三学期が始まって最初の週、歩くんが階段から落ちた。
落ちた、というより、踏み外した、という方が正確だった。二階から一階へ下りる途中、最後の三段で足が滑って、手すりを掴んで何とか止まった。捻挫したかもしれない、と言いながら、彼は保健室に行って、テーピングを巻いて、昼休みには普通に歩いていた。
「またか」と亜矢が私の隣で言った。
またか。その言葉の軽さが、逆に重かった。亜矢にとっても、もう、「また」になってしまっている。

十二月から続けていた調べ物に、決着がついた。
最初はスマホだった。「予知能力・突然消えた」「明日が視える力を失う」。当然、それらしいものは何も出てこない。体験談を名乗るブログはいくつか出てくるけれど、読んでいくと、どれも私の感じていることとは違う。
私が探しているのは、視えなくなった後の話だ。視えなくなって、どうなったか。止めようとしたか。止めた方法があったか。そういうことを書いた記録が、どこかにあるはずだと、根拠のない確信があった。

二日目、学校の図書室に行った。
司書の先生に相談した。「地域の昔の人のことを調べたい、言い伝えとか、変わった能力を持っていたとされる人の記録とか」と、できるだけ普通の言い方で聞いた。先生は少し考えてから、郷土史の棚と、地方紙の縮刷版の場所を教えてくれた。
郷土史から始めた。地域の民俗誌、古い町内会の記録。ページをめくりながら、自分が何を探しているのか、だんだん分からなくなってきた。これは意味があるのか。図書室に来て、古い本をめくって、何かが見つかると、本当に思っているのか。でも、やめる理由もなかった。探さなければ、何も変わらない。
昼休みを全部使って、放課後も残った。見つからなかった。

三日目、地方紙の縮刷版を開いた。昭和の初期から順に、ページをめくっていった。地域の行事、政治の話、事件の記録。目が滑りそうになるのを、意識してゆっくり読んだ。途中で何度か、読んでいるのに内容が頭に入っていない、ということに気づいて、また最初から読み直した。
見つけたのは、昼を過ぎた頃だった。
昭和三十年代の地方紙に、小さな記事があった。「予言の女」という見出し。内容を読むと、この地域に住んでいた女性が、翌日の出来事を言い当て続けたとある。農作物の天気、家族の病気、近所の事故の予告。村人たちは最初、神懸かりだと恐れた。やがて頼るようになった。
女性はある年の秋を境に、ぴたりと何も言わなくなった。問い詰められると、「もう何も見えなくなった」と繰り返すだけだったという。村人たちは失望し、やがて忘れた。女性はその後、ごく平凡に、でも静かに、長生きしたと書いてあった。
記事の最後に、一行だけ、女性の言葉が引用されていた。
「見えなくなって、初めて、生きている気がした」
スマホで写真を撮った。手が、少し震えた。

同じ棚に戻って、続きを探した。女性についての続報は、出てこなかった。別の棚で、地域の古老へのインタビュー集を見つけた。読んでいくと、三冊目に、また似た話が出てきた。明治の終わりから大正にかけて、この町の外れに住んでいた老人。近所の人たちの翌日を言い当てることで知られていた。
老人はある日、突然、言い当てることをやめた。理由を聞かれると、「使ってはいけないと分かった」と言い、それ以上は語らなかったという。
「使ってはいけないと分かった」。
女性の「見えなくなった」は、受動的な喪失だ。老人の「使ってはいけないと分かった」は、能動的な選択に聞こえる。でも、どちらも、その後は「静かに」生きた。

私はノートに、二人の言葉を書き写した。書き写しながら、思った。
この二人は、誰かを守ろうとしたのだろうか。力を失ったあと、あるいは使うのをやめたあと、それでも守りたい人が、いたのだろうか。いたとして、どうしたのだろう。記録には、それ以上のことが書かれていなかった。「静かに長生きした」という一文が、全部を飲み込んでいた。
静かに。
それが正解なのかもしれない。でも、私にはできない。理由は、一つだけだ。
亜矢に連絡を入れた。
「会える? 少し、話したいことがある」
「明日、部活終わりに待ってる」
*     *     *
翌日の放課後、部活が終わった亜矢と、グラウンドのベンチに座った。冬の夕方で、息が白かった。亜矢はベンチに足を乗せて、私の顔を見た。
「話って」
「……視えてた話、したいんだけど」
亜矢の目が、少しだけ、大きくなった。
「視えてた、って」
「明日が、視えてたの。ずっと」
今度は、亜矢が黙った。
「……話して」

どこから話すか、ベンチに座るまでの間、ずっと考えていた。答えは、最初から決まっていた。五歳の冬から話す。あの赤い手袋から。
ボタンが犬の顔の形をした手袋のこと。なくすと分かっていたのに、バイバイと言って眠ったこと。次の朝、本当になくなったこと。知ってたよ、と母に言ったら、どうして分かったの、と聞かれたこと。答えられなくて、黙ったこと。母が怖い顔をして、それから私は、視たことを口にするのをやめたこと。

