神社に行ったのは、亜矢の提案から三日後だった。
地元で一番古い神社。私が毎年、初詣に来る場所。正月に亜矢と歩くんと三人で来て、初めて本物の願いをした場所。でも、拝殿の奥に社務所があって、そこに普段どんな人がいるのか、今まで気にしたことがなかった。
「どうやって聞くの」
神社へ向かう道で、亜矢が言った。
「……郷土研究をしている、とか」
「あんた、そういうの苦手でしょ。あたしが聞く」
「何て言うの」
「なんとかなる」
亜矢は、いつもそうだ。段取りより先に、動く。視えていた頃の私とは、正反対だった。視えていた私は、先に全部分かってから動いた。今の私は、動いた後に何が起きるか分からない。亜矢は最初から、分からないまま動いてきた。どちらが正しいとか、そういう話じゃない。ただ、亜矢の歩き方の方が、今の私には、少し眩しかった。

社務所で、亜矢が話しかけた。
「あのう、すみません。ちょっと変な質問なんですけど、昔この地域に、何かを予言したとか、明日のことが分かったとか、そういう言い伝えのある人って、いましたか」
応対に出たのは、五十代くらいの、がっしりした体格の男性だった。宮司さんだった。
亜矢の質問を聞いて、眉を少し上げてから、「あなたたち、何年生?」と聞いた。高校二年です、と亜矢が答えた。
「郷土研究?」
「……はい」と私は言った。嘘ではない。
宮司さんは亜矢の質問を聞いて、少し困った顔をした。
「うーん、そういう話、昔、何となく聞いた気はするんですけどね。詳しいことは、ちょっと私には分からなくて。父が宮司だった頃の話なんで」
「記録とか、残っていませんか」
「それも、正直……私の代ではよく把握できていなくて」
「お父様は、今は」
「隠居してるんですよ、近くに。もう九十近いんで、あまり負担もかけられないんですが」
そこで、社務所の奥から声がした。
「誰か来とるのか」
しわがれた、でも、はっきりした声だった。宮司さんが
「あー、お父さん、来てたのか。この子たちが郷土史の研究で話を聞きたいらしいんだけどね……」
廊下の奥から、白髪を短く刈った、着物姿の穏やかな顔をした老人が現れた。
老人は私たちを見て、それから宮司さんを見た。
「何の話だって?」
「いや、昔の言い伝えについて聞きたいって言うんだけど」
「聞かせてもらえませんか」
と亜矢が言った。
老人は、少しのあいだ私たちを見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「どうぞ。こっちに来なさい」
と縁側に案内された。

老人は座布団を勧めて、自分も座った。宮司さんは「無理させないでくださいよ」と言い置いて、社務所に戻っていった。
老人は最初、何も言わなかった。境内の方を見ていた。私と亜矢も、なんとなく、同じ方向を見た。冬の境内に、人はほとんどいなかった。枯れた木の枝が、風に揺れていた。
「昔の話を聞きに来た、と息子は言ったが」
老人が、ゆっくりと言った。
「はい。昔この地域に、明日のことが視えた人がいたと聞きました。その人が、力を手放した経緯を知りたくて」
「……手放した経緯を知って、どうするんだね」
「逆のことが、できるかどうか、知りたいんです」
老人は、私の顔を見た。値踏みするような目ではなかった。ただ、静かに、確かめるような目だった。
「逆、というのは」
「一度、手放したものを、取り戻せるかどうか」
間があった。
老人は、また境内の方を見た。
すずめが数羽、境内で何かをついばんでいる。

