中学三年の、七月の終わり。
提灯の赤が、揺れていた。
夏の夜の参道に、人が溢れていた。
あちこちで子どもが走りまわり、浴衣の女の子たちが笑い、金魚すくいの水面が揺れていた。
どこからか線香花火の匂いがして、遠くに打ち上げ花火の音がしていた。
いつもの、夏祭りの夜だった。
参道の端に、屋台が並んでいた。綿菓子、焼きそば、かき氷。その列の一番端、提灯の明かりがぎりぎり届かない場所に、発電機が置かれていた。
たい焼き屋の発電機だった。
堀田さんのたい焼き屋さんは商店街の端にあって、尻尾まであんこが一杯入っているから、大人から子どもまでファンが多かった。
その堀田さんが、発電機の燃料を追加しようとして、発電機の横にしゃがんだ。
ガソリンの携行缶を手に取って、給油口に向けた。蓋を開けた。
その瞬間だった。
缶の口から、白いものが噴き出した。霧のように、それは広がった。ガソリンの匂いが、夜気に混じった。発電機の熱が、その霧に触れた。
音は、聞こえなかった。
光が、先だった。
白く、眩しく、そして橙色に変わった光が、参道の一角を塗り潰した。
一瞬遅れて、爆発音が来た。腹の底まで届く、重い音だった。
提灯が、五、六本まとめて吹き飛んだ。
堀田さんは、地面に転がっていた。上半身を庇うように丸まって、動かなかった。発電機の周りに、黒い焦げ跡が広がっていた。屋台の幌が燃えていた。
悲鳴が、重なった。
浴衣に引火した子どもの火を、自分の身体で抱き込んで消火しようとする親。爆風で倒れたカップル。
複数の被害者が出ているのは間違いなかった。
人垣が割れて、人が走った。逃げる人と、近づこうとする人が、入り乱れた。浴衣の母親が、子どもの手を引いて、引いた力が強すぎて、子どもが転んだ。転んだまま泣いている子どもを、母親は引きずるように走った。
救急車のサイレンが、遠くから聞こえ始めた。
人垣の後ろで、二人の男が話していた。
「あの店主、どうなるんだ。逮捕されるんじゃないか」
「子どもも何人か巻き込まれてるらしい。早く来てくれ」
サイレンが、近づいてくる。提灯の残骸が、参道に散らばっていた。
金魚すくいの水槽が割れて、水が流れていた。
誰かが落としたりんご飴が、砂利の上に転がっていた。
汗びっしょりで目を開けた。
目に入るのは、いつもの部屋の天井だった。
扇風機が、静かに回っていた。外からかすかに虫の声がしていた。
明日の夜、自分の身近で最悪の事故が起きるのだ。
眠れないまま朝を迎えて、私は生まれて初めて、事故の当日を、変えようとした。
祭りに行かない、という選択は、なかった。私が行っても行かなくても、事故は起きる。
誰かに話す、も、無理だった。中学三年生が「祭りで屋台が爆発します」と言って、誰が信じてくれるだろう。根拠を聞かれたら、終わりだ。
考えて、考えて、昼過ぎに、私は隣町の駅前まで自転車を走らせた。見つけておいた公衆電話に、十円玉を三枚入れた。受話器の向こうで消防の人が出たとき、胸の鼓動がうるさすぎて、自分の声がよく聞こえなかった。
「――今日の、神社の夏祭りで、屋台の発電機に給油するとき、携行缶の、ガスの圧を抜かないでやろうとしてる店があります。危ないと思います。注意してください」
お名前は、と聞かれる前に、切った。受話器を置いた手が、じっとりと汗をかいていた。帰り道、自転車を漕ぎながら、私はずっと、間に合え、とだけ思っていた。
* * *
夜、私は亜矢と、浴衣で祭りに行った。
提灯は視えた通りに並んでいた。金魚すくいの水面も、りんご飴の赤も、視えた通りだった。ただひとつ、視えたのと違ったのは、屋台の並びの端に、消防団の腕章をつけた大人が二人、立っていたことだ。例の屋台の店主が、その人たちに何か指導されて、頭を掻きながら、発電機を止めて給油し直しているのが見えた。
何も、起きなかった。
