亜矢から連絡が来たのは、冬休み直前の木曜日だった。
「明日の放課後、暇にしとけ。歩が話があるって」
それだけだった。それだけで、私の指は、返信を打つ前に止まった。話がある。歩くんが。私に。
「……歩くんが、亜矢に頼んだの?」
「そう。なんか、直接言うの恥ずかしいらしくて。ほんと不器用」
不器用。あの、思いつきで動いて、グラウンドでは誰より滑らかな男の子が、私への「話がある」を、一度は屋上まで行って言えなくて、部員に別の話をしてごまかして、今度は亜矢を経由して伝えてくる。
亜矢が最後に送ってきたのは、カエルの絵文字だった。意味は分からなかったが、たぶん、頑張れ、という意味だと思うことにした。

翌日は、授業が頭に入らなかった。視えていた頃の私は、こういう日を、一度も経験したことがなかった。何が起きるか分かっていたから、待つことへの緊張、というものがなかった。今は違う。放課後、彼は何を言うのか。私は何と返すのか。その先はどうなるのか。何も分からないまま、六時間、座っていなければならない。
知らないことが楽しみだと思えるようになった、と前に思った自分が、少し恥ずかしかった。知らないことは、やっぱり怖い。ただ、怖さの質が変わった気がした。視えなくなった最初の頃の、奈落の底に落ちるような怖さとは、違う。これは、明日の天気が分からない朝に傘を持って出る、あの怖さに近い。

六時間目のチャイムが鳴った。帰りのホームルームが、妙に長く感じた。
廊下で待っていると、歩くんが来た。コートを着て、鞄を持って、いつもと変わらない顔をしていた。ただ、耳の先だけが、冬の空気とは別の理由で赤かった。
「……あ、来てくれた」
「……来てって言ったのは、そっちでしょ」
「そうだけど。来ないかと思って」
「なんで」
「最近、望月のほうが俺より忙しそうだから」
忙しそう。調べていたから、ということは、もちろん言えない。私は「そうでもないよ」と返して、彼の横に並んだ。示し合わせたわけでもなく、二人とも歩き始めていた。昇降口を出て、駐輪場を抜けて、校舎裏の、人のいない方へ。

冬の夕方だった。空が、早くも暗さを帯び始めていた。グラウンドの向こうに、サッカー部の声がしていた。亜矢の声も混じっている気がした。
歩くんは、歩きながら、ずっと前を見ていた。私も前を見ていた。横に並んで、同じ方向を向いて、どちらも相手の顔が見えない。こういう話し方をわざと選ぶ人がいる、ということを、私は今日、初めて体感した。
「……俺さ」
「うん」
「望月のこと、好きなんだけど」
風が、止まったような気がした。実際には止まっていないのに、その一瞬だけ、世界から音が抜けた。
私は、足を止めた。彼も、一歩遅れて、止まった。
えっと。
聞こえた言葉の意味が、すぐには体に降りてこなかった。頭の中で何かを確認する時間が要った。望月のことが好き。望月は、私だ。私のことが、好き。
「……いつから」
口から出た言葉が、自分でも思っていたのと違った。「なんで」でも「ありがとう」でも「私も」でもなく、「いつから」だった。
彼は少しだけ考えてから、答えた。
「……ずっと前から。でも、なんか、話しかけられなくてさ」
「どうして」
「前の望月って、こっちが何言っても、ちょっとだけ、知ってます、みたいな顔してたから。近づきにくかった。でも、二学期のはじめくらいから、なんか変わった気がして」
彼は、前を向いたまま続けた。
「余計、気になってきた。当てられて詰まってたり、傘忘れて走って帰ってたり。なんだろう、何か危うい気がして。......俺のこと、初めて、まともに返事してくれた日があって」
廊下でのやりとりだ。最近、元気なくない? 寝不足なだけ、ありがと。
あの短い二往復を、彼はずっと持ち続けていたのか。
「あの日は、違った。初めて、ちゃんと俺の声が届いた感じがした」
その言葉が、刃みたいに、胸のどこかに刺さった。

前の私なら知っていた。彼が何を言うか、事前に、全部。だから答えも先にあった。ちょっとだけ知ってます、みたいな顔。それは、そのままだ。私は全部知っていた。そして彼は、それを感じ取っていた。ずっと、ちゃんと、感じていた。
彼が好きになったのは、予知を失って、答えを失って、傘を忘れて走って帰った、あの私だ。
「……俺の話ばっかしちゃったけど」
歩くんは、正面を向いたまま言った。
「望月は、どうですか」
どうですか。丁寧な聞き方が、なんだかおかしくて、私は少し、笑いそうになった。笑いそうになりながら、でも、答えを探していた。
知っているか、知らないか。
好きかどうかは、分かっていた。あの三日間、彼の明日が視えなくて、四日目に視えたとき、声を出さずに泣いた夜のことを、私は忘れていない。好きだということは、とっくに分かっていた。
でも、好きです、とすぐに言えなかったのは、別のことが、胸の中で同時に動いていたからだ。
力があった私は、彼の好きな私じゃなかった。
でも、力があった私が彼を毎晩視ていなければ、力を失った私は、存在しなかった。
力を失った私を好きになった彼は、力があった私の視線を、ずっと浴びていた。
「……私も」
声が、途中で掠れた。
「私も、好きだったと思う。ずっと前から」
彼が、初めてこちらを見た。耳の先が、さっきより赤かった。
「……思う、ってなんですか」
「確認中だから」
「なにを」
「色々」
彼は少し困った顔をして、それから笑った。グラウンドから、ホイッスルの音がした。夕方の風が、二人の間を通っていった。
「……なんか、保留みたいな感じ?」
「ちょっとだけ。ごめん」
「ちょっとだけ保留か。……じゃあ、俺は待ちます」
待ちます、という言葉の形が、真面目すぎて、またおかしくなった。笑ったら、彼も笑った。並んで笑って、それで、なんとなく歩き始めた。

