翌朝、目が覚めた。
今日は、来なかった。
布団の中で、目を閉じたまま、確かめた。天気も、母の朝食も、今日の時間割も、何も来ない。昨日の夜、拝殿の前で「返します」と言った。届いたのかもしれない。
起き上がって、カーテンを開けた。空は曇っていた。雨になるかどうか、分からなかった。傘を持っていくべきかどうか、分からなかった。鞄に折りたたみ傘を入れて、玄関を出た。
知らない空の下を、歩いていった。
学校に着くと、亜矢がもう席にいた。目が合って、亜矢が小さく頷いた。昨日のことを、二人だけが知っている。それだけで、十分だった。
歩くんは、少し遅れて教室に入ってきた。マフラーを外しながら席に着いて、鞄を床に置いて、顔を上げた。私と目が合った。
「おはよ、望月」
「……おはよう」
ふだん通りだった。昨日、ベランダでフェンスが落ちて、そのことを担任に連絡を入れて、それだけだった。彼にとって、それ以上でも、それ以下でもない昨日だった。彼の中では、告白も、保留も、「じゃあ俺は待ちます」も、ちゃんと残っている。
私の中にも、ある。

でも、このままにはしておけない、と思った。今日が、その日だと思った。理由は、うまく言えないけれど、今日じゃなければいけない気がした。
昼休み、私は歩くんに声をかけた。
「ちょっといい?」
「うん、どした」
「……保留の件、……解くね」
彼は、一瞬、きょとんとした。それから、意味が届いたらしかった。耳の先が、少し赤くなった。
「……解くって、どっちに」
「好きです」
「……確認だけど、俺のこと?」
「あなたのこと」
教室の外の廊下だった。昼休みの喧騒が、すぐそこにあった。彼は少しのあいだ黙って、それから、笑った。照れを隠そうとして、隠しきれていない顔だった。

「……じゃあ、ミク」
初めて、「ミク」と呼ばれた。
「望月」ではなく、「ミク」。亜矢が最初に広めた、学校の中でだけの呼び名。好意を持った人間だけが自然に使う、あの呼び方。
耳の奥が、じわりと熱くなった。
「……なに」
「ありがとう」
「……何に対して」
「待たせてくれたことと、ちゃんと言ってくれたこと、両方」
「保留にしてごめん」
「いや、あれはあれで、ミクらしかったから」
ミクらしかった。その言葉が、今の私には、少し重かった。ミクらしさを、彼はちゃんと見てくれていた。でも、そのミクらしさを形作ってきたものを、彼は何も知らない。視えていたこと、視えなくなったこと、積み上がったこと、今日まで払おうとしてきたこと。何も知らないまま、待っていてくれた。
「……歩くん」
「ん」
「また後で、話したいことがある」
「え、なに?」
「大したことじゃないけど、ちゃんと話したい」
「分かった。放課後でいい?」
「うん」

放課後、昇降口の前で落ち合った。昨日と同じ場所だった。昨日より、空が明るかった。
曇りのまま、雨にはならなかった。

「それで、話って?」
と彼が言った。
「あのね……視えてた話、したい」
「視えてた?」
少しだけ、考えてから、こう告げた。
「明日が、視えてたの。ずっと」

彼は、少しのあいだ、私の顔を見た。
「……冗談?」
「冗談じゃない」
また間があった。
「……続き、聞いていい?」
「……うん、言うね。聞いてほしい」

私は、五歳の冬から話した。
亜矢に話したのと、同じ順番で。
赤い手袋、母の怖い顔、黙ることを覚えた日。力が広がっていったこと。答えを写して生きてきたこと。
そして、彼の話をした。
彼の明日だけが、探さないと視えなかったこと。
二年間、毎晩手を伸ばし続けてきたこと。
視てきたことが、積み上がっていたかもしれないこと。
彼が「死にかけてばっかり」なのは、私のせいかもしれないということ。
昨日のフェンスのことも、話した。
お百度のことも。
返します、と言ったことも。

