空は雲ひとつない快晴。
そんな明日を視届けてから眠った。
折りたたみ傘は机の上に置いたまま、鞄には入れなかった。
昼過ぎ、窓の外が少し暗くなった。三時間目が終わる頃には、ぽつぽつと雨粒が窓を叩いている。
「傘持ってくればよかった」
教室のあちこちで声が上がる。
私だけは、昇降口に立つまで、それを他人事みたいに聞いていた。
放課後。
雨はすっかり本降りになっていた。
「え、傘持って来なかったの? めずらしい。天気予報で午後から雨って言ってたじゃん」
「えっ、そうだっけ」
それで済んでしまうことに、私は少しだけ肩の力が抜けた。
結局、亜矢の傘に入れてもらって帰った。肩に触れる雨は、思っていたより冷たかった。
十数年生きてきて、肩だけでも雨に濡れてしまったのは初めてだった。
……外れた。
雨より、そのことばかりが頭から離れなかった。
* * *
その夜も、いつも通り、私は目を閉じる。今日という日を終わらせて、明日という日を受け取るために。
天気、ニュース、教室のざわめき。見慣れた断片が、順番に流れていく。
私はその中から、彼だけを探して、真っ暗な水の中に手を伸ばす。
今日はすぐに、像が結んだ。
屋上だった。放課後の、誰もいない時間の屋上に、彼が立っている。
フェンスにもたれて、誰かと向き合っている。相手の姿は、なぜか輪郭がぼやけて見えない。声だけが、風の音に混じって、途切れ途切れに届く。
――俺、実は。
そこまでは、聞こえた。彼の声は、いつも教室で聞くのとは違う、低く、慎重な調子だった。
何かを、ずっと言わずにいたことを、ようやく言おうとしている声だった。
私は、続きを待った。
音が、途切れた。
映像そのものは、まだそこにある。彼の口が、次の言葉の形に動いている。
なのに、音だけが、ふっと消えた。
まるで誰かが、その一言だけを、丁寧に指でつまんで取り除いたみたいに。何度も、同じ場面を呼び直そうとした。屋上、フェンス、輪郭のぼやけた誰か、彼の口の動き――そこまでは、何度でも同じように視える。でも、その先の言葉だけが、絶対に音にならない。
あの続きは何だったんだろう。
誰に向けた言葉だったんだろう。
彼の口だけが静かに動いている。
考えれば考えるほど、真っ暗な水の底に、指先だけが触れて、何も掴めずに戻ってくる感覚だった。今まで、視たものが視えなくなるということは、一度もなかった。全部、最後まで再生される映像だった。途中で切れるなんて、ありえないはずだった。
今日だけで、おかしなことが二度あった。
雨。
そして、あの途切れた声。
偶然で済ませるには、胸のざわつきが消えなかった。
――気にしすぎだよ、たまたまでしょ。
友達の声が、頭の中で勝手に再生される。
たまたま。便利な言葉だ。でも今夜だけは、その言葉で自分を納得させることが、どうしてもできなかった。
布団の中で、私はしばらく、暗い天井を見つめていた。明日、彼に会ったら、何か聞けるだろうか。ううん、聞けるはずがない。私が知っているということ自体、誰にも言えないんだから。
明日、彼に会う。
視えていた頃の私は、彼が明日どんな顔で登校するかを、知っていた。今日の続きの表情か、夜のうちに何かが変わった表情か。その違いを、前の晩から知っていた。今夜の私は、何も知らない。明日の朝、彼がどんな顔で教室に入ってくるか、知らない。屋上で、誰に、何を言おうとしていたのかも、知らない。
分からないことばかりが残った夜だった。
こんな夜は、生まれて初めてだった。
天気が外れたこと。予知が途切れたこと。それが偶然なのか、偶然じゃないのか。
怖い。
そう思うのに、胸の奥は少しだけ軽かった。
息が詰まるような不安と、誰かを待つ前の落ち着かなさが、一緒になっている。そんな気持ちは初めてだった。
明日、教室でどんな顔をしているのか。それを私は知らない。
本当なら落ち着かないはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。
明日を待つなんて、いつ以来だろう。
* * *
翌朝、私はほとんど眠れていないまま、学校へ向かった。
眠ったのかどうか、自分でも分からなかった。
教室に入って、真っ先に、彼の席を見た。森田歩くんは、いつも通りそこにいた。椅子を斜めに傾けて、隣の席の子と笑っている。何も変わらない。
少なくとも、見えるところには、何も。
今日の放課後、彼は屋上にいる。フェンスにもたれて、誰かと向き合っている。
「俺、実は」
そこまでだけが、頭の中に残っていた。その先だけが、何度思い出そうとしても、空白だった。
