」
髪をかき乱すように頭を撫でられた。勢いが良すぎて頭がぐらぐらと揺れる。
「せ、先輩、やめてください」
「はは、ごめん」
灰塚先輩は手を離すとゆっくりと立ち上がった。そのすらりとした立ち姿に、脚の長さがよく分かった。
「さて、俺はそろそろ行くよ」
「授業出るんですか?」
「いや、暑いから移動するだけ。青野くんはどうする?」
「僕は……」
もし、このまま灰塚先輩に着いていったらどうなるんだろう。僕にそんな度胸はあるんだろうか。
逡巡していたら予鈴が鳴った。
「ああ、時間だ。それじゃあね」
「あ……」
灰塚先輩は先に校舎内に戻ってしまった。僕も早く戻らなければ。
撫でられた頭にまだ彼の手の感触が残っている気がして、僕は自分の髪に触れた。
翌日は雨だった。屋上には行けない。そして一週間ずっと雨が続き、終業式を迎えても晴れることはなかった。
分厚い雲が空を覆い隠し、昼間だというのに薄暗い。こんな日は灰塚先輩はどこで過ごしているんだろう。気になったけれど僕は彼のクラスも連絡先も知らないのだ。
そしてそのまま灰塚先輩に会う機会はなく、夏休みに突入した。
夏休みは毎日勉強漬けで、休んでいる気がしなかった。予備校と家の往復、たまに図書館で息抜き……長期休みもあまり嬉しくない。
疲れが溜まり、今日は少し早めに勉強を切り上げて予備校を出た。駅に向かうと、浴衣姿の人たちが改札から続々と出てくる。
そういえば今夜はこの近くで花火大会がある。すっかり忘れていた。きっとこうして夏らしいことなど何もしないまま終わるんだろうな。
どことなく空しい気持ちで改札を通り抜けようとした時、目の前を歩く人の後ろ姿を見て僕は思わず声を上げた。
「は、灰塚先輩……!?」
見間違えるはずもない、アッシュグレーの髪。僕が名前を呼ぶと、その人――灰塚先輩はこちらを振り返った。
「あれ、青野くん」
「先輩も花火大会ですか?」
「いや、俺の家すぐそこなんだよ。駅前のラーメン屋でバイトしてて、今はその帰り」
「バイト……」
バイトは校則で禁止されている。灰塚先輩は僕の言いたいことが分かったのか、悪戯っぽい笑みを浮かべて顔の前で人差し指を立てた。
「内緒にしててくれる?」
「は、はい……」
秘密の共有に、胸がどきどきした。
「青野くんもこれから帰るところ?」
「あ、えっと……」
帰ると言えばここでお別れだ。でも久しぶりに会えて嬉しかった。もう少し話したいと思った。
「先輩、この後時間ありますか?」
「うん、あるけど」
「僕、先輩に会いたかったんです。だから、あと少し一緒にいられませんか?」
灰塚先輩の顔を見上げると、驚いたように目を見開いていた。そしてしばし僕の顔をじっと見つめ、小さくため息をつく。
「君さあ……」
「はい」
「……まあいいや、何でもない」
「……?」
何だろう。しかし疑問を口にするより先に、灰塚先輩は改札とは逆方向に歩き出した。
「花火、見に行く?」
「え……」
「せっかくだから行こう」
まだ返事をしていないのに、灰塚先輩はどんどん歩いていく。僕は慌ててその背中を追いかけた。
会場は混んでいるからと、灰塚先輩に連れられて近くにある神社の境内に移動した。ここにも人の姿はあるけれど、大混雑というほどではない。意外と穴場のようだ。
夜空を見上げれば、ややあって大きな打ち上げ花火が上がった。赤、青、色とりどりの花が大輪を咲かせ、雫のように流れ、消えてゆく。腹の底に響く音が鼓膜を震わせた。
「きれい……」
こうしてじっくり花火を見たのは何年ぶりだろう。近頃は空を見上げることすらしていなかった気がする。星のない夜空は黒いキャンバスのようで、鮮やかな花火がよく映えた。
「青野くん、今日も予備校行ってたの?」
隣に立つ灰塚先輩から話しかけられ、僕はそちらに視線を移した。
「はい、夏期講習でした」
「こんな時間までお疲れ様」
「いえ……」
家にいたくなくて自習室で時間を潰していただけだ。でもそのおかげで、こうして灰塚先輩と二人で花火を見られたのだから良かったと思う。
すると灰塚先輩の手が僕の頭に触れ、がしがしと撫でた。
「青野くんは頑張ってるよ」
「ちょ、せ、先輩……!」
「進路の話はできた?」
どきりと鼓動が跳ねた。
結局あれから親に話せていない。灰塚先輩はああ言っていたけれど、また自分の夢を否定されるのが怖かった。何となくばつが悪くて俯く。
