三月になった。
卒業式まで、あと二週間。廊下の掲示板に、卒業カウントダウンが貼り出されていた。私はそれを、毎朝通り過ぎる。明日その数字がいくつになるかを、私はもう知らない。
視えない日々に、慣れた。
慣れた、というより、これが普通なのだと、ようやく思えるようになった。明日の天気を知らずに眠る。朝、窓を開けて、その日の空を、初めて見る。傘を持っていくかどうか、自分で判断する。外れることもある。外れても、世界は終わらない。
そういう日々が、半年近く続いた。
歩くんは、私に話しかけてくれる。廊下で会えば「おはよ、望月」と言う。
数学の分からないところを聞いてくる。
亜矢の愚痴を面白おかしく話してくれる。
私のことを、クラスの中の、頭の良い誰か、として扱ってくれる。
それだけだ。
それだけになった。
受け取ります、と言ったのは、私だ。届いた、ということは、本当に届いたということだ。
後悔はない。ないけれど、慣れるのには、思ったよりも時間がかかった。
廊下で「望月」と呼ばれるたびに、心にチクリと小さなとげが刺さった。
あの一回の「ミク」を思い出した。思い出して、胸の奥で静かに、手放してきた。
何度も、何度も、手放してきた。
* * *
春休みのある日、亜矢と二人でファミレスにいた。
春休みが始まると、制服ではなく私服での「望月」になる。来年度は違うクラスになるかもしれないし、同じクラスになるかもしれない。どちらになるかを、私は知らない。
「ミク、春どうする」
亜矢がドリンクバーのコーヒーを持ちながら言った。
「どうする、って」
「なんか、目標とか。三年生になるし」
「……受験」
「それはみんなそうだけど、それ以外で」
それ以外。私は少し考えた。
「分からない」
と言ったら、亜矢が笑った。
「ミクが分からないって言うの、最近増えたよね。前は絶対言わなかった」
「言えなかっただけだよ」
「でも今は言える」
「言える」
亜矢は、コーヒーを一口飲んだ。
「あたしはさ、ミクが分からないって言えるようになったの、ちょっと嬉しかった。前のミク、怖かったから」
「前のほうが、頭よかったけど」
「そっちじゃなくて」
亜矢は笑った。
「全部知ってました、みたいな顔してたミクが、怖かったんだよ。今のミクの方が、ずっとそこにいる気がする」
そこにいる気がする。
あの廊下で、歩くんが言った言葉と、同じだった。前のミクは、知ってます、みたいな顔をしていた。今のミクは、ここにいる。それだけのことなのかもしれない。でも、そのことが、私には、今もまだ、少し眩しかった。
「亜矢」
「なに」
「ありがとう。ずっと」
「何が」
「最初に、ミクって呼んでくれたこと」
亜矢は、少しだけ呆れた顔をした。
「それ、あたしが読み間違えただけだよ。感謝されても困る」
「それでも、ありがとう」
亜矢は、「まあ、どういたしまして」と言って、また笑った。
春休みの終わり、私は神社に行った。
一人で行った。
ただ、お礼が言いたかった。誰に言うのか、宮司さんにか、節子さんにか、先代の宮司さんにか、あるいは、あの参道にか。よく分からないけれど、ここに来る必要があった。
参道を歩いた。春の境内は、梅が咲いていた。お百度を踏んでいた頃は、冬で、木は全部枯れていた。同じ参道が、全然違う顔をしていた。
知らなかった。冬にしか来たことがなかったから、この神社の春を、知らなかった。
拝殿の前に立って、手を合わせた。
何を言えばいいか、来る途中も考えていた。来てみると、意外と、自然に出てきた。
「受け取りました。ありがとうございました」
それだけだった。
帰り道、春の風が、参道を通っていった。
* * *
新学期が始まった。
教室に入ったとき、最初に思ったのは、知らない顔が多い、ということだった。当たり前のことだった。クラス替えがあれば、知らない人と同じ教室になる。
当たり前のことなのに、私には新鮮だった。視えていた頃、新学期のクラスメートの顔は、前の晩に全員分届いた。今日の私には、一人も来なかった。
席についた。隣が誰になるかも、前後が誰になるかも、知らなかった。右隣に、知らない女の子が来た。別の中学から来たらしい。左隣は空席で、しばらくして男の子が滑り込んできた。前の席は、同じクラスだった子だった。後ろは、名前は知っているが話したことのない子だった。
