「ミク、放課後ヒマ? 部活、見に来ない?」
昼休み、亜矢が玉子焼きを口に放り込みながら、そう言った。
「……なんで急に」
「んー」亜矢は少し声を落とした。
「ちょっとさ、一緒に来てほしいんだけど。怪我の記録が二学期から急に増えてて、マネージャーとして練習、確認したくて」
箸を持つ手が、一瞬、迷った。
この前の、亜矢の目撃談。ゴールポスト。顔面すれすれのボール。倒れてきた部室の棚。あれから私のノートには、歩くんの欄がひっそり増えていた。
書きながら、ずっと、確かめる方法を探していた。亜矢の誘いは、渡りに船――のはずなのに、船に乗るのが怖かった。
「あたしの気にしすぎなら、それでいいの。でも最近、ほんとに多くて。監督も『森田、お前ちょっと祓ってもらえ』とか冗談にしてるけど、あたし、マネージャーだからさ。怪我の記録つけるの、あたしなの。記録、見返したら、なんか、変なんだよね」
「……変って?」
「二学期から、急に増えてる。一学期はゼロだったのに」
二学期から。
私は、自分の顔から血の気が引く音を、聞いた気がした。
* * *
放課後、私は校庭の隅から、サッカー部の練習を見た。ジャージ姿の亜矢が、記録板を抱えて隣に立った。歩くんはグラウンドにいた。よく通る声で誰かを呼んで、笑って、走っていた。ボールを持つと、彼は少しだけ、別人みたいに見えた。思いつきで動く、と本人は言うけれど、グラウンドの思いつきは、こんなにきれいなんだと思った。
異変は、練習試合形式のミニゲームの最中に起きた。
こぼれ球を追って、歩くんと、相手側の大柄な子が、同時に走り込んだ。よくある競り合いに見えた。次の瞬間、大柄な子の足が、濡れてもいない芝で滑った。滑った体が、倒れ込みながら、歩くんの軸足を、真横から刈った。
嫌な角度だった。見ていた私にも分かるくらい、膝が、曲がってはいけない方向にたわんだ。
ピッチの時間が、一瞬止まった。
亜矢が記録板を落として走り出した。監督の笛が鳴った。倒れた歩くんの周りに、部員が集まっていく。私はフェンスを掴んだまま、動けなかった。
――歩くんは、立ち上がった。
膝を二、三度曲げ伸ばしして、「大丈夫っす」と手を挙げた。転んだ子のほうが、青い顔で何度も謝っていた。監督は念のためと言って、歩くんをその日の練習から外した。コートの外に出てくる彼は、軽く足を引きずっていて、でも、笑っていた。
「セーフセーフ。俺、こういうの慣れてるんで」
慣れてる。
その一言が、笑えなかった。
練習後、亜矢が救急箱を片づけている間、私は昇降口の外で、アイシングを膝に当てて座っている歩くんの隣に、気づけば座っていた。
「……痛くないの」
「痛いよ、普通に」
彼は笑った。
「でも折れてない。俺、折れないんだよね、昔から。ぶつかっても、落ちても、挟まっても、なんか最後のとこで、折れない」
「……それ、自慢?」
「自慢だった」
だった。過去形が、夕方の空気の中に、ぽつんと置かれた。
彼はアイシングの位置を直しながら、コートの方を見た。整備をしている一年生たちの声が、遠くでしていた。
「今年、やっと試合出られると思ったんだけどね」
「……え」
「折れてなくても、外されんの。監督は悪くない。俺が監督でもそうする。心配してくれてんだし」
彼は膝の上のアイシングを、少しだけ持ち上げた。
「でも、今学期入ってから、これで何回目だろうな」
私はその数を、頭の中で数えそうになって、やめた。
「なあ、望月。変なこと言っていい?」
「……どうぞ」
「俺さ、最近、死にかけてばっかりいるんだ」
風が、二人の間を通っていった。
「今日のあれも、たぶん普通なら膝いってた。先月は原チャリに轢かれかけたし、その前は駅の階段で後ろから将棋倒しに巻き込まれかけた。家でも、風呂で足滑らせて、あと十センチで頭から浴槽の角だった。一個一個は、まあ、あるじゃんそういうこと、なんだけど」
