「望月さんは、本当に安心して見ていられるから」
三者面談の帰り際、担任は笑った。
隣で母も、小さく「ありがとうございます」と頭を下げる。
提出物を忘れたことはない。
小テストもほとんど満点。
誰かと揉めたこともない。
先生から見れば、私は手のかからない生徒なんだろう。
でも違う。
何も起きないんじゃない。起きる前に、避けているだけだ。
「望月」というのが、私の名字だ。名前は「未来」、読みは「みらい」。
なのに、教室では誰も彼もが、私を「ミク」と呼ぶ。
小学校に入学した日、出席を取った担任が、「望月未来」を「みくさん」と読み間違えた。
訂正するタイミングを逃しているうちに、隣の席にいた松本亜矢が「ミクちゃんだ」と呼び始めて、それがそのまま定着した。
亜矢は家がふたつ隣の幼なじみで、私の名前が「みらい」だと知っている数少ない一人なのに、いちばん最初に「ミク」を広めた張本人でもある。本人はいまだに悪びれもせず、「だってミクのほうが可愛いじゃん」と言う。
もちろん家に帰れば両親は「みらい」と呼ぶ。でも学校という場所の中でだけ、私はずっと「ミク」だった。訂正しなかったのは、たぶん私自身だ。呼び間違いひとつすら、変える価値のあるものだとは思わなかった。
二学期のはじめ、班替えのことで、クラスに小さな揉め事があった。誰と誰が同じ班になるかで、言い分がぶつかって、空気が悪くなりかけていた。放課後、担任が私だけを廊下に呼び出した。
「望月さんから、それとなく間に入ってもらえないかな。ほら、望月さんの言うことなら、みんな聞くから」
みんなが聞いているのは、私の言葉じゃない。私が持っている答えのほうだけだ。喉まで出かかった言葉を、いつも通り飲み込む。
次の日、私はそれとなく、揉めていた片方に「明日の日直、代わってあげようか」と声をかけた。明日、その子が日直の仕事で、朝から相手と二人きりにならずに済むことを、私はもう知っていた。ただそれだけのことで、揉め事は驚くくらいあっさり収まった。
「さすが、望月さんに任せてよかった」
職員室に戻る担任の背中に向かって、私は何も言わなかった。任せてよかったのは、私にじゃない。私が知っていた、明日の日直表という、ただの事実にだ。
教室での私の場所は、いつからかちゃんと決まっていた。分からないことがあるとみんなが聞きに来る場所。先生が「望月さんなら分かるでしょう」と、答えを急がないときに振ってくる場所。信頼、という言葉の形をした檻に、私は自分から入っていったんだと思う。
「明日提出のやつ、範囲どこまでだったっけ」
「感想文、来週の月曜までじゃなかった?」
放課後、班のノートをまとめていた子に聞かれて、私は答える。もちろん、昨日の夜、その子がこの質問をする場面ごと視ている。だから間違えようがない。
「ありがとう、ミクがいると助かる」
その子は本当に安心した顔で笑って、鞄を持って教室を出ていく。私はその背中を見送りながら、いつも同じことを思う。
あの子が必要としていたのは私じゃなくて、私の口から出る、正解だった。
私自身は、その子にとって、たぶんどうでもいい。
聞かれるのは、答えのあることばかりではなかった。
「ねえミク、こういうときってどうしたらいいと思う?」
ある日の帰り道、隣のクラスの子に呼び止められて、好きな人がいる、でも自分には釣り合わないと思う、という話を長々と聞かされた。
答えのない話だった。正確には、答えはあった。
私はもう、その子の明日を視ている。明日も結局、告白どころか話しかけることさえできずに、また今日と同じ一日を繰り返すことになる、ということを。でもそれを言うわけにはいかない。だから私は、聞いたふりで相槌を打ち、
「分かるよ」
と言った。
言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ空っぽに聞こえた。
私が知っているのは、この子の明日だけだ。今日ここで胸を締めつけている気持ちは、私には見えない。だから、その言葉はたぶん嘘だった。