行き先は、どちらも決めていなかった。校舎の影が長く伸びる中を、ただ並んで歩いた。何も言わなくても、変ではなかった。
ただ、その間ずっと、私の中では、ぐるぐると同じ問いが回っていた。
告白のことを思い返すたび、嬉しさより先に、あの考えが戻ってきた。
私が彼の明日を視続けた二年間が、彼の運命に何かを積み上げているとしたら。その積み上がったものが、今、彼に降り始めているとしたら。
私のせいで、彼が死に向かっているとしたら。
好きです、と言えた今日の夜に、いちばん怖いことが、いちばんはっきり見えた。

「望月」
「……なに」
「今日、なんか、ありがとうな。答えてくれて」
「……保留だけど」
「保留でも、答えてくれたから」
日が、完全に落ちていた。街灯が灯り始めていた。私たちは、校門の前で別れた。彼は右へ、私は左へ。振り返ると、彼もちょうど振り返っていた。気まずい、というより、ただおかしかった。また笑って、今度こそ、それぞれの家の方向へ歩いていった。
*     *     *
家に帰って、部屋に入って、鞄を下ろして、ベッドに倒れ込んだ。
しばらく、天井を見ていた。
好きです、と言われた。
好きです、と(ほぼ)言えた。
こんな日が来るとは、三ヶ月前の私には、想像もできなかった。ただの数分のことが、ひどく遠い時間のように感じた。
でも、浮かれることができなかった。頭の中では、何かが止まらずに回っていた。
彼が好きになったのは、明日が視えなくなった私だ。
私が視えなくなったのは、彼を視すぎたからかもしれない。
私が彼を視るたびに、何かが積み上がって、今、彼を傷つけているとしたら。
告白を受け取った今日から、私が彼をもっと好きになれば、それは彼にとっての何になるんだろう。

ノートを開く気になれなかった。代わりに、スマホを手に取った。亜矢からメッセージが来ていた。
「どうだった」
しばらく、返し方を考えた。結局、こう返した。
「好きって言われた。私も好きって言った。でも保留にした」
すぐ既読がついた。三秒後に返ってきた。
「どんな告白だよ笑」
「色々、考えることがあって」
「……ミクの色々ってやつね。分かった。でも、森田に意地悪しないであげてよ。あいつ、勇気振り絞ったんだから」
勇気を振り絞った彼を、私は保留にした。
その自覚は、あった。
申し訳なさも、あった。
でも、今すぐ、はい、とだけ言うことが、彼への誠実だとは、どうしても思えなかった。何かが分からないまま、好きです、だけを重ねていくことへの怖さが、消えなかった。
私が彼を好きなのは、本当だ。
だから、もっとちゃんと、知らなければいけなかった。自分が、彼に対して、何をしてきたのかを。
*     *     *
翌朝、教室に入ると、亜矢がもう席にいた。
「おはよ」と言うと、亜矢は振り返って、私の顔をしばらく見た。
「で、どうだったの」
「……昨日、スマホで送ったじゃん」
「保留にした、しか送ってこなかったじゃん。顔を見て聞いてる」
亜矢は、私の顔を正面から見ていた。いつもの亜矢の目だった。でも、何か、いつもより少しだけ、真剣だった。
「……好きって、言えた」
「言えたんだ」
「でも保留にした」
「なんで」
「色々、考えることがあって」
亜矢は、少しのあいだ黙った。窓の外で、誰かが笑う声がした。
「ミク」
「なに」
「あんた、歩のこと、本当に好きなの」
「……好きだよ」
「ちゃんと好き? 義務とか、責任感とかじゃなくて」
「義務じゃない」
「じゃあ、責任感は?」
少し、間があった。
「……責任感も、ある。でも、それだけじゃない」
亜矢は、また黙った。今度の沈黙は、少し長かった。
「……ミク、前にさ」
亜矢は、外を見ながら言った。
「あたし、ミクのこと一番分かってる自信があったんだよね。幼なじみだから。ずっと隣にいたから」
「……いまも、一番分かってるよ」
「かもしれないけど」亜矢は少し笑った。笑い方が、いつもより柔らかかった。「ミクが歩のことを好きになってから、ミクのこと、前より分からなくなってる気がする。ミクがあんな顔するの、初めて見た、っていう瞬間が、最近増えてる」
「……あんな顔って」
「歩の話をするときの顔」
私は、何も言えなかった。
「いいんだけど」と亜矢は続けた。
「いいんだけどさ。ちょっとだけ、あたしが知らないミクが出てきてる気がして、それが、なんか」
亜矢は、言葉を止めた。それ以上は、言わなかった。
「……なんか、なに」
「なんか、ちょっとだけ、悔しい」
悔しい。その一言を、亜矢は笑いながら言った。笑っていたけれど、冗談じゃなかった。
「……ごめん」
「謝らなくていい」亜矢はすぐに言った。
「あたしの話じゃなくて、ミクの話だから。ただ、言いたかっただけ」
チャイムが鳴った。先生が入ってきた。亜矢は前を向いた。私も前を向いた。
「ミク」
「なに」
「歩のこと、ちゃんとしてあげてね。保留のままにしないで」
「……うん」
「あと」
「なに」
「あたしのことも、ちゃんと友達でいてよ」
「……当たり前でしょ」
亜矢は、「そうだね」と言って、教科書を開いた。
当たり前のことを、確認しなければいけない瞬間が、ある。そのことを、今日初めて、私は知った。