放課後の図書室は、いつも静かだった。
私がここに来るようになったのは、ゆず姉のお見舞いの後からだ。
郷土史の棚、古い地方紙の縮刷版、インタビュー集。調べたいことは、いつも言葉にしにくいものだった。「私の力と、誰かの不運に、関係があるかどうか」なんて、司書の先生には聞けない。だから私は、毎回「郷土研究で」と言いながら、自分でも何を探しているのか分からないままページをめくり続けた。
その日も、縮刷版を広げて、昭和の地方紙を読んでいた。
気配に気づいたのは、十五分ほど経った頃だった。棚の向こう側に、誰かが来た。本を抜いて、ぱらぱらとめくる音がした。それから、向かいの席に座る気配がした。
顔を上げると、歩くんだった。
サッカー部のジャージのまま、部活前の時間を持て余した顔をして、漫画雑誌を広げていた。私と目が合うと、少し驚いた顔をした。
「あ、望月」
「……うん」
「図書室来るんだ」
「来るよ」
「意外。もっと、自分の部屋で完結してそう」
失礼なことを言う人だ、と思った。でも、間違っていなかった。
視えていた頃の私は、図書室に来る必要がなかった。調べなくても、明日は届いた。知らないことは、ほとんどなかった。
「調べ物してる」
と私は言った。
「何を」
「……郷土史」
「郷土史」
彼は繰り返した。笑うかと思ったが、笑わなかった。
「どんな」
「昔話を調べてる」
「どんな?」
「昔この地域に住んでいた人のことを調べてる」
「へえ」
「……まだ、何を探してるのかも、うまく言えない」
「言えないのに探してるんだ」
「うん。名前も分からない人を探してる感じ」
「へえ」
彼は顎を引いた。
「それ、何のために調べてるの」
答えられなかった。
本当のことを言えば、こうなる。
あなたの周りで起きている死にかけの連続が、私の力と関係しているかもしれなくて、そのことが怖くて、でも確かめなければいけなくて、だから図書室に来ている。
言えるわけがなかった。
「……なんとなく」
と私は言った。
「なんとなく郷土史を調べる人間がいるのか」
「いてもいいでしょ」
「いていいよ」
彼はあっさり言った。
「ただ、望月が『なんとなく』で動く人間じゃないのは、なんとなく分かる」
指先が、少し止まった。
彼は、縮刷版の端を顎で指した。
「それ、何年のやつ」
「昭和三十年代」
「古いな。何時間もかけて読む感じ?」
「……三日かかった」
「三日」
彼はしばらく私を見た。
「それ、本当に大事なことを調べてるじゃん」
否定できなかった。
彼はそれ以上は聞かなかった。漫画雑誌に視線を戻して、ページをめくり始めた。図書室の静かさが、また戻ってきた。私も縮刷版に目を落とした。
しばらく、二人とも、黙っていた。
同じ部屋の中で、同じ沈黙の中で、でも全然違うことを考えていた。彼は漫画の続きを、私はあの半年のニアミスと、堀田さんと、歩くんの名前が同じノートのページにある事実を。
おかしな時間だった。
こんなふうに、誰かと黙って同じ場所にいることが、こんなに落ち着くものだと、知らなかった。
視えていた頃の私には、誰かと同じ場所にいる意味が、よく分からなかった。明日も知っていたし、今日も知っていたし、黙っていても会話の流れは分かっていた。何も知らない今の私が、何も言わずにここにいることを、なぜか、悪くないと思っていた。
「部活、何時から」
気づいたら、私の方から聞いていた。
「四時半」
彼はスマホで時間を確認した。
「あと二十分」
彼はスマホを伏せて、机に置いた。「二十分あったら、シュート五十本打てるんだけどな」「……打てばいいのに」
「打っていいって言われてない」
軽い言い方だった。冗談の形をしていた。
でも、その言い方を、私は知っている気がした。
私も同じ形で、いろんなことを言ってきた。