空白のまま、その「今日」の中に、私はいま立っている。
一時間目も、二時間目も、授業の中身は昨夜視た通りに進んだ。先生が出す問いも、当てられる生徒の順番も、何ひとつ狂わない。
変わってしまったのは、世界じゃなくて、私のほうだった。
ノートを取る手が、何度も止まる。目だけが、勝手に時計へ向かう。
放課後まで、あと五時間。
あと四時間。
あと三時間。
昼休み、彼はいつも通り、購買のパンを机に広げて笑っていた。あの慎重な、低い声の気配は、どこにもなかった。ずっと言わずにいたことを、今日の放課後、言おうとしている人の顔には、見えなかった。それとも、そういうことを抱えている人ほど、直前まで、いつも通りに笑うものなんだろうか。
終礼のチャイムが鳴ったとき、私は決めかねていた。
見に行くべきじゃない。あれは、私が視てしまっただけの、彼の時間だ。盗み聞きするみたいに覗くのは、違う。
頭では、ちゃんとそう分かっていた。分かっていたのに、気づいたら私は、鞄を持って、屋上へ続く階段の下に立っていた。
上っては、いけない。上らずには、いられない。階段の一段目に足をかけて、二段目で止まって、それからまた一段上って。自分がこんなに意志の弱い人間だと、私は今日まで知らなかった。
階段を上りきる手前、重い扉の前で、私は立ち止まった。風の音がした。扉は、少しだけ開いていた。
その隙間から、屋上の光が漏れていた。誰かの声は――しなかった。
そっと、扉を押した。
屋上には、誰もいなかった。
フェンスが、視た通りの位置にあった。空が、視た通りの色をしていた。ただ、そこに立っているはずの彼も、輪郭のぼやけた誰かも、いなかった。風だけが、フェンスを鳴らしていた。
終わった後なのか。
まだ始まっていないのか。
それとも――最初から、何も起きなかったのか。
確かめる方法は、ひとつもなかった。私は視ただけで、この場所の何時に彼が来るのかまでは、知らない。映像に時計は映っていなかった。私はしばらく、誰もいない屋上の入口に立って、視た景色と同じ景色を、ただ眺めていた。同じなのに、決定的に何かが足りない景色を。
* * *
家に帰って、夕飯を食べて、お風呂に入った。母は今日、味噌汁を少し煮詰めすぎた。それも、視た通りだった。世界は今日も、答え合わせのように正確だった。彼のことだけを除いて。
歯を磨いて、スキンケアして、電気を消して、布団に入る。
目を閉じる。
明日を、視る。
――何も、来なかった。
はじめは、疲れているんだと思った。昨日はほとんど眠れていない。今日は一日、心がずっと落ち着かなかった。こういう夜は、像が結ぶのが遅いのかもしれない。そう思って、私は呼吸を整えて、待った。
一分。五分。十分。
真っ暗なままだった。
いつもなら、待つまでもない。目を閉じた瞬間から、明日は勝手に流れ込んでくる。天気。ニュース。母の朝。教室のざわめき。頼んでもいないのに届く、あの映像の洪水が――今夜は、一滴も来ない。
天気だけでも、と思った。明日の空。晴れか、雨か。いちばん簡単で、いちばん確実に届くはずのもの。目を閉じたまま、意識をそちらへ向ける。
闇だった。
母は。明日の朝、母は何を作って、何を焦がすのか。
闇だった。
自分は。明日の私は、何を着て、どの席に座って、誰と何を話すのか。
闇だった。
息が、浅くなっていくのが分かった。布団の中で、私は目を強くつぶり直した。落ち着け。こういう夜が、前にもあった。彼の明日が三日間視えなかった、あの週。あのときも不安で、でも四日目にはちゃんと像が結んだ。今夜はそれが、たまたま全部に起きているだけ。疲れのせい。寝不足のせい。明日の夜には、きっと元に戻っている。
――彼は。
最後に、彼を探した。真っ暗な水の中に、手を伸ばす。いつもの、あの感覚。何も掴めない数秒の不安と、そのあとに来るはずの、安堵。
伸ばして、伸ばして、伸ばし続けた。
指先は、何にも触れなかった。不安のあとの安堵は、いつまで待っても来なかった。
今までの闇とは違った。いつもの暗さには、奥があった。
手を伸ばせば届く。待っていれば、向こうから来る。そんな感覚が、どこかにあった。
でも今夜は違った。
手を伸ばしても、何にも触れない。
そこに何かがあるのか、それとも最初から何もないのか、それすら分からなかった。
私は目を開けた。天井の暗さと、瞼の裏の暗さが、同じだった。
それが、いちばん怖かった。
そして、遅れて、もっと怖い考えが来た。
彼の明日が三日間視えなかったとき、私は何を考えた?
