その話は、夕食の席で、母の世間話として運ばれてきた。
「そういえば、お隣の柚葉ちゃん、帰ってきてるんだって」
「……ゆず姉が? 大学は?」
「休学してるらしいのよ。ほら、秋に事故に遭ったって言ったでしょう。思ったより長引いてるみたいでね。西村さん、ちょっと疲れた顔してたわ」
事故。秋。休学。
味噌汁を持つ手が、途中で止まった。聞いた覚えは、あった。十月頃、母が「柚葉ちゃん、怪我したんですって」と言っていた。あの頃の私は、自分の喪失で手一杯で、お隣の事故は、耳を素通りしていった。柚葉ちゃんなら大丈夫よ、しっかりした子だから――母のそんな言葉と一緒に、流してしまっていた。
西村柚葉。ゆず姉。家がひとつ隣の、三つ上のお姉ちゃん。小さい頃、私と亜矢は、よくゆず姉に遊んでもらった。かくれんぼの鬼を何回もやってくれて、宿題を見てくれて、中学の制服姿を「大人だ」と思って見上げた人。
そして――一昨年の冬、私がいちばんはっきりと、力を誰かのために使った相手。
あの夜のことは、今でも思い出せる。ゆず姉の大学受験の前日だった。寝る前に流れてきた明日の中に、珍しく、ゆず姉がいた。駅のホームで、青ざめた顔で立ち尽くしている姿。人身事故で電車が止まって、振替輸送の長い列に並んで、試験会場に着いたのは開始二十分後。廊下で係の人に頭を下げ続けるゆず姉の、震えていた背中。
見てしまってから、眠れなかった。
伝えるべきか、迷った。でも、伝えなかったら。
布団の中で一時間考えて、スマホを取った。
「ゆず姉、明日、試験ですよね。頑張ってください。何があるか分からないので、早めに出た方がいいと思います」
しばらくして、返信が来た。
「ミクちゃん、ありがとう。そうする! 気にかけてくれて嬉しい。おやすみ」
画面を見つめて、スマホを伏せた。届いた。それだけで、十分だった。
次の日、ゆず姉は三十分早い電車に乗り、事故の前に会場の最寄り駅に着いて、試験を最後まで受けて、合格した。
春、桜の柄の菓子折りを持って、西村さんの家族がうちに来た。「ミクちゃんのおかげ」と、ゆず姉は笑っていた。私は「偶然だよ」と返しながら、胸の内側だけで、静かに誇らしかった。十二年間で、いちばん、力を持っていてよかったと思えた日だった。
その、ゆず姉が。
「ねえ、お母さん。事故って、どんな?」
「自転車ですって。大学の帰りに、交差点で車と。命に別状はなかったけど、脚を複雑骨折して、手術して。リハビリが長くかかるって」
「……そう」
「お見舞い、行ってあげたら? 柚葉ちゃん、喜ぶわよ」
* * *
翌日の放課後、私は亜矢を誘った。亜矢は二つ返事だった。ゆず姉は、亜矢にとってもゆず姉だからだ。部活を早退した亜矢と、駅前でお見舞いのプリンを買って、ひとつ隣の玄関のチャイムを鳴らした。
ゆず姉は、松葉杖で出てきた。
「わ、ミクちゃんと亜矢ちゃん! 大きくなったねえ、って、この前も言ったっけ」
顔色は、思ったより明るかった。左脚に、まだ金属の固定具がついていた。リビングで、プリンを食べながら、私たちはしばらく、他愛のない話をした。大学の話。サッカー部の話。亜矢がマネージャーの愚痴を面白おかしく喋って、ゆず姉がよく笑った。
事故の話を切り出したのは、ゆず姉のほうだった。
「脚ね、これ、あと二回手術するの」
「……そんなに」
「うん。まあでも、命があっただけ運が良かったって、みんな言う。実際そうなんだけどさ」
ゆず姉は、固定具の上を、指先でなぞった。
