結局、優希は引っ越しをしなかった。詳しくは聞いてないし、優希も言わなかったけれど、お兄さんの受験がうまくいかなかったらしい。
大切な優希のお兄さんのことなのに、俺は一緒に悲しむことができなかった。それよりも、優希がこの街へ留まってくれるということが、嬉しくて仕方がなかった。こんなことを考えるなんて、俺は幼馴染としても、友達としても失格なのかもしれない。
でも、それでもいい。
だって、他の誰でもない優希が俺を、一番だと言ってくれたから。
「桂木って、最近彼女できたの?」
中学生の時だった。
教室で突然そう聞いてきた友人の視線の先には優希と、その向かいで楽しそうに話す女子生徒がいる。
「ゆうに彼女はいないよ」
「ニコイチの一条がいうんだから、まあ、そうなんだろうけどさ。でも、時間の問題って感じじゃない? あそこがくっつくの」
俺は、心の中で全部を笑い飛ばしてやりたいような気持ちになる。けれど、実際に声をあげたのは、視線の先にいる女子生徒だった。優希が何か面白いことでも言ったのか、楽しそうに口角をあげ、細い指で優希に触れる。
「桂木に彼女ができたら、一条も寂しくなるな」
「……なんで?」
「何でって……今までみたいに桂木と一緒にいられなくなるじゃん」
「……そうなの?」
「そうだよ。どれだけ仲良い友達がいたって、彼女ができたらそっちが一番になるだろ」
日本語で説明されているはずなのに、何一つとして理解ができない。彼女が一番? まさか。優希は俺が一番だと言ってくれた。実際今に至るまで、優希の一番近くにいたのは俺だ。それなのに、幼馴染でも何でもない、ただ中学の一年間でたまたまクラスが同じになっただけの人間が、その場所を奪えるわけがない。思いながらも、心臓が嫌な脈の刻み方をしている。この感情は、なんだ? いまの今まで、女子生徒と優希が一緒にいても別に、何も感じなかったのに。
「ゆうも」
「ん?」
「ゆうも、そうなのかな」
「……そうなんじゃない? ちょっと変わってるところあるけど、桂木も健全な男子なんだから」
一番の、上がある。
安心していた。慢心していた。どうして思い至らなかったんだろう。そうか、人間関係には、幼馴染や友人のままでは到達できない場所があるんだ。あの女子生徒は、きっとそこへ入ることができる。今みたいに優希の隣で笑って手をとって、優希もそれに応えて、俺には見せないような顔を、ゆうき、が。
「……ありえない」
気がつけば、口から言葉が漏れていた。ありえない、桂木優希の一番は俺だ。それ以外に誰がなり得るというんだ。指先に力が籠って、爪が皮膚を食い破ろうとする。今すぐ優希をあいつから引き離さないと。そんな声が、頭の中に響く。
「……一条?」
友人に声をかけられて、ようやく自我を取り戻す。慌てて手を開くと、掌には四つの爪痕がくっきりと残って、少しだけ血が滲んでいた。視線を戻すと、優希はまだ、あの女子生徒と楽しそうに話している。そこに俺は、いないのに。
「お前なんか……大丈夫? 顔色悪いけど」
「……おれは平気だよ、ありがとう」
「まあでも、わかるよ。親友に彼女ができるって、なんか複雑だよな。俺から言い出したことだけど、あの二人が付き合うかどうかなんて本人たち次第なんだし、今からそんなに身構える必要はな」
「付き合う、って」
友人の言葉を遮り、自分の話をする。
「付き合ったら、何が変わるの?」
「何って……俺も経験ないけど、一緒に帰ったり、休みの日に遊んだりするんじゃない?」
「それだけ?」
「それだけって、お前……」
それなら今と何も変わらない。優希と俺は、ほとんど毎日一緒に登校して、時間が合えば一緒に帰って、怒られない範囲で寄り道をする。休みの日にはどちらかの家へ行くことが多いし、たまに買い物や映画にも行く。誕生日にはプレゼントを渡す。家族より長い時間を一緒に過ごす日だってある。
「……あと、変わることといえば、やっぱりあれなんじゃない? その……言いにくいけど、手を繋いだりとか、キスしたりとか、そういう」
友人が顔を赤くしながら、言いにくそうに言葉を並べた。確かに、優希とそういうのはしたことがない。でも多分、できる。俺がお願いしたら、優希は頷いてくれる。そもそも、優希がそういうことをするとしたら、相手は俺以外いない。
というより、いてはならない。優希の一番は俺で、俺の一番も優希だ。だからやっぱり、付き合っただけの相手が俺の立場を上回るなんて……、……。
「……あのさあ、一条。言いにくいんだけど、さっきから様子がおかしいのって、その……お前ってもしかして、桂木のことが好」
「違うよ」
「えっ、違うの? それはそれで驚」
「好きなのは当たり前だよ。でもおれは、それだけじゃ満足できない」
今は、いい。学校という閉鎖空間では、何もしなくても、優希は俺のそばにいる。
でも、これから高校へ行ったら。大学へ行ったら。社会人になったら?