もし彼が、明日という日から、完全にいなくなってしまったら――そう考えて、怖くなったんじゃなかったか。
明日が視えないのは、明日が、ないからだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、身体が冷たくなった。
私は今夜、死ぬんだろうか。
布団の中で、自分の胸に手を当てた。動いている。速すぎるくらいに、動いている。息を吸う。吐く。吸える。吐ける。体はどこも悪くない。でも、明日の朝、この体が目を覚ます保証を、私は今夜、初めて持っていない。
今までは、あった。毎晩、明日の自分を視てから眠った。明日の私が制服を着て、朝ごはんを食べて、学校へ歩いていく――それを確認してから眠る夜は、考えてみれば、絶対に朝が来ると約束されてから眠る夜だった。
今夜は、約束がない。
眠るのが、怖かった。
目を閉じたら、そのまま二度と開かない気がした。
でも、目を開けていても、朝が来る保証は、どこにもないのだった。
眠ったのか、眠れなかったのか、よく分からない夜だった。
気づいたら窓の外が明るくなっていた。
生きていた。
朝が、来ていた。それを確認した瞬間の、あの安堵と拍子抜けの混ざった感覚を、なんと呼べばいいのか、私はまだ知らない。
パンの焦げる匂いは――しなかった。
階下から、母が普通に朝食を作る音だけが聞こえた。今日、母が何を作るのか、私は知らない。トーストなのか、ご飯なのか、何かを焦がすのか、焦がさないのか。
知らない朝が、来てしまった。
カーテンを開ける。空は、曇りだった。私はその空を、初めて見た。
予告なしの空を見るのが、何年ぶりなのか、思い出せなかった。きれいだとか、不安だとか、そういう整理された感情になる前の、名前のつかないざわめきが、胸の内側をずっと擦っていた。
制服に着替えながら、私は頭の中で、何度も同じ確認を繰り返した。
昨夜、視えなかった。天気も、母も、自分も、彼も。全部。こんなことは、五歳から今日まで、一度もなかった。
一度も。
階段を降りて、おはよう、と言った自分の声が、少し掠れていた。
母は「おはよう。ごはんでいい?」と聞いてきた。ごはんでいい?――その何気ない質問に、私は一瞬、答えられなかった。
母が用意したのは、鮭の塩焼きと、きのこの味噌汁と、ほうれん草のおひたしだった。
視えていた頃の私は、起きた段階でそれを知っていた。
鮭は少し焼きすぎて端が固くなること、味噌汁のなめこが多めに入っていること、おひたしに胡麻が振ってあること。
全部、前の晩に届いていた。今日の私には、何も来ていなかった。
鮭を一口食べた。
思ったより、やわらかかった。焦げていなかった。ただ、それだけのことが、今日は少し新鮮だった。予告と違う、ということではない。予告がなかった、ということが。
「最近、ちゃんと食べてる?」
母が、味噌汁をよそいながら言った。
「食べてるよ」
「なんか、顔が細くなった気がして」
「気のせいだよ」
「そう?」
母は、少し私の顔を見た。
「学校、なんかあった?」
「……ないよ」
「そっか」
母は、それ以上は聞かなかった。聞かないことを選んだのか、本当に分からなかったのか、私には判別できなかった。以前なら、どちらだか知っていた。明日の母の言動が、前の晩に届いていたからだ。今は、分からない。
「お母さん」
「なに」
「最近、変わった?」
「私が?」
母は少し驚いた顔をした。
「何が。どうしたの、みらい」
「……なんか、前より、あまり聞いてこなくなった気がして。学校のこととか」
母は、箸を置いた。少し考えてから、言った。
「みらいが、高校生になってから、あまり根掘り葉掘り聞かない方がいいかな、と思って」
「なんで」
「なんか、聞くと、うまくかわされる気がして」
うまくかわされる。その言葉が、少し痛かった。かわしていたのは、本当だったからだ。聞かれても、答えられないことが、ずっとあった。
「……うまくかわしてたかも」
「そうでしょ」
母は笑った。
「だから、待ってた」
「何を」