「……いえ、まだ」
「そっか」
情けない奴だと思われただろうか。でもそう思われても仕方ない。顔を上げられないでいると、今度は優しく髪を撫でられた。
「きっと分かってもらえるよ。大丈夫」
「先輩……」
「ほら、下向いてたら花火が見えないよ」
再び空に目線を上げれば、絶え間なく打ち上がる花火が一面に広がっている。その光に照らされた灰塚先輩の横顔は幻想的で、きれいだと思った。つい目を奪われていると、僕の視線に気づいた灰塚先輩は少し照れくさそうに笑った。
「俺じゃなくて花火を見なよ」
「す、すみません」
顔が熱い。花火の音よりもうるさく、胸が大きく鳴っていた。
花火大会が終わり、駅に戻る道すがら、会場から出てきた人波と合流した。歩道は途端にいっぱいになり、人混みに流されそうになる。すると不意に灰塚先輩が左手を差し出してきた。
「ほら」
「はい?」
「はぐれそうだから」
これは……手を繋ぐってことだろうか。男同士なのに? 子どもでもないのに?
どうすればいいか迷っていると、灰塚先輩は僕の右手を握った。
「せ、先輩……っ」
「嫌?」
「嫌……ではないですけど……」
周囲の目が気になったが、混雑している中では誰も僕たちのことなんて気にしていないらしい。振り払うのも忍びなく、そのまま手を引かれていった。
灰塚先輩の手は僕より大きくて、骨張っていて温かい。なぜか先輩の顔が見れなくて、僕は自分のスニーカーの爪先を見つめながら足を動かした。
駅に着くと同時に手が離れ、どことなく胸がすうすうする妙な感覚がした。なんだろう、これ……。
「灰塚先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。もう帰る?」
「はい、そろそろ門限なんです」
スマホで時間を確認する。今から帰れば間に合いそうだ。
「そっか、残念。俺としては、このまま攫っていきたいくらいだけど」
「えっ?」
「……なんてね、冗談」
灰塚先輩は意味ありげに笑っている。どういう意味だろう。
「そうだ、連絡先交換しようよ」
「僕とですか?」
「他に誰がいるんだよ」
どうして僕なんかと、と思ったが、灰塚先輩はすでにスマホを手に持っている。僕も自分の連絡先を表示させようとするが、あまり交換したことがないのでいまいちやり方が分からない。手間取っているうちに、僕の手からするりとスマホが抜き取られる。
「貸して」
灰塚先輩は僕のスマホを手際よく操作して、すぐに返してきた。
「はい、できた」
「すみません、ありがとうございます」
連絡先に灰塚先輩の名前が追加されていた。なんだか嬉しくて口角が上がってしまう。
「青野くん、ニヤニヤしてる」
「えっ!?」
「そんなに嬉しい?」
「はい、嬉しいです」
素直に答えると、灰塚先輩は灰色の瞳を細めて微笑んだ。
「俺も嬉しい。これで雨の日でも会えるね」
「雨の日でも……」
「そう。学校じゃなくても、夏休みでも会える。それに毎回青野くんを屋上に呼びつけるのも悪いと思ったしね」
灰塚先輩も、僕と会いたいと思ってくれているんだろうか。そうだったら、なんと言うか……ちょっと照れくさくて、心の奥がむずむずする。
「今度二人で遊ぼうよ。行きたいところある?」
「えっと、じゃあ……ゲームセンターに行ってみたいです」
「もしかして、ゲーセン行ったことないの?」
「はい」
「マジか……」
灰塚先輩は片手で顔を覆った。そんなに変なこと言ったかな。
「青野くんを悪の道に染めてる気がする」
「悪……? でも、先輩は悪い人じゃないですよね」
「うーん、君が思ってるより良い人でもないよ」
灰塚先輩は苦笑いを浮かべた。確かに彼はいくつも校則違反をしていて、真面目とは言いがたい。でも決して悪人ではないと思う。
「灰塚先輩は優しくて頼りがいがあって、良い人だと思います」
「それは……うん、ありがと」
灰塚先輩はまた顔を覆った。耳がほんのり赤く見えた。
「ところで、時間大丈夫? 門限あるんだろ」
「あっ、すみません、もう帰らないと!」
いつの間にか門限ぎりぎりだった。急いで改札を抜ける。
「気をつけてね」
「はい、おやすみなさい!」
灰塚先輩に見送られて、早足でホームへ続く階段を上った。なんだか足取りが軽い。胸のつかえが取れたようだった。