「不思議なんだよね、あの事故。あたし、あの交差点、毎日通ってたの。信号もちゃんと守ってた。あの日もいつも通りだった。なのに、車のほうが、ありえない角度で突っ込んできて。運転してた人も、なんであんな操作したのか自分でも分からないって言ってたらしくて。誰も悪くないみたいな顔して、あたしの脚だけ折れてるの。変なの」
亜矢が「めちゃくちゃ災難じゃん……」と眉を下げた。
私は、相槌が打てなかった。
ありえない角度で。
なんでか分からない操作で。
誰も悪くないみたいな顔をして。
その言い方を、私は知っていた。逆向きに、知っていた。
ありえない角度で逸れていく自転車。誰もいない段だけを選んで転がる傘。あの半年、私の周りで起きなかった事故たちと、ゆず姉に起きた事故は、同じ文法で書かれていた。
結果だけが、反対だった。
「でもさ」
と、ゆず姉は続けた。私のほうを見て、ふっと目を細めた。
「あたし、ついてるんだと思うことにしてる。だって受験の日、思い出してよ。ミクちゃんが早く出なって言ってくれたおかげで普通に大学に着けて、あたし、ちゃんと合格できたんだから。あそこで人生一回、大当たり引いてるの。だから今回ちょっと大凶引いても、差し引き、まだ黒字」
差し引き。
プリンのスプーンが、指の中で、急に重くなった。
ゆず姉は、冗談として言っている。運勢の話として、笑いながら言っている。
でも私の耳には、その言葉が、まったく別の意味で刺さっていた。
大当たりと、大凶。あの冬の合格と、この秋の事故。
ゆず姉の人生の帳簿の上で、その二つが、まるで対になっているみたいに――
やめろ、と自分に言った。考えすぎだ。
受験は二年近く前で、事故はこの秋だ。関係があるわけがない。世の中には、幸運のあとに不運が来る人なんて、いくらでもいる。それを全部結びつけていたら、きりがない。
でも。
事故が起きたのは、秋。私の目が閉じた、あの季節だ。
私の周りで「ぎりぎり」が止んだ、まさにその頃に、私がかつて救った人の上に、ぎりぎりじゃない本物が、落ちてきている。
帰り道は、日が暮れていた。
亜矢は「ゆず姉、元気そうでよかったね」と言った。私は「うん」と返した。声が硬くなっていないか、自分では分からなかった。
「……ミク、どしたの。ゆず姉の脚、そんなショックだった?」
「ん……ちょっとね」
「まあ、分かるけどさ」
亜矢は白い息を吐いた。
「なんか、理不尽だよね。ゆず姉、なんも悪くないのに」
なんも悪くないのに。
そう。ゆず姉は、何も悪くない。悪いことなんて、何ひとつしていない。ただ、受験の日に、早い電車に乗っただけだ。
乗せたのは、私だ。
* * *
家に帰って、部屋の電気をつけて、私はノートを開いた。四つのぎりぎりと、彼の名前が書いてあるページの、その次のページ。真っ白な紙の上に、私は新しい表題を書いた。
――私が、変えた明日。
一件目。西村柚葉。一昨年の冬。電車の遅延を教えた。合格した。今年の秋、事故。複雑骨折。
書き終えて、読み返して、私は自分の書いた三行が、まるで因果関係があるみたいに並んでいることに、ぞっとした。
証拠なんて、何もない。時期が重なっているだけ。人が聞いたら笑う。気にしすぎだよ、たまたまでしょ、と、亜矢なら言う。
でも私は、書き足すべき問いがあることを、もう知っていた。シャーペンを握り直して、三行の下に、小さく書いた。
――私が変えた明日は、ゆず姉のほかに、いくつある?
