テストが返ってきたのは、週明けの月曜日だった。
「望月さん」
名前を呼ばれた瞬間、教室の空気がほんの少しだけ動いた気がした。
たぶん、気のせいだった。誰も私のことなんて、そこまで見ていない。
そう思おうとしたのに、立ち上がる足だけが、妙に重かった。教卓まで歩いていく。
先生は私の答案を裏返しにして渡しながら、少しだけ声を落とした。
「……体調でも悪かったか?」
その言葉を聞いた瞬間、分かった。先生は点数を見たんだ。
私が、今まで一度も見せなかった数字を。
四十一点。

裏返された紙を席で開いて、私は自分の点数を、しばらく見つめた。四十一点。生まれて初めて見る数字だった。テストという紙の上で、私は今まで、満点以外の数字を見たことがない。
隣の席の子が、覗き込んでこないように、私はすぐに答案を二つ折りにした。でも、教室というのは不思議な場所で、隠せば隠すほど、伝わるものは伝わっていく。返却が終わる頃には、なんとなく、空気で分かった。あの望月が、今回、悪かったらしい――言葉にされない噂は、言葉にされる噂より、ずっと速い。
「ミク、大丈夫? なんか調子悪いの?」
昼休み、亜矢が心配そうに聞いてきた。心配してくれているのは、本当だと思う。でも、その目の奥に、ほんの少しだけ、別のものが混ざっているのも、分かってしまった。安心、みたいなもの。あの望月でも、転ぶことがあるんだ、という。責める気にはなれなかった。私が逆の立場でも、きっと同じものが混ざる。
「ちょっと寝不足で」
「だよね。ミクがあの点なんて、絶対体調だよ」
あの点。
その言葉だけで、何点だったのかを言わなくても分かってしまう。
もう知られている。
私が四十一点だったことも。私が、いつもの私じゃないことも。
「ミクが失敗するわけない」
みんな、そう思っていた。
だから今、みんなが見ているのは、四十一点という数字じゃない。その数字を取った、私のほうだった。
私は笑って頷いた。笑い方だけは、まだ体が覚えていた。

夜、母に答案を見せた。見せないという選択肢も考えたけれど、保護者印の欄があった。母は点数を見て、一瞬だけ黙って、それから、努めて明るい声で言った。
「まあ、こういうときもあるよ。次、頑張ればいいんだから」
こういうとき。
母の中で、これは「こういうとき」なのだ。誰にでもある、たまの不調。次に頑張れば戻る、一時的な凹み。
母は何も知らない。私が失ったものが、努力で戻る種類のものじゃないことを。というより――努力というものを、私が生まれて一度もしたことがないことを。
「みらい、最近ちゃんと眠れてる?」
「……うん。眠れてる」
嘘だった。眠れていない。
毎晩、目を閉じて、来ない明日を待って、死の心配をして、それから諦めて眠る。
眠りは浅く、朝は疲れている。
でもそれを説明するには、五歳のあの日から今日までの全部を話さなくちゃいけない。
手袋のこと。視えていた十二年のこと。視えなくなった三日前のこと。
言えるわけがなかった。
私の絶望には、共有できる形がない。
病気なら、病名がある。失恋なら、相手がいる。でも「明日が視えなくなった」は、どこの誰に差し出しても、受け取ってもらえない。心配されるとしたら、たぶん、別の意味でだ。五歳のとき、母があの顔をしたように。
だから私は、世界でたった一人で、この喪失を抱えることになる。
*     *     *
火曜日、小テストがあった。二十六点だった。
水曜日、英語の予習を当てられて、初めて、その場で立ち往生した。
教科書の英文が、訳せなかった。視えていた頃は、当てられる箇所も、模範解答も、前の晩に全部届いていた。今の私に届いているのは、辞書を引かなかった十二年分の白紙だけだった。
着席するとき、教室が少しざわついた。ざわつきの中に、私の名前が混ざっているのが分かった。
「頭の良いミク」が、崩れていく。
面白いくらい、あっけなかった。十二年かけて積んだものが、二週間もかからずに崩れていく。当たり前だと思った。積んだのは私じゃない。
毎晩届いていた映像を、積んであるように見せていただけだ。
張りぼての塔は、遠くから見る分には、本物と変わらない。高く見えるし、立派にも見える。でも、中身が空洞なら、支えているものがなくなった瞬間に、崩れる。
私は、その塔の中にずっと住んでいた。