帰ったら、また両親に話してみよう。すぐには納得してもらえないかもしれないけれど、諦めずに何度も説得してみよう。
そして灰塚先輩に良い報告をして、一緒に喜んでもらいたい。
僕はまだ灰塚先輩のことをほとんど知らない。もっと彼のことを知って、同じ時を過ごして、同じ感情を共有してみたい。どうしてそう思うのか、今はまだよく分からないけれど……きっといずれ分かる日が来る。そんな気がした。
向かうは立入禁止の屋上。扉の鍵が壊れていると担任からたまたま聞き、旅の目的地を決めた。
初めて校則を破る決心をしたことは、僕にとっては一大事だった。受験へのプレッシャーとか、何となく息苦しい周囲からの期待とか……そういったものからほんの僅かな時間、逃れたかったのだ。
ドアノブを握る手に汗が滲む。まるで重罪を犯す気分で力を込めると、金属製の扉がゆっくりと開いていった。
扉の向こうに広がるのは、絵の具で染めたような、澄みきった青い空。たなびく雲の向こうには飛行機が飛び、薫風が頬を撫でながら吹き抜けていった。
別世界に足を踏み入れるかのように、一歩二歩、歩を進める。後ろ手に扉を閉め、頭上に広がる空を見上げて深呼吸をしてみた。
「誰?」
突然どこかから声をかけられ、僕は飛び上がるほど驚いた。慌てて周囲を見回してみると、塔屋の裏の日陰に寝転がっている人の姿があった。
「何してんの」
「え、えっと、あの……」
その人物には見覚えがあった。三年の灰塚先輩だ。
彼は校内ではちょっとした有名人だった。アッシュグレーに染められた髪に、制服はネクタイを外して着崩している。いわゆる不良だった。
地味な外見の僕とは違い、彼の容姿は非常に整っている。切れ長の瞳は彼の名に相応しく灰色で、まるで精巧な作り物のようだった。
彼は素行不良とはいえ暴力沙汰や喫煙といった法に触れる問題行動は起こしておらず、成績も良いので先生たちもあまり強くは言えないらしい。
「君のこと見たことある。誰だっけ」
「二年の青野です」
「ああ、成績優秀者の」
灰塚先輩は何度か頷いた。動いた髪のすき間から、両耳にふたつずつ光るピアスが見える。
確かに、僕は一年生の修了式で全校生徒の前で表彰された。でもまさか知られていたとは思わなかった。
「修了式、出てたんですね」
「どうせサボってるだろうと思った?」
「いえ、その……」
「サボるつもりだったけど、担任に見つかって連れ戻されちゃってさ」
うっかり失礼な質問をしてしまったけれど、灰塚先輩が気を悪くした様子はない。彼は身体を起こして楽しそうに笑った。
「とりあえず、こっち来なよ。そこ暑いだろ」
太陽のせいなのか、はたまた冷や汗か、僕の背中はじっとりと湿っていた。誘われるままに灰塚先輩の隣に腰を下ろす。
「先輩はいつもここにいるんですか」
「サボる時はここ。だってこんなに天気がいいのに、教室に籠ってるなんてもったいないだろ」
屋上で見上げる空は教室の窓から見るよりも広く感じた。サボりの是非はともかく、灰塚先輩の言うことにも一理あるかもしれない。
「で、真面目な優等生が何でここに?」
「えーと……そ、それは……」
何と答えたらいいのか分からなかった。そもそも誰かに会うなんて想定していなかったのだ。そこでようやくはっと気づく。
「あの、このこと、他の人には……」
「黙っててほしい? どうしようかなあ」
灰塚先輩はにやりと笑った。どうしよう、厄介な人に見つかってしまったのかもしれない。
「僕、お金はあんまり……」
「えっ?」
「その、お小遣い少ないので」
口止め料は払えません、と意思表示をすると灰塚先輩はきょとんとして、そしてすぐに声を上げて笑い出した。
「なにそれ、カツアゲされると思った?」
「えっ、あの……違うんですか?」
「ひどいな、そんなことしないよ」
「す、すみません」
灰塚先輩は一頻り笑うと呼吸を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「んー……じゃあ、たまに話し相手になってよ」
「僕がですか?」
「そう。晴れてる日は大抵ここにいるから。それでチャラにしよう」
話し相手……僕は大して面白い話はできないけれど、いいんだろうか。しかしその灰色の瞳に見つめられると断れなかった。
「分かりました……」
またここに来るということは、校則違反を繰り返すということだ。背徳感と罪悪感、それからほんの少しの期待感で胸が音を立てた。