話しながら、彼の顔を見ることができなかった。俯いて、自分の靴先を見ながら、話し続けた。
話し終えて、顔を上げたとき、彼は何とも言えない顔をしていた。
「……俺のこと、ずっと視てたの」
「……うん」
「二年間」
「……そう」
「それで、こんなことになったかもしれない、と思ってる」
「……かもしれない、しか言えない。でも、可能性は、ある」
長い沈黙があった。
「昨日のフェンス」
と彼は言った。
「あれも、ミクが視えてたから、気づけたの?」
「……うん。昨日だけ、借りた。一度だけ」
「借りたって」
「二学期から、何も視えなくなってたの。神社でお百度踏んで。一度だけ、借りられたの。返します、って願って。昨日の夜、寝る前にもう一度踏んで、今日の分を受け取ります、返します、って言った」
「受け取ります、って」
「積み上がった分を、あなたじゃなくて、私が引き受けたくて」

彼は、しばらく黙った。風が、二人の間を通った。
「……馬鹿だろ」
声が、低かった。
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だよ。なんでそんなこと、ミクが」
「好きだから」
言ってから、自分でも驚いた。でも、取り消さなかった。取り消す必要がなかった。
「好きだから、隣にいたかった。隣にいたことで積み上がったなら、私が払う。それだけ」
彼は、何も言わなかった。言わないまま、少しのあいだ、地面を見ていた。
「……ありがとう」
ありがとう。その言葉が、昼休みの「ありがとう」と同じ言葉なのに、全然違う重さで届いた。
「どういたしまして」
「でも、一個だけ言わせて」
「なに」
「俺に何かが来てたとして、それはミクのせいじゃない。ミクが悪意を持ってたわけじゃないだろ。俺のことが好きで、視てたんだろ。俺は、それ、嬉しかったよ」
「……積み上がったものが来てたとしても?」
「来てたとしても。それは、ミクが悪いんじゃなくて、変な仕組みが悪い」
変な仕組み。彼らしい言い方だと思った。世界のあの仕組みを、変な仕組みと呼ぶ。難しく考えない。深刻にしない。でも、ちゃんと受け取っている。
「……ありがとう」
「で、俺は何すればいい」
即答だった。考える間も、困った顔も、なかった。
「……何もしないで」
「それ、一番きついやつじゃん」
彼はそう言って、それでも笑った。
「分かった。何もしない。その代わり、終わったら必ず教えて」
「……うん」
「約束な」
「うん」
「お互い様」
彼は笑った。私も笑えた。
*     *     *
その夜から、三日かけて、変化は来た。

一日目。
朝、廊下で歩くんと会った。
「おはよ、望月」
いつもと同じ言い方だった。
でも、私は少しだけ、立ち止まって確かめてしまった。

「ミク」じゃなくて「望月」――それは、保留が続いていた頃から変わらない呼び方。

変化じゃない。そう言い聞かせた。昨日、全部話した。あの会話も、ちゃんとあった。
放課後、亜矢に
「歩の様子どう思う」
と聞いた。
「普通だよ」
と亜矢は言った。
「今日も練習で張り切ってた。フェンスの件から、気持ちのびのびしてる感じ」
「……そっか」
「ミクは?」
「……普通」
普通、と言いながら、私は自分の手を見た。受け取ります、と言った手だった。何が来るか、まだ分からなかった。