四方が、全部、未知だった。
視えていた頃の私にとって、新学期一日目は確認作業だった。今日の私にとって、新学期は本当に、新しかった。
歩くんは、同じクラスだった。違うクラスになれば、少し楽だったかもしれない、と思った。でも、同じクラスだった。
世界は、私が望む通りには動かない。当たり前のことを、私はまだ時々、新鮮に思う。
四月の最初の週、自己紹介のホームルームがあった。席順に、一人ずつ、名前と一言を言っていく。
歩くんの番が来た。
「森田歩。サッカー部。以上」
笑いが起きた。先生が
「もう一言くらい言いなさい」
と言った。
「えー。最近、死にかけることが減りました」
「それ、自己紹介で言うことかい?」
また笑いが起きた。私も笑った。
死にかけることが減った。本当に、そうだった。三月に入ってから、亜矢が「最近、怪我記録、ゼロだよ」と言っていた。
フェンスの後、ぎりぎりは止んだ。払うべきものを、私が受け取った日から、彼の周りは、静かになった。
私の番が来た。
「望月未来(みらい)です」
「あ、みらいって読むんだ、初めて知った」
と、誰かが言った。前の席の、知らない子だった。
「小学校からずっと、ミクってみんなに呼ばれてたから」
「え、本名みらいなの? なんでミクって呼ばれてたの」
「小学校の入学式の日に、読み間違えられて、そのままになって」
「訂正しなかったの?」
「……しなかった。どうしてか分からないけど」
「今は?」
少し間があった。
「今は、どっちでも」
どっちでも、と言いながら、それは半分嘘だと思った。
ミク、と呼ばれることが嫌いになったわけじゃない。亜矢は今もミクと呼ぶし、亜矢にそう呼ばれるたびに、小学校の入学式のことを思い出す。嬉しい記憶だ。
でも、みらい、と呼ばれたいと、初めて思った。
ずっと、呼ばれたことがなかった。家では両親に「みらい」と呼ばれるけれど、それは昔からあった呼び方で、今更新鮮ではない。学校の中では、ずっとミクだった。みらい、と学校の誰かが呼んだことは、一度もなかった。
この名前を、自分の口から、誰かに渡したい、と思った。
ホームルームが終わって、休み時間になった。隣の席の子が話しかけてきた。自己紹介のあと少し話した子で、別の中学から来たらしかった。
「名前、どう呼べば良いのかな?」
「……みらい、でいいよ」
「え、みらい、がいいの? でも、みんなミクって」
「新しいクラスだし。みらい、の方が」
「じゃあ、未来ちゃん」
未来ちゃん。
その呼ばれ方が、少しくすぐったかった。くすぐったくて、少し、嬉しかった。
昼休み、廊下で歩くんとすれ違った。
「歩くん!」
「あ、望月?」
「……待って」
彼が、足を止めた。振り返った顔は、いつも通りだった。
三学期のあの日、私の話を黙って聞いてくれた顔とも、「変な仕組みが悪い」と言ってくれた顔とも、「ミク」と呼んでくれた顔とも、見た目は同じだった。
でも、もうない。
「どうしたの」
「……ちょっと、言いたいことがあって」
「うん」
「あなたのことが……、好きです」
廊下の空気が、一瞬止まった気がした。
歩くんは、少し驚いた顔をした。それから、少し困った顔をした。それから、どう答えればいいか分からない顔をした。視えていた頃の私なら、次に何を言うか知っていた。今は、知らない。返事が来るまで、ここに立っているしかない。
「……それ、本気?」
「本気です」
「俺のこと、どのくらい知ってるの」
「少しだけ。でも、もっと知りたいと思ってる」
彼は、しばらく私を見ていた。
廊下を、誰かが通り過ぎた。彼は動かなかった。私も動かなかった。
春の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいた。
「……下の名前、なんだっけ」
「望月未来。みらい、って読みます」
「みらい」
「未来、って書いて、みらい」
彼は、その字を頭の中で思い描くみたいに、少しのあいだ黙った。目線が、少し下に落ちた。何かを考えているときの、彼の顔だった。
「……未来か」
「はい」
「いい名前だね」
彼は、少しのあいだ、その名前を口の中で転がしているような顔をしていた。
「なんか」
と彼は言った。
「なんか、ちゃんと話したことあったっけ、俺ら」
「……少しだけ、あったよ」
「そっか」