彼は、指を折って数えていた。折られていく指を、私は数えるのが怖かった。
「二学期入ってから、そんなんばっか。で、全部、ぎりぎりで外れる。外れるんだけどさ、なんつーの、外れ方がだんだん、際どくなってる気がすんの。前は余裕で外れてたのが、最近は、マジで紙一重っていうか。今日のだって、去年の俺ならもっと余裕で避けてた気がする」
去年の俺なら。
私は、膝の上で、自分の手を強く握った。去年。彼の明日を、私が毎晩探しに行っていた頃。真っ暗な水の中に手を伸ばして、彼の一日を視て、それから眠っていた頃。あの頃の彼は、余裕で外れていた。今の彼は、紙一重で外れている。
そして、その境目は、二学期。私の目が、閉じた季節。
「……誰かに、話した? それ」
「言えないでしょ、こんなの」
彼は笑った。
「『最近死にかけてます』って、病院行っても、警察行っても、頭おかしい奴って思われるだけじゃん。原因、ないんだもん。全部ただの偶然で、全部ただの不運。積み重なってるだけ。……ま、一回だけ、言おうとしたことはあったけど」
息を吸う音が、自分で分かるくらい、はっきり鳴った。
「……いつ?」
「秋くらい? 部活の奴に。屋上まで呼び出してさ、俺、実は、って言いかけて」
屋上。俺、実は。
視界の端が、白くなった。あの夜の映像。フェンス。輪郭のぼやけた誰か。途切れた音。私が二ヶ月抱え続けてきた、宙吊りの続きが、いま、本人の口から、こんなに無造作に――
「言いかけて、やめた。口に出したら、なんか、本物になりそうでさ。結局、別の話でごまかした。あいつ、いまだに変な顔してると思う。呼び出しといて、購買の新作の話して帰ったから」
彼は笑った。私は、笑えなかった。笑う代わりに、聞いてしまっていた。
「……本当は、なんて言うつもりだったの」
彼は少しだけ黙った。アイシングの氷が、袋の中で崩れる音がした。
「――『俺、実は、呪われてるかも』って」
冗談の形をしていた。語尾は笑っていた。でも、その言葉を口に出す一瞬前、彼の目が、コートの照明から逃げるみたいに下を向いたのを、私は見てしまった。
呪われてる。
違う、と叫びそうになった。呪いなんかじゃない。呪いというなら、それは――それをかけたのは――
「……そんなこと、ないよ」
出てきた声は、自分でも情けないくらい、薄かった。彼は「だよな」と笑って、立ち上がって、アイシングを亜矢に返しに行った。少し引きずる彼の足音が、昇降口に響いて、遠ざかっていった。
* * *
その夜、私はノートを開いた。
歩くんの欄に、今日の分を書き足す。ミニゲーム。膝。紙一重。それから、彼の口から聞いた分も。原チャリ。将棋倒し。風呂場。日付は分からないから、「二学期」とだけ書いた。書き終えたページは、もう、余白のほうが少なくなっていた。
ゆず姉のページを開く。歩くんのページに戻る。二つのページを、何度も往復した。
ゆず姉は、一度きり、大きく救われて、一度きり、大きく折れた。
歩くんは――
私は、去年までの毎晩を思い出す。探さないと視えなかった彼の明日。見つけるたびに安堵していた、あの夜たち。何十回。いや、何百回。数えられないくらい、私は彼の明日を視てきた。視て、知って、そして、知っていることを、使ってこなかっただろうか。
彼が忘れ物をする日、彼が日直の仕事でひとり残る日、彼が廊下で誰かとぶつかりそうになる日――私はそれを知ったまま、本当に、ただの一度も、何もしてこなかっただろうか。
思い出せば思い出すほど、指先が冷えていった。
小さなことなら、ある。数えきれないくらい、ある。
ゆず姉が一回の大当たりで、あの事故なら。
何百回ぶんの彼は、これから、何を引かされるんだろう。
ノートの上に、書きかけのシャーペンが、転がった。私は両手で顔を覆って、長いあいだ、そのままでいた。指の隙間から見えるノートの罫線が、涙で少しずつ、にじんでいった。