思い出そうとして、指が止まった。
数えきれない、かもしれなかった。
大きなものは、ゆず姉くらいだ。でも、小さなものなら。日直を代わってあげた子。忘れ物を教えてあげた子。喧嘩を避けさせた誰か。恥をかく前に助け舟を出した誰か。「察しがいい」「優しい」「頼りになる」と言われながら、私が善意で、悪気なんてひとつもなく、少しずつ変えてきた明日たち。
あれが全部、ゆず姉と同じ文法の中にあるのだとしたら。
窓の外は、もう真っ暗だった。私は電気を消して、布団に入って、久しぶりに、眠るのが怖い夜を過ごした。視えないから怖いんじゃなかった。今夜は、視えていた十二年のほうが、怖かった。
「そういえば、お隣の柚葉ちゃん、帰ってきてるんだって」
「……ゆず姉が? 大学は?」
「休学してるらしいのよ。ほら、秋に事故に遭ったって言ったでしょう。思ったより長引いてるみたいでね。西村さん、ちょっと疲れた顔してたわ」
事故。秋。休学。
味噌汁を持つ手が、途中で止まった。聞いた覚えは、あった。十月頃、母が「柚葉ちゃん、怪我したんですって」と言っていた。あの頃の私は、自分の喪失で手一杯で、お隣の事故は、耳を素通りしていった。柚葉ちゃんなら大丈夫よ、しっかりした子だから――母のそんな言葉と一緒に、流してしまっていた。
西村柚葉。ゆず姉。家がひとつ隣の、三つ上のお姉ちゃん。小さい頃、私と亜矢は、よくゆず姉に遊んでもらった。かくれんぼの鬼を何回もやってくれて、宿題を見てくれて、中学の制服姿を「大人だ」と思って見上げた人。
そして――一昨年の冬、私がいちばんはっきりと、力を誰かのために使った相手。
あの夜のことは、今でも思い出せる。ゆず姉の大学受験の前日だった。寝る前に流れてきた明日の中に、珍しく、ゆず姉がいた。駅のホームで、青ざめた顔で立ち尽くしている姿。人身事故で電車が止まって、振替輸送の長い列に並んで、試験会場に着いたのは開始二十分後。廊下で係の人に頭を下げ続けるゆず姉の、震えていた背中。
見てしまってから、眠れなかった。
伝えるべきか、迷った。でも、伝えなかったら。
布団の中で一時間考えて、スマホを取った。
「ゆず姉、明日、試験ですよね。頑張ってください。何があるか分からないので、早めに出た方がいいと思います」
しばらくして、返信が来た。
「ミクちゃん、ありがとう。そうする! 気にかけてくれて嬉しい。おやすみ」
画面を見つめて、スマホを伏せた。届いた。それだけで、十分だった。
次の日、ゆず姉は三十分早い電車に乗り、事故の前に会場の最寄り駅に着いて、試験を最後まで受けて、合格した。
春、桜の柄の菓子折りを持って、西村さんの家族がうちに来た。「ミクちゃんのおかげ」と、ゆず姉は笑っていた。私は「偶然だよ」と返しながら、胸の内側だけで、静かに誇らしかった。十二年間で、いちばん、力を持っていてよかったと思えた日だった。
その、ゆず姉が。
「ねえ、お母さん。事故って、どんな?」
「自転車ですって。大学の帰りに、交差点で車と。命に別状はなかったけど、脚を複雑骨折して、手術して。リハビリが長くかかるって」
「……そう」
「お見舞い、行ってあげたら? 柚葉ちゃん、喜ぶわよ」
* * *
翌日の放課後、私は亜矢を誘った。亜矢は二つ返事だった。ゆず姉は、亜矢にとってもゆず姉だからだ。部活を早退した亜矢と、駅前でお見舞いのプリンを買って、ひとつ隣の玄関のチャイムを鳴らした。
ゆず姉は、松葉杖で出てきた。
「わ、ミクちゃんと亜矢ちゃん! 大きくなったねえ、って、この前も言ったっけ」
顔色は、思ったより明るかった。左脚に、まだ金属の固定具がついていた。リビングで、プリンを食べながら、私たちはしばらく、他愛のない話をした。大学の話。サッカー部の話。亜矢がマネージャーの愚痴を面白おかしく喋って、ゆず姉がよく笑った。
事故の話を切り出したのは、ゆず姉のほうだった。
「脚ね、これ、あと二回手術するの」
「……そんなに」
「うん。まあでも、命があっただけ運が良かったって、みんな言う。実際そうなんだけどさ」
ゆず姉は、固定具の上を、指先でなぞった。