「みらいが、自分から話したくなるまで」
待ってた、という言葉が、しばらく頭に残った。
五歳の冬から、母はきっと何かに気づいていた。
それでも聞かなかった。
待っていた。
「……ありがとう」
「何が」
「待っててくれて」
母は、少しきょとんとして、それから「どういたしまして」と言った。笑い方が、亜矢に似ていた。
当たり前の会話だった。
世界中の家庭で毎朝交わされている、ただの朝の会話。それが私には、初めて外国語を聞いたときみたいに、新しかった。
学校までの道を、私はいつもより慎重に歩いた。
どの角から自転車が来るのか、知らない。
どの信号に引っかかるのか、知らない。
交差点で、信号を待った。
視えていた頃、この交差点で何回信号を待ったか、数えられない。毎朝、今日は引っかかる、あるいは引っかからない、と知っていた。今日は、分からない。青になるまで、ただ待った。
隣に、知らないおじさんが立った。鞄を持って、スマホを見ていた。この人が今日どこへ行くのか、この人の明日に何があるのか、私には何も来なかった。当たり前のことだった。でも、その当たり前が、今朝は少し、広かった。
世界の全員が、互いの明日を知らないまま、同じ信号の前に立っている。私はただ、今日からその全員の一人になった。
青になった。歩いた。
世界のすべてが、予告なしに動いていた。すれ違う人の全員が、今日をぶっつけ本番で生きていた。みんな、毎日、こんな心細いことをしていたのか。こんな心細いことを、当たり前として生きていたのか。
当たり前、という言葉が、今朝は少し違う重さで、私の中に落ちた。
教室に着いて、席について、鞄から教科書を出したところで――私は、凍りついた。
明日。
明日、数学の実力テストがある。範囲は広い。配点も大きい。学期の成績に、いちばん響くやつ。
いつもなら、何も問題はない。今夜、目を閉じれば、問題用紙は勝手に流れてくる。大問の構成も、証明の筋道も、最後の応用問題の答えまで。私はそれを、明日、思い出しながら書き写すだけでいい。ずっと、そうしてきた。
でも、昨夜、何も視えなかった。今夜も視えなかったら。
私は、あのテストを、知らないまま受けることになる。
ノートを開いた。開いて、愕然とした。
私のノートは、綺麗だった。綺麗なだけだった。
板書を写しただけの、一度も「分からない」を通過していない文字列が、行儀よく並んでいるだけだった。
これを見て思い出す「理解」が、私の中に、どこにもない。当たり前だ。私は一度も、理解する必要がなかったんだから。
明日が消えたかもしれない朝なのに。
私が最初に考えたのは、数学のテストのことだった。
笑ってしまいそうだった。空が落ちてきた日に、傘の心配をしているみたいだ。でも、笑えなかった。私にとって世界の終わりは、いつだって、こういう顔をして来るのだと、まだこの時の私は、知らなかった。
チャイムが鳴る。一時間目が始まる。先生が教室に入ってきて、出席を取り始める。誰の名前がどの順番で呼ばれるのか、今日の私は、知らない。
「望月さん」
はい、と返事をした声が、教室に、少しだけ大きく響いた。
そんな明日を視届けてから眠った。
折りたたみ傘は机の上に置いたまま、鞄には入れなかった。
昼過ぎ、窓の外が少し暗くなった。三時間目が終わる頃には、ぽつぽつと雨粒が窓を叩いている。
「傘持ってくればよかった」
教室のあちこちで声が上がる。
私だけは、昇降口に立つまで、それを他人事みたいに聞いていた。
放課後。
雨はすっかり本降りになっていた。
「え、傘持って来なかったの? めずらしい。天気予報で午後から雨って言ってたじゃん」
「えっ、そうだっけ」
それで済んでしまうことに、私は少しだけ肩の力が抜けた。
結局、亜矢の傘に入れてもらって帰った。肩に触れる雨は、思っていたより冷たかった。
十数年生きてきて、肩だけでも雨に濡れてしまったのは初めてだった。
……外れた。
雨より、そのことばかりが頭から離れなかった。
* * *
その夜も、いつも通り、私は目を閉じる。今日という日を終わらせて、明日という日を受け取るために。