覚えていない、という顔じゃなかった。ただ、もっと話したかった、という顔だった。その違いを、私は見間違えなかった。
それだけだった。返事は、まだ来なかった。でも、彼は行かなかった。廊下に、春の光が差し込んでいた。
「また話せる?」と彼は言った。
「……うん」
「みらい……なんか、もう一回呼びたかった」
彼は、もう一度、その名前を言った。
「じゃあな、みらい」
彼は微笑みながら歩いていった。
私は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
また、と言われた。また話せる、と聞いた。それだけで、足りた。視えない明日に、また、が一つ生まれた。
* * *
放課後、亜矢と帰り道を歩いていた。
「ミク」
少し歩いてから、亜矢が言った。
「なに」
「なんか、あった?」
「……なんで」
「顔。さっきから、ちょっと変」
「変、って」
「頑張って普通にしてる顔」
さすが、十三年の幼なじみだと思った。隠せない。
「……昼休み、歩くんに話しかけた」
「歩に? 何を」
「……好きです、って」
亜矢の足が、止まった。
私も止まった。振り返ると、亜矢は少し口を開けたまま、私を見ていた。
「……言ったの」
「言った」
「返事は」
「また話せる? って言われた」
亜矢は、しばらく黙った。それから、ゆっくりと歩き出した。私も並んだ。
「それでね、亜矢」
「ん?」
「名前、呼ばれた。みらい、って」
亜矢はまた黙った。今度の沈黙は、少し長かった。
「……よかったね」
その一言だけだった。それ以上は言わなかった。でも、亜矢の声が、いつもより少しだけ低かった。
「……亜矢?」
「なに」
「ありがとう」
「何が」
「ミクって、最初に呼んでくれたこと。ずっと呼び続けてくれたこと。全部聞いてくれたこと」
亜矢は、少しのあいだ前を見ていた。
「……亜矢」
「なに」
「泣いてるの?」
「泣いてない」
泣いていた。少しだけ、目の端が光っていた。
「泣いてるじゃん」
「泣いてないって言ってる」
「うん」
私も、少し、泣きそうだった。泣かなかった。泣かないでいられた。
帰り道の途中に、小さな神社の前を通る。いつもは素通りする場所だった。今日は、少しだけ足が止まった。春の夕方の光の中に、参道が見えた。
私は、その参道を見ながら、ふと思った。
五歳の冬、手袋をなくした朝、母に「知ってたよ」と言った。あの日から、十二年、分かっていることを分かっていない顔で生きてきた。
今は、分からないことを、分からないまま生きている。
どちらが豊かかは、もう、言うまでもなかった。
「亜矢、ちょっと待って」
「え、なに」
「一個だけ、寄っていく」
神社の参道に入った。春の境内を、ゆっくりと歩いた。拝殿の前に立って、手を合わせた。
何を願うか、決めていなかった。
目を閉じた。春の風が、境内を通っていった。
出てきた言葉は、シンプルだった。
「未来です。よろしくお願いします」
自分の名前を、この場所に置いていく感じがした。みらい、じゃなくて、未来。字で言う方が、しっくりきた。
目を開けた。
亜矢が参道の入口で、腕を組んで待っていた。私が戻ると、
「何願ったの」
と聞いた。
「よろしくお願いします、って」
「何に」
「未来に」
亜矢は、一瞬きょとんとして、それから笑った。
「……ミクらしい」
「未来らしい、でしょ」
「あ、そっか」
亜矢も笑った。
並んで、歩き出した。春の夕方の光が、二人の影を長く伸ばした。
亜矢の影と、私の影が、並んで伸びていた。同じ方向を向いて、同じ速さで、同じ道を歩いていた。
十三年間、ずっとそうだった。これからも、きっとそうだ。
小学校の入学式の日、隣の席に座ったのが亜矢でなければ、私はずっと「みらい」のままだったかもしれない。「ミク」という呼び名も、今日の「未来ちゃん」も、「じゃあな、みらい」も、全部、あの日の読み間違いから始まった。
偶然が、積み重なって、今日になった。
視えていた頃の私には、偶然がなかった。全部、必然として届いた。
今の私の人生には、偶然しかない。
それが、悪くなかった。
明日の天気を、私は知らない。明日の授業を、知らない。明日、誰が何を言うかを、知らない。明日、何が起きるかを、知らない。
知らないまま、明日へ歩いていく。
それが、私の未来の、始まり方だった。
――― 了 ―――