花火が上がって、亜矢が歓声を上げて、私はその横で、夜空より、屋台の裏の暗がりばかり見ていた。祭りは最後まで、ただの楽しい祭りだった。爆発も、悲鳴も、白い閃光もない、普通の夏の夜。世界中で私一人だけが、今夜起きなかったことを知っていた。
帰り道、亜矢が「たのしかったねー」と伸びをした。私は「うん」と言った。心の底から、うん、だった。あの夜の私は、まだ、疑うことを知らなかった。よかった、間に合った、誰も傷つかなかった。それだけだった。これまでの人生でいちばん、力を持っていてよかったと思えた夜。
――そのはず、だった。
* * *
「ねえ亜矢。中三の夏祭りって、覚えてる?」
土曜の午後、亜矢の部屋で、私はできるだけ何気なく、切り出した。定期テストの勉強を口実に押しかけたのは、私のほうだった。亜矢はベッドに寝転がってスマホをいじりながら、「覚えてるよー」と答えた。
「浴衣着てったやつでしょ。ミクがずっと心ここにあらずだったやつ」
「……そんなだった?」
「そんなだったよ。花火見てんのに全然見てない顔してた」
見られていた。幼なじみは、怖い。
「あのさ。あの祭りに出てた屋台で、たい焼きの……商店街の角の店、あったじゃん。あそこって」
「ああ、堀田さんとこ? 潰れたよ、去年」
亜矢は、あっさり言った。
「うちのお母さんが常連だったから、けっこう騒いでた。なんか、店主さんが商店街の会計だか何かで揉めて、責任かぶって、借金して、結局店ごと畳んだって。人が好すぎたんだよって、お母さん言ってた。悪いことなんて何もしてないのにねって」
悪いことなんて、何もしてないのに。
また、その言葉だ。ゆず姉のときと、同じ言葉。
堀田さん。あの夜、消防団に頭を掻いていた、あの店主だ。私はあの人の、起きなかった明日を知っている。あのままなら、あの人は大火傷を負って、大勢を巻き込んで、事件になって、たぶん、逮捕されていた。それが全部、起きなかった。起きなかったのに――あの人は結局、店を失っている。火でも、罪でもなく、人の好さで、じわじわと。
「……ほかにさ」
私は、声が硬くならないように気をつけた。
「あの年の夏祭り、行ってた子で、なんか、その後どうかなった子って、いる?」
「なにその質問」
亜矢は笑って、それでも律儀に考え始めた。
「んー……祭りっていうか、あの夏のメンツなら。ほら、隣のクラスの吉井さん、二学期入ってすぐ転校したじゃん。お父さんの会社が急に倒産、とかで。あと、バスケ部の南は、秋の大会前に足首やって、引退試合出られなかった。……え、なに、同窓会でもすんの?」
「ん、ちょっとね」
転校。怪我。倒産。
亜矢の何気ない記憶から出てくる名前を、私は頭の中のノートに、書き留めていった。もちろん、分かっている。一年もあれば、どんな集まりにだって、不運の二つや三つは降る。転校する子はどこにでもいるし、怪我をする部活生もありふれている。これを全部結びつけるのは、こじつけだ。占いを信じる人の理屈だ。テスト勉強で覚えたばかりの言葉で言えば、都合のいい標本だけ拾っている。
私は、何度もそう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、でも、どうしても消せない一点があった。
濃さが、合っているのだ。
あの夜、いちばん深く救われたのは、堀田さんだ。命と、体と、罪。三つまとめて救われた人が、店を丸ごと失っている。次に近くにいたのは、屋台の周りにいた客たち。転校、怪我――ばらばらの、でも人生の向きが少し変わるくらいの不運。遠くで花火だけ見ていた人たちには、たぶん、何も。
救われた深さの順に、あとから降ってくるものが重い。
ゆず姉と、同じ並び方だった。
「――ミク?」
気づくと、亜矢がスマホを置いて、私の顔を覗き込んでいた。
「あんたさ、最近、変だよ」
「……そう?」
