告白の翌朝、私は早く目が覚めた。
外はまだ暗かった。布団の中で、昨日のことを順番に思い出した。亜矢からのメッセージ。六時間目のチャイム。校舎裏の、冬の夕方。横に並んで、同じ方向を向いたまま、彼の声。
好きなんだけど。
その言葉が、暗い部屋の中で、もう一度、音になった。
好きだと思う。そう返した私の声も、覚えている。「思う」と言ったのは、確信がなかったからじゃない。確信しすぎていて、怖かったからだ。あんなにはっきり、誰かのことを、好きだと思ったことが、今まであっただろうか。
でも、その確信と同じ重さで、もうひとつの問いが、昨夜からずっと、私の中に居座っていた。
眠れないまま、布団の中でぐるぐると考えた。考えようとするたびに、思考が同じところに戻ってくる。ぐるぐると。同じ場所を、何度も。
私が彼を視たことが、彼を傷つけているのか。
まだ、確信ではない。でも、否定もできない。ゆず姉と堀田さんで見えてきたあの法則が、本当だとしたら。あの法則は、こう言っている。助けた深さの分だけ、後から何かが来る。
ゆず姉は、一回。大きく助かって、一回、大きく折れた。
堀田さんは、あの場にいた何十人かの中の一人として。命と体を救われて、店を失った。
では、私が高校に入ってからの二年間、ほぼ毎晩、視続けた彼は。
探さないと来なかった、彼の明日。真っ暗な水の中で、手を伸ばして、伸ばして、やっと届いた、あの感触。それが嬉しくて、毎晩繰り返した。何百回。いや、二年間の毎晩なら、五百回を超えているかもしれない。視て、知って、それで終わりにしていた日も、もちろんある。ただ視ただけで、何もしなかった日のほうが、きっと多い。
でも、何もしなかった、は、本当か。
私は、ゆっくりと、記憶を掘り返し始めた。
一年生の秋。彼が部活の帰りに財布を落としそうだった朝、私はそれを視ていた。何もしなかったと思っていた。でも――その日の朝、なんとなく傘立ての横に立っていたのは、私だ。彼が昇降口を出るとき、傘立てに鞄がぶつかって、財布が床に落ちた。それを、そこにいた私が、拾って渡した。視ていなければ、そこに立っていなかった。
彼は「ありがとう」と言って、財布をしまった。
そのまま友達のところへ戻っていった。私のことを一秒も気にしていなかった。
それで、よかった。
守れたから、よかった。そう思っていた。あの頃は。
二年生の春。班のメンバー決めで、彼が苦手な人と同じ班になりそうだった。
私はそれを視ていた。
当日、何気なく席替えの提案を誰かにして、結果として、彼の班が変わった。
班が変わった翌週、彼は新しい班で、声をあげて笑っていた。
廊下を歩きながら、笑っていた。
視えていた頃の私は、その笑顔を、前の晩に一度視ていた。でも、廊下で実際に見たとき、なぜかもう一度、胸の奥で何かが動いた。
知っていたはずなのに、知らないみたいに。
あの感覚は何だったのか、今になって、分かる気がする。
私は、彼が笑う場所を、作っていた。
それだけじゃない。彼が忘れ物をしそうな日、ノートを貸せる準備をしていた。
彼が昼休みに外に出て雨に降られそうな日、さりげなく「今日、午後から崩れるらしいよ」と誰かに言った。
彼に直接言ったわけじゃない。でも、結果として、彼は守られた。
その守られた日々を、彼は知らない。
自分がいくつの「ぎりぎり」を通り過ぎてきたか、彼は知らない。
誰かが毎晩、自分の明日を視ていたことも、知らない。
視るたびに何かが積み上がっていたことも、知らない。
知らないまま、笑っていた。
知らないまま、笑わせてもらっていた。
小さなことばかりだ。ひとつひとつは、本当に、たいしたことじゃない。でも、それが二年間、積み重なっていたとしたら。
ゆず姉の一回が、複雑骨折だった。
私の何百回は、彼にとって、何になっているんだろう。
布団の中で、私は自分の手を見た。暗い部屋の中で、手のひらの線が見えないくらい暗かった。この手で、毎晩、真っ暗な水の中に手を伸ばした。届いた、と安堵するたびに、何かが積み上がっていたとしたら。安堵するたびに、彼の上に、何かを乗せていたとしたら。
好きだから、視た。
視たから、知った。
知ったから、動いた。
動いたから、何かが、変わった。
そしてその変わった分が、今、形を変えて、彼のところへ帰っている。