翌日、晴天。昨日の約束どおり、昼休みにまた屋上に向かう。扉を開ければ今日も灰塚先輩は塔屋の日陰に寝転がっていた。
「ほんとに来たんだ」
「先輩が言ったんじゃないですか」
「律儀に不真面目なことするなんて面白いね」
灰塚先輩の隣に腰かけると、彼も起き上がり、フェンスを背もたれにして座った。
今日は風が吹いておらず、日陰にいても汗で身体がべたついてくる。
「もうすぐ夏休みだけど、青野くんはどこか行くの?」
「いえ、ずっと夏期講習です」
「そっか、大変だ。もう進路決めてるの?」
「……」
「青野くん?」
「あ、すみません……」
進路の話をすると胃のあたりが重くなる。暑さとは違う汗をかいてきた。
「大丈夫? 具合悪い?」
灰塚先輩は僕の背中を擦ってくれた。その大きな手から体温が伝わってきて、暑いはずなのに不快感はなかった。
「あの……先輩、ひとつ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「先輩の志望校は……?」
「俺は専門だよ。調理師免許取ろうかなって」
「料理好きなんですね」
「まあね。うちの親、結構放任なんだ。自分の飯は自分で用意してたらハマっちゃってさ」
「そう、ですか……」
やっぱり、この時期の三年生はもう明確に将来を見据えているんだ。得体のしれない焦燥感が胸をざわつかせ、ここから逃げ出したくなるような心持ちにさせる。
「……実は……僕、医学部を目指してるんです」
「へえ、それはすごい」
「でも……でも、本当は獣医になりたいんです」
僕は俯いて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
両親の強い希望に押され、僕もずっと医学部に進むべきだと思っていた。けれど、自分のやりたいことに気づいてからは、これでいいのかとずっと迷っていた。
「それ、親には?」
「一度話したんですけど、猛反対されました」
どうして知り合ったばかりの灰塚先輩にこんな話をしているんだろう。でも言葉が止まらなかった。よく知らない相手だからこそ話せるのかもしれない。
「それで諦めちゃうんだ」
「……」
「ふうん……。まあ、一度反対されただけで諦めるくらいなら辞めた方がいいんじゃないの」
「え……」
顔を上げると灰色の瞳と目が合った。灰塚先輩は僕をじっと見ていた。笑ってはいなかった。
「本気なら説得してみなよ。受験までまだ一年もあるんだから」
「で、でも……」
「親に反対されても、家出てバイトしながら学費稼ぐとか、奨学金借りるとか、やり方は色々あるだろ。せっかく頭いいんだから、お勉強以外にも頭使いな」
「……」
僕だって何も考えていないわけじゃない。色々な制度について調べたし、県外の大学も視野に入れている。それでも、両親には夢を応援してもらいたい。そう思うのはいけないことなんだろうか。
「……諦めたくないに決まってるじゃないですか」
震える声を絞り出す。握った拳に力が入り、爪の先が白くなった。
「やっと自分の夢が見つかったんです。諦めたくない!」
思わず叫ぶと、灰塚先輩は目を丸くした。
「なんだ、でかい声出せるじゃん」
「あ……すみません、うるさくて」
「いや……むしろ興味深いかも」
髪をかき乱すように頭を撫でられた。勢いが良すぎて頭がぐらぐらと揺れる。
「せ、先輩、やめてください」
「はは、ごめん」
灰塚先輩は手を離すとゆっくりと立ち上がった。そのすらりとした立ち姿に、脚の長さがよく分かった。
「さて、俺はそろそろ行くよ」
「授業出るんですか?」
「いや、暑いから移動するだけ。青野くんはどうする?」
「僕は……」
もし、このまま灰塚先輩に着いていったらどうなるんだろう。僕にそんな度胸はあるんだろうか。
逡巡していたら予鈴が鳴った。
「ああ、時間だ。それじゃあね」
「あ……」
灰塚先輩は先に校舎内に戻ってしまった。僕も早く戻らなければ。
撫でられた頭にまだ彼の手の感触が残っている気がして、僕は自分の髪に触れた。
翌日は雨だった。屋上には行けない。そして一週間ずっと雨が続き、終業式を迎えても晴れることはなかった。
分厚い雲が空を覆い隠し、昼間だというのに薄暗い。こんな日は灰塚先輩はどこで過ごしているんだろう。気になったけれど僕は彼のクラスも連絡先も知らないのだ。
