幼馴染はおれのことが好きすぎる

 ……ところで、たいした用事もないのにどうやって、教室へ居座ればいいんだろう。
 朝の決意は何処へやら、最後の授業が終わり、下校前のホームルームまでの間。放課後を目前に控えて、俺はすっかり困り果てていた。自分の席で、家から持ってきた”勉強ノート”を見返す。参考書では、主人公が委員会の仕事で遅くなって、そこへ王子様がやってきて……という感じだった。俺も一応委員会には所属しているけれど、今日やるべき仕事はない。こんな日に限って、居残って片付けるような課題も特に出ていない。頭を抱えていると、担任が教室へやってきて、いつも通りホームルームが始まる。まずい。いよいよ放課後になってしまう。

「……あー。なんか黒板、汚いな。誰か綺麗にしておいてくれ。それじゃ、今日は終わり」

 気だるそうに教室へやってきた担任は、諸々の連絡を伝えた後、最後にそんな言葉を残して、教室を出て行った。
 ……これだ!
 主の退室により騒がしさを取り戻した教室で、閃いた俺は、すぐさま綾瀬に連絡を入れる。

 ちょっと用事できたから、帰るの遅くなるかも。

 綾瀬の方も、ちょうどホームルームが終わったところだったのだろう。すぐに「わかった、待ってるよ」という返事が来たのを確認して、俺は黒板へ向かう。

「あれ、どうしたの桂木くん」

 さっそく、教室に誰もいなくなるくらいの時間をかけて、ピカピカにしてやろう。意気込みながら掃除用具を手に取ったら、すでに掃除の準備を始めていた女子生徒に話しかけられた。ひょっとしてこの子も、ちょっと時間を稼ぎたいとか、そういう感じなのだろうか。思いながら、口を開く。

「黒板、綺麗にしようと思って。先生も言ってたし」
「え、いいよ。私が日直だから、私がやるよ」
「でも、一人より二人でやった方が早いと思うから」

 日直という立場に対抗できるもっともらしい言葉が思い浮かばず、咄嗟にそんなことを言ってしまった。女子生徒は少しだけ驚いたあと「じゃあ、お言葉に甘えて手伝ってもらおうかな」と微笑む。なんだか少し、悪いことをしている気分になった。

 その後。結構な時間をかけて掃除を完了させると、女子生徒は黒板消しを元の場所へ戻しながら、ふと俺の顔を見た。

「桂木くんって、意外と普通に話せるんだね」
「普通に?」
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて」
「うん。俺も、変な意味だとは思ってないよ」

 女子生徒はなぜか困ったように笑って、教室を出ていった。結局、何が意外だったのかは聞きそびれてしまった。
 心なしか光っているように見える黒板を前に、満足げに胸を張りながら、教室を見渡す。もちろん、誰もいない。完璧だ。あとは綾瀬がここへ来れば……。
 ……用事があって待たせているのは俺の方なのだから、俺が迎えにいくべきか。思い直すと、荷物をまとめて教室を出る。そういえば、用事がある時はいつも綾瀬が俺の教室へ来てくれるから、こうやって俺の方から迎えにいくのは初めてかもしれない。新鮮な気持ちで廊下を歩き、綾瀬の教室へ向かう。
 人気がなく、しんとした室内を覗きこむと、窓際に綾瀬が立っていた。計算され尽くした彫刻みたいに、整った横顔。頬に影を落とすまつ毛。長い手足。昨日本屋で見かけた、ファッション雑誌の表紙に似ている、と思った。

「綾瀬」

 声をかけると、それまで校庭へ向けられていた視線が、ゆったりとした動きでこちらを見る。真顔に近かった表情がふわりと綻んで「ゆう」と、形の良い唇が俺の名前を呼んだ。別に、特別なことはない。名前を呼ばれるなんていつも通りだ。それなのに、心臓が妙な動き方をする。これも寝不足の影響だろうか。

「ごめん綾瀬、待たせた」
「全然待ってないよ。それじゃあ、帰ろうか」
「あ……」

 しまった。教室へ居残ることを重要視しすぎて、ここから先は何も考えていない。鞄を持ち、出口へ向かおうとする綾瀬の手を咄嗟に掴む。

「ま、待って」
 
 振り返った綾瀬の目が、驚きで丸くなっていた。

「ゆう、どうしたの? まだ何か、用事がある?」
「えっと……その」

 強いて言うなら、綾瀬とここへ残る、ということ自体が用事だ。具体的にどれくらいの時間残るかと言うと、この教室へ西陽が差し込むまで。参考書で描かれる放課後は、夕焼けに染まっていた。だから俺たちも、そうしなくてはならない。