「膝、まだ」
「膝は治った。とっくに」
彼は雑誌のページを、意味もなくめくった。
「治ったのに、外れんの。次はいけるかも、ってなるたびに、何か起きる。今度は膝じゃないとこが」
図書室の空調が、低い音を立てていた。
「一回くらい、フルで出てみたかったな」
過去形だった。十二月の、まだ二年生の、彼の口から出た過去形だった。
私は縮刷版のページに指を置いたまま、動けなかった。
私が視て、変えてきた明日の数だけ、彼から何かが引かれていたのだとしたら。
引かれていたのは、命ではなくて、これだったのかもしれない。
「……なんで図書室に来たの」
声が、少しかすれた。
「暇だから。グラウンド、まだ他の部が使ってるし」
「漫画なら教室で読めばよかったのに」
「教室、うるさかった。ここの方が静かでいいじゃん」
それだけだった。それだけの理由で、ここに来た。私が調べているからでも、何かを察したからでもなく、ただ、静かだから。
「……そう」
「何、もしかして邪魔だった」
「邪魔じゃないよ」
「よかった」
彼はまた漫画雑誌に戻った。私も縮刷版に戻った。
四時半になる少し前、彼は雑誌を棚に返して、鞄を持った。立ち上がりながら、私の方を見た。
「じゃ、部活行ってくる」
「うん」
「望月」
「なに」
「その調べ物、見つかるといいな」
それだけ言って、彼は図書室を出ていった。扉が閉まって、また静かになった。
見つかるといいな。
その言葉の軽さが、どういうわけか、胸の奥に残った。何を調べているかも知らないのに、見つかるといい、と言った。根拠もなく、ただそう言った。
視えていた頃の私なら、彼が次にそう言うことを知っていて、心の準備をしていた。今日の私は、知らないまま受け取って、受け取った後でじわじわと、その言葉の温度を確かめていた。
縮刷版のページが、風もないのに、少しめくれた。
私はそれを手で押さえて、また読み始めた。
私がここに来るようになったのは、ゆず姉のお見舞いの後からだ。
郷土史の棚、古い地方紙の縮刷版、インタビュー集。調べたいことは、いつも言葉にしにくいものだった。「私の力と、誰かの不運に、関係があるかどうか」なんて、司書の先生には聞けない。だから私は、毎回「郷土研究で」と言いながら、自分でも何を探しているのか分からないままページをめくり続けた。
その日も、縮刷版を広げて、昭和の地方紙を読んでいた。
気配に気づいたのは、十五分ほど経った頃だった。棚の向こう側に、誰かが来た。本を抜いて、ぱらぱらとめくる音がした。それから、向かいの席に座る気配がした。
顔を上げると、歩くんだった。
サッカー部のジャージのまま、部活前の時間を持て余した顔をして、漫画雑誌を広げていた。私と目が合うと、少し驚いた顔をした。
「あ、望月」
「……うん」
「図書室来るんだ」
「来るよ」
「意外。もっと、自分の部屋で完結してそう」
失礼なことを言う人だ、と思った。でも、間違っていなかった。
視えていた頃の私は、図書室に来る必要がなかった。調べなくても、明日は届いた。知らないことは、ほとんどなかった。
「調べ物してる」
と私は言った。
「何を」
「……郷土史」
「郷土史」
彼は繰り返した。笑うかと思ったが、笑わなかった。
「どんな」
「昔話を調べてる」
「どんな?」
「昔この地域に住んでいた人のことを調べてる」
「へえ」
「……まだ、何を探してるのかも、うまく言えない」
「言えないのに探してるんだ」
「うん。名前も分からない人を探してる感じ」
「へえ」
彼は顎を引いた。
「それ、何のために調べてるの」
答えられなかった。
本当のことを言えば、こうなる。
あなたの周りで起きている死にかけの連続が、私の力と関係しているかもしれなくて、そのことが怖くて、でも確かめなければいけなくて、だから図書室に来ている。