卒業式まで、あと二週間。廊下の掲示板に、卒業カウントダウンが貼り出されていた。私はそれを、毎朝通り過ぎる。明日その数字がいくつになるかを、私はもう知らない。
視えない日々に、慣れた。
慣れた、というより、これが普通なのだと、ようやく思えるようになった。明日の天気を知らずに眠る。朝、窓を開けて、その日の空を、初めて見る。傘を持っていくかどうか、自分で判断する。外れることもある。外れても、世界は終わらない。
そういう日々が、半年近く続いた。
歩くんは、私に話しかけてくれる。廊下で会えば「おはよ、望月」と言う。
数学の分からないところを聞いてくる。
亜矢の愚痴を面白おかしく話してくれる。
私のことを、クラスの中の、頭の良い誰か、として扱ってくれる。
それだけだ。
それだけになった。
受け取ります、と言ったのは、私だ。届いた、ということは、本当に届いたということだ。
後悔はない。ないけれど、慣れるのには、思ったよりも時間がかかった。
廊下で「望月」と呼ばれるたびに、心にチクリと小さなとげが刺さった。
あの一回の「ミク」を思い出した。思い出して、胸の奥で静かに、手放してきた。
何度も、何度も、手放してきた。
* * *
春休みのある日、亜矢と二人でファミレスにいた。
春休みが始まると、制服ではなく私服での「望月」になる。来年度は違うクラスになるかもしれないし、同じクラスになるかもしれない。どちらになるかを、私は知らない。
「ミク、春どうする」
亜矢がドリンクバーのコーヒーを持ちながら言った。
「どうする、って」
「なんか、目標とか。三年生になるし」
「……受験」
「それはみんなそうだけど、それ以外で」
それ以外。私は少し考えた。
「分からない」
と言ったら、亜矢が笑った。
「ミクが分からないって言うの、最近増えたよね。前は絶対言わなかった」
「言えなかっただけだよ」
「でも今は言える」
「言える」
亜矢は、コーヒーを一口飲んだ。
「あたしはさ、ミクが分からないって言えるようになったの、ちょっと嬉しかった。前のミク、怖かったから」
「前のほうが、頭よかったけど」
「そっちじゃなくて」
亜矢は笑った。
「全部知ってました、みたいな顔してたミクが、怖かったんだよ。今のミクの方が、ずっとそこにいる気がする」
そこにいる気がする。
あの廊下で、歩くんが言った言葉と、同じだった。前のミクは、知ってます、みたいな顔をしていた。今のミクは、ここにいる。それだけのことなのかもしれない。でも、そのことが、私には、今もまだ、少し眩しかった。
「亜矢」
「なに」
「ありがとう。ずっと」
「何が」
「最初に、ミクって呼んでくれたこと」
亜矢は、少しだけ呆れた顔をした。
「それ、あたしが読み間違えただけだよ。感謝されても困る」
「それでも、ありがとう」
亜矢は、「まあ、どういたしまして」と言って、また笑った。
春休みの終わり、私は神社に行った。
一人で行った。
ただ、お礼が言いたかった。誰に言うのか、宮司さんにか、節子さんにか、先代の宮司さんにか、あるいは、あの参道にか。よく分からないけれど、ここに来る必要があった。
参道を歩いた。春の境内は、梅が咲いていた。お百度を踏んでいた頃は、冬で、木は全部枯れていた。同じ参道が、全然違う顔をしていた。
知らなかった。冬にしか来たことがなかったから、この神社の春を、知らなかった。
拝殿の前に立って、手を合わせた。
何を言えばいいか、来る途中も考えていた。来てみると、意外と、自然に出てきた。
「受け取りました。ありがとうございました」
それだけだった。
帰り道、春の風が、参道を通っていった。
* * *
新学期が始まった。
教室に入ったとき、最初に思ったのは、知らない顔が多い、ということだった。当たり前のことだった。クラス替えがあれば、知らない人と同じ教室になる。
当たり前のことなのに、私には新鮮だった。視えていた頃、新学期のクラスメートの顔は、前の晩に全員分届いた。今日の私には、一人も来なかった。
席についた。隣が誰になるかも、前後が誰になるかも、知らなかった。右隣に、知らない女の子が来た。別の中学から来たらしい。左隣は空席で、しばらくして男の子が滑り込んできた。前の席は、同じクラスだった子だった。後ろは、名前は知っているが話したことのない子だった。