昼休み、亜矢が玉子焼きを口に放り込みながら、そう言った。
「……なんで急に」
「んー」亜矢は少し声を落とした。
「ちょっとさ、一緒に来てほしいんだけど。怪我の記録が二学期から急に増えてて、マネージャーとして練習、確認したくて」
箸を持つ手が、一瞬、迷った。
この前の、亜矢の目撃談。ゴールポスト。顔面すれすれのボール。倒れてきた部室の棚。あれから私のノートには、歩くんの欄がひっそり増えていた。
書きながら、ずっと、確かめる方法を探していた。亜矢の誘いは、渡りに船――のはずなのに、船に乗るのが怖かった。
「あたしの気にしすぎなら、それでいいの。でも最近、ほんとに多くて。監督も『森田、お前ちょっと祓ってもらえ』とか冗談にしてるけど、あたし、マネージャーだからさ。怪我の記録つけるの、あたしなの。記録、見返したら、なんか、変なんだよね」
「……変って?」
「二学期から、急に増えてる。一学期はゼロだったのに」
二学期から。
私は、自分の顔から血の気が引く音を、聞いた気がした。
* * *
放課後、私は校庭の隅から、サッカー部の練習を見た。ジャージ姿の亜矢が、記録板を抱えて隣に立った。歩くんはグラウンドにいた。よく通る声で誰かを呼んで、笑って、走っていた。ボールを持つと、彼は少しだけ、別人みたいに見えた。思いつきで動く、と本人は言うけれど、グラウンドの思いつきは、こんなにきれいなんだと思った。
異変は、練習試合形式のミニゲームの最中に起きた。
こぼれ球を追って、歩くんと、相手側の大柄な子が、同時に走り込んだ。よくある競り合いに見えた。次の瞬間、大柄な子の足が、濡れてもいない芝で滑った。滑った体が、倒れ込みながら、歩くんの軸足を、真横から刈った。
嫌な角度だった。見ていた私にも分かるくらい、膝が、曲がってはいけない方向にたわんだ。
ピッチの時間が、一瞬止まった。
亜矢が記録板を落として走り出した。監督の笛が鳴った。倒れた歩くんの周りに、部員が集まっていく。私はフェンスを掴んだまま、動けなかった。
――歩くんは、立ち上がった。
膝を二、三度曲げ伸ばしして、「大丈夫っす」と手を挙げた。転んだ子のほうが、青い顔で何度も謝っていた。監督は念のためと言って、歩くんをその日の練習から外した。コートの外に出てくる彼は、軽く足を引きずっていて、でも、笑っていた。
「セーフセーフ。俺、こういうの慣れてるんで」
慣れてる。
その一言が、笑えなかった。
練習後、亜矢が救急箱を片づけている間、私は昇降口の外で、アイシングを膝に当てて座っている歩くんの隣に、気づけば座っていた。
「……痛くないの」
「痛いよ、普通に」
彼は笑った。
「でも折れてない。俺、折れないんだよね、昔から。ぶつかっても、落ちても、挟まっても、なんか最後のとこで、折れない」
「……それ、自慢?」
「自慢だった」
だった。過去形が、夕方の空気の中に、ぽつんと置かれた。
彼はアイシングの位置を直しながら、コートの方を見た。整備をしている一年生たちの声が、遠くでしていた。
「今年、やっと試合出られると思ったんだけどね」
「……え」
「折れてなくても、外されんの。監督は悪くない。俺が監督でもそうする。心配してくれてんだし」
彼は膝の上のアイシングを、少しだけ持ち上げた。
「でも、今学期入ってから、これで何回目だろうな」
私はその数を、頭の中で数えそうになって、やめた。
「なあ、望月。変なこと言っていい?」
「……どうぞ」
「俺さ、最近、死にかけてばっかりいるんだ」
風が、二人の間を通っていった。
「今日のあれも、たぶん普通なら膝いってた。先月は原チャリに轢かれかけたし、その前は駅の階段で後ろから将棋倒しに巻き込まれかけた。家でも、風呂で足滑らせて、あと十センチで頭から浴槽の角だった。一個一個は、まあ、あるじゃんそういうこと、なんだけど」