「わしが子どもの頃の話だ」
老人は言った。
「この地域に、節子さんという人がいた。翌日のことを言い当てると、村で評判だった。農作物のこと、天気のこと、誰かの体の具合のこと。頼られていたよ、みんなに」
「その人が、力を手放したんですか」
「ある秋から、ぴたりと何も言わなくなった。どうしたのかと聞くと、見えなくなった、と言うばかりで。その後は、普通の人として、静かに生きた。長生きされたよ」
「……その人は、手放す前に、ここでお百度を踏んだと聞いたんですが」
老人は少し驚いた顔をした。
「どこで調べた」
「神社の昔の記録の縮刷版で。お父様の代の記録に、その方が参拝された記録と、最後に『返しました』という書き添えがあって」
老人は、小さく息を吐いた。
「そうか。あの記録が残っておったか」
老人はしばらく黙った。
「節子さんがお百度を踏んだのは、本当だ。わしが見ていたから分かる。子ども心に、なんであんなに毎晩来るんだろうと思って、こっそり見ていたことがある。雨の日も、来ていた」
「何を願っていたか、分かりますか」
「いいかね、お嬢さん。お百度を踏んでいる最中は、雑念を払うために言葉を発しないものなんだよ。声は、かけられなかった」
「……でも、後になって、わしの父から聞いた。節子さんは、自分の力で誰かを助けるたびに、別の誰かが割を食う、と言っていたそうだ。だから、もうやめたい、と」
「返したかったんですね、力を」
「そうだ。返したかった。そして、返せた」
老人は、膝の上で手を組んだ。
「節子さんが最後にここに来た日のことを、父がよく話していた。参拝を終えて、帰り際に、『返しました』とだけ言って帰ったそうだ。その後、本当に何も言わなくなった。力が消えたのか、使わないようにしたのか、外からは分からん。でも、穏やかだったと、父は言っていた」

しばらく、縁側が静かだった。
「……逆は、できると思いますか」
「逆、かね?」
老人は、少し考えた。
「……あんた、さっき『返しました』という書き添えを見たと言ったな」
「はい」
「節子さんは、捨てました、とは言わんかった。失くしました、とも言わんかった。返しました、と言うたんだ」
老人は、境内の方を見たままだった。
「返す、というのは、相手がおるということだ。誰かに預けたということだ。……捨てたものは、もう戻らん。預けたものなら、話は別かもしれん」
「……借りられる、ということですか」
「わしの推測も混じるが。返せたなら、借りられるかもしれん。ただ」
老人は、私の方を見た。
「借りるのは、返すより、難しいかもしれんよ。返すときは、もう使いたくない、という気持ちがはっきりしている。借りるときは、使いたい理由が、本当に確かなものでなければ」
「……確かなものでなければ、どうなりますか」
「借りられないだけだ。罰があるわけじゃない。ただ、届かない」
老人は、また境内を見た。
「節子さんが返した方法を、そのまま逆にやってみなさい。それしか、わしには言えん。うまくいくかどうかは、あなた達次第だ」
縁側を辞して、境内を出た。参道を二人で歩きながら、亜矢が静かに言った。
「やってみる価値、ありそうだね」
「……うん」
「借りる理由が、本当に確かなものかどうか、か」
「確かだよ」
と私は言った。迷わなかった。
「歩くんが死ぬかもしれないから、助けたい。それだけ」
亜矢は、少しのあいだ黙った。
「……うん。確かだね」
*     *     *
その夜から、お百度を始めた。
願いの言葉は、決めていた。「一度だけ、借ります。借りた後は、返します」。それだけを、一歩ごとに繰り返した。
一日目は二十往復。二日目は三十往復。三日目、二十五往復。足が棒のようになった。でも、やめる理由がなかった。やめたら、他に何もなかった。
四日目、五日目、何も起きなかった。

往復を重ねるうちに、不安が育ってきた。そもそも、この方法で合っているのか。節子さんが返せたのは、別の理由があったのかもしれない。でも、馬鹿げていると分かっていても、やめられなかった。
六日目、夕方から雪が降った。
私は転ばないように石段を踏みしめながら登り降りしなければならなかった。
亜矢が付き合いに来た。石段の下で、私が往復するたびに指を折った。四十往復を終えた頃、亜矢が「足、大丈夫?」と聞いた。「大丈夫」と答えたら、「嘘つき」と言われた。嘘だったので、何も返せなかった。
七日目の夜、突然、足が攣った。石段に座って息を整えながら、私は初めて、本当に届かないかもしれない、と思った。老人は「借りる理由が確かなら届く」と言った。私の理由は確かだ。でも、確かさは、私が決めることじゃないのかもしれない。
八日目。九日目。何も起きなかった。