四方が、全部、未知だった。
視えていた頃の私にとって、新学期一日目は確認作業だった。今日の私にとって、新学期は本当に、新しかった。
歩くんは、同じクラスだった。違うクラスになれば、少し楽だったかもしれない、と思った。でも、同じクラスだった。
世界は、私が望む通りには動かない。当たり前のことを、私はまだ時々、新鮮に思う。
四月の最初の週、自己紹介のホームルームがあった。席順に、一人ずつ、名前と一言を言っていく。
歩くんの番が来た。
「森田歩。サッカー部。以上」
笑いが起きた。先生が
「もう一言くらい言いなさい」
と言った。
「えー。最近、死にかけることが減りました」
「それ、自己紹介で言うことかい?」
また笑いが起きた。私も笑った。
死にかけることが減った。本当に、そうだった。三月に入ってから、亜矢が「最近、怪我記録、ゼロだよ」と言っていた。
フェンスの後、ぎりぎりは止んだ。払うべきものを、私が受け取った日から、彼の周りは、静かになった。
私の番が来た。
「望月未来(みらい)です」
「あ、みらいって読むんだ、初めて知った」
と、誰かが言った。前の席の、知らない子だった。
「小学校からずっと、ミクってみんなに呼ばれてたから」
「え、本名みらいなの? なんでミクって呼ばれてたの」
「小学校の入学式の日に、読み間違えられて、そのままになって」
「訂正しなかったの?」
「……しなかった。どうしてか分からないけど」
「今は?」
少し間があった。
「今は、どっちでも」
どっちでも、と言いながら、それは半分嘘だと思った。
ミク、と呼ばれることが嫌いになったわけじゃない。亜矢は今もミクと呼ぶし、亜矢にそう呼ばれるたびに、小学校の入学式のことを思い出す。嬉しい記憶だ。
でも、みらい、と呼ばれたいと、初めて思った。
ずっと、呼ばれたことがなかった。家では両親に「みらい」と呼ばれるけれど、それは昔からあった呼び方で、今更新鮮ではない。学校の中では、ずっとミクだった。みらい、と学校の誰かが呼んだことは、一度もなかった。
この名前を、自分の口から、誰かに渡したい、と思った。
ホームルームが終わって、休み時間になった。隣の席の子が話しかけてきた。自己紹介のあと少し話した子で、別の中学から来たらしかった。
「名前、どう呼べば良いのかな?」
「……みらい、でいいよ」
「え、みらい、がいいの? でも、みんなミクって」
「新しいクラスだし。みらい、の方が」
「じゃあ、未来ちゃん」
未来ちゃん。
その呼ばれ方が、少しくすぐったかった。くすぐったくて、少し、嬉しかった。
昼休み、廊下で歩くんとすれ違った。
「歩くん!」
「あ、望月?」
「……待って」
彼が、足を止めた。振り返った顔は、いつも通りだった。
三学期のあの日、私の話を黙って聞いてくれた顔とも、「変な仕組みが悪い」と言ってくれた顔とも、「ミク」と呼んでくれた顔とも、見た目は同じだった。
でも、もうない。
「どうしたの」
「……ちょっと、言いたいことがあって」
「うん」
「あなたのことが……、好きです」
廊下の空気が、一瞬止まった気がした。
歩くんは、少し驚いた顔をした。それから、少し困った顔をした。それから、どう答えればいいか分からない顔をした。視えていた頃の私なら、次に何を言うか知っていた。今は、知らない。返事が来るまで、ここに立っているしかない。
「……それ、本気?」
「本気です」
「俺のこと、どのくらい知ってるの」
「少しだけ。でも、もっと知りたいと思ってる」
彼は、しばらく私を見ていた。
廊下を、誰かが通り過ぎた。彼は動かなかった。私も動かなかった。
春の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいた。
「……下の名前、なんだっけ」
「望月未来。みらい、って読みます」
「みらい」
「未来、って書いて、みらい」
彼は、その字を頭の中で思い描くみたいに、少しのあいだ黙った。目線が、少し下に落ちた。何かを考えているときの、彼の顔だった。
「……未来か」
「はい」
「いい名前だね」
彼は、少しのあいだ、その名前を口の中で転がしているような顔をしていた。
「なんか」
と彼は言った。
「なんか、ちゃんと話したことあったっけ、俺ら」
「……少しだけ、あったよ」
「そっか」