言えるわけがなかった。
「……なんとなく」
と私は言った。
「なんとなく郷土史を調べる人間がいるのか」
「いてもいいでしょ」
「いていいよ」
彼はあっさり言った。
「ただ、望月が『なんとなく』で動く人間じゃないのは、なんとなく分かる」
指先が、少し止まった。
彼は、縮刷版の端を顎で指した。
「それ、何年のやつ」
「昭和三十年代」
「古いな。何時間もかけて読む感じ?」
「……三日かかった」
「三日」
彼はしばらく私を見た。
「それ、本当に大事なことを調べてるじゃん」
否定できなかった。
彼はそれ以上は聞かなかった。漫画雑誌に視線を戻して、ページをめくり始めた。図書室の静かさが、また戻ってきた。私も縮刷版に目を落とした。
しばらく、二人とも、黙っていた。
同じ部屋の中で、同じ沈黙の中で、でも全然違うことを考えていた。彼は漫画の続きを、私はあの半年のニアミスと、堀田さんと、歩くんの名前が同じノートのページにある事実を。
おかしな時間だった。
こんなふうに、誰かと黙って同じ場所にいることが、こんなに落ち着くものだと、知らなかった。
視えていた頃の私には、誰かと同じ場所にいる意味が、よく分からなかった。明日も知っていたし、今日も知っていたし、黙っていても会話の流れは分かっていた。何も知らない今の私が、何も言わずにここにいることを、なぜか、悪くないと思っていた。
「部活、何時から」
気づいたら、私の方から聞いていた。
「四時半」
彼はスマホで時間を確認した。
「あと二十分」
彼はスマホを伏せて、机に置いた。「二十分あったら、シュート五十本打てるんだけどな」「……打てばいいのに」
「打っていいって言われてない」
軽い言い方だった。冗談の形をしていた。
でも、その言い方を、私は知っている気がした。
私も同じ形で、いろんなことを言ってきた。
「膝、まだ」
「膝は治った。とっくに」
彼は雑誌のページを、意味もなくめくった。
「治ったのに、外れんの。次はいけるかも、ってなるたびに、何か起きる。今度は膝じゃないとこが」
図書室の空調が、低い音を立てていた。
「一回くらい、フルで出てみたかったな」
過去形だった。十二月の、まだ二年生の、彼の口から出た過去形だった。
私は縮刷版のページに指を置いたまま、動けなかった。
私が視て、変えてきた明日の数だけ、彼から何かが引かれていたのだとしたら。
引かれていたのは、命ではなくて、これだったのかもしれない。
「……なんで図書室に来たの」
声が、少しかすれた。
「暇だから。グラウンド、まだ他の部が使ってるし」
「漫画なら教室で読めばよかったのに」
「教室、うるさかった。ここの方が静かでいいじゃん」
それだけだった。それだけの理由で、ここに来た。私が調べているからでも、何かを察したからでもなく、ただ、静かだから。
「……そう」
「何、もしかして邪魔だった」
「邪魔じゃないよ」
「よかった」
彼はまた漫画雑誌に戻った。私も縮刷版に戻った。
四時半になる少し前、彼は雑誌を棚に返して、鞄を持った。立ち上がりながら、私の方を見た。
「じゃ、部活行ってくる」
「うん」
「望月」
「なに」
「その調べ物、見つかるといいな」
それだけ言って、彼は図書室を出ていった。扉が閉まって、また静かになった。
見つかるといいな。
その言葉の軽さが、どういうわけか、胸の奥に残った。何を調べているかも知らないのに、見つかるといい、と言った。根拠もなく、ただそう言った。
視えていた頃の私なら、彼が次にそう言うことを知っていて、心の準備をしていた。今日の私は、知らないまま受け取って、受け取った後でじわじわと、その言葉の温度を確かめていた。
縮刷版のページが、風もないのに、少しめくれた。
私はそれを手で押さえて、また読み始めた。