分かっていないのに、分かった顔だけは、上手にできる。
その子は「話聞いてもらえてよかった、ミクってやっぱりすごいね」と言って、少し軽くなった顔で帰っていった。
私は、何もあげていない。ただ、視えている結末を隠して、分かったふりをしただけだ。それなのに、その子は救われた顔をして帰っていく。
この街のどこかに、私という空洞に向かって話しかけて、勝手に楽になって帰っていく人が、何人もいるんだと思う。
だけどそんなことも嫌ではなく、むしろ、心地よかった。
誰かの役に立つたび、嬉しかった。
でも教室が静かになるころには、胸のどこかが少し軽くなりすぎている気がした。
満たされているはずなのに、私の中身は薄くなっていく。
視えることに慣れると、視えていないものにすぐ気づく。だから、その空白に気づいたのも、割と早い時期だった。
* * *
クラスの中で、自分と関わりのある人の明日は、意識すればちゃんと視える。
授業中に居眠りする誰か、昼休みに喧嘩する誰か、放課後に忘れ物に気づく誰か――気になったこと、気にかけている人のことだけが、寝る前に、向こうから勝手に流れてくる。
なのに、森田くんの明日だけは、いつも来なかった。教室の隅にいる誰かとして、他の誰かの明日の中にちらりと映り込むことはあっても、彼自身の一日として、はっきりした形を結んだことがなかった。
はじめは、気のせいだと思っていた。次は、視る側の私の集中が足りないんだろうと思った。三度目に気づいたとき、私は初めて、自分から視ようとした。
いつもは、目を閉じればすぐに届く。今日という日が終わる前に、明日という日が勝手に流れ込んでくる。
だけど彼のことだけは、待っても、探しても、しばらく何も来なかった。
真っ暗な水の中に手を伸ばして、何も掴めないまま、それでも伸ばし続けているような感覚だった。
来ないかもしれない、と思い始めた頃――ふっと、像が結んだ。
放課後、彼が図書室の前で誰かと話している。それだけの、なんでもない明日。
だけど届いた瞬間、私は自分の中で何かがほどけるのを感じた。
何も来ないかもしれない、という数秒の不安の後にだけ来る、あの安堵。
他の誰の明日にも、そんな感覚を抱いたことは一度もなかった。
けれど、いつも来るとは限らなかった。
ある週、三日続けて、何も像を結ばなかった夜があった。
一日目は、疲れているせいだと思った。
二日目は、たまたまだと思うことにした。
三日目の夜に何も掴めなかったとき、私は自分でも驚くくらい、はっきりと不安になった。もしこのまま、二度と視えなくなったら。もし彼が、明日という日から、完全にいなくなってしまったら。
朝、教室に入って、彼がいつも通り椅子を斜めに傾けて笑っているのを見たとき、安堵で膝から力が抜けそうになった。
何も起きていないのに、まるで大きな事故から生還したみたいな気持ちだった。
四日目の夜、ようやく像が結んだとき――彼が購買でパンを選んでいる、それだけの、なんでもない明日――私は布団の中で、声を出さずに泣いた。
理由はうまく説明できない。ただ、視えたことが、こんなに嬉しいのは初めてだった。
それから毎晩、彼の明日だけを、私は自分から視にいくようになった。
彼だけは、探さないと来ない。まるで、世界中でただ一人だけ、私に見つけてもらうのを待っているみたいに。何も来ない数秒の不安と、来た瞬間の安堵。
その二つを味わうためだけに、私は毎晩、目を閉じて、彼のところまで手を伸ばす。
その夜も私は、真っ先に彼を探していた。像が結ぶ。それだけで肩の力が抜ける。
……どうして。
そこでようやく、自分の考えが止まった。
ああ。
私は森田くんのことが好きなんだ。
* * *
そう気づいたのがいつだったか、正確には思い出せない。ただ、気づいたときにはもう、教室で彼の声を聞くと、視た通りの言葉のはずなのに、耳たぶがわずかに遅れて熱くなるようになっていた。
奇妙な話だと思う。
恋をしている人は、きっと明日が待ち遠しい。
返事が来るかもしれない。
目が合うかもしれない。
