期限は、思ったより早く来た。
十二月の第二週、金曜の放課後だった。掃除当番を終えて昇降口へ向かうと、亜矢が下駄箱にもたれて待っていた。部活は、と聞く前に、「今日オフ」と先回りされた。
「で、時間あるよね。ミクんち行こ」
「……冬休みまで、まだあるけど」
「前倒し。あんたの顔が期限切れなの」
私の部屋に上がるなり、亜矢はベッドに座って、腕を組んだ。座布団も出していないのに、完全に取り調べの構えだった。逃げ場を探して視線を泳がせた先に、机の上のノートがあった。慌てて目を逸らしたけれど、遅かった。亜矢は立ち上がって、ノートに手を伸ばし――伸ばしかけて、止めた。
「……見ないよ。あんたが自分で話すまでは」
その一言で、決心がついた気がした。勝手に暴かれるくらいなら、自分の口で話したい。ううん、たぶん本当は、もうずっと前から、話したかったのだ。話せる形を、探せずにいただけで。
「……笑わないで、聞ける?」
「内容による」
「亜矢」
「……わかった。笑わない。何聞いても」
私は、机の椅子に座り直した。どこから話すか、昨日の夜から、何度も組み立てては崩していた。全部は、話せない。視えていたことを話せば、亜矢は私を疑うか、心配するか、どちらにしても、これまでの十年が別のものになってしまう。五歳の母の顔を、私はまだ覚えている。あの顔を、亜矢にさせたくない。
だから、途中まで。どこまでが「途中」なのか、話しながら決めるしかなかった。
「……最近ね、変なことを、調べてる」
「うん。知ってる」
「ゆず姉の事故とか、堀田さんのお店とか、あゆ……森田くんの怪我とか。ばらばらの、関係ない不運に見えるんだけど、私には、繋がって見えるの」
「繋がってるって、どう」
「みんな、その前に、一回、大きく助かってる」
亜矢の眉が、寄った。
「ゆず姉は、受験の日に電車の事故を避けられた。堀田さんは――あの夏祭りの日、本当は屋台で大きな事故が起きるところだったの。消防の人が来てたでしょ、覚えてない? あれで防がれた。森田くんは、ずっと『悪運が強い』って言われるくらい、危ない目をぎりぎりで避け続けてきた。三人とも、一回ちゃんと助かってる。助かって、しばらくしてから、別の形で、大きく転んでる」
「……待って」
亜矢は手のひらをこちらに向けた。
「祭りの事故って、なに。あたし、初耳なんだけど」
しまった、と思ったときには、口が動いていた。ここが「途中」の境界線だった。事故が防がれたことを、私が知っている理由。そこを聞かれたら、もう、力の話をするしかなくなる。
「……それは」
「誰から聞いたの、そんな話」
「……言えない」
「なんで」
「言えないの。ごめん。でも、作り話じゃない。消防の人が屋台を指導してたのは、本当に見たでしょ、私たち」
亜矢は、記憶を探る顔になった。それから、しぶしぶ頷いた。
「……いたね、確かに。腕章の人。堀田さんが謝ってるの、見た」
「うん」
「で? 助かった人が、後から転ぶ。それが繋がりだとして」
亜矢は腕を組み直した。
「それの何があんたをそんな顔にさせてんの。世の中の話なら、いい話じゃん。禍福はなんとやら、ってやつでしょ」
禍福は糾える縄の如し。
古文の時間に習った言葉だ。幸運と不運は、縄のように、より合わさって巡ってくる。昔の人は、とっくに知っていたのかもしれない。ただ、昔の人は、それを外から眺めて言った。私は、縄を綯った側にいる。
「……もし」
声が、思ったより低く出た。
「もし、その『助かった』が、偶然じゃなかったら? 誰かが、そうなるように、したんだとしたら」
「誰かって、誰」
「分からない。でも、もし、いたとしたら。その誰かのせいで助かった人たちが、あとから順番に転んでるんだとしたら――それって、助けたことになると思う?」
部屋が、静かになった。窓の外で、街の音が遠くしていた。亜矢は長いあいだ黙って、私の顔を見ていた。茶化すか、呆れるか、心配するか。どれが来ても受け止めるつもりだった。
亜矢が選んだのは、どれでもなかった。
「――その誰かはさ」
「……うん」
「助けたとき、あとで転ぶって、知ってたの?」
思ってもみない角度から、質問が来た。
「……ううん。知らなかった、と思う」
「じゃあ、助けたことになるでしょ」
亜矢は、こともなげに言った。
「知らなかったんなら、その時その人にできたのは、助けるか、見捨てるかの二個だけじゃん。で、助けた。それだけの話でしょ。あとから変なことが起きたのは、あとの話。最初から知ってて、押しつけたんなら話は別だけど」
「……でも、結果は」
「結果の話するならさ」
亜矢は身を乗り出した。
「ゆず姉、合格してるんだよ? 堀田さんとこのたい焼き、あれから二年ぶんくらい、みんな食べたんだよ? 森田は今も生きてピッチ走ってんの。転んだ話ばっかり数えて、助かった話を数えないの、なんか違うくない?」