そしてそのまま灰塚先輩に会う機会はなく、夏休みに突入した。
夏休みは毎日勉強漬けで、休んでいる気がしなかった。予備校と家の往復、たまに図書館で息抜き……長期休みもあまり嬉しくない。
疲れが溜まり、今日は少し早めに勉強を切り上げて予備校を出た。駅に向かうと、浴衣姿の人たちが改札から続々と出てくる。
そういえば今夜はこの近くで花火大会がある。すっかり忘れていた。きっとこうして夏らしいことなど何もしないまま終わるんだろうな。
どことなく空しい気持ちで改札を通り抜けようとした時、目の前を歩く人の後ろ姿を見て僕は思わず声を上げた。
「は、灰塚先輩……!?」
見間違えるはずもない、アッシュグレーの髪。僕が名前を呼ぶと、その人――灰塚先輩はこちらを振り返った。
「あれ、青野くん」
「先輩も花火大会ですか?」
「いや、俺の家すぐそこなんだよ。駅前のラーメン屋でバイトしてて、今はその帰り」
「バイト……」
バイトは校則で禁止されている。灰塚先輩は僕の言いたいことが分かったのか、悪戯っぽい笑みを浮かべて顔の前で人差し指を立てた。
「内緒にしててくれる?」
「は、はい……」
秘密の共有に、胸がどきどきした。
「青野くんもこれから帰るところ?」
「あ、えっと……」
帰ると言えばここでお別れだ。でも久しぶりに会えて嬉しかった。もう少し話したいと思った。
「先輩、この後時間ありますか?」
「うん、あるけど」
「僕、先輩に会いたかったんです。だから、あと少し一緒にいられませんか?」
灰塚先輩の顔を見上げると、驚いたように目を見開いていた。そしてしばし僕の顔をじっと見つめ、小さくため息をつく。
「君さあ……」
「はい」
「……まあいいや、何でもない」
「……?」
何だろう。しかし疑問を口にするより先に、灰塚先輩は改札とは逆方向に歩き出した。
「花火、見に行く?」
「え……」
「せっかくだから行こう」
まだ返事をしていないのに、灰塚先輩はどんどん歩いていく。僕は慌ててその背中を追いかけた。
会場は混んでいるからと、灰塚先輩に連れられて近くにある神社の境内に移動した。ここにも人の姿はあるけれど、大混雑というほどではない。意外と穴場のようだ。
夜空を見上げれば、ややあって大きな打ち上げ花火が上がった。赤、青、色とりどりの花が大輪を咲かせ、雫のように流れ、消えてゆく。腹の底に響く音が鼓膜を震わせた。
「きれい……」
こうしてじっくり花火を見たのは何年ぶりだろう。近頃は空を見上げることすらしていなかった気がする。星のない夜空は黒いキャンバスのようで、鮮やかな花火がよく映えた。
「青野くん、今日も予備校行ってたの?」
隣に立つ灰塚先輩から話しかけられ、僕はそちらに視線を移した。
「はい、夏期講習でした」
「こんな時間までお疲れ様」
「いえ……」
家にいたくなくて自習室で時間を潰していただけだ。でもそのおかげで、こうして灰塚先輩と二人で花火を見られたのだから良かったと思う。
すると灰塚先輩の手が僕の頭に触れ、がしがしと撫でた。
「青野くんは頑張ってるよ」
「ちょ、せ、先輩……!」
「進路の話はできた?」
どきりと鼓動が跳ねた。
結局あれから親に話せていない。灰塚先輩はああ言っていたけれど、また自分の夢を否定されるのが怖かった。何となくばつが悪くて俯く。
「……いえ、まだ」
「そっか」
情けない奴だと思われただろうか。でもそう思われても仕方ない。顔を上げられないでいると、今度は優しく髪を撫でられた。
「きっと分かってもらえるよ。大丈夫」
「先輩……」
「ほら、下向いてたら花火が見えないよ」
再び空に目線を上げれば、絶え間なく打ち上がる花火が一面に広がっている。その光に照らされた灰塚先輩の横顔は幻想的で、きれいだと思った。つい目を奪われていると、僕の視線に気づいた灰塚先輩は少し照れくさそうに笑った。
「俺じゃなくて花火を見なよ」
「す、すみません」
顔が熱い。花火の音よりもうるさく、胸が大きく鳴っていた。
花火大会が終わり、駅に戻る道すがら、会場から出てきた人波と合流した。歩道は途端にいっぱいになり、人混みに流されそうになる。すると不意に灰塚先輩が左手を差し出してきた。
「ほら」
「はい?」
「はぐれそうだから」
これは……手を繋ぐってことだろうか。男同士なのに? 子どもでもないのに?