学校に行く気になれなかった。でも行かなければ、彼に会えない。会えなければ、確かめられない。確かめるって、何を。昨日の告白の続きを。いや、それより先に、確かめなければいけないことがある。
* * *
冬休みまで、あと二日だった。
教室に入ると、彼はいつもの席にいた。私が入ってきたのに気づいて、少し、耳の先が赤くなった。昨日の今日で、どういう顔をすればいいのか、お互いにまだ分からない、というのが、空気で伝わった。私は自分の席に座って、鞄から教科書を出した。どうもない顔をするのは得意だったはずなのに、今日は、うまくできているか分からなかった。
昼休み、亜矢が「どうすんの、保留の件」と聞いてきた。
「もう少し、待って」
「本人に言ってあげてよ」
「……分かってる」
「ミク」
亜矢は声を落とした。
「あんた、また変な顔してる。昨日のやつ、プラスの意味で考えられてないでしょ」
プラス。告白されて、好きだと伝えて、それがプラスのはずなのに、頭の中はずっとマイナスの計算をしている。亜矢に見抜かれていることが、少し、情けなかった。
「……少しだけ待って。冬休み明けには、ちゃんとする」
「ちゃんと、って何」
「色々、片付けてから」
亜矢は、私の顔を見て、それ以上は聞かなかった。大げさに息を吐いて、「わかった」とだけ言って、弁当箱を開けた。
* * *
放課後、図書室で調べ物をした。
調べようとしたのは、ひとつだけだった。世の中に、こういうことは、あるのか。誰かを助けたことが、後でその人を傷つけることに繋がる、そういう事例が、どこかに記録されているのか。
哲学の本を何冊か開いた。ジンクスや迷信の類を調べた。「善意の結果が悪をもたらす」という逆説について書かれた文章も読んだ。
読めば読むほど、私が感じていることを正確に言い表した言葉には、たどり着けなかった。書いてある内容はどれも、抽象的すぎた。
私が知りたいのは、概念じゃない。あの法則が本当かどうかだ。
本を閉じて、窓の外を見た。
図書室の窓から、グラウンドが見えた。サッカー部が練習している。グラウンドを、歩くんが走っていた。今日は脚を引きずっていない。いつもの、軽い走り方をしていた。ボールを受けて、ターンして、パスを出す。その一連が、きれいだった。
きれいだと思う、その気持ちが、本物だということは、分かっていた。
入学したときから、本物だった。探さないと視えなかった彼の明日を、それでも探し続けたのは、本物の気持ちからだった。悪意はなかった。下心もなかった。ただ、好きだったから、知りたかった。知ったら、守りたかった。
守ることが、彼を傷つけていたとしても、あの頃の私には、止める理由がなかった。
私が変えてきた明日の数だけ、あの人の運命を削ってきたのか、どうか。
そのことを、誰かに聞けたら、どんなによかっただろう。
でも、聞ける人間が、この世界にいない。亜矢には途中まで話した。でも、力のことを、全部は話していない。全部話せば、亜矢は信じてくれるかもしれない。でも、信じてもらったとして、何が変わるわけでもない。変えられるのは、私だけだ。
窓の外で、歩くんが笑った。
遠くて、声は聞こえなかった。でも、笑っているのは分かった。誰かと何か言い合いながら、肩を叩かれて、笑っていた。私がノートに書いてきた不運の記録とは、全然違う顔で、笑っていた。
あの人は、今日も、ここにいる。
そのことだけは、確かだった。本を閉じた。鞄に入れた。窓から目を離した。
図書室を出て、廊下を歩いていると、向こうから練習上がりの彼が来た。タオルを首に掛けて、コートを手に持って、友達と笑いながら歩いてきた。私に気づいて、友達に何か言って、こちらへ来た。
「望月、今日、残ってたの?」
「……ちょっと調べ物」
「そっか。帰り、同じ方向だったりする?」
同じ方向。彼の家の方向を、私は知っていた。視えていた頃に、何度か、彼の帰り道を視たことがあったから。私の家とは、逆方向だった。
「……違う方向、かな」
「あ、そっか。残念」
残念、という言葉が、屈託なく出てきた。昨日の今日で、この人は、もう、普通にそういうことを言える。私には、まだ、普通に返す言葉が見つからなかった。
「……あのさ」
「うん?」
言いかけて、止まった。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。謝りたかったのかもしれない。でも、何に対して謝るのか、言葉にできなかった。
「……何でもない。気をつけて帰ってね」