「そうだよ。ゆず姉んとこ行ったあたりから、ずっと変。なんか調べてるでしょ。昔の祭りのこととか、危ない目に遭ったかとか、森田のこととか。あんた、嘘へたくそなんだから、隠してんのバレバレなんだよね」
亜矢の目は、笑っていなかった。幼なじみの目だった。十年以上、隣で私を見てきた人の目。
今までの私の嘘は、分かった上でつく嘘だった。相手が明日何を知り、何を聞いてくるかまで分かっていたから、つじつまは先回りして合わせられた。
嘘は、準備さえあれば、上手につける。丸腰でつく嘘が、こんなに簡単に見破られるものだなんて、知らなかった。
言ってしまいたい、と思った。喉のすぐ下まで、全部がせり上がってきていた。明日が、視えていたこと。視えなくなったこと。ゆず姉と、堀田さんと、歩くんのこと。私が善意でやってきたことの、あとから届く本当の値段のこと。
でも、口を開いたら、出てきたのは別の言葉だった。
「……ごめん。もうちょっとだけ、待って」
亜矢は、しばらく私を見ていた。それから、大きく息を吐いて、ベッドに転がり直した。
「わかった。待つ。でも、期限つき」
「……期限?」
「あんたがその顔のまま冬休みに入ったら、実力行使で聞き出すから」
窓の外で、風が鳴っていた。私は笑おうとして、うまく笑えなくて、ノートの端を、意味もなく指でなぞった。
その夜、家に帰って、私は「私が変えた明日」のページに、二件目を書いた。
二件目。夏祭り。匿名通報。事故なし。堀田さん、店を畳む。客にも、不運。
書き終えて、ページ全体を見た。ゆず姉。堀田さん。二つの名前の下の余白に、書かれるのを待っている名前が、もう一つあることを、私は知っていた。
いちばん多く救った人の名前が。
シャーペンの先を、余白の上で、長いこと止めていた。書けなかった。書いたら、認めることになる。彼のこれからに降ってくるものの大きさを、私が、いちばんよく知っているということを。
提灯の赤が、揺れていた。
夏の夜の参道に、人が溢れていた。
あちこちで子どもが走りまわり、浴衣の女の子たちが笑い、金魚すくいの水面が揺れていた。
どこからか線香花火の匂いがして、遠くに打ち上げ花火の音がしていた。
いつもの、夏祭りの夜だった。
参道の端に、屋台が並んでいた。綿菓子、焼きそば、かき氷。その列の一番端、提灯の明かりがぎりぎり届かない場所に、発電機が置かれていた。
たい焼き屋の発電機だった。
堀田さんのたい焼き屋さんは商店街の端にあって、尻尾まであんこが一杯入っているから、大人から子どもまでファンが多かった。
その堀田さんが、発電機の燃料を追加しようとして、発電機の横にしゃがんだ。
ガソリンの携行缶を手に取って、給油口に向けた。蓋を開けた。
その瞬間だった。
缶の口から、白いものが噴き出した。霧のように、それは広がった。ガソリンの匂いが、夜気に混じった。発電機の熱が、その霧に触れた。
音は、聞こえなかった。
光が、先だった。
白く、眩しく、そして橙色に変わった光が、参道の一角を塗り潰した。
一瞬遅れて、爆発音が来た。腹の底まで届く、重い音だった。
提灯が、五、六本まとめて吹き飛んだ。
堀田さんは、地面に転がっていた。上半身を庇うように丸まって、動かなかった。発電機の周りに、黒い焦げ跡が広がっていた。屋台の幌が燃えていた。
悲鳴が、重なった。
浴衣に引火した子どもの火を、自分の身体で抱き込んで消火しようとする親。爆風で倒れたカップル。
複数の被害者が出ているのは間違いなかった。
人垣が割れて、人が走った。逃げる人と、近づこうとする人が、入り乱れた。浴衣の母親が、子どもの手を引いて、引いた力が強すぎて、子どもが転んだ。転んだまま泣いている子どもを、母親は引きずるように走った。
救急車のサイレンが、遠くから聞こえ始めた。
人垣の後ろで、二人の男が話していた。
