高校二年になった今も、覚えている。中学に上がった頃から、夜はどんどん忙しくなっていったことを。
自分の明日だけだったものが、気づけばクラス全員に及び、学年に及び、やがて学校の外にまではみ出していった。天気予報は、もう予報ですらなかった。ニュースの見出しは、朝刊が届く前に知っていた。駅の掲示板に「遅延」の文字が出る前に、私はホームでその電車を待たずに済む方法を知っていた。
世界から、未知が少しずつ減っていく。目を閉じるたび、流れ込んでくる明日は増えていった。
眠るまでの時間だけが、毎晩少しずつ長くなる。誰にも頼んでいないのに、世界が勝手に近づいてくるみたいだった。
不思議なことに、一日だけがはっきりして視えた。視えるのは、どれだけ広がっても翌日まで。一年先も、十年先も、私にとっては同じ暗さでしかない。
だから私は、来月のことも、卒業した後のことも、何ひとつ知らない。知らないことが、こんなにも残っているのに、その狭い一日分の未知さえ、私は自分から使い切ってしまう。
その頃から、妙なことに気づくようになった。
ある朝、通学路の交差点で、自転車が横から飛び出してきた。
すぐ前を歩いていた見知らぬ会社員が、あと半歩前に出ていたらぶつかっていた距離で、自転車はぎりぎりに逸れていった。会社員は気づいてもいない様子で、そのまま駅の方へ歩いていった。
私だけが、しばらく立ち止まっていた。自転車が逸れた瞬間の軌道が、頭から離れなかった。まるで、見えない手が、ぎりぎりのところで、そっとハンドルを押したみたいな角度だった。
数日後、今度は駅の階段だった。
前を歩いていた誰かの傘が、手すりに引っかかって落ち、硬い音を立てながら階段を滑り落ちていった。人にぶつかることもなく、ちょうど誰もいない場所だけを選ぶようにして。
そのまた数日後には、工事現場の足場から、何かの資材が落ちた。
落下地点には誰もいなかった。その数分前まで、すぐそばの歩道を何人もの人が通っていたのに、落ちた瞬間だけ、そこが空いていた。
世界が一瞬、息を止めたみたいだった。ほんの数十センチ、間の悪い一瞬がずれていたら、と思うと、うまく息が吸えなくなるような光景だった。
そして、これがいちばん覚えている。夏休み前、体育館の渡り廊下で、天井の照明カバーが落ちてきたことがあった。ちょうどその下を、後輩の女の子が二人、笑いながら通り過ぎていった直後だった。カバーはガラスの破片を撒き散らして割れ、私はその音に飛び上がりそうになったけれど、女の子二人は数メートル先で、何も気づかずに笑い続けていた。ほんの二、三秒。それだけの差で、何も起きなかった。二、三秒、早かったら。二、三秒、遅かったら。
あの二、三秒は、偶然だったんだろうか。
神様がいたとしても、あんな正確に人を避けられるものなんだろうか。
考えるほど、背中が冷えた。
――最近、危ないことが多い気がする。
そう亜矢に話したら、「気にしすぎだよ、たまたまでしょ」と笑われた。たまたま。便利な言葉だと思う。私自身、視えるはずのないものにまで気を配るなんて馬鹿げていると分かっていた。視えるのは明日だけだ。今日のうちに起きる、こういう小さな事故未然の連続まで、私に関係があるはずがない。
それでも、夜、目を閉じる前に、ふとその映像がよぎることがあった。会社員の後ろ姿。傘が落ちる音。足場の資材が地面に刺さる、鈍い音。割れたガラスの破片が、渡り廊下の光を反射していた一瞬。どれも、視たものではなかった。ただの、記憶だ。なのに、なぜかその記憶だけが、他の何よりも鮮明に残った。
五件目があるかもしれない、と思った。
それが、いちばんよくない考えだった。
私は数え始めていた。数え始めた瞬間から、世界の見え方が変わった。
駅のホームで、誰かが白線の内側に戻る。
信号が変わる直前で、誰かが足を止める。
それまでは目にも留めなかったものが、全部、候補に見えた。
亜矢に言われた通りだった。気にしすぎだ。探せば、いくらでも見つかる。でも、探して見つかるものと、探さなくても向こうから来るものは、違う。
あの四つは、向こうから来た。
四ヶ月で四回。多いのか少ないのかは分からない。でも、偶然にしては出来すぎていた。
誰かが助かる瞬間ばかりを、私は何度も見ている。
それだけが、妙に胸へ引っかかっていた。
気にしすぎだ、と自分に言い聞かせて、私はまた明日を視る。
天気は晴れ。数学の小テストは、大問二まで。友達は、また同じ話題で盛り上がる。何も変わらない、いつも通りの明日。
その、何も変わらない明日の隅に、森田くんの姿だけが、今日も輪郭の薄いまま、ぼんやりと紛れている。
視ようと思えば視える。探せば、彼のところまで手は届く。
それだけが、この頃の私にとって、唯一「まだ知らない」に近い感触だった。
私の知っている未来が増えるほど、彼だけが少し遠くにいる。そのことが、なぜだか無性に、大切なものに思えた。
明日はこれからも、毎晩ひとつずつ今日になる。私はそれを見送るだけなんだと思っていた。
来るものは来る。なくすと決まっているものは、なくす。五歳の冬にそう思ったように、今も、そう思っていた。
ただ、その頃の私には、一つだけ、減らないものがあった。
夜、手を伸ばせば届く、彼の明日だけが。