名前を呼ばれるかもしれない。
私には、「分からない」がほとんどない。
なのに私は、彼の明日さえ、探せば視えてしまう。
今日話しかけたら、明日どんな顔で笑うかまで、もう知っている。
知っているのに、探さずにはいられない。
探すことでしか、彼に触れる方法が私にはなかった。
「望月、次の小テストの範囲どこだっけ」
昼休み、彼が振り返ってそう聞いてきた。もちろん知っている。昨日の夜、彼の明日の中で、私はこの質問をされる場面を、もう一度見ていた。
「三章の途中まで、だったと思う」
だったと思う、と語尾を濁す。知っている、とは絶対に言わない。ここだけは昔から変わらない癖だ。
「さすが。望月は頭いいよなあ」
頭がいいんじゃない。ただ、答えを先に持っているだけだ。喉まで出かかった言葉を、いつも通り飲み込む。彼は「じゃ」と笑って、教室の後ろへ戻っていく。その背中を見送りながら、私は思う。彼だけが、私の力の届かないところに立っている。だから私は、彼のことだけ、自分の意志で視にいく。
彼の背中が、廊下の角を曲がって、見えなくなった。
私はしばらく、自分の席に座ったまま、動かなかった。窓の外で、部活のホイッスルが鳴っていた。夕方の光が、教室の床に長く伸びていた。
彼のことを、好きだと気づいたとき、私は少し困った。
好きな人の明日が視えてしまう、というのは、恋として、かなりおかしな状態だと思ったからだ。
告白するかどうかも、された場合に何と言われるかも、全部視えてしまうなら、恋は最初から結末しかない。
始まる前に、終わっている。
でも、探さないと来ない。
それだけが違った。彼の明日だけが、待っていても届かない。自分から手を伸ばした夜だけ、彼の明日が視える。それが、私には少しだけ嬉しかった。
理由なんて考えていなかった。
まだ、その頃は。
その一点だけが、他の全員と違った。そのことが、恋の最後の扉みたいに思えた。
それが、恋という言葉にいちばん近い行為なんだと、その時の私は、まだそこまで気づいていない。
三者面談の帰り際、担任は笑った。
隣で母も、小さく「ありがとうございます」と頭を下げる。
提出物を忘れたことはない。
小テストもほとんど満点。
誰かと揉めたこともない。
先生から見れば、私は手のかからない生徒なんだろう。
でも違う。
何も起きないんじゃない。起きる前に、避けているだけだ。
「望月」というのが、私の名字だ。名前は「未来」、読みは「みらい」。
なのに、教室では誰も彼もが、私を「ミク」と呼ぶ。
小学校に入学した日、出席を取った担任が、「望月未来」を「みくさん」と読み間違えた。
訂正するタイミングを逃しているうちに、隣の席にいた松本亜矢が「ミクちゃんだ」と呼び始めて、それがそのまま定着した。
亜矢は家がふたつ隣の幼なじみで、私の名前が「みらい」だと知っている数少ない一人なのに、いちばん最初に「ミク」を広めた張本人でもある。本人はいまだに悪びれもせず、「だってミクのほうが可愛いじゃん」と言う。
もちろん家に帰れば両親は「みらい」と呼ぶ。でも学校という場所の中でだけ、私はずっと「ミク」だった。訂正しなかったのは、たぶん私自身だ。呼び間違いひとつすら、変える価値のあるものだとは思わなかった。
二学期のはじめ、班替えのことで、クラスに小さな揉め事があった。誰と誰が同じ班になるかで、言い分がぶつかって、空気が悪くなりかけていた。放課後、担任が私だけを廊下に呼び出した。
「望月さんから、それとなく間に入ってもらえないかな。ほら、望月さんの言うことなら、みんな聞くから」
みんなが聞いているのは、私の言葉じゃない。私が持っている答えのほうだけだ。喉まで出かかった言葉を、いつも通り飲み込む。
次の日、私はそれとなく、揉めていた片方に「明日の日直、代わってあげようか」と声をかけた。明日、その子が日直の仕事で、朝から相手と二人きりにならずに済むことを、私はもう知っていた。ただそれだけのことで、揉め事は驚くくらいあっさり収まった。
「さすが、望月さんに任せてよかった」