「あの店主、どうなるんだ。逮捕されるんじゃないか」
「子どもも何人か巻き込まれてるらしい。早く来てくれ」
サイレンが、近づいてくる。提灯の残骸が、参道に散らばっていた。
金魚すくいの水槽が割れて、水が流れていた。
誰かが落としたりんご飴が、砂利の上に転がっていた。
汗びっしょりで目を開けた。
目に入るのは、いつもの部屋の天井だった。
扇風機が、静かに回っていた。外からかすかに虫の声がしていた。
明日の夜、自分の身近で最悪の事故が起きるのだ。
眠れないまま朝を迎えて、私は生まれて初めて、事故の当日を、変えようとした。
祭りに行かない、という選択は、なかった。私が行っても行かなくても、事故は起きる。
誰かに話す、も、無理だった。中学三年生が「祭りで屋台が爆発します」と言って、誰が信じてくれるだろう。根拠を聞かれたら、終わりだ。
考えて、考えて、昼過ぎに、私は隣町の駅前まで自転車を走らせた。見つけておいた公衆電話に、十円玉を三枚入れた。受話器の向こうで消防の人が出たとき、胸の鼓動がうるさすぎて、自分の声がよく聞こえなかった。
「――今日の、神社の夏祭りで、屋台の発電機に給油するとき、携行缶の、ガスの圧を抜かないでやろうとしてる店があります。危ないと思います。注意してください」
お名前は、と聞かれる前に、切った。受話器を置いた手が、じっとりと汗をかいていた。帰り道、自転車を漕ぎながら、私はずっと、間に合え、とだけ思っていた。
* * *
夜、私は亜矢と、浴衣で祭りに行った。
提灯は視えた通りに並んでいた。金魚すくいの水面も、りんご飴の赤も、視えた通りだった。ただひとつ、視えたのと違ったのは、屋台の並びの端に、消防団の腕章をつけた大人が二人、立っていたことだ。例の屋台の店主が、その人たちに何か指導されて、頭を掻きながら、発電機を止めて給油し直しているのが見えた。
何も、起きなかった。
花火が上がって、亜矢が歓声を上げて、私はその横で、夜空より、屋台の裏の暗がりばかり見ていた。祭りは最後まで、ただの楽しい祭りだった。爆発も、悲鳴も、白い閃光もない、普通の夏の夜。世界中で私一人だけが、今夜起きなかったことを知っていた。
帰り道、亜矢が「たのしかったねー」と伸びをした。私は「うん」と言った。心の底から、うん、だった。あの夜の私は、まだ、疑うことを知らなかった。よかった、間に合った、誰も傷つかなかった。それだけだった。これまでの人生でいちばん、力を持っていてよかったと思えた夜。
――そのはず、だった。
* * *
「ねえ亜矢。中三の夏祭りって、覚えてる?」
土曜の午後、亜矢の部屋で、私はできるだけ何気なく、切り出した。定期テストの勉強を口実に押しかけたのは、私のほうだった。亜矢はベッドに寝転がってスマホをいじりながら、「覚えてるよー」と答えた。
「浴衣着てったやつでしょ。ミクがずっと心ここにあらずだったやつ」
「……そんなだった?」
「そんなだったよ。花火見てんのに全然見てない顔してた」
見られていた。幼なじみは、怖い。
「あのさ。あの祭りに出てた屋台で、たい焼きの……商店街の角の店、あったじゃん。あそこって」
「ああ、堀田さんとこ? 潰れたよ、去年」
亜矢は、あっさり言った。
「うちのお母さんが常連だったから、けっこう騒いでた。なんか、店主さんが商店街の会計だか何かで揉めて、責任かぶって、借金して、結局店ごと畳んだって。人が好すぎたんだよって、お母さん言ってた。悪いことなんて何もしてないのにねって」
悪いことなんて、何もしてないのに。
また、その言葉だ。ゆず姉のときと、同じ言葉。
堀田さん。あの夜、消防団に頭を掻いていた、あの店主だ。私はあの人の、起きなかった明日を知っている。あのままなら、あの人は大火傷を負って、大勢を巻き込んで、事件になって、たぶん、逮捕されていた。それが全部、起きなかった。起きなかったのに――あの人は結局、店を失っている。火でも、罪でもなく、人の好さで、じわじわと。