彼は、指を折って数えていた。折られていく指を、私は数えるのが怖かった。
「二学期入ってから、そんなんばっか。で、全部、ぎりぎりで外れる。外れるんだけどさ、なんつーの、外れ方がだんだん、際どくなってる気がすんの。前は余裕で外れてたのが、最近は、マジで紙一重っていうか。今日のだって、去年の俺ならもっと余裕で避けてた気がする」
去年の俺なら。
私は、膝の上で、自分の手を強く握った。去年。彼の明日を、私が毎晩探しに行っていた頃。真っ暗な水の中に手を伸ばして、彼の一日を視て、それから眠っていた頃。あの頃の彼は、余裕で外れていた。今の彼は、紙一重で外れている。
そして、その境目は、二学期。私の目が、閉じた季節。
「……誰かに、話した? それ」
「言えないでしょ、こんなの」
彼は笑った。
「『最近死にかけてます』って、病院行っても、警察行っても、頭おかしい奴って思われるだけじゃん。原因、ないんだもん。全部ただの偶然で、全部ただの不運。積み重なってるだけ。……ま、一回だけ、言おうとしたことはあったけど」
息を吸う音が、自分で分かるくらい、はっきり鳴った。
「……いつ?」
「秋くらい? 部活の奴に。屋上まで呼び出してさ、俺、実は、って言いかけて」
屋上。俺、実は。
視界の端が、白くなった。あの夜の映像。フェンス。輪郭のぼやけた誰か。途切れた音。私が二ヶ月抱え続けてきた、宙吊りの続きが、いま、本人の口から、こんなに無造作に――
「言いかけて、やめた。口に出したら、なんか、本物になりそうでさ。結局、別の話でごまかした。あいつ、いまだに変な顔してると思う。呼び出しといて、購買の新作の話して帰ったから」
彼は笑った。私は、笑えなかった。笑う代わりに、聞いてしまっていた。
「……本当は、なんて言うつもりだったの」
彼は少しだけ黙った。アイシングの氷が、袋の中で崩れる音がした。
「――『俺、実は、呪われてるかも』って」
冗談の形をしていた。語尾は笑っていた。でも、その言葉を口に出す一瞬前、彼の目が、コートの照明から逃げるみたいに下を向いたのを、私は見てしまった。
呪われてる。
違う、と叫びそうになった。呪いなんかじゃない。呪いというなら、それは――それをかけたのは――
「……そんなこと、ないよ」
出てきた声は、自分でも情けないくらい、薄かった。彼は「だよな」と笑って、立ち上がって、アイシングを亜矢に返しに行った。少し引きずる彼の足音が、昇降口に響いて、遠ざかっていった。
* * *
その夜、私はノートを開いた。
歩くんの欄に、今日の分を書き足す。ミニゲーム。膝。紙一重。それから、彼の口から聞いた分も。原チャリ。将棋倒し。風呂場。日付は分からないから、「二学期」とだけ書いた。書き終えたページは、もう、余白のほうが少なくなっていた。
ゆず姉のページを開く。歩くんのページに戻る。二つのページを、何度も往復した。
ゆず姉は、一度きり、大きく救われて、一度きり、大きく折れた。
歩くんは――
私は、去年までの毎晩を思い出す。探さないと視えなかった彼の明日。見つけるたびに安堵していた、あの夜たち。何十回。いや、何百回。数えられないくらい、私は彼の明日を視てきた。視て、知って、そして、知っていることを、使ってこなかっただろうか。
彼が忘れ物をする日、彼が日直の仕事でひとり残る日、彼が廊下で誰かとぶつかりそうになる日――私はそれを知ったまま、本当に、ただの一度も、何もしてこなかっただろうか。
思い出せば思い出すほど、指先が冷えていった。
小さなことなら、ある。数えきれないくらい、ある。
ゆず姉が一回の大当たりで、あの事故なら。
何百回ぶんの彼は、これから、何を引かされるんだろう。
ノートの上に、書きかけのシャーペンが、転がった。私は両手で顔を覆って、長いあいだ、そのままでいた。指の隙間から見えるノートの罫線が、涙で少しずつ、にじんでいった。