職員室に戻る担任の背中に向かって、私は何も言わなかった。任せてよかったのは、私にじゃない。私が知っていた、明日の日直表という、ただの事実にだ。
教室での私の場所は、いつからかちゃんと決まっていた。分からないことがあるとみんなが聞きに来る場所。先生が「望月さんなら分かるでしょう」と、答えを急がないときに振ってくる場所。信頼、という言葉の形をした檻に、私は自分から入っていったんだと思う。
「明日提出のやつ、範囲どこまでだったっけ」
「感想文、来週の月曜までじゃなかった?」
放課後、班のノートをまとめていた子に聞かれて、私は答える。もちろん、昨日の夜、その子がこの質問をする場面ごと視ている。だから間違えようがない。
「ありがとう、ミクがいると助かる」
その子は本当に安心した顔で笑って、鞄を持って教室を出ていく。私はその背中を見送りながら、いつも同じことを思う。
あの子が必要としていたのは私じゃなくて、私の口から出る、正解だった。
私自身は、その子にとって、たぶんどうでもいい。
聞かれるのは、答えのあることばかりではなかった。
「ねえミク、こういうときってどうしたらいいと思う?」
ある日の帰り道、隣のクラスの子に呼び止められて、好きな人がいる、でも自分には釣り合わないと思う、という話を長々と聞かされた。
答えのない話だった。正確には、答えはあった。
私はもう、その子の明日を視ている。明日も結局、告白どころか話しかけることさえできずに、また今日と同じ一日を繰り返すことになる、ということを。でもそれを言うわけにはいかない。だから私は、聞いたふりで相槌を打ち、
「分かるよ」
と言った。
言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ空っぽに聞こえた。
私が知っているのは、この子の明日だけだ。今日ここで胸を締めつけている気持ちは、私には見えない。だから、その言葉はたぶん嘘だった。
分かっていないのに、分かった顔だけは、上手にできる。
その子は「話聞いてもらえてよかった、ミクってやっぱりすごいね」と言って、少し軽くなった顔で帰っていった。
私は、何もあげていない。ただ、視えている結末を隠して、分かったふりをしただけだ。それなのに、その子は救われた顔をして帰っていく。
この街のどこかに、私という空洞に向かって話しかけて、勝手に楽になって帰っていく人が、何人もいるんだと思う。
だけどそんなことも嫌ではなく、むしろ、心地よかった。
誰かの役に立つたび、嬉しかった。
でも教室が静かになるころには、胸のどこかが少し軽くなりすぎている気がした。
満たされているはずなのに、私の中身は薄くなっていく。
視えることに慣れると、視えていないものにすぐ気づく。だから、その空白に気づいたのも、割と早い時期だった。
* * *
クラスの中で、自分と関わりのある人の明日は、意識すればちゃんと視える。
授業中に居眠りする誰か、昼休みに喧嘩する誰か、放課後に忘れ物に気づく誰か――気になったこと、気にかけている人のことだけが、寝る前に、向こうから勝手に流れてくる。
なのに、森田くんの明日だけは、いつも来なかった。教室の隅にいる誰かとして、他の誰かの明日の中にちらりと映り込むことはあっても、彼自身の一日として、はっきりした形を結んだことがなかった。
はじめは、気のせいだと思っていた。次は、視る側の私の集中が足りないんだろうと思った。三度目に気づいたとき、私は初めて、自分から視ようとした。
いつもは、目を閉じればすぐに届く。今日という日が終わる前に、明日という日が勝手に流れ込んでくる。
だけど彼のことだけは、待っても、探しても、しばらく何も来なかった。
真っ暗な水の中に手を伸ばして、何も掴めないまま、それでも伸ばし続けているような感覚だった。
来ないかもしれない、と思い始めた頃――ふっと、像が結んだ。
放課後、彼が図書室の前で誰かと話している。それだけの、なんでもない明日。