「ん。望月も」
彼は友達のところへ戻っていった。私は昇降口を出て、逆方向へ歩いた。
家に帰る道の途中で、私はノートのことを考えていた。
帰ったら、書かなければいけないことがある。「私が変えた明日」のページの、三件目を。ずっと書けずにいた名前を、今日こそ、書かなければいけない。書かないかぎり、私はあの法則と、ちゃんと向き合えない。
三件目は、ゆず姉でも、堀田さんでも、夏祭りの誰かでもない。
三件目は、森田歩だ。
名前だけじゃない。視た回数も。変えた明日の数も。それが分からない、ということ自体も、全部書かなければいけない。
家に入って、制服のまま、机に座った。ノートを開いた。三件目の欄に、シャーペンを置いた。
書き始めたとき、手が小さく震えていた。
三件目。森田歩。高校一年の春から高校二年の秋まで、二年間。毎晩、彼の明日を視てきた。何百回。彼の財布を拾った日、班を変えた日、傘のことを誰かに言った日。それ以外にも、気づいていない介入が、もっとあるかもしれない。今、彼は死にかけている。二学期から、ぎりぎりの外れ方が、だんだん際どくなっている。
書き終えて、読み返した。
黒い文字が、白い紙の上に並んでいた。ただの、事実の羅列だった。でも読み返すたびに、その事実が、別の形に見えてくる。二年間、私は彼を愛でるように視てきた。知ることが、守ることが、愛情の一形態だと思っていた。その愛情が、今、彼の膝を傷つけて、彼の体を、少しずつ削っているとしたら。
愛情と危害が、同じものだったとしたら。
ノートを閉じた。
机の上に両肘をついて、両手で顔を覆った。瞼の裏が、真っ暗だった。視えなくなってから、毎晩、この暗さを確かめて眠る。今夜のこの暗さは、いつもより、もっと、奥が深かった。
好きです、とほぼ言えた日の夜に、私はあの人のことを、こんなに怖いものとして書き記している。
怖いのは、彼じゃない。私が、彼に対してしてきたことだ。これから起こることかもしれないことだ。好きでいることで、何かが積み上がるなら、好きでいることをやめればいいのか。でも、やめられるわけがない。やめる方法を、私は知らない。
知らない。
知らないことが、今夜だけは、少しも自由じゃなかった。
外はまだ暗かった。布団の中で、昨日のことを順番に思い出した。亜矢からのメッセージ。六時間目のチャイム。校舎裏の、冬の夕方。横に並んで、同じ方向を向いたまま、彼の声。
好きなんだけど。
その言葉が、暗い部屋の中で、もう一度、音になった。
好きだと思う。そう返した私の声も、覚えている。「思う」と言ったのは、確信がなかったからじゃない。確信しすぎていて、怖かったからだ。あんなにはっきり、誰かのことを、好きだと思ったことが、今まであっただろうか。
でも、その確信と同じ重さで、もうひとつの問いが、昨夜からずっと、私の中に居座っていた。
眠れないまま、布団の中でぐるぐると考えた。考えようとするたびに、思考が同じところに戻ってくる。ぐるぐると。同じ場所を、何度も。
私が彼を視たことが、彼を傷つけているのか。
まだ、確信ではない。でも、否定もできない。ゆず姉と堀田さんで見えてきたあの法則が、本当だとしたら。あの法則は、こう言っている。助けた深さの分だけ、後から何かが来る。
ゆず姉は、一回。大きく助かって、一回、大きく折れた。
堀田さんは、あの場にいた何十人かの中の一人として。命と体を救われて、店を失った。
では、私が高校に入ってからの二年間、ほぼ毎晩、視続けた彼は。
探さないと来なかった、彼の明日。真っ暗な水の中で、手を伸ばして、伸ばして、やっと届いた、あの感触。それが嬉しくて、毎晩繰り返した。何百回。いや、二年間の毎晩なら、五百回を超えているかもしれない。視て、知って、それで終わりにしていた日も、もちろんある。ただ視ただけで、何もしなかった日のほうが、きっと多い。
でも、何もしなかった、は、本当か。
私は、ゆっくりと、記憶を掘り返し始めた。
一年生の秋。彼が部活の帰りに財布を落としそうだった朝、私はそれを視ていた。何もしなかったと思っていた。でも――その日の朝、なんとなく傘立ての横に立っていたのは、私だ。彼が昇降口を出るとき、傘立てに鞄がぶつかって、財布が床に落ちた。それを、そこにいた私が、拾って渡した。視ていなければ、そこに立っていなかった。
彼は「ありがとう」と言って、財布をしまった。