覚えていない、という顔じゃなかった。ただ、もっと話したかった、という顔だった。その違いを、私は見間違えなかった。
それだけだった。返事は、まだ来なかった。でも、彼は行かなかった。廊下に、春の光が差し込んでいた。
「また話せる?」と彼は言った。
「……うん」
「みらい……なんか、もう一回呼びたかった」
彼は、もう一度、その名前を言った。
「じゃあな、みらい」
彼は微笑みながら歩いていった。
私は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
また、と言われた。また話せる、と聞いた。それだけで、足りた。視えない明日に、また、が一つ生まれた。
* * *
放課後、亜矢と帰り道を歩いていた。
「ミク」
少し歩いてから、亜矢が言った。
「なに」
「なんか、あった?」
「……なんで」
「顔。さっきから、ちょっと変」
「変、って」
「頑張って普通にしてる顔」
さすが、十三年の幼なじみだと思った。隠せない。
「……昼休み、歩くんに話しかけた」
「歩に? 何を」
「……好きです、って」
亜矢の足が、止まった。
私も止まった。振り返ると、亜矢は少し口を開けたまま、私を見ていた。
「……言ったの」
「言った」
「返事は」
「また話せる? って言われた」
亜矢は、しばらく黙った。それから、ゆっくりと歩き出した。私も並んだ。
「それでね、亜矢」
「ん?」
「名前、呼ばれた。みらい、って」
亜矢はまた黙った。今度の沈黙は、少し長かった。
「……よかったね」
その一言だけだった。それ以上は言わなかった。でも、亜矢の声が、いつもより少しだけ低かった。
「……亜矢?」
「なに」
「ありがとう」
「何が」
「ミクって、最初に呼んでくれたこと。ずっと呼び続けてくれたこと。全部聞いてくれたこと」
亜矢は、少しのあいだ前を見ていた。
「……亜矢」
「なに」
「泣いてるの?」
「泣いてない」
泣いていた。少しだけ、目の端が光っていた。
「泣いてるじゃん」
「泣いてないって言ってる」
「うん」
私も、少し、泣きそうだった。泣かなかった。泣かないでいられた。
帰り道の途中に、小さな神社の前を通る。いつもは素通りする場所だった。今日は、少しだけ足が止まった。春の夕方の光の中に、参道が見えた。
私は、その参道を見ながら、ふと思った。
五歳の冬、手袋をなくした朝、母に「知ってたよ」と言った。あの日から、十二年、分かっていることを分かっていない顔で生きてきた。
今は、分からないことを、分からないまま生きている。
どちらが豊かかは、もう、言うまでもなかった。
「亜矢、ちょっと待って」
「え、なに」
「一個だけ、寄っていく」
神社の参道に入った。春の境内を、ゆっくりと歩いた。拝殿の前に立って、手を合わせた。
何を願うか、決めていなかった。
目を閉じた。春の風が、境内を通っていった。
出てきた言葉は、シンプルだった。
「未来です。よろしくお願いします」
自分の名前を、この場所に置いていく感じがした。みらい、じゃなくて、未来。字で言う方が、しっくりきた。
目を開けた。
亜矢が参道の入口で、腕を組んで待っていた。私が戻ると、
「何願ったの」
と聞いた。
「よろしくお願いします、って」
「何に」
「未来に」
亜矢は、一瞬きょとんとして、それから笑った。
「……ミクらしい」
「未来らしい、でしょ」
「あ、そっか」
亜矢も笑った。
並んで、歩き出した。春の夕方の光が、二人の影を長く伸ばした。
亜矢の影と、私の影が、並んで伸びていた。同じ方向を向いて、同じ速さで、同じ道を歩いていた。
十三年間、ずっとそうだった。これからも、きっとそうだ。
小学校の入学式の日、隣の席に座ったのが亜矢でなければ、私はずっと「みらい」のままだったかもしれない。「ミク」という呼び名も、今日の「未来ちゃん」も、「じゃあな、みらい」も、全部、あの日の読み間違いから始まった。
偶然が、積み重なって、今日になった。
視えていた頃の私には、偶然がなかった。全部、必然として届いた。
今の私の人生には、偶然しかない。
それが、悪くなかった。
明日の天気を、私は知らない。明日の授業を、知らない。明日、誰が何を言うかを、知らない。明日、何が起きるかを、知らない。
知らないまま、明日へ歩いていく。
それが、私の未来の、始まり方だった。
――― 了 ―――