天気、ニュース、教室のざわめき。見慣れた断片が、順番に流れていく。
私はその中から、彼だけを探して、真っ暗な水の中に手を伸ばす。
今日はすぐに、像が結んだ。
屋上だった。放課後の、誰もいない時間の屋上に、彼が立っている。
フェンスにもたれて、誰かと向き合っている。相手の姿は、なぜか輪郭がぼやけて見えない。声だけが、風の音に混じって、途切れ途切れに届く。
――俺、実は。
そこまでは、聞こえた。彼の声は、いつも教室で聞くのとは違う、低く、慎重な調子だった。
何かを、ずっと言わずにいたことを、ようやく言おうとしている声だった。
私は、続きを待った。
音が、途切れた。
映像そのものは、まだそこにある。彼の口が、次の言葉の形に動いている。
なのに、音だけが、ふっと消えた。
まるで誰かが、その一言だけを、丁寧に指でつまんで取り除いたみたいに。何度も、同じ場面を呼び直そうとした。屋上、フェンス、輪郭のぼやけた誰か、彼の口の動き――そこまでは、何度でも同じように視える。でも、その先の言葉だけが、絶対に音にならない。
あの続きは何だったんだろう。
誰に向けた言葉だったんだろう。
彼の口だけが静かに動いている。
考えれば考えるほど、真っ暗な水の底に、指先だけが触れて、何も掴めずに戻ってくる感覚だった。今まで、視たものが視えなくなるということは、一度もなかった。全部、最後まで再生される映像だった。途中で切れるなんて、ありえないはずだった。
今日だけで、おかしなことが二度あった。
雨。
そして、あの途切れた声。
偶然で済ませるには、胸のざわつきが消えなかった。
――気にしすぎだよ、たまたまでしょ。
友達の声が、頭の中で勝手に再生される。
たまたま。便利な言葉だ。でも今夜だけは、その言葉で自分を納得させることが、どうしてもできなかった。
布団の中で、私はしばらく、暗い天井を見つめていた。明日、彼に会ったら、何か聞けるだろうか。ううん、聞けるはずがない。私が知っているということ自体、誰にも言えないんだから。
明日、彼に会う。
視えていた頃の私は、彼が明日どんな顔で登校するかを、知っていた。今日の続きの表情か、夜のうちに何かが変わった表情か。その違いを、前の晩から知っていた。今夜の私は、何も知らない。明日の朝、彼がどんな顔で教室に入ってくるか、知らない。屋上で、誰に、何を言おうとしていたのかも、知らない。
分からないことばかりが残った夜だった。
こんな夜は、生まれて初めてだった。
天気が外れたこと。予知が途切れたこと。それが偶然なのか、偶然じゃないのか。
怖い。
そう思うのに、胸の奥は少しだけ軽かった。
息が詰まるような不安と、誰かを待つ前の落ち着かなさが、一緒になっている。そんな気持ちは初めてだった。
明日、教室でどんな顔をしているのか。それを私は知らない。
本当なら落ち着かないはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。
明日を待つなんて、いつ以来だろう。
* * *
翌朝、私はほとんど眠れていないまま、学校へ向かった。
眠ったのかどうか、自分でも分からなかった。
教室に入って、真っ先に、彼の席を見た。森田歩くんは、いつも通りそこにいた。椅子を斜めに傾けて、隣の席の子と笑っている。何も変わらない。
少なくとも、見えるところには、何も。
今日の放課後、彼は屋上にいる。フェンスにもたれて、誰かと向き合っている。
「俺、実は」
そこまでだけが、頭の中に残っていた。その先だけが、何度思い出そうとしても、空白だった。
空白のまま、その「今日」の中に、私はいま立っている。
一時間目も、二時間目も、授業の中身は昨夜視た通りに進んだ。先生が出す問いも、当てられる生徒の順番も、何ひとつ狂わない。
変わってしまったのは、世界じゃなくて、私のほうだった。
ノートを取る手が、何度も止まる。目だけが、勝手に時計へ向かう。
放課後まで、あと五時間。
あと四時間。
あと三時間。
