その夜も、視えなかった。
天気も、母も、テストの問題用紙も。
目を閉じて待った。
探した。
何度も手を伸ばした。
それでも、何も来なかった。

二日連続。もう、疲れのせいには、できなかった。
私は布団から起き出して、机の電気をつけた。数学の教科書と、綺麗なだけのノートを開く。明日のテストの範囲を、初めて、自分の力で理解しようとした。できなかった。
どこから手をつければいいのかが、分からなかった。
公式は、見れば「見たことがある」と思う。でも、それをいつ、どう使うのかが、分からない。例題の解答をなぞると、一行ずつは分かる気がするのに、なぞり終わると、何も残っていない。写すことと、分かることは、こんなにも違うことだったのか。
気づけば、窓の外がうっすら明るくなり始めていた。
私は机に突っ伏したまま、少しだけ眠った。夢は、見なかった。予知も、来なかった。ただの、真っ暗な眠りだった。

テストは、二時間目だった。
問題用紙が配られる。裏返しのまま、机の上に置かれる。この白い紙の裏側を、私は知らない。
そこに何が書かれているのか、本当に何も知らない。
そのことが、怖かった。
心臓の音が、自分でもうるさいくらいに聞こえた。
周りを見る。みんな、平然と座っている。
この、何が出るか分からない紙を前にして、よく平気でいられるものだと思った。それから気づいた。みんなは、ずっとこうだったんだ。毎回、何が出るか分からない紙を前にして、それでも鉛筆を握ってきたんだ。

「はじめ」
紙をめくる音が、教室にいっせいに鳴った。
大問一。計算問題。見た瞬間、少しだけ息がしやすくなった。これは、分かる。
手が覚えている型の問題だった。一問目、二問目。鉛筆が動く。三問目で、止まった。分数と文字が混ざった式が、急に知らない顔をした。昨日の夜、例題で見た形と、少しだけ違う。少しだけ違うだけで、私にはもう、別の生き物に見えた。
飛ばす。

大問二。文章題。読む。もう一度、読む。何を聞かれているのかは、分かる。どう答えればいいのかが、分からない。式を立てようとして、手が止まる。xと置くのか、yも要るのか。置いたとして、その先は。
顔を上げると、教室中から、鉛筆の走る音がしていた。
カリ、カリ、カリ、カリ。
全員が、前に進んでいる音。その中で、私の鉛筆だけが、止まっている。
こんな音だったのか、と思った。テストの時間って、こんな音がしていたのか。今まで一度も、聞いたことがなかった。私はいつも、思い出すことに忙しくて、教室の音なんて聞いていなかった。

大問三。証明。――いつもなら、ここで「x=7」と書くだけだった。証明の筋道ごと、視た映像を清書するだけだった。今日の大問三は、図形の証明だった。三角形が二つ。等しいことを示せ、と書いてある。どの条件を使えばいいのか。合同条件は、三つあったはずだ。三つとも言えるのに、どれをこの三角形に当てはめればいいのかが、分からない。
分からない、が、こんなに苦しいなんて。
残り時間、十五分。私の解答用紙は、半分以上、白かった。白い部分が、視えなかった夜の闇と、同じ色をしていた。
ふいに、泣きそうになった。テストの点が惜しくて、じゃない。
その白さを見ていたら、急に怖くなった。
答えを書けないことじゃない。
書くものが、自分の中にないことが。
答えを写せなくなった私には、書けるものが、ほとんど何もない。十七年かけて積み上げてきたはずのものが、たった二晩で、ここまで白くなる。積み上げてきたのは私じゃなくて、毎晩勝手に届いていた、あの映像のほうだったんだ。

「やめ」
その声で、鉛筆を置いた。置く音が、一番早くなかったのは、初めてだった。
解答用紙が回収されていく。私の白い紙が、他のみんなの黒い紙の間に挟まれて、教壇へ運ばれていく。あの中で、私のだけが、たぶん一番白い。

休み時間、亜矢が伸びをしながら言った。
「今回むずかしくなかった? 大問三、途中まで書いたけど自信ない」
「……うん。難しかった」
初めて、その言葉を、本心から言った。難しかった。今まで何百回も口にしてきた相槌が、今日、初めて本当のことになった。それなのに、こんなに惨めな気持ちになるなんて。
「ミクなら余裕でしょ、どうせ」
余裕なわけがない。でも、そう見えているうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。私は曖昧に笑って、窓の外を見た。曇りの空。昨日、初めて予告なしで見た空と、同じ空。明日の空も、私はもう、知らない。

放課後、彼が誰かと話しながら、廊下を歩いていくのが見えた。いつも通り、笑っていた。
あの夜の屋上の映像を、私はまだ、覚えている。
俺、実は――の続きを、彼はもう、誰かに言えたんだろうか。それとも、まだ言えていないんだろうか。前は、探せば視えた。今は、探すことすら、できない。
彼のいる場所へ伸ばすための、あの真っ暗な水そのものが、私の夜から消えてしまった。
視えないことが、こんなに静かだなんて、知らなかった。
*     *     *
家に帰って、制服を脱いで、鏡の前に立った。
いつもの顔だった。何も変わっていない顔が、鏡の中にあった。でも私は、この顔の後ろ側に何があるのかを、今日初めて、正確に把握した。
空っぽだった。
でも、完全な空っぽではなかった。
昨日読んだ教科書の一行だけは、まだ頭の片隅に残っていた。答えを写し続けた十二年分の白紙が、今日、試験用紙の上に現れた。
何点になるのかは、分からない。分からないという状態のまま、返却を待つのだと、初めて知った。
机に座った。ノートを開いた。今日の授業の板書を写そうとして、止まった。
板書は、視えていた頃に一度視た映像を清書していただけだった。今日の授業は、視ていない。一回しか板書を見ていない。それを今、ノートに写そうとしている。写せるか、分からない。
書いてみた。
書けた。でも、書けた、という感触が薄かった。理解して書いたのか、手が覚えているだけなのか、自分でも分からない。
一行書いて、消して、また書いた。前の晩に全部届いていた頃、ノートを取ることに、何の感触もなかった。今は、一行ごとに、重さがある。
教科書を開いた。読んだ。読んだはずなのに、次のページに進むと、前のページの内容が消えていた。また戻って読んだ。また消えた。三回読んで、やっと、少しだけ残った。
三回。
視えていた頃の私は、一回も読まなかった。
こんなにも、知ることは、手間がかかるものだったのか。

夜の十時を過ぎた頃、私はシャーペンを置いた。疲れていた。疲れていることに、慣れていなかった。視えていた頃、勉強で疲れたことは、一度もなかった。疲れるほど、何かをしたことがなかったからだ。
夜、布団に入る。歯を磨いて、スキンケアして、電気を消して、目を閉じる。
何も、来なかった。
来ないことに、今夜は少しだけ、慣れてきていた。慣れてきたことが、また怖かった。
慣れるということは、諦めるということに近い気がしたからだ。
三日目の夜だった。私は暗闇の中で、初めて、はっきりと言葉にして思った。
もし、このまま、ずっとだったら。
私は明日から、何を持って生きていけばいいんだろう。
でも、今日、ひとつだけ分かったことがある。
教科書を三回読んで、少しだけ残ったこと。
残ったのは少しだけだ。でも、あれは私のものだ。清書じゃなかった。写しじゃなかった。三回読んで、やっと残った、私の頭の中の三行が、今夜初めて、私のものとして、そこにあった。
明日の自分が、それを覚えているかどうかは分からない。
でも、今夜だけは、それでよかった。
分からないまま、私は眠った。