九日目の帰り道、亜矢が歩きながら言った。
「ミク、ひとつだけ聞いていい」
「なに」
「視えるようになったとして、歩を助けて、また積み上がったとして。そしたらミクはどうするの」
「……受け取る」
「受け取るって、なにを」
「積み上がったものを、受け取る。歩くんじゃなくて、私が」
亜矢は、少しのあいだ黙った。
「……それって、ミクが代わりに何かを引き受けるってこと?」
「そうなるかもしれない。でも、それは私が決めることだから」
亜矢は何も言わなかった。言わないまま、並んで歩いた。私も何も言わなかった。

十日目の夜。
百往復を終えた。亜矢が「百」と静かに言った。私は拝殿の前に立って、手を合わせた。
「借ります」
と、小さく声に出して言った。
「必ず、返します」
風が、境内を通っていった。

亜矢と別れて、家に帰った。夕飯を食べる気になれなくて、母に「疲れた」とだけ言って、部屋に上がった。
歯を磨いて、電気を消して、布団に入った。
ひどい頭痛がした。お百度で身体が冷えて、風邪を引いたかなと思った。
目を閉じた。
来るはずがない、と思いながら、でも、待った。三ヶ月前まで毎晩やっていたことを、もう一度。真っ暗な水の中に、手を伸ばすように。
しばらく、何も来なかった。
あきらめかけたとき、頭痛がすっと引いていくのを感じた。
来た。
像が、結んだ。
*     *     *
教室のベランダ。
フェンスの向こうに、グラウンドが見える。冬の、昼間の光。
そこに、歩くんがいた。
昼休みのベランダで、クラスメートと並んで話している。笑いながら、何かを言っていた。その背中が、自然な動作でフェンスに預けられた。体重が、ゆっくりとフェンスにかかっていく。
外からは、何も分からなかった。フェンスは、どこも普通に見えた。でも、歩くんがもたれている一区画だけが、違った。内側から、静かに、限界に来ていた。体重を預けて、もう少し――そこで、接合部が、破断する。
その一区画だけが、外れる。
フェンスが、歩くんごと、外に向かって落ちていく。
隣に立っていたクラスメートは、無事だった。
明日――。

目を開けた。天井の暗さが、瞼の裏の暗さと、同じだった。
外から見ても、分からない。だから、誰も止められない。
全身から、汗が引いていくのが分かった。明日の昼休みまでに、そこにいなければいけない。ただ、そこにいる。
それだけが、今の私にできることだった。

戻ってきた。一度だけ、借りられた。

スマホを取った。亜矢に短く送った。
「視えた。明日、話す」
既読がついて、すぐ返ってきた。
「分かった。明日、教えて」
布団の中で、スマホを胸の上に置いた。

視えた。

明日のことが、視えた。
明日を、私は知っている。知っているから、行ける。行けるから、止められる。止めた後に何が来るかは、分からない。でも、止めた後のことは、止めてから考える。
そう決めた夜が、今までで一番、短かった。
*     *     *
翌朝、目が覚めた瞬間から、私は視えていた。
いつもと同じ感覚だった。違うのは、三ヶ月ぶりだということと、今日が最後だということだった。視えた明日の中に、いくつかの断片が流れた。天気、母の朝食、教室のざわめき。そして、昼休みのベランダ。フェンスの一区画。歩くんの背中。
全部、知っている。知っているから、動ける。
学校に行く前に、亜矢にメッセージを送った。
「今日の昼休み、ベランダのフェンスが落ちる。歩くんが巻き込まれる。一緒にいてほしい」
亜矢からすぐ返ってきた。
「分かった。ずっといる」。
ずっといる。その五文字だけで、十分だった。