「用事はないんだけど……もう少し、綾瀬と一緒にいたいなって、思って」

 ムードを作り出すためとはいえ、最近の俺は嘘を生み出しすぎている気がする。嘘つきは泥棒の始まりだ。じゃあ終わりはどこにあるんだろう。正直者になった時? 嘘を自白した時? そもそも泥棒って、ああ、だめだ。こんなときに、その場の状況とはあまり関係ないことを考える、悪癖を発動してはいけない。
 ぐるぐる言葉が巡る脳内に翻弄されて、なんだか綾瀬の顔が見られない。こんな変なことを言って「なにそれ変なの。いまから一緒に帰るんだから、帰りながらでも一緒にいられるでしょ」なんて、ごもっともなことを言われたらもう打つ手がない。くすくす。頭上で、綾瀬が笑う気配がする。

「いいよ。それじゃあ少し、お話ししていこうか」

 綾瀬は俺の手を握り返すと、俺を窓際へ連れていった。二人並んで、特に意味もなく校庭を眺める。運動部の掛け声。金属バットがボールを弾く音。吹奏楽部の、まだ曲にはなっていない音の列。話をしようと言ったわりに、綾瀬は何も言わなかった。俺も、何を話せば告白しやすい雰囲気になるのかわからない。
 そのまま十分。二十分。三十分。
 時々、今日の授業の話をした。体育で誰が転んだとか、食堂の新しいメニューはおいしそうだとか、廊下に落ちていた消しゴムがやけに四角かったとか。最後の話は綾瀬に「消しゴムはだいたい四角いよ」と言われて終わった。
 窓から差し込む光は少しずつ色を深くして、ついには参考書で見たものとよく似た橙色に教室を染めた。机も、黒板も、隣に立つ綾瀬の横顔も、全部が夕焼けの中にある。
 来た。今だ。
 きっと今こそ、綾瀬が長いあいだ待ち望んでいた瞬間だ。俺は意味もなく背筋を伸ばし、覚悟を決めてその横顔を見上げた。ところが、綾瀬は窓の外を見たまま、いつまで経っても口を開かない。
 運動部の声が遠くなる。吹奏楽部の演奏も終わる。夕焼けは待ってくれず、教室の隅から少しずつ青い影が広がってくる。追い立てられたのか、綾瀬が不意に口を開いた。

「暗くなってきたね。……そろそろ帰ろうか。ゆうのお母さん、心配しちゃうよ」
「あ……あのさ、綾瀬」

 鞄を持ち上げようとした手が止まる。綾瀬が、どうしたの、と俺を見る。
 ここまで舞台を整えたのに、何も起こらないなんてことがあるだろうか。いや、ある。実際、起きている。もしかしたら、最後に何かきっかけが必要なのかもしれない。参考書の主人公たちも、告白の前には意味深な言動や会話をしていた。だったら、俺も。

「俺に何か、言うことない?」
「……ゆうに、言うこと?」

 ちょっと直接的すぎたかもしれない。言葉を受けた綾瀬が、顎に手を添えて考え込む。しばらくはそうして黙ったままで、やがて、何かに思い当たったように顔を上げた。

「俺のクラス、今日抜き打ちで英語のテストがあったよ」
「……えいごの、テスト?」
「だからゆうのクラスも、来週テストがあるかも」
「そ、そうなんだ……ありがとう」

 綾瀬がいうんだから、その通りなんだろうな。来週に向けてきちんと準備をしなければ。
……いや、違う。そうじゃない。確かに俺にとってはかなり重要な情報だけど、今だけはどうでもいい。

「綾瀬、それだけ?」
「うん? うん」
「他には?」
「ほか……?」

 綾瀬は再び考え込んだ。今度は待っても待っても、何も出てこない。やがて窓の外へ目を向け、名残惜しそうに細める。

「……好き、なんだけどね」
「えっ」
「ゆうを迎えにいくの」
「……えっ」
「だけど今日は、二回もゆうに迎えに来てもらっちゃった。最初に言った通り、迎えにいくのだって好きだけど、迎えに来てもらうのも、いいね」

 そう言って、綾瀬は嬉しそうに笑った。夕焼けの名残が色素の薄い瞳に溶けて、きらきらと光っている。その笑顔があまりにも……かわいくて。なにかこの世で一番、綺麗なものを見ているようで、何も言えなくなった。俺が欲しかったのはその「好き」じゃない。そう訂正しないといけないのに、綾瀬が嬉しいなら、今日のところはこれでもいいような気がしてしまう。
 結局俺は、頷くことしかできなかった。