二日目。
昼休み、歩くんが話しかけてきた。数学のノートを持って、私の席の横に立った。
「ここ、もう一回説明してくれない」
「……いいよ」
説明しながら、私は彼の顔を見ていた。昨日の私の話を聞いてくれた顔と、今日の顔が、同じかどうか。同じだった。目が合うと、少し照れたような表情をした。まだ、ちゃんとある。昨日のことが、ちゃんとある。
「ありがとう。さすが」
「……さすが?」
「頭いいな、って」
昨日まで、「さすが」の前には別の重さがあった。昨日の放課後、私の話を全部聞いた後の「ありがとう」とは、違う「さすが」だった。
今日の「さすが」は、少し軽かった。少しだけ。
それだけじゃなかった。
彼は席に戻りかけて、ふと振り返った。
「そういえば、望月って、なんで急にベランダに来たんだっけ」
昨日、私は「なんとなく」と答えた。その「なんとなく」を、彼は納得した顔で頷いていた。
今日の彼は、また同じ質問をしていた。
「……なんとなく、だよ」
「ああ、そっか」
彼はそれで納得して、友達のところへ戻っていった。
気のせいかもしれなかった。
気のせいじゃないかもしれなかった。

三日目。
朝、教室に入ったとき、歩くんは友達と話していた。私が通り過ぎると、顔を上げた。
「おはよ、望月」
二日前と同じ言い方だった。でも、その後が違った。二日前は、私の顔を一瞬見た。今日は、すぐに友達との会話に戻った。たったそれだけの差だった。でも、私には分かった。
昼休み、亜矢を捕まえた。
「歩くん、最近、何か言ってる?」
亜矢は少し考えてから、「特には」と言った。
「あ、でも昨日、望月ってどんな子だっけって聞いてきた。成績いいんだよな、って」
どんな子だっけ。
成績がいい子。
それだけになった。

亜矢の顔を見た。亜矢も、私の顔を見ていた。
何も言わなかった。言わなくても、分かった。
「……これが、代償?」
と亜矢は静かに言った。
「……うん」
亜矢は、少しのあいだ目を伏せた。それから、顔を上げた。
「ミク、大丈夫?」
「ちょっと、……大丈夫じゃない」
「だよね」
それだけだった。それだけで、十分だった。

告白したこと。
「ずっと前から」と言ったこと。
「ミク」と呼んだあの一瞬。
力のことを話したあの放課後。
終わったら必ず教えて、と言った約束も。
黙って最後まで聞いてくれたことも、「変な仕組みが悪い」と言ってくれたことも、「お互い様」と笑ったことも。
それが全部、彼の中から、静かに消えていた。

歩くんにとって私は今、成績のいいクラスメートに戻っている。
あの昇降口の前の時間は、私の中にしかない。

授業中、私はノートに何も書けないまま、窓の外を見た。
代償が来たんだ、と思った。
ゆず姉の骨折より静かで、堀田さんの倒産より見えにくくて、でも私にとっては、どちらよりも、深いところに届いた。
痛い、と思った。
痛いけれど、覚悟していた。
受け取ります、と言った。本当に、来た。来たということは、届いた、ということだ。二年分の積み上がりを、世界は静かに清算した。彼が傷つく形ではなく、ただ、二人の間にあったものが、彼の側だけ消える形で。
残酷だと思った。でも、これが私の払い方だと、受け入れた。

放課後、亜矢と二人でいるとき、亜矢が静かに言った。
「来たね」
「……うん」
「歩、今日、あんたのことを『頭いい子』って言い方してた。それ以上でも、それ以下でもない言い方で」
「……そっか」
「つらい?」
少しのあいだ、考えた。
「……つらい。でも」
「でも?」
「彼は、生きてる」
亜矢は何も言わなかった。
「生きてて、今日もグラウンド走ってて、ぎりぎりがなくなった。それが、私の払い方の答えだから」
「……うん」
「あとね」
「うん」
「『ミク』って、呼ばれた。一回だけど。それは、私の中にちゃんとある」
亜矢の目が、少し赤くなった。
「……あたしは、ずっとミクって呼ぶから」
「知ってる」
「絶対、ずっと」
「うん、……ありがとう」
二人で、しばらく黙っていた。グラウンドから、ホイッスルの音がした。サッカー部の練習が始まっていた。フェンスは、もう直っていた。彼が走っている。
代償は来た。でも、世界は今日も動いていた。