言葉が、出なかった。
私はこの一ヶ月、ノートに不運ばかりを書き集めてきた。転校。怪我。倒産。書けば書くほど、私の善意は毒に見えた。でも亜矢の言う通りだった。同じノートに、合格と、無事に終わった祭りと、今日も走っている歩くんを書いてもいいはずなのに、私は一行も、書いてこなかった。
「……なんで、そんなふうに考えられるの」
「マネージャーだから」
即答だった。
「怪我の記録つけてるとさ、記録の上では、うちの部、怪我ばっかりしてるみたいに見えるんだよね。当たり前じゃん、怪我しか書かないんだから。でも実際のあいつらは、九割九分、怪我しないで走ってんの。記録に残んないだけで。……あんたのそれも」
亜矢は、机の上のノートを、顎で指した。
「そういうノートなんじゃないの」
夕方の光が、カーテンの端で細くなっていた。私は、何も言えないまま、ただ、目の奥が熱くなるのを堪えていた。救われた、とは、まだ思えなかった。亜矢は、いちばん重い一枚を知らない。知らないから、そう言える――そういう卑屈な声も、胸の中に、まだ残っていた。
それでも。
十二年間、誰にも見せられなかった重さの、端っこだけでも、今日、初めて人に持ってもらった。持ってもらえた、という事実だけが、部屋の空気を少しだけ軽くしていた。
「……ありがと」
「ん。で、まだ全部じゃないんでしょ、話」
「……うん。ごめん」
「いいよ。利子つけて、いつか全部聞くから」
亜矢は立ち上がって、帰り支度をしながら、思い出したように付け足した。
「あとさ、ミク。ひとつだけ」
「なに」
「森田のこと調べてるのは、その変な繋がりのせい? それとも、好きだから?」
不意打ちにも、ほどがあった。返事に詰まった一秒で、答えは全部伝わってしまったらしい。亜矢はにやりと笑って、「両方かー」と言いながら、部屋を出ていった。階段を降りる足音が、途中から鼻歌になった。
一人になった部屋で、私はノートを開いた。
「私が変えた明日」のページの隣に、新しいページを作った。表題を、しばらく考えて、書いた。
――変えた明日の、いいほうの話。
一件目。ゆず姉、合格。二件目。夏祭り、誰も怪我をしなかった。三件目。歩くん、今日も生きてる。
書いてみて、分かった。このページは、不運のページより、ずっと書きやすくて、ずっと、涙が出た。
十二月の第二週、金曜の放課後だった。掃除当番を終えて昇降口へ向かうと、亜矢が下駄箱にもたれて待っていた。部活は、と聞く前に、「今日オフ」と先回りされた。
「で、時間あるよね。ミクんち行こ」
「……冬休みまで、まだあるけど」
「前倒し。あんたの顔が期限切れなの」
私の部屋に上がるなり、亜矢はベッドに座って、腕を組んだ。座布団も出していないのに、完全に取り調べの構えだった。逃げ場を探して視線を泳がせた先に、机の上のノートがあった。慌てて目を逸らしたけれど、遅かった。亜矢は立ち上がって、ノートに手を伸ばし――伸ばしかけて、止めた。
「……見ないよ。あんたが自分で話すまでは」
その一言で、決心がついた気がした。勝手に暴かれるくらいなら、自分の口で話したい。ううん、たぶん本当は、もうずっと前から、話したかったのだ。話せる形を、探せずにいただけで。
「……笑わないで、聞ける?」
「内容による」
「亜矢」
「……わかった。笑わない。何聞いても」
私は、机の椅子に座り直した。どこから話すか、昨日の夜から、何度も組み立てては崩していた。全部は、話せない。視えていたことを話せば、亜矢は私を疑うか、心配するか、どちらにしても、これまでの十年が別のものになってしまう。五歳の母の顔を、私はまだ覚えている。あの顔を、亜矢にさせたくない。
だから、途中まで。どこまでが「途中」なのか、話しながら決めるしかなかった。
「……最近ね、変なことを、調べてる」
「うん。知ってる」
「ゆず姉の事故とか、堀田さんのお店とか、あゆ……森田くんの怪我とか。ばらばらの、関係ない不運に見えるんだけど、私には、繋がって見えるの」
「繋がってるって、どう」
「みんな、その前に、一回、大きく助かってる」
亜矢の眉が、寄った。
「ゆず姉は、受験の日に電車の事故を避けられた。堀田さんは――あの夏祭りの日、本当は屋台で大きな事故が起きるところだったの。消防の人が来てたでしょ、覚えてない? あれで防がれた。森田くんは、ずっと『悪運が強い』って言われるくらい、危ない目をぎりぎりで避け続けてきた。三人とも、一回ちゃんと助かってる。助かって、しばらくしてから、別の形で、大きく転んでる」
「……待って」
亜矢は手のひらをこちらに向けた。
「祭りの事故って、なに。あたし、初耳なんだけど」