放課後、職員室に呼ばれた。担任は、成績の話を遠回しにしながら、最後にこう言った。
「望月が一番、自分で分かってると思うけど……何かあったら、いつでも言ってこいよ。先生、望月のことは全然心配してないから」
心配してない。
それは、信頼の言葉のはずだった。ずっと欲しかったはずの種類の言葉だった。なのに今の私には、その言葉が、いちばん遠かった。
心配してほしいわけじゃない。ただ、「何かあった」の中身を、この世界の誰にも、言えないだけだ。
職員室を出て、廊下を歩く。窓の外は夕方で、グラウンドから部活の声がしていた。
そのとき、階段の方から、聞き覚えのある笑い声がした。
森田くんだった。友達と二人で、何かを言い合いながら階段を降りてくる。私とすれ違う瞬間、彼はふと、私の顔を見た。
「あ、望月」
呼び止められると思わなくて、私は少しだけ、返事が遅れた。
「……なに?」
「いや。なんか最近、元気なくない?」
指先が、一瞬固まった。クラスの誰よりも、先生よりも、母よりも、まっすぐな聞き方だった。調子悪いの、でも、体調?でもなく、元気なくない?と、彼は聞いた。
「……そう見える?」
「見える。テストとか、正直どうでもいいけどさ。望月が下向いて歩いてんの、なんか変な感じする」
テストとか、正直どうでもいいけど。
その一言が、胸のどこか深いところに、すとんと落ちた。この一週間、誰もが点数の話をした。点数を経由してしか、私を心配しなかった。
彼だけが、四十一点という数字を見なかった。その向こうにいる私を、見た。
そんなことをされた経験が、今まで一度もなかった。
「……寝不足なだけ。ありがと」
「ん。じゃ」
彼は友達と階段を降りていった。私は廊下に立ったまま、いま自分の胸に起きたことを、確かめていた。
驚いていた。私は、いま、驚いていた。
彼が私を呼び止めることを、私は知らなかった。
彼が何を言うのか、知らなかった。
「元気なくない?」の一言を、私は人生で初めて、予告なしで受け取った。
受け取った瞬間、耳たぶが熱くなった。視た通りの言葉で熱くなっていた頃とは、比べものにならない温度だった。
これが、と思った。
これが、普通の人たちが毎日やっている会話なのかと思った。
相手の返事を知らないまま話すこと。
相手が何を言うか分からないまま、言葉を待つこと。
私がずっと避けてきた「分からない」の中に、こんなものが隠れていたなんて知らなかった。
失ったものの大きさに押し潰されそうだった一週間の底で、私はほんの数秒だけ、生まれて初めての眩しさに、立ち尽くしていた。
それは小さくて、不確かで、明日の夜になれば消えてしまうかもしれないものだった。
でも、それは確かに、私自身の中から生まれたものだった。
*     *     *
その夜、私は机に向かった。
視えない夜が始まって、十日が過ぎていた。
毎晩、目を閉じる。待つ。何も来ない。
それでも朝は来る。
その繰り返しに、体は少しずつ慣れ始めていた。慣れたくなんてなかった。
でも、人間の体は、心より先に新しい毎日を覚えてしまうらしい。

慣れたおかげで、分かったこともある。待っているだけの夜は、長い。長すぎる。だったらその時間を、別のことに使うしかない。
机の上には、数学の問題集。買ったのは先週だ。本屋の学習参考書の棚の前に立ったのは、生まれて初めてだった。
どれを選べばいいのか分からなくて、三十分もうろうろして、結局「基礎から」と帯に書いてあるものにした。
十七歳、高校二年の秋に、基礎から。笑えるけど、事実、私の中身は基礎の手前だった。