そのまま友達のところへ戻っていった。私のことを一秒も気にしていなかった。
それで、よかった。
守れたから、よかった。そう思っていた。あの頃は。
二年生の春。班のメンバー決めで、彼が苦手な人と同じ班になりそうだった。
私はそれを視ていた。
当日、何気なく席替えの提案を誰かにして、結果として、彼の班が変わった。
班が変わった翌週、彼は新しい班で、声をあげて笑っていた。
廊下を歩きながら、笑っていた。
視えていた頃の私は、その笑顔を、前の晩に一度視ていた。でも、廊下で実際に見たとき、なぜかもう一度、胸の奥で何かが動いた。
知っていたはずなのに、知らないみたいに。
あの感覚は何だったのか、今になって、分かる気がする。
私は、彼が笑う場所を、作っていた。
それだけじゃない。彼が忘れ物をしそうな日、ノートを貸せる準備をしていた。
彼が昼休みに外に出て雨に降られそうな日、さりげなく「今日、午後から崩れるらしいよ」と誰かに言った。
彼に直接言ったわけじゃない。でも、結果として、彼は守られた。
その守られた日々を、彼は知らない。
自分がいくつの「ぎりぎり」を通り過ぎてきたか、彼は知らない。
誰かが毎晩、自分の明日を視ていたことも、知らない。
視るたびに何かが積み上がっていたことも、知らない。
知らないまま、笑っていた。
知らないまま、笑わせてもらっていた。
小さなことばかりだ。ひとつひとつは、本当に、たいしたことじゃない。でも、それが二年間、積み重なっていたとしたら。
ゆず姉の一回が、複雑骨折だった。
私の何百回は、彼にとって、何になっているんだろう。
布団の中で、私は自分の手を見た。暗い部屋の中で、手のひらの線が見えないくらい暗かった。この手で、毎晩、真っ暗な水の中に手を伸ばした。届いた、と安堵するたびに、何かが積み上がっていたとしたら。安堵するたびに、彼の上に、何かを乗せていたとしたら。
好きだから、視た。
視たから、知った。
知ったから、動いた。
動いたから、何かが、変わった。
そしてその変わった分が、今、形を変えて、彼のところへ帰っている。
学校に行く気になれなかった。でも行かなければ、彼に会えない。会えなければ、確かめられない。確かめるって、何を。昨日の告白の続きを。いや、それより先に、確かめなければいけないことがある。
* * *
冬休みまで、あと二日だった。
教室に入ると、彼はいつもの席にいた。私が入ってきたのに気づいて、少し、耳の先が赤くなった。昨日の今日で、どういう顔をすればいいのか、お互いにまだ分からない、というのが、空気で伝わった。私は自分の席に座って、鞄から教科書を出した。どうもない顔をするのは得意だったはずなのに、今日は、うまくできているか分からなかった。
昼休み、亜矢が「どうすんの、保留の件」と聞いてきた。
「もう少し、待って」
「本人に言ってあげてよ」
「……分かってる」
「ミク」
亜矢は声を落とした。
「あんた、また変な顔してる。昨日のやつ、プラスの意味で考えられてないでしょ」
プラス。告白されて、好きだと伝えて、それがプラスのはずなのに、頭の中はずっとマイナスの計算をしている。亜矢に見抜かれていることが、少し、情けなかった。
「……少しだけ待って。冬休み明けには、ちゃんとする」
「ちゃんと、って何」
「色々、片付けてから」
亜矢は、私の顔を見て、それ以上は聞かなかった。大げさに息を吐いて、「わかった」とだけ言って、弁当箱を開けた。
* * *
放課後、図書室で調べ物をした。
調べようとしたのは、ひとつだけだった。世の中に、こういうことは、あるのか。誰かを助けたことが、後でその人を傷つけることに繋がる、そういう事例が、どこかに記録されているのか。
哲学の本を何冊か開いた。ジンクスや迷信の類を調べた。「善意の結果が悪をもたらす」という逆説について書かれた文章も読んだ。
読めば読むほど、私が感じていることを正確に言い表した言葉には、たどり着けなかった。書いてある内容はどれも、抽象的すぎた。
私が知りたいのは、概念じゃない。あの法則が本当かどうかだ。
本を閉じて、窓の外を見た。
図書室の窓から、グラウンドが見えた。サッカー部が練習している。グラウンドを、歩くんが走っていた。今日は脚を引きずっていない。いつもの、軽い走り方をしていた。ボールを受けて、ターンして、パスを出す。その一連が、きれいだった。
きれいだと思う、その気持ちが、本物だということは、分かっていた。
