幼馴染はおれのことが好きすぎる

「優希」

 今までに聞いたことがないくらい、低い声だった。
 佐伯が固まる。俺も、手にしていたティッシュを握りしめたまま動けない。
 彼もまた、廊下中に響き渡っていた佐伯の声を聞きつけたのだろう。そこに立っていた綾瀬は、笑っていなかった。普段の穏やかな顔から表情というものがすっかり抜け落ち、色の薄い瞳だけが、最初に俺、次にティッシュ、それから佐伯と、事態を把握するために必要な情報を捉えていく。傍で、佐伯がごくりと息を呑む音が聞こえた。

「い、一条、これは、その」
「佐伯くん」
「はい」
「何があったの」

 声は静かなのに、佐伯の背筋が目に見えて伸びた。

「お、俺が桂木を泣かせました。すみませんでした。あとは本人から聞いてください。それでは」
「佐伯」
「ごめん桂木、俺には無理」

 佐伯は俺の肩を一度だけ叩くと、綾瀬からできるだけ離れた場所を通って保健室を出ていった。扉が閉まり、俺と綾瀬だけが残される。
 綾瀬はゆっくり近づいてくると、俺の前に膝をついた。怒っているはずなのに、目元に触れる指はいつもと同じように優しい。

「どうして泣いてるの」
「別に、なんでもないよ」
「なんでもないのに、ゆうが泣くわけないでしょう」
「これは、その。目から勝手に冷却水が」
「優希」

 もう一度名前を呼ばれて、誤魔化すのを諦めた。
 以前、佐伯に綾瀬が俺を好きだと言われたこと。告白をしたいのに、俺がムードを壊すせいでできないのだと思ったこと。そのために少女漫画を読み、いろいろな場所へ連れ出したこと。そして全部、佐伯の冗談だったこと。
 話しているうちに、綾瀬の顔から怒りが消えていった。代わりに浮かんだ表情が何なのか、俺にはよくわからなかった。

「じゃあ、最近ゆうの様子がおかしかったのは、全部、おれに告白させるためだったの?」
「うん。ごめん。迷惑だったよな」
「迷惑なわけないよ」

 間髪を入れずに否定される。綾瀬は俺の手から濡れたティッシュを取り上げ、新しいものを目元へ当てた。

「でも、俺が勝手に勘違いしてただけだから。男同士なのに、綾瀬が俺をそういう意味で好きかもしれないって」
「好きだよ」

 あまりにもあっさりと言われたので、一瞬聞き間違いかと思った。

「……え?」
「おれは、ゆうのことが好きだよ」
「それは……幼馴染としてだよね?」
「それもあるけど。ゆうが言ってる、そういう意味でも好き」

 綾瀬は、明日の天気でも教えるみたいな口調で言った。俺はしばらく瞬きを繰り返してから、膝の上に置いていたティッシュを握りしめる。

「……じゃあ、どうして告白しなかったの? さっき白状しちゃったけど、それがなくても綾瀬はさ。俺が様子おかしくなりながら頑張ってるの、なんとなく察してただろ。頭いいもん」
「うん、ごめんね。でも、告白したら、どうなるの?」
「どうなるって……付き合うんだろ」
「付き合う?」

 綾瀬が不思議そうに首を傾げる。

「付き合うって、今と何が違うの?」
「え」
「一緒に学校へ行って、お昼を食べて、放課後も一緒に帰る。休みの日にはどちらかの家へ行くし、出かける時も一緒だよね」
「それは、そうだけど」
「だったら、おれたちはもう付き合ってるんじゃないの?」
「いや、違うだろ。そういうのは、きちんとお互いに好きだって伝えて、それで」
「今、伝えたよ」
「そうじゃなくて」

 どう説明すればいいのだろう。
 参考書では、付き合うことになった二人は手を繋いでいた。抱き合ったり、キスをしたりもしていた。けれど、それをそのまま口にするのは、何だかとても恥ずかしい。