登校して、亜矢と目が合った瞬間、亜矢が小さく頷いた。今日一日、二人で動く、という合図だった。いつもの亜矢の顔だった。段取りより先に動く人間の、迷いのない顔だった。
一時間目が始まった。
授業の内容は、頭に入らなかった。視えているのに、今日ほど時間が長く感じた日はなかった。先生の声が、遠かった。黒板の文字が、滲んで見えた。昼休みまで、あと四時間。あと三時間。あと二時間。数えるたびに、時計の針が遅くなる気がした。
視えていた頃の私は、こういう日を、以前も過ごしたことがある。何かが起きる日の前日、知っているまま一日を過ごす感覚。でも、あの頃と今は、決定的に違った。あの頃は、視えているから安全だった。何が起きるかを知っていることが、盾だった。今日の私には、盾がない。視えている明日を、変えようとしている。変えた先に何があるか、視えていない。
それが、怖くなかったといえば、嘘だ。
休み時間のたびに、二人でベランダを確認した。
二時間目の後の十分間。廊下から、さりげなくベランダを覗いた。誰もいなかった。フェンスは、普通に見えた。どこにも異常は見えなかった。見えないからこそ、怖かった。内側から限界に来ているものは、外からは分からない。それは、私がよく知っていることだった。
三時間目の後。また確認した。今度は、知らない子が一人、ベランダに出ていた。
指先が、冷たくなった。
その子はフェンスの前で立ち止まって、グラウンドをしばらく眺めた。フェンスに近づいた。手をかけた。
亜矢の手が、私の腕をぎゅっと掴んだ。
でも、その子は体重をかけず、そのまま離れた。教室に戻っていった。
「……よかった」と亜矢が、小さく言った。
「……うん」
四時間目の授業中、私は一度だけ、窓からベランダを見た。誰もいなかった。でも、フェンスを見るたびに、視えた映像が重なった。接合部が破断する音。落ちていくフェンス。歩くんの体が外に向かって引っ張られていく、あの一瞬。
隣の席の子が「望月、大丈夫?」と聞いてきた。「うん」と返した。大丈夫じゃなかった。でも、大丈夫じゃないことを説明する言葉が、なかった。

四時間目が終わって、昼休みのチャイムが鳴った。
教室が一気に動き出した。弁当を出す子、購買に走る子、廊下に出る子。その流れの中で、私は亜矢を探した。亜矢はすでに私の隣にいた。
「行こう」と亜矢が言った。
ベランダに向かった。引き戸を開けようとしたとき、中からすでに声がした。
歩くんの声だった。
引き戸を開けた。歩くんが、クラスメートと二人でベランダに出ていた。グラウンドを見ながら、何か話していた。笑い声がした。
そして、歩くんの背中が、自然な動作でフェンスに預けられた。
体重が、フェンスにかかった。
「歩くんっ」
声より先に、体が動いていた。
引き戸から飛び出して、歩くんの腕を両手で掴んだ。後ろに引いた。体重をかけて、全力で。
歩くんの体がベランダ側に戻る。
一瞬遅れて、フェンスの一区画が、低い音を立てた。接合部が破断する音だった。その一区画だけが、外側に向かって外れた。

落ちていった。
しばらく、何も聞こえなかった。

ガシャーンというけたたましい音とともに、階下から悲鳴が上がった。
複数の声が、重なった。
誰も動けなかった。
歩くんも、クラスメートも、亜矢も、私も、ベランダの縁で固まったまま、しばらく、何も言えなかった。

先に動いたのは、亜矢だった。
「先生呼んでくる」
走っていった。
教室の中から、異変に気づいた生徒たちが集まってきた。外から見ていた誰かが「フェンスが落ちた」と叫んだ。廊下が騒がしくなった。しばらくして、外から声が上がった。「誰もいない、大丈夫」という声だった。フェンスが落ちた場所は、ちょうど誰も通っていなかった。

全身から、力が抜けた。
ありがとう、と思った。

誰に言うのか、神様なのか、節子さんなのか、老人の父が書き残した参拝記録なのか、あの参道なのか、分からなかった。でも、ありがとう、と思った。
歩くんが今日、生きている。
大好きな人が、死ななかった。
それだけのことが、今日の私には、世界の全部だった。
担任が飛び込んできた。他の教師も来た。生徒たちはベランダから離れるよう指示された。歩くんが「望月が引っ張ってくれた」と言った。それだけで、教師たちは私に何も聞かなかった。とっさに気づいて引っ張った、と解釈したらしかった。