入学したときから、本物だった。探さないと視えなかった彼の明日を、それでも探し続けたのは、本物の気持ちからだった。悪意はなかった。下心もなかった。ただ、好きだったから、知りたかった。知ったら、守りたかった。
守ることが、彼を傷つけていたとしても、あの頃の私には、止める理由がなかった。
私が変えてきた明日の数だけ、あの人の運命を削ってきたのか、どうか。
そのことを、誰かに聞けたら、どんなによかっただろう。
でも、聞ける人間が、この世界にいない。亜矢には途中まで話した。でも、力のことを、全部は話していない。全部話せば、亜矢は信じてくれるかもしれない。でも、信じてもらったとして、何が変わるわけでもない。変えられるのは、私だけだ。
窓の外で、歩くんが笑った。
遠くて、声は聞こえなかった。でも、笑っているのは分かった。誰かと何か言い合いながら、肩を叩かれて、笑っていた。私がノートに書いてきた不運の記録とは、全然違う顔で、笑っていた。
あの人は、今日も、ここにいる。
そのことだけは、確かだった。本を閉じた。鞄に入れた。窓から目を離した。
図書室を出て、廊下を歩いていると、向こうから練習上がりの彼が来た。タオルを首に掛けて、コートを手に持って、友達と笑いながら歩いてきた。私に気づいて、友達に何か言って、こちらへ来た。
「望月、今日、残ってたの?」
「……ちょっと調べ物」
「そっか。帰り、同じ方向だったりする?」
同じ方向。彼の家の方向を、私は知っていた。視えていた頃に、何度か、彼の帰り道を視たことがあったから。私の家とは、逆方向だった。
「……違う方向、かな」
「あ、そっか。残念」
残念、という言葉が、屈託なく出てきた。昨日の今日で、この人は、もう、普通にそういうことを言える。私には、まだ、普通に返す言葉が見つからなかった。
「……あのさ」
「うん?」
言いかけて、止まった。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。謝りたかったのかもしれない。でも、何に対して謝るのか、言葉にできなかった。
「……何でもない。気をつけて帰ってね」
「ん。望月も」
彼は友達のところへ戻っていった。私は昇降口を出て、逆方向へ歩いた。
家に帰る道の途中で、私はノートのことを考えていた。
帰ったら、書かなければいけないことがある。「私が変えた明日」のページの、三件目を。ずっと書けずにいた名前を、今日こそ、書かなければいけない。書かないかぎり、私はあの法則と、ちゃんと向き合えない。
三件目は、ゆず姉でも、堀田さんでも、夏祭りの誰かでもない。
三件目は、森田歩だ。
名前だけじゃない。視た回数も。変えた明日の数も。それが分からない、ということ自体も、全部書かなければいけない。
家に入って、制服のまま、机に座った。ノートを開いた。三件目の欄に、シャーペンを置いた。
書き始めたとき、手が小さく震えていた。
三件目。森田歩。高校一年の春から高校二年の秋まで、二年間。毎晩、彼の明日を視てきた。何百回。彼の財布を拾った日、班を変えた日、傘のことを誰かに言った日。それ以外にも、気づいていない介入が、もっとあるかもしれない。今、彼は死にかけている。二学期から、ぎりぎりの外れ方が、だんだん際どくなっている。
書き終えて、読み返した。
黒い文字が、白い紙の上に並んでいた。ただの、事実の羅列だった。でも読み返すたびに、その事実が、別の形に見えてくる。二年間、私は彼を愛でるように視てきた。知ることが、守ることが、愛情の一形態だと思っていた。その愛情が、今、彼の膝を傷つけて、彼の体を、少しずつ削っているとしたら。
愛情と危害が、同じものだったとしたら。
ノートを閉じた。
机の上に両肘をついて、両手で顔を覆った。瞼の裏が、真っ暗だった。視えなくなってから、毎晩、この暗さを確かめて眠る。今夜のこの暗さは、いつもより、もっと、奥が深かった。
好きです、とほぼ言えた日の夜に、私はあの人のことを、こんなに怖いものとして書き記している。
怖いのは、彼じゃない。私が、彼に対してしてきたことだ。これから起こることかもしれないことだ。好きでいることで、何かが積み上がるなら、好きでいることをやめればいいのか。でも、やめられるわけがない。やめる方法を、私は知らない。
知らない。
知らないことが、今夜だけは、少しも自由じゃなかった。