「……ほかにさ」
私は、声が硬くならないように気をつけた。
「あの年の夏祭り、行ってた子で、なんか、その後どうかなった子って、いる?」
「なにその質問」
亜矢は笑って、それでも律儀に考え始めた。
「んー……祭りっていうか、あの夏のメンツなら。ほら、隣のクラスの吉井さん、二学期入ってすぐ転校したじゃん。お父さんの会社が急に倒産、とかで。あと、バスケ部の南は、秋の大会前に足首やって、引退試合出られなかった。……え、なに、同窓会でもすんの?」
「ん、ちょっとね」
転校。怪我。倒産。
亜矢の何気ない記憶から出てくる名前を、私は頭の中のノートに、書き留めていった。もちろん、分かっている。一年もあれば、どんな集まりにだって、不運の二つや三つは降る。転校する子はどこにでもいるし、怪我をする部活生もありふれている。これを全部結びつけるのは、こじつけだ。占いを信じる人の理屈だ。テスト勉強で覚えたばかりの言葉で言えば、都合のいい標本だけ拾っている。
私は、何度もそう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、でも、どうしても消せない一点があった。
濃さが、合っているのだ。
あの夜、いちばん深く救われたのは、堀田さんだ。命と、体と、罪。三つまとめて救われた人が、店を丸ごと失っている。次に近くにいたのは、屋台の周りにいた客たち。転校、怪我――ばらばらの、でも人生の向きが少し変わるくらいの不運。遠くで花火だけ見ていた人たちには、たぶん、何も。
救われた深さの順に、あとから降ってくるものが重い。
ゆず姉と、同じ並び方だった。
「――ミク?」
気づくと、亜矢がスマホを置いて、私の顔を覗き込んでいた。
「あんたさ、最近、変だよ」
「……そう?」
「そうだよ。ゆず姉んとこ行ったあたりから、ずっと変。なんか調べてるでしょ。昔の祭りのこととか、危ない目に遭ったかとか、森田のこととか。あんた、嘘へたくそなんだから、隠してんのバレバレなんだよね」
亜矢の目は、笑っていなかった。幼なじみの目だった。十年以上、隣で私を見てきた人の目。
今までの私の嘘は、分かった上でつく嘘だった。相手が明日何を知り、何を聞いてくるかまで分かっていたから、つじつまは先回りして合わせられた。
嘘は、準備さえあれば、上手につける。丸腰でつく嘘が、こんなに簡単に見破られるものだなんて、知らなかった。
言ってしまいたい、と思った。喉のすぐ下まで、全部がせり上がってきていた。明日が、視えていたこと。視えなくなったこと。ゆず姉と、堀田さんと、歩くんのこと。私が善意でやってきたことの、あとから届く本当の値段のこと。
でも、口を開いたら、出てきたのは別の言葉だった。
「……ごめん。もうちょっとだけ、待って」
亜矢は、しばらく私を見ていた。それから、大きく息を吐いて、ベッドに転がり直した。
「わかった。待つ。でも、期限つき」
「……期限?」
「あんたがその顔のまま冬休みに入ったら、実力行使で聞き出すから」
窓の外で、風が鳴っていた。私は笑おうとして、うまく笑えなくて、ノートの端を、意味もなく指でなぞった。
その夜、家に帰って、私は「私が変えた明日」のページに、二件目を書いた。
二件目。夏祭り。匿名通報。事故なし。堀田さん、店を畳む。客にも、不運。
書き終えて、ページ全体を見た。ゆず姉。堀田さん。二つの名前の下の余白に、書かれるのを待っている名前が、もう一つあることを、私は知っていた。
いちばん多く救った人の名前が。
シャーペンの先を、余白の上で、長いこと止めていた。書けなかった。書いたら、認めることになる。彼のこれからに降ってくるものの大きさを、私が、いちばんよく知っているということを。