「付き合ったら、今までとは違うこともするんだよ」
「違うこと?」
「手を繋いだり、とか」
「それはもうしてるね」
「……二人でデートしたり」
「それも、いつもしてるよ」
「じゃあ、その。キス、とか」

 言ってから、顔が熱くなる。
 綾瀬は驚いた様子も見せず、俺の顔をじっと見つめた。

「ゆうは、おれとキスしたいの?」
「今はそういう話をしてるんじゃなくて、一般的な恋人同士の説明を」
「したくない?」
「……したくないわけじゃ、ないけど」
「じゃあ、したいんだ」
「そういう言い方するなよ」

 顔をそらそうとすると、頬に綾瀬の指が触れた。泣いた跡を確かめるように、目元をそっとなぞられる。

「ゆうは、おれと付き合いたいの?」
「俺の話じゃなくて、綾瀬が俺に告白したいのかって話だろ」
「おれは、ゆうがどうしたいのかを聞いてるんだよ」
「俺は……」

 綾瀬が好きだと言ってくれた時、嬉しかった。
 付き合っているのと変わらないと言われた時も、完全には否定できなかった。それでも、今までと同じでは嫌だと思った。幼馴染という言葉だけでは足りない。綾瀬の特別な相手に、きちんと名前をつけたかった。
 毎朝、迎えに来てくれるのが嬉しい。昼休みに教室の扉で俺を呼ぶ声が好きだ。髪に触れられることも、手を引かれることも、本当は嫌じゃない。
 もし、綾瀬が他の誰かに同じことをしたら。
 考えただけで、胸の奥がぐしゃりと潰れるような気がした。

「俺は、綾瀬と付き合いたい」
「どうして?」
「どうしてって、それは」
「うん」

 逃げ道を塞ぐように、綾瀬が先を促す。
 一度息を吸う。胸のあたりが苦しい。俺が綾瀬に告白させるはずだったのに、どうしてこんなことになっているんだろう。逃げ道がない。俺の様子をみて、綾瀬が言葉を続ける。

「優希は、おれのこと、好き?」

 それが多分、トドメの一撃だった。

「……佐伯が、綾瀬は俺に告白しないって言った時、すごく悲しかった」
「うん」
「どうして悲しいのかわからなかったけど。俺、綾瀬に好きって言ってほしかったんだ。……でも今は、綾瀬に言わせようとするのは、違う気がする。だから」

 放課後の教室でおやせの言葉を待っていた時、同じような気分だった。けれど、告白をする側も、こんなに緊張するのだろうか。それなら俺は、ずいぶん無責任に綾瀬へ押し付けようとしていたことになる。助けが欲しくて、膝の上にある綾瀬の手を握った。

「俺、綾瀬のことが好きだ。これは、ただの幼馴染とか、友達とか、そういう感情とは違うと思うし、そういうものとは一緒にしたくない。どっちも大切で、どっちも俺の本心だと思うから」

 言い終えた途端、頭の中に血が集まったみたいに熱くなる。顔を上げられない。返事の代わりに、握っていた手が強く握り返された。

「……やっと、気づいた」

 笑いを含んだ声が落ちてくる。恐る恐る顔を上げると、綾瀬は泣きそうなくらい嬉しそうに笑っていた。

「おれも、ゆうが好きだよ。ずっと前から、ゆうだけが好き」
「……本当に?」
「うん、本当。ゆう以外を好きになるなんて、考えたこともない」

 何だかすごいことを言われた気がする。けれど、綾瀬の笑顔を見ていると、深く考えてはいけないような気もした。
 窓の外から、昼休みの終わりを知らせる予鈴が聞こえる。保健室で、泣き腫らした目のまま、俺たちは手を握っている。夕焼けも、観覧車も、花火もない。参考書に載っていたものとは何一つ似ていない。
 それでも、今まで試したどの場所よりも、ここが俺たちにとっての正解なのだと思った。