だけど届いた瞬間、私は自分の中で何かがほどけるのを感じた。
何も来ないかもしれない、という数秒の不安の後にだけ来る、あの安堵。
他の誰の明日にも、そんな感覚を抱いたことは一度もなかった。
けれど、いつも来るとは限らなかった。
ある週、三日続けて、何も像を結ばなかった夜があった。
一日目は、疲れているせいだと思った。
二日目は、たまたまだと思うことにした。
三日目の夜に何も掴めなかったとき、私は自分でも驚くくらい、はっきりと不安になった。もしこのまま、二度と視えなくなったら。もし彼が、明日という日から、完全にいなくなってしまったら。
朝、教室に入って、彼がいつも通り椅子を斜めに傾けて笑っているのを見たとき、安堵で膝から力が抜けそうになった。
何も起きていないのに、まるで大きな事故から生還したみたいな気持ちだった。
四日目の夜、ようやく像が結んだとき――彼が購買でパンを選んでいる、それだけの、なんでもない明日――私は布団の中で、声を出さずに泣いた。
理由はうまく説明できない。ただ、視えたことが、こんなに嬉しいのは初めてだった。
それから毎晩、彼の明日だけを、私は自分から視にいくようになった。
彼だけは、探さないと来ない。まるで、世界中でただ一人だけ、私に見つけてもらうのを待っているみたいに。何も来ない数秒の不安と、来た瞬間の安堵。
その二つを味わうためだけに、私は毎晩、目を閉じて、彼のところまで手を伸ばす。
その夜も私は、真っ先に彼を探していた。像が結ぶ。それだけで肩の力が抜ける。
……どうして。
そこでようやく、自分の考えが止まった。
ああ。
私は森田くんのことが好きなんだ。
* * *
そう気づいたのがいつだったか、正確には思い出せない。ただ、気づいたときにはもう、教室で彼の声を聞くと、視た通りの言葉のはずなのに、耳たぶがわずかに遅れて熱くなるようになっていた。
奇妙な話だと思う。
恋をしている人は、きっと明日が待ち遠しい。
返事が来るかもしれない。
目が合うかもしれない。
名前を呼ばれるかもしれない。
私には、「分からない」がほとんどない。
なのに私は、彼の明日さえ、探せば視えてしまう。
今日話しかけたら、明日どんな顔で笑うかまで、もう知っている。
知っているのに、探さずにはいられない。
探すことでしか、彼に触れる方法が私にはなかった。
「望月、次の小テストの範囲どこだっけ」
昼休み、彼が振り返ってそう聞いてきた。もちろん知っている。昨日の夜、彼の明日の中で、私はこの質問をされる場面を、もう一度見ていた。
「三章の途中まで、だったと思う」
だったと思う、と語尾を濁す。知っている、とは絶対に言わない。ここだけは昔から変わらない癖だ。
「さすが。望月は頭いいよなあ」
頭がいいんじゃない。ただ、答えを先に持っているだけだ。喉まで出かかった言葉を、いつも通り飲み込む。彼は「じゃ」と笑って、教室の後ろへ戻っていく。その背中を見送りながら、私は思う。彼だけが、私の力の届かないところに立っている。だから私は、彼のことだけ、自分の意志で視にいく。
彼の背中が、廊下の角を曲がって、見えなくなった。
私はしばらく、自分の席に座ったまま、動かなかった。窓の外で、部活のホイッスルが鳴っていた。夕方の光が、教室の床に長く伸びていた。
彼のことを、好きだと気づいたとき、私は少し困った。
好きな人の明日が視えてしまう、というのは、恋として、かなりおかしな状態だと思ったからだ。
告白するかどうかも、された場合に何と言われるかも、全部視えてしまうなら、恋は最初から結末しかない。
始まる前に、終わっている。
でも、探さないと来ない。
それだけが違った。彼の明日だけが、待っていても届かない。自分から手を伸ばした夜だけ、彼の明日が視える。それが、私には少しだけ嬉しかった。
理由なんて考えていなかった。
まだ、その頃は。
その一点だけが、他の全員と違った。そのことが、恋の最後の扉みたいに思えた。
それが、恋という言葉にいちばん近い行為なんだと、その時の私は、まだそこまで気づいていない。