「不思議なんだよね、あの事故。あたし、あの交差点、毎日通ってたの。信号もちゃんと守ってた。あの日もいつも通りだった。なのに、車のほうが、ありえない角度で突っ込んできて。運転してた人も、なんであんな操作したのか自分でも分からないって言ってたらしくて。誰も悪くないみたいな顔して、あたしの脚だけ折れてるの。変なの」
亜矢が「めちゃくちゃ災難じゃん……」と眉を下げた。
私は、相槌が打てなかった。
ありえない角度で。
なんでか分からない操作で。
誰も悪くないみたいな顔をして。
その言い方を、私は知っていた。逆向きに、知っていた。
ありえない角度で逸れていく自転車。誰もいない段だけを選んで転がる傘。あの半年、私の周りで起きなかった事故たちと、ゆず姉に起きた事故は、同じ文法で書かれていた。
結果だけが、反対だった。
「でもさ」
と、ゆず姉は続けた。私のほうを見て、ふっと目を細めた。
「あたし、ついてるんだと思うことにしてる。だって受験の日、思い出してよ。ミクちゃんが早く出なって言ってくれたおかげで普通に大学に着けて、あたし、ちゃんと合格できたんだから。あそこで人生一回、大当たり引いてるの。だから今回ちょっと大凶引いても、差し引き、まだ黒字」
差し引き。
プリンのスプーンが、指の中で、急に重くなった。
ゆず姉は、冗談として言っている。運勢の話として、笑いながら言っている。
でも私の耳には、その言葉が、まったく別の意味で刺さっていた。
大当たりと、大凶。あの冬の合格と、この秋の事故。
ゆず姉の人生の帳簿の上で、その二つが、まるで対になっているみたいに――
やめろ、と自分に言った。考えすぎだ。
受験は二年近く前で、事故はこの秋だ。関係があるわけがない。世の中には、幸運のあとに不運が来る人なんて、いくらでもいる。それを全部結びつけていたら、きりがない。
でも。
事故が起きたのは、秋。私の目が閉じた、あの季節だ。
私の周りで「ぎりぎり」が止んだ、まさにその頃に、私がかつて救った人の上に、ぎりぎりじゃない本物が、落ちてきている。
帰り道は、日が暮れていた。
亜矢は「ゆず姉、元気そうでよかったね」と言った。私は「うん」と返した。声が硬くなっていないか、自分では分からなかった。
「……ミク、どしたの。ゆず姉の脚、そんなショックだった?」
「ん……ちょっとね」
「まあ、分かるけどさ」
亜矢は白い息を吐いた。
「なんか、理不尽だよね。ゆず姉、なんも悪くないのに」
なんも悪くないのに。
そう。ゆず姉は、何も悪くない。悪いことなんて、何ひとつしていない。ただ、受験の日に、早い電車に乗っただけだ。
乗せたのは、私だ。
* * *
家に帰って、部屋の電気をつけて、私はノートを開いた。四つのぎりぎりと、彼の名前が書いてあるページの、その次のページ。真っ白な紙の上に、私は新しい表題を書いた。
――私が、変えた明日。
一件目。西村柚葉。一昨年の冬。電車の遅延を教えた。合格した。今年の秋、事故。複雑骨折。
書き終えて、読み返して、私は自分の書いた三行が、まるで因果関係があるみたいに並んでいることに、ぞっとした。
証拠なんて、何もない。時期が重なっているだけ。人が聞いたら笑う。気にしすぎだよ、たまたまでしょ、と、亜矢なら言う。
でも私は、書き足すべき問いがあることを、もう知っていた。シャーペンを握り直して、三行の下に、小さく書いた。
――私が変えた明日は、ゆず姉のほかに、いくつある?
思い出そうとして、指が止まった。
数えきれない、かもしれなかった。
大きなものは、ゆず姉くらいだ。でも、小さなものなら。日直を代わってあげた子。忘れ物を教えてあげた子。喧嘩を避けさせた誰か。恥をかく前に助け舟を出した誰か。「察しがいい」「優しい」「頼りになる」と言われながら、私が善意で、悪気なんてひとつもなく、少しずつ変えてきた明日たち。
あれが全部、ゆず姉と同じ文法の中にあるのだとしたら。
窓の外は、もう真っ暗だった。私は電気を消して、布団に入って、久しぶりに、眠るのが怖い夜を過ごした。視えないから怖いんじゃなかった。今夜は、視えていた十二年のほうが、怖かった。

