十一月に入って、視えない夜は、一ヶ月を超えた。
もう、戻るかもしれない、とは毎晩考えなくなっていた。
毎晩、布団に入る前に一度だけ、目を閉じて確かめる。何も来ない。それを確認してから、問題集を開く。確かめる時間は、日ごとに短くなっていった。諦めたのとは、少し違う。ただ、待つことより、やることのほうが、私の夜を占めるようになっただけだ。

家の中も、少しだけ変わった。
「みらい、ごはんおかわりは?」
「いい。ごちそうさま」
夕食の席で、母は私に、前より頻繁に話しかけるようになった。学校どうだった、とか、寒くなってきたね、とか、中身のない、やわらかい質問ばかり。
成績の話は、あの答案の日から一度もしない。しないように、している。それが分かるから、余計に、母の気遣いが食卓の上にうっすら積もっていくのが見えた。
「最近、夜遅くまで起きてるでしょう。電気、漏れてるよ」
「……勉強してるの」
「みらいが? 珍しい」
母は笑って、それから、少しだけ真顔になった。
「無理してない?」
無理。この一ヶ月の私を言い表す言葉としては、近いようで、遠かった。無理をしているんじゃない。今までの十二年が、無理じゃなさすぎただけだ。でも、それを説明する言葉を、私はまだ持っていない。
「してない。ちょっと、やり方変えてるだけ」
「ふうん」
母は味噌汁の椀を置いた。
「なんかあったら、言ってね」
なんかあったら。担任と同じ言葉を、母も使った。なんかあったらの「なんか」に、私の本当の事情が入る日は、たぶん来ない。でも、不思議と、以前ほど孤独ではなかった。言えないことは変わらないのに、言えない私を心配してくれる人の数だけは、ちゃんと数えられるようになっていた。
*     *     *
その日は、日直だった。
放課後、日誌を書き終えて職員室に届けて、教室に戻ると、もう誰もいない――はずだった。
「お、望月。まだいたんだ」
歩くんが、自分の席で、スマホを触りながら足を伸ばしていた。
「……帰らないの?」
「充電待ち。あと十パーセントで死ぬから、家までもたない」
彼は机の横のコンセントを指さした。モバイルバッテリーという発想はないんだろうか、と思ったけれど、言わなかった。私は自分の席に戻って、鞄に日誌用のペンをしまった。
教室には、私と彼の二人だけだった。こんな状況、視えていた頃なら、前の晩に知っていた。心の準備を、一晩かけてできた。何を話すか、どんな顔をするか、全部リハーサルできた。
今日の私は、丸腰だった。
「なあ、望月」
「……なに」
「最近さ、なんか変わったよな」
指先が、机の上で止まった。
変わった。
何が。
どこまで、気づかれている。
「……そう?」
「うん。前はなんか、こう――」
彼は言葉を探すみたいに、宙を見た。
「全部知ってます、みたいな顔してた」
息が、止まりそうになった。
「今は、けっこう顔に出る。授業で当てられて詰まってるときとか、露骨にやばいって顔してる」
「……見てたの、それ」
「見えるよ、席あの辺だし」
彼は笑った。からかう笑い方じゃなかった。
私は、なんと返せばいいのか分からなくて、俯いた。恥ずかしさで、じゃない。いや、恥ずかしさもあった。でもそれより、「全部知ってます、みたいな顔」という一言が、あまりにも正確に、以前の私を言い当てていたからだ。
誰にも見抜かれていないと思っていた。
でも、違った。
私が隠していたものを、彼は最初から「違和感」として見ていた。
「悪い、変な意味じゃなくて」
と彼は続けた。
「今のほうが、いいと思うって話」
「……今の、ほうが?」
「うん。テストできなくて廊下で凹んでる望月のほうが、なんか、人間っぽい」
人間っぽい。
その言葉を、私はしばらく、頭の中で転がした。人間っぽい。つまり以前の私は、人間っぽくなかった、ということだ。
傷ついてもいいはずの言葉だった。でも、傷つかなかった。だって、その通りだったから。
答えを写して生きていた私は、人間の形をした、再生装置みたいなものだった。
「……人間っぽいって、なに」
「んー」
彼は天井を見た。
「分かんないことがある、ってことじゃない?」

充電中のスマホが、机の上で小さく震えた。彼はそれを見もしなかった。
「俺、分かんないことしかないからさ。明日のことも全然分かんないし。だから、全部分かってそうな奴のこと、ちょっと苦手だった」
――苦手だった。
過去形の中に、私がいた。以前の、全部知ってます、みたいな顔の私が。
「今は?」
聞いてから、自分の声が思ったより真剣なことに気づいて、慌てた。
彼は少し驚いた顔をして、それから、いつもの調子で笑った。
「今は、苦手じゃない」
窓の外で、部活のホイッスルが鳴った。夕方の光が、教室の床に長く伸びていた。私はその光の筋を見ながら、胸の中で起きていることに、名前をつけられずにいた。
彼の言葉を、私はひとつも、事前に知らなかった。「変わったよな」も、「人間っぽい」も、「苦手じゃない」も、全部、言われた瞬間に受け取った。
受け取るたびに、胸の奥で何かが揺れた。毎回、揺れ方が違った。次にどう揺れるのか、自分でも分からなかった。

これが、会話。これが、いま、を生きるということ。

「……そっちこそ」
私は言った。
「明日のこと全然分かんないって、怖くないの」
自分でも、どうしてそんな質問をしたのか分からなかった。ただ、聞きたかった。
この一ヶ月、私が毎晩怯えてきたことを、この人は生まれてからずっと、平気な顔でやっている。その平気さの正体を、知りたかった。
「怖くないよ」
彼は即答した。
「つーか、分かったらつまんなくない? 明日の天気も、テストの点も、部活の勝ち負けも、全部先に分かってたらさ。消化試合じゃん、毎日」

消化試合。
十二年間の私の毎日に、これほど正確な名前をつけた人は、いなかった。
「……そう、かもね」
「そうだよ。あ、充電三十パー超えた。帰るわ」
彼はコードを引き抜いて、鞄に突っ込んで、立ち上がった。教室の出口で、一度だけ振り返った。
「望月」
「なに」
「勉強、分かんなかったら聞いて。俺、教えるのだけは得意だから」
「……歩くん、成績、真ん中くらいじゃなかった?」
「真ん中の奴が一番教えんの上手いんだよ。できない奴のつまずく場所、全部自分でつまずいてるから」
じゃ、と手を挙げて、彼は行ってしまった。
誰もいなくなった教室で、私は自分の席に座ったまま、しばらく動けなかった。夕方の光が、少しずつ角度を変えていくのを、ただ見ていた。

明日、彼と何を話すのか、私は知らない。
その文が、頭に浮かんだとき、いつもの、あの胃の底が冷える感覚を待った。
一ヶ月間、「知らない」は、いつも恐怖の合図だった。
明日のテストを知らない。明日の天気を知らない。明日、自分が生きているかを知らない。
でも、今、違うものが混ざっていた。
明日、彼と何を話すのか、私は知らない。
何を言われるのか、知らない。
それを言われたとき、自分がどんな顔をするのか、知らない。
知らないことが――ほんの少しだけ、楽しみだった。

帰り道、空を見上げた。明日の天気を、私は知らない。雨かもしれないし、晴れかもしれない。鞄の中には、あの日から入れっぱなしの折りたたみ傘がある。知らない明日に対して、私ができる唯一の準備。
視えていた頃の私は、傘を持つ必要すらなかった。
今の私は、傘を持って、知らない明日へ歩いていく。