その後は、あっという間だった。
校内放送で全校生徒がホームルームに集められ、午後の授業は中止になった。
ベランダは使用禁止になり、業者が呼ばれて、全ベランダのフェンスの緊急点検が始まった。保護者への連絡が入った。地域のニュースサイトに速報が流れた。翌日には地方紙に載り、テレビのローカルニュースでも取り上げられた。「生徒が機転を利かせ、同級生を救う」という見出しで。

ほとんどの生徒が帰された後、廊下で歩くんが私を呼び止めた。
「望月」
「……うん」
「さっき、なんで分かったの」
少し間があった。
「……なんとなく」
「なんとなく」
彼は、その言葉をしばらく転がしていた。
「……そっか」
それだけだった。それ以上は聞かなかった。聞かなかったことが、この人らしかった。
「ありがとう」
いつもの言葉だった。でも、今日の「ありがとう」は、重さが違った。
「……どういたしまして」
彼は、少し笑った。私も、少しだけ笑えた。

亜矢と、学校の裏の自動販売機の前に座った。缶コーヒーを買って、亜矢はブラック、私はミルクティーを持った。
「うまくいったね」
亜矢が言った。
「……うん」
「でも、そんな顔してる」
「そんな顔って」
「終わった顔じゃなくて、始まった顔」
亜矢の言葉が、正確すぎて、少し怖かった。
「……力が、まだ戻ってるから」
「また視えるのかな」
「わからない。今夜、布団に入って目を閉じたとき、来なければ、返せた、ということだと思う」
「来なければ、返せた、ってこと?」
「……返す方法を、まだ決めていない。でも」
「でも?」
「今日の分を、受け取ります、って言いたい。積み上がった分を、歩くんじゃなくて、私が引き受けたくて」
亜矢は、缶コーヒーを両手で持って、少しのあいだ黙った。
「……やめてよ」
声が、少し、揺れていた。
「亜矢」
「やめてよ。ミクに何かが来るかもしれないなんて。歩がケガするより、ミクに何かが来る方が、あたしにとっては、ずっとつらいから」
「……でも」
「でも、じゃなくて」
亜矢は、膝の上で手を握った。
「今日ちゃんと助けられた。それで十分じゃないの」
「十分じゃない」
私は、自分でも驚くくらいはっきり、言った。
「今日のフェンスで、また積み上がってる。積み上がったものが歩くんに向かったら、次はもっと際どくなる。今夜やらなければ、積み上がったままだ。それが怖い」
「……分かった」
亜矢は、大きく息を吐いた。
「一緒に行く」
「え」
「お百度。あたしも一緒に踏む」
*     *     *
その夜。
二人で、参道を歩いた。願いの言葉は、来る途中で決まった。「今日の分を、受け取ります。返します。次はありません」。三つ。それだけを、一歩ごとに繰り返した。亜矢は隣で、黙って歩いていた。何を願っているのか、聞かなかった。亜矢の願いは、亜矢のものだから。
百往復を終えたとき、亜矢が「百」と言った。
私は拝殿の前に立った。手を合わせた。声に出した。
「今日の分を、受け取ります。返します。次はありません」
それから、もう一言だけ、付け足した。
「……ありがとうございました」
風は、吹かなかった。境内は、静かだった。

何も変わっていないように見えた。でも、私の中では、何かが静かに終わった気がした。
亜矢と別れて、家に帰った。夕飯を食べる気になれなくて、母に「疲れた」とだけ言って、部屋に上がった。
歯を磨いて、スキンケアして、電気を消して、布団に入った。
目を閉じた。
明日を、待った。

来なかった。

天井の暗さと、瞼の裏の暗さが、同じだった。三ヶ月前のあの夜とも、違った。あの夜は、奪われた暗さだった。今夜は、返した暗さだった。
ただ、真っ暗だった。
そしてその暗さは、初めて、穏やかだった。
スマホを取った。亜矢からメッセージが来ていた。
「お疲れ。よかったね」
それだけだった。それだけで、十分だった。

今夜の私には、明日が来ない。
でも、歩くんは今日、生きている。
大好きな人が、死ななかった。
それだけが、今夜の私の、全部だった。