何かが本当に終わるなんて、その頃はまだ、想像もしていなかった。
自分の明日だけだったものが、気づけばクラス全員に及び、学年に及び、やがて学校の外にまではみ出していった。天気予報は、もう予報ですらなかった。ニュースの見出しは、朝刊が届く前に知っていた。駅の掲示板に「遅延」の文字が出る前に、私はホームでその電車を待たずに済む方法を知っていた。
世界から、未知が少しずつ減っていく。目を閉じるたび、流れ込んでくる明日は増えていった。
眠るまでの時間だけが、毎晩少しずつ長くなる。誰にも頼んでいないのに、世界が勝手に近づいてくるみたいだった。
不思議なことに、一日だけがはっきりして視えた。視えるのは、どれだけ広がっても翌日まで。一年先も、十年先も、私にとっては同じ暗さでしかない。
だから私は、来月のことも、卒業した後のことも、何ひとつ知らない。知らないことが、こんなにも残っているのに、その狭い一日分の未知さえ、私は自分から使い切ってしまう。
その頃から、妙なことに気づくようになった。
ある朝、通学路の交差点で、自転車が横から飛び出してきた。
すぐ前を歩いていた見知らぬ会社員が、あと半歩前に出ていたらぶつかっていた距離で、自転車はぎりぎりに逸れていった。会社員は気づいてもいない様子で、そのまま駅の方へ歩いていった。
私だけが、しばらく立ち止まっていた。自転車が逸れた瞬間の軌道が、頭から離れなかった。まるで、見えない手が、ぎりぎりのところで、そっとハンドルを押したみたいな角度だった。
数日後、今度は駅の階段だった。
前を歩いていた誰かの傘が、手すりに引っかかって落ち、硬い音を立てながら階段を滑り落ちていった。人にぶつかることもなく、ちょうど誰もいない場所だけを選ぶようにして。
そのまた数日後には、工事現場の足場から、何かの資材が落ちた。
落下地点には誰もいなかった。その数分前まで、すぐそばの歩道を何人もの人が通っていたのに、落ちた瞬間だけ、そこが空いていた。
世界が一瞬、息を止めたみたいだった。ほんの数十センチ、間の悪い一瞬がずれていたら、と思うと、うまく息が吸えなくなるような光景だった。
そして、これがいちばん覚えている。夏休み前、体育館の渡り廊下で、天井の照明カバーが落ちてきたことがあった。ちょうどその下を、後輩の女の子が二人、笑いながら通り過ぎていった直後だった。カバーはガラスの破片を撒き散らして割れ、私はその音に飛び上がりそうになったけれど、女の子二人は数メートル先で、何も気づかずに笑い続けていた。ほんの二、三秒。それだけの差で、何も起きなかった。二、三秒、早かったら。二、三秒、遅かったら。
あの二、三秒は、偶然だったんだろうか。
神様がいたとしても、あんな正確に人を避けられるものなんだろうか。
考えるほど、背中が冷えた。
――最近、危ないことが多い気がする。
そう亜矢に話したら、「気にしすぎだよ、たまたまでしょ」と笑われた。たまたま。便利な言葉だと思う。私自身、視えるはずのないものにまで気を配るなんて馬鹿げていると分かっていた。視えるのは明日だけだ。今日のうちに起きる、こういう小さな事故未然の連続まで、私に関係があるはずがない。
それでも、夜、目を閉じる前に、ふとその映像がよぎることがあった。会社員の後ろ姿。傘が落ちる音。足場の資材が地面に刺さる、鈍い音。割れたガラスの破片が、渡り廊下の光を反射していた一瞬。どれも、視たものではなかった。ただの、記憶だ。なのに、なぜかその記憶だけが、他の何よりも鮮明に残った。
五件目があるかもしれない、と思った。
それが、いちばんよくない考えだった。
私は数え始めていた。数え始めた瞬間から、世界の見え方が変わった。
駅のホームで、誰かが白線の内側に戻る。
信号が変わる直前で、誰かが足を止める。
それまでは目にも留めなかったものが、全部、候補に見えた。
亜矢に言われた通りだった。気にしすぎだ。探せば、いくらでも見つかる。でも、探して見つかるものと、探さなくても向こうから来るものは、違う。
あの四つは、向こうから来た。
四ヶ月で四回。多いのか少ないのかは分からない。でも、偶然にしては出来すぎていた。
誰かが助かる瞬間ばかりを、私は何度も見ている。
それだけが、妙に胸へ引っかかっていた。
気にしすぎだ、と自分に言い聞かせて、私はまた明日を視る。
天気は晴れ。数学の小テストは、大問二まで。友達は、また同じ話題で盛り上がる。何も変わらない、いつも通りの明日。
その、何も変わらない明日の隅に、森田くんの姿だけが、今日も輪郭の薄いまま、ぼんやりと紛れている。
視ようと思えば視える。探せば、彼のところまで手は届く。
それだけが、この頃の私にとって、唯一「まだ知らない」に近い感触だった。
私の知っている未来が増えるほど、彼だけが少し遠くにいる。そのことが、なぜだか無性に、大切なものに思えた。
明日はこれからも、毎晩ひとつずつ今日になる。私はそれを見送るだけなんだと思っていた。
来るものは来る。なくすと決まっているものは、なくす。五歳の冬にそう思ったように、今も、そう思っていた。
ただ、その頃の私には、一つだけ、減らないものがあった。
夜、手を伸ばせば届く、彼の明日だけが。
何かが本当に終わるなんて、その頃はまだ、想像もしていなかった。