一ページ目。例題を読む。解答を隠して、自分で解いてみる。
解けない。
解答を見る。ああ、なるほど、と思う。もう一度隠して、解き直す。
途中で、詰まる。
さっき「なるほど」と思ったはずの場所で、手が止まる。
なるほど、は分かったうちに入らないらしい。
読んで頷くことと、自分の手で辿り直せることの間には、深い川が流れていた。私は十二年間、その川を渡ったことがないのに、向こう岸に立っているつもりでいた。

一問に、三十分かかった。
たった一問。視えていた頃なら、思い出して書き写すのに一分もかからなかった問題に、三十分。しかも、三十分かけて、やっと「解けたかもしれない」程度の手応えしかない。
効率が悪すぎて、途方に暮れた。この速度で、十二年分の白紙を埋めるなんて、できるわけがない。
でも。
解けた瞬間、変な音がした。頭の中で、かちり、と何かが噛み合う音。
正解を写したときには、一度も鳴ったことのない音だった。答え合わせをして、合っていたとき、私は気づけば、小さくガッツポーズをしていた。
誰も見ていない部屋で、たった一問の、基礎の基礎の問題で。
馬鹿みたいだった。馬鹿みたいで、少し、涙が出た。
百点を取っても動かなかった心が、四十一点の私の、たった一問で動いている。おかしな話だ。でも、理屈は分かる気がした。写した百点は、私のものじゃなかった。この一問は、間違えて、詰まって、三十分かけて、私が自分で掴んだ。
生まれて初めて、答案の上に、私がいた。

その夜から、机に向かうのが、夜の新しい儀式になった。
歯を磨いて、スキンケアして、電気を消して、布団に入る前に――問題集を開く。
うまくいく夜ばかりじゃなかった。一問も解けずに終わる夜もあった。解答を見ても分からなくて、教科書まで戻って、それでも分からなくて、ノートに八つ当たりみたいな落書きをして終わる夜もあった。分からない、というのは、こんなに体力を使うことだったのか。分からないまま眠る夜は、悔しくて、寝つきが悪かった。
悔しい。
その感情も、思えば、初めてだった。
答えを知っている人生に、悔しさはなかった。全部知っているのだから、負けようがない。負けようがない人生は、勝ちようもない人生だったんだと、負け始めてから、ようやく分かった。
学校でも、少しずつ、変わったことがある。
「先生、ここ、もう一回いいですか」
授業中、私は手を挙げて、そう言った。教室が、一瞬、静かになった。あの望月が、質問をした。分からないと、言った。先生も少し驚いた顔をして、それから、いつもより丁寧に、同じ説明を繰り返してくれた。
二回聞いても、分からなかった。でも、放課後にもう一度聞きに行ったら、三回目で、分かった。職員室からの帰り道、廊下の窓の外が夕焼けで、私はその色を見ながら、変なことを考えていた。
分からない、って、言えるんだ。
十二年間、私は「分からない」を一度も言わずに生きてきた。言う必要がなかったからじゃない。言ってはいけないと、思い込んでいた。「頭の良いミク」は、分からないと言った瞬間に、死ぬ気がしていた。
でも、言ってみたら、誰も死ななかった。教室は一瞬静かになっただけで、次の瞬間には、いつも通りに流れていった。私が守っていたものは、守るほどのものじゃなかったのかもしれない。
次の小テストは、五十八点だった。
四十一点から、五十八点。相変わらず、赤点すれすれの数字だ。「頭の良いミク」の残骸みたいな点数。でも、この五十八点の内訳を、私は全部言える。どの問題を自分の力で解いて、どの問題をまだ解けなかったか。どこで間違えて、なぜ間違えたか。
百点の答案について、私は何も語れなかった。五十八点の答案について、私は全部語れる。
五十八点の答案だけが、初めて私の名前が書ける気がした。