どうすればいいか迷っていると、灰塚先輩は僕の右手を握った。
「せ、先輩……っ」
「嫌?」
「嫌……ではないですけど……」
周囲の目が気になったが、混雑している中では誰も僕たちのことなんて気にしていないらしい。振り払うのも忍びなく、そのまま手を引かれていった。
灰塚先輩の手は僕より大きくて、骨張っていて温かい。なぜか先輩の顔が見れなくて、僕は自分のスニーカーの爪先を見つめながら足を動かした。
駅に着くと同時に手が離れ、どことなく胸がすうすうする妙な感覚がした。なんだろう、これ……。
「灰塚先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。もう帰る?」
「はい、そろそろ門限なんです」
スマホで時間を確認する。今から帰れば間に合いそうだ。
「そっか、残念。俺としては、このまま攫っていきたいくらいだけど」
「えっ?」
「……なんてね、冗談」
灰塚先輩は意味ありげに笑っている。どういう意味だろう。
「そうだ、連絡先交換しようよ」
「僕とですか?」
「他に誰がいるんだよ」
どうして僕なんかと、と思ったが、灰塚先輩はすでにスマホを手に持っている。僕も自分の連絡先を表示させようとするが、あまり交換したことがないのでいまいちやり方が分からない。手間取っているうちに、僕の手からするりとスマホが抜き取られる。
「貸して」
灰塚先輩は僕のスマホを手際よく操作して、すぐに返してきた。
「はい、できた」
「すみません、ありがとうございます」
連絡先に灰塚先輩の名前が追加されていた。なんだか嬉しくて口角が上がってしまう。
「青野くん、ニヤニヤしてる」
「えっ!?」
「そんなに嬉しい?」
「はい、嬉しいです」
素直に答えると、灰塚先輩は灰色の瞳を細めて微笑んだ。
「俺も嬉しい。これで雨の日でも会えるね」
「雨の日でも……」
「そう。学校じゃなくても、夏休みでも会える。それに毎回青野くんを屋上に呼びつけるのも悪いと思ったしね」
灰塚先輩も、僕と会いたいと思ってくれているんだろうか。そうだったら、なんと言うか……ちょっと照れくさくて、心の奥がむずむずする。
「今度二人で遊ぼうよ。行きたいところある?」
「えっと、じゃあ……ゲームセンターに行ってみたいです」
「もしかして、ゲーセン行ったことないの?」
「はい」
「マジか……」
灰塚先輩は片手で顔を覆った。そんなに変なこと言ったかな。
「青野くんを悪の道に染めてる気がする」
「悪……? でも、先輩は悪い人じゃないですよね」
「うーん、君が思ってるより良い人でもないよ」
灰塚先輩は苦笑いを浮かべた。確かに彼はいくつも校則違反をしていて、真面目とは言いがたい。でも決して悪人ではないと思う。
「灰塚先輩は優しくて頼りがいがあって、良い人だと思います」
「それは……うん、ありがと」
灰塚先輩はまた顔を覆った。耳がほんのり赤く見えた。
「ところで、時間大丈夫? 門限あるんだろ」
「あっ、すみません、もう帰らないと!」
いつの間にか門限ぎりぎりだった。急いで改札を抜ける。
「気をつけてね」
「はい、おやすみなさい!」
灰塚先輩に見送られて、早足でホームへ続く階段を上った。なんだか足取りが軽い。胸のつかえが取れたようだった。
帰ったら、また両親に話してみよう。すぐには納得してもらえないかもしれないけれど、諦めずに何度も説得してみよう。
そして灰塚先輩に良い報告をして、一緒に喜んでもらいたい。
僕はまだ灰塚先輩のことをほとんど知らない。もっと彼のことを知って、同じ時を過ごして、同じ感情を共有してみたい。どうしてそう思うのか、今はまだよく分からないけれど……きっといずれ分かる日が来る。そんな気がした。