昼休み、彼はいつも通り、購買のパンを机に広げて笑っていた。あの慎重な、低い声の気配は、どこにもなかった。ずっと言わずにいたことを、今日の放課後、言おうとしている人の顔には、見えなかった。それとも、そういうことを抱えている人ほど、直前まで、いつも通りに笑うものなんだろうか。
終礼のチャイムが鳴ったとき、私は決めかねていた。
見に行くべきじゃない。あれは、私が視てしまっただけの、彼の時間だ。盗み聞きするみたいに覗くのは、違う。
頭では、ちゃんとそう分かっていた。分かっていたのに、気づいたら私は、鞄を持って、屋上へ続く階段の下に立っていた。
上っては、いけない。上らずには、いられない。階段の一段目に足をかけて、二段目で止まって、それからまた一段上って。自分がこんなに意志の弱い人間だと、私は今日まで知らなかった。
階段を上りきる手前、重い扉の前で、私は立ち止まった。風の音がした。扉は、少しだけ開いていた。
その隙間から、屋上の光が漏れていた。誰かの声は――しなかった。
そっと、扉を押した。
屋上には、誰もいなかった。
フェンスが、視た通りの位置にあった。空が、視た通りの色をしていた。ただ、そこに立っているはずの彼も、輪郭のぼやけた誰かも、いなかった。風だけが、フェンスを鳴らしていた。
終わった後なのか。
まだ始まっていないのか。
それとも――最初から、何も起きなかったのか。
確かめる方法は、ひとつもなかった。私は視ただけで、この場所の何時に彼が来るのかまでは、知らない。映像に時計は映っていなかった。私はしばらく、誰もいない屋上の入口に立って、視た景色と同じ景色を、ただ眺めていた。同じなのに、決定的に何かが足りない景色を。
* * *
家に帰って、夕飯を食べて、お風呂に入った。母は今日、味噌汁を少し煮詰めすぎた。それも、視た通りだった。世界は今日も、答え合わせのように正確だった。彼のことだけを除いて。
歯を磨いて、スキンケアして、電気を消して、布団に入る。
目を閉じる。
明日を、視る。
――何も、来なかった。
はじめは、疲れているんだと思った。昨日はほとんど眠れていない。今日は一日、心がずっと落ち着かなかった。こういう夜は、像が結ぶのが遅いのかもしれない。そう思って、私は呼吸を整えて、待った。
一分。五分。十分。
真っ暗なままだった。
いつもなら、待つまでもない。目を閉じた瞬間から、明日は勝手に流れ込んでくる。天気。ニュース。母の朝。教室のざわめき。頼んでもいないのに届く、あの映像の洪水が――今夜は、一滴も来ない。
天気だけでも、と思った。明日の空。晴れか、雨か。いちばん簡単で、いちばん確実に届くはずのもの。目を閉じたまま、意識をそちらへ向ける。
闇だった。
母は。明日の朝、母は何を作って、何を焦がすのか。
闇だった。
自分は。明日の私は、何を着て、どの席に座って、誰と何を話すのか。
闇だった。
息が、浅くなっていくのが分かった。布団の中で、私は目を強くつぶり直した。落ち着け。こういう夜が、前にもあった。彼の明日が三日間視えなかった、あの週。あのときも不安で、でも四日目にはちゃんと像が結んだ。今夜はそれが、たまたま全部に起きているだけ。疲れのせい。寝不足のせい。明日の夜には、きっと元に戻っている。
――彼は。
最後に、彼を探した。真っ暗な水の中に、手を伸ばす。いつもの、あの感覚。何も掴めない数秒の不安と、そのあとに来るはずの、安堵。
伸ばして、伸ばして、伸ばし続けた。
指先は、何にも触れなかった。不安のあとの安堵は、いつまで待っても来なかった。
今までの闇とは違った。いつもの暗さには、奥があった。
手を伸ばせば届く。待っていれば、向こうから来る。そんな感覚が、どこかにあった。
でも今夜は違った。
手を伸ばしても、何にも触れない。
そこに何かがあるのか、それとも最初から何もないのか、それすら分からなかった。
私は目を開けた。天井の暗さと、瞼の裏の暗さが、同じだった。
それが、いちばん怖かった。
そして、遅れて、もっと怖い考えが来た。
彼の明日が三日間視えなかったとき、私は何を考えた?