話しながら、亜矢の顔を見ることができなかった。俯いて、自分の手を見ながら、話し続けた。
中学に上がってから、力が広がっていったこと。天気、ニュース、クラスの人たちの明日。全部が、寝る前に届くようになっていったこと。それを使って、答えを写して生きてきたこと。悪いと思わなかったこと。ただ、少し楽をしているだけだと思っていたこと。
ゆず姉の受験の朝のこと。前の晩に、電車が止まる未来を視たこと。どうしても黙っていられなくて、早めに出た方がいい、と伝えたこと。ゆず姉が合格したこと。あの日が、十二年間で、いちばん力を持っていてよかったと思えた日だったこと。
夏祭りの夜のこと。公衆電話から、消防に電話したこと。祭りの間、ずっと屋台の裏を見ていたこと。亜矢が隣で花火を見ていたこと。
それから、歩くんの明日だけが、探さないと視えなかったこと。二年間、毎晩、真っ暗な水の中に手を伸ばし続けてきたこと。
話し終えたとき、どのくらい時間が経っていたか、分からなかった。ベンチの周りは、完全に暗くなっていた。街灯が、私たちの足元を照らしていた。
「……亜矢」
「んー」
「信じてくれる?」
間があった。
「……冗談じゃないよね」
私は黙って、亜矢の目を見つめた。

「信じるよ」
あっさりだった。迷いがなかった。
「なんで」
「だって、ミクちゃんって言ったの、あたしじゃん。一年生の入学式の日、あたしが呼んで、広めた。ずっとそのことを、あんたは何も言わなかった。訂正もしなかった。本当の名前で呼ばれるのを、こっちが気まずいとか、そういうことじゃないなって、なんとなく思ってた。何かあるんだろうな、って」
「……ずっと思ってたの」
「ずっとじゃないけど。高校入ってから、特に。あんたが全然、驚かないじゃん。何があっても。テストも、授業も、クラスで誰かが揉めても。みんながバタバタしてるのに、あんただけ、最初から知ってました、みたいな顔してた。……あと」
亜矢は少しだけ、笑った。
「あんたが嘘つくとき、どんな顔するか、あたし知ってるから。今の顔は、本当の顔だよ」
本当の顔。十二年間、誰にも見せなかったものを、幼なじみは、ずっと待っていた。
「……ごめん。言えなくて」
「いいよ、別に。あたしが怖い顔する人間だったら言えなかったでしょ、五歳のあんたが最初に教えたのって」
お母さんでしょ、と亜矢は続けた。
「お母さんが怖い顔したから、言うのやめたんでしょ。あたしはそういう顔、しないから」
そういう顔、しない。その言葉が、どこかにすっと入った。亜矢が怖い顔をした記憶は、十三年間、一度もない。叱るときも、本気で怒るときも、亜矢の顔は、いつも正面を向いていた。向き合う顔だった。

「……ミクは、どうしたいの」
正面から聞かれて、少し、間があった。
「力を、取り戻したいと思ってる」
亜矢は、すぐには答えなかった。ベンチの上で、少し考える顔をした。
「……取り戻して、どうするの」
「歩くんを、助けたい」
「助けたら、また積み上がるんじゃないの」
「一度だけ、使う。それで終わりにする」
また、間があった。亜矢が、私の顔をまっすぐ見た。
「ミクさ、今の方が、ずっとミクらしいよ」
「……分かってる」
「視えてた頃のあんた、正直、ちょっと怖かったもん。全部知ってます、みたいな顔が。今の方が、ちゃんと人間の顔してる」
「……分かってる」
「それでも、取り戻したいの?」
「取り戻したいんじゃなくて」
私は、言葉を選んだ。
「一度だけ、借りたい。歩くんのために。それで返す」
亜矢は、しばらく私の顔を見ていた。それから、大きく息を吐いた。
「……どうすんの、方法」
「方法を、探してる。さっき話した、昔の女の人と老人みたいに、視えなくなった人が、もし誰かを守るために視えることを取り戻そうとしたなら、どうしたか。その記録が、どこかにあるかもしれない。図書室じゃ、見つからなかった。もっと古い記録か、もっと詳しく書かれたものか」
「神社とか、寺とかに、残ってたりしない? ご祈祷の記録とか、願掛けの記録とか」
その発想は、なかった。
「……行ってみる」
「あたしも、探す」
「なんで」
「なんでって。あんたの幼なじみだから」
それだけだった。それだけで、十分だった。理由を聞いたことが、少し、恥ずかしくなった。この人は、ずっとそういう人だった。
暗くなった校門の前で、私たちは、どうやって方法を探すかを話し合い始めた。息が、二人分、白くなった。亜矢が「神社の宮司さんに聞いてみようよ、案外知ってるかもよ」と言って、私は「そんな直接的に聞くの」と返して、亜矢が「あんた、他人に頼むの下手だよね昔から」と笑った。
下手だった。下手だったから、一人で抱えてきた。でも今日、初めて、誰かに渡すことができた。
渡してみたら、半分になるどころか、不思議と、こちらの重さも、少し軽くなった。