しまった、と思ったときには、口が動いていた。ここが「途中」の境界線だった。事故が防がれたことを、私が知っている理由。そこを聞かれたら、もう、力の話をするしかなくなる。
「……それは」
「誰から聞いたの、そんな話」
「……言えない」
「なんで」
「言えないの。ごめん。でも、作り話じゃない。消防の人が屋台を指導してたのは、本当に見たでしょ、私たち」
亜矢は、記憶を探る顔になった。それから、しぶしぶ頷いた。
「……いたね、確かに。腕章の人。堀田さんが謝ってるの、見た」
「うん」
「で? 助かった人が、後から転ぶ。それが繋がりだとして」
亜矢は腕を組み直した。
「それの何があんたをそんな顔にさせてんの。世の中の話なら、いい話じゃん。禍福はなんとやら、ってやつでしょ」
禍福は糾える縄の如し。
古文の時間に習った言葉だ。幸運と不運は、縄のように、より合わさって巡ってくる。昔の人は、とっくに知っていたのかもしれない。ただ、昔の人は、それを外から眺めて言った。私は、縄を綯った側にいる。
「……もし」
声が、思ったより低く出た。
「もし、その『助かった』が、偶然じゃなかったら? 誰かが、そうなるように、したんだとしたら」
「誰かって、誰」
「分からない。でも、もし、いたとしたら。その誰かのせいで助かった人たちが、あとから順番に転んでるんだとしたら――それって、助けたことになると思う?」
部屋が、静かになった。窓の外で、街の音が遠くしていた。亜矢は長いあいだ黙って、私の顔を見ていた。茶化すか、呆れるか、心配するか。どれが来ても受け止めるつもりだった。
亜矢が選んだのは、どれでもなかった。
「――その誰かはさ」
「……うん」
「助けたとき、あとで転ぶって、知ってたの?」
思ってもみない角度から、質問が来た。
「……ううん。知らなかった、と思う」
「じゃあ、助けたことになるでしょ」
亜矢は、こともなげに言った。
「知らなかったんなら、その時その人にできたのは、助けるか、見捨てるかの二個だけじゃん。で、助けた。それだけの話でしょ。あとから変なことが起きたのは、あとの話。最初から知ってて、押しつけたんなら話は別だけど」
「……でも、結果は」
「結果の話するならさ」
亜矢は身を乗り出した。
「ゆず姉、合格してるんだよ? 堀田さんとこのたい焼き、あれから二年ぶんくらい、みんな食べたんだよ? 森田は今も生きてピッチ走ってんの。転んだ話ばっかり数えて、助かった話を数えないの、なんか違うくない?」
言葉が、出なかった。
私はこの一ヶ月、ノートに不運ばかりを書き集めてきた。転校。怪我。倒産。書けば書くほど、私の善意は毒に見えた。でも亜矢の言う通りだった。同じノートに、合格と、無事に終わった祭りと、今日も走っている歩くんを書いてもいいはずなのに、私は一行も、書いてこなかった。
「……なんで、そんなふうに考えられるの」
「マネージャーだから」
即答だった。
「怪我の記録つけてるとさ、記録の上では、うちの部、怪我ばっかりしてるみたいに見えるんだよね。当たり前じゃん、怪我しか書かないんだから。でも実際のあいつらは、九割九分、怪我しないで走ってんの。記録に残んないだけで。……あんたのそれも」
亜矢は、机の上のノートを、顎で指した。
「そういうノートなんじゃないの」
夕方の光が、カーテンの端で細くなっていた。私は、何も言えないまま、ただ、目の奥が熱くなるのを堪えていた。救われた、とは、まだ思えなかった。亜矢は、いちばん重い一枚を知らない。知らないから、そう言える――そういう卑屈な声も、胸の中に、まだ残っていた。
それでも。
十二年間、誰にも見せられなかった重さの、端っこだけでも、今日、初めて人に持ってもらった。持ってもらえた、という事実だけが、部屋の空気を少しだけ軽くしていた。
「……ありがと」
「ん。で、まだ全部じゃないんでしょ、話」
「……うん。ごめん」
「いいよ。利子つけて、いつか全部聞くから」
亜矢は立ち上がって、帰り支度をしながら、思い出したように付け足した。
「あとさ、ミク。ひとつだけ」
「なに」
「森田のこと調べてるのは、その変な繋がりのせい? それとも、好きだから?」
不意打ちにも、ほどがあった。返事に詰まった一秒で、答えは全部伝わってしまったらしい。亜矢はにやりと笑って、「両方かー」と言いながら、部屋を出ていった。階段を降りる足音が、途中から鼻歌になった。
一人になった部屋で、私はノートを開いた。
「私が変えた明日」のページの隣に、新しいページを作った。表題を、しばらく考えて、書いた。
――変えた明日の、いいほうの話。
一件目。ゆず姉、合格。二件目。夏祭り、誰も怪我をしなかった。三件目。歩くん、今日も生きてる。
書いてみて、分かった。このページは、不運のページより、ずっと書きやすくて、ずっと、涙が出た。