もし彼が、明日という日から、完全にいなくなってしまったら――そう考えて、怖くなったんじゃなかったか。
明日が視えないのは、明日が、ないからだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、身体が冷たくなった。
私は今夜、死ぬんだろうか。
布団の中で、自分の胸に手を当てた。動いている。速すぎるくらいに、動いている。息を吸う。吐く。吸える。吐ける。体はどこも悪くない。でも、明日の朝、この体が目を覚ます保証を、私は今夜、初めて持っていない。
今までは、あった。毎晩、明日の自分を視てから眠った。明日の私が制服を着て、朝ごはんを食べて、学校へ歩いていく――それを確認してから眠る夜は、考えてみれば、絶対に朝が来ると約束されてから眠る夜だった。
今夜は、約束がない。
眠るのが、怖かった。
目を閉じたら、そのまま二度と開かない気がした。
でも、目を開けていても、朝が来る保証は、どこにもないのだった。
眠ったのか、眠れなかったのか、よく分からない夜だった。
気づいたら窓の外が明るくなっていた。
生きていた。
朝が、来ていた。それを確認した瞬間の、あの安堵と拍子抜けの混ざった感覚を、なんと呼べばいいのか、私はまだ知らない。
パンの焦げる匂いは――しなかった。
階下から、母が普通に朝食を作る音だけが聞こえた。今日、母が何を作るのか、私は知らない。トーストなのか、ご飯なのか、何かを焦がすのか、焦がさないのか。
知らない朝が、来てしまった。
カーテンを開ける。空は、曇りだった。私はその空を、初めて見た。
予告なしの空を見るのが、何年ぶりなのか、思い出せなかった。きれいだとか、不安だとか、そういう整理された感情になる前の、名前のつかないざわめきが、胸の内側をずっと擦っていた。
制服に着替えながら、私は頭の中で、何度も同じ確認を繰り返した。
昨夜、視えなかった。天気も、母も、自分も、彼も。全部。こんなことは、五歳から今日まで、一度もなかった。
一度も。
階段を降りて、おはよう、と言った自分の声が、少し掠れていた。
母は「おはよう。ごはんでいい?」と聞いてきた。ごはんでいい?――その何気ない質問に、私は一瞬、答えられなかった。
母が用意したのは、鮭の塩焼きと、きのこの味噌汁と、ほうれん草のおひたしだった。
視えていた頃の私は、起きた段階でそれを知っていた。
鮭は少し焼きすぎて端が固くなること、味噌汁のなめこが多めに入っていること、おひたしに胡麻が振ってあること。
全部、前の晩に届いていた。今日の私には、何も来ていなかった。
鮭を一口食べた。
思ったより、やわらかかった。焦げていなかった。ただ、それだけのことが、今日は少し新鮮だった。予告と違う、ということではない。予告がなかった、ということが。
「最近、ちゃんと食べてる?」
母が、味噌汁をよそいながら言った。
「食べてるよ」
「なんか、顔が細くなった気がして」
「気のせいだよ」
「そう?」
母は、少し私の顔を見た。
「学校、なんかあった?」
「……ないよ」
「そっか」
母は、それ以上は聞かなかった。聞かないことを選んだのか、本当に分からなかったのか、私には判別できなかった。以前なら、どちらだか知っていた。明日の母の言動が、前の晩に届いていたからだ。今は、分からない。
「お母さん」
「なに」
「最近、変わった?」
「私が?」
母は少し驚いた顔をした。
「何が。どうしたの、みらい」
「……なんか、前より、あまり聞いてこなくなった気がして。学校のこととか」
母は、箸を置いた。少し考えてから、言った。
「みらいが、高校生になってから、あまり根掘り葉掘り聞かない方がいいかな、と思って」
「なんで」
「なんか、聞くと、うまくかわされる気がして」
うまくかわされる。その言葉が、少し痛かった。かわしていたのは、本当だったからだ。聞かれても、答えられないことが、ずっとあった。
「……うまくかわしてたかも」
「そうでしょ」
母は笑った。
「だから、待ってた」
「何を」
「みらいが、自分から話したくなるまで」
待ってた、という言葉が、しばらく頭に残った。
五歳の冬から、母はきっと何かに気づいていた。
それでも聞かなかった。
待っていた。
「……ありがとう」
「何が」
「待っててくれて」
母は、少しきょとんとして、それから「どういたしまして」と言った。笑い方が、亜矢に似ていた。
当たり前の会話だった。
世界中の家庭で毎朝交わされている、ただの朝の会話。それが私には、初めて外国語を聞いたときみたいに、新しかった。
学校までの道を、私はいつもより慎重に歩いた。
どの角から自転車が来るのか、知らない。
どの信号に引っかかるのか、知らない。
交差点で、信号を待った。
視えていた頃、この交差点で何回信号を待ったか、数えられない。毎朝、今日は引っかかる、あるいは引っかからない、と知っていた。今日は、分からない。青になるまで、ただ待った。
隣に、知らないおじさんが立った。鞄を持って、スマホを見ていた。この人が今日どこへ行くのか、この人の明日に何があるのか、私には何も来なかった。当たり前のことだった。でも、その当たり前が、今朝は少し、広かった。
世界の全員が、互いの明日を知らないまま、同じ信号の前に立っている。私はただ、今日からその全員の一人になった。
青になった。歩いた。
世界のすべてが、予告なしに動いていた。すれ違う人の全員が、今日をぶっつけ本番で生きていた。みんな、毎日、こんな心細いことをしていたのか。こんな心細いことを、当たり前として生きていたのか。
当たり前、という言葉が、今朝は少し違う重さで、私の中に落ちた。
教室に着いて、席について、鞄から教科書を出したところで――私は、凍りついた。
明日。
明日、数学の実力テストがある。範囲は広い。配点も大きい。学期の成績に、いちばん響くやつ。
いつもなら、何も問題はない。今夜、目を閉じれば、問題用紙は勝手に流れてくる。大問の構成も、証明の筋道も、最後の応用問題の答えまで。私はそれを、明日、思い出しながら書き写すだけでいい。ずっと、そうしてきた。
でも、昨夜、何も視えなかった。今夜も視えなかったら。
私は、あのテストを、知らないまま受けることになる。
ノートを開いた。開いて、愕然とした。
私のノートは、綺麗だった。綺麗なだけだった。
板書を写しただけの、一度も「分からない」を通過していない文字列が、行儀よく並んでいるだけだった。
これを見て思い出す「理解」が、私の中に、どこにもない。当たり前だ。私は一度も、理解する必要がなかったんだから。
明日が消えたかもしれない朝なのに。
私が最初に考えたのは、数学のテストのことだった。
笑ってしまいそうだった。空が落ちてきた日に、傘の心配をしているみたいだ。でも、笑えなかった。私にとって世界の終わりは、いつだって、こういう顔をして来るのだと、まだこの時の私は、知らなかった。
チャイムが鳴る。一時間目が始まる。先生が教室に入ってきて、出席を取り始める。誰の名前がどの順番で呼ばれるのか、今日の私は、知らない。
「望月さん」
はい、と返事をした声が、教室に、少しだけ大きく響いた。