俺たちはずっと隣の家に住んでいるわけじゃない。クラスだって変わる。学校だって変わる。これから優希は、俺の知らない人間に何百人、何千人と出会う。その中に、新しく優希の一番になる人がいるかもしれない。そうしたら、俺は。
「おれは、ゆうの全部が知りたいし、触れたいし、欲しいんだよ」
──誰かと比べられること自体が、駄目なんだ。数ある選択肢の中から俺を選んでもらうんじゃない。俺以外を選ぶという発想そのものが、優希の中に生まれなければいい。朝起きたら歯を磨くように、顔を洗ったらタオルで拭くように、桂木優希の当たり前になりたい。
そのためにはどうしたらいい?
「……俺、何にも聞かなかったことにしようっと」
友人──田口がそう言って視線をそらす。この時の彼はまさか、今後も俺と、高校はもちろんクラスまで一緒になるなんて、思ってもいなかっただろう。
あの日から俺は、優希が困るたびに手を差し伸べ、優希に必要なものを一つずつ引き受けていった。朝になれば迎えに行き、忘れ物がないか確かめ、どこへ行くにも隣を歩いた。そうして長い時間をかけて、優希の日常に、俺がいない方が不自然になるくらい深く入り込んだ。
そうして長い時間をかけてようやく、俺は桂木優希の当たり前になったんだ。
大切な優希のお兄さんのことなのに、俺は一緒に悲しむことができなかった。それよりも、優希がこの街へ留まってくれるということが、嬉しくて仕方がなかった。こんなことを考えるなんて、俺は幼馴染としても、友達としても失格なのかもしれない。
でも、それでもいい。
だって、他の誰でもない優希が俺を、一番だと言ってくれたから。
「桂木って、最近彼女できたの?」
中学生の時だった。
教室で突然そう聞いてきた友人の視線の先には優希と、その向かいで楽しそうに話す女子生徒がいる。
「ゆうに彼女はいないよ」
「ニコイチの一条がいうんだから、まあ、そうなんだろうけどさ。でも、時間の問題って感じじゃない? あそこがくっつくの」
俺は、心の中で全部を笑い飛ばしてやりたいような気持ちになる。けれど、実際に声をあげたのは、視線の先にいる女子生徒だった。優希が何か面白いことでも言ったのか、楽しそうに口角をあげ、細い指で優希に触れる。
「桂木に彼女ができたら、一条も寂しくなるな」
「……なんで?」
「何でって……今までみたいに桂木と一緒にいられなくなるじゃん」
「……そうなの?」
「そうだよ。どれだけ仲良い友達がいたって、彼女ができたらそっちが一番になるだろ」
日本語で説明されているはずなのに、何一つとして理解ができない。彼女が一番? まさか。優希は俺が一番だと言ってくれた。実際今に至るまで、優希の一番近くにいたのは俺だ。それなのに、幼馴染でも何でもない、ただ中学の一年間でたまたまクラスが同じになっただけの人間が、その場所を奪えるわけがない。思いながらも、心臓が嫌な脈の刻み方をしている。この感情は、なんだ? いまの今まで、女子生徒と優希が一緒にいても別に、何も感じなかったのに。
「ゆうも」
「ん?」
「ゆうも、そうなのかな」
「……そうなんじゃない? ちょっと変わってるところあるけど、桂木も健全な男子なんだから」
一番の、上がある。
安心していた。慢心していた。どうして思い至らなかったんだろう。そうか、人間関係には、幼馴染や友人のままでは到達できない場所があるんだ。あの女子生徒は、きっとそこへ入ることができる。今みたいに優希の隣で笑って手をとって、優希もそれに応えて、俺には見せないような顔を、ゆうき、が。
「……ありえない」
気がつけば、口から言葉が漏れていた。ありえない、桂木優希の一番は俺だ。それ以外に誰がなり得るというんだ。指先に力が籠って、爪が皮膚を食い破ろうとする。今すぐ優希をあいつから引き離さないと。そんな声が、頭の中に響く。
「……一条?」
友人に声をかけられて、ようやく自我を取り戻す。慌てて手を開くと、掌には四つの爪痕がくっきりと残って、少しだけ血が滲んでいた。視線を戻すと、優希はまだ、あの女子生徒と楽しそうに話している。そこに俺は、いないのに。
「お前なんか……大丈夫? 顔色悪いけど」
「……おれは平気だよ、ありがとう」
「まあでも、わかるよ。親友に彼女ができるって、なんか複雑だよな。俺から言い出したことだけど、あの二人が付き合うかどうかなんて本人たち次第なんだし、今からそんなに身構える必要はな」
「付き合う、って」
友人の言葉を遮り、自分の話をする。
「付き合ったら、何が変わるの?」
「何って……俺も経験ないけど、一緒に帰ったり、休みの日に遊んだりするんじゃない?」
「それだけ?」
「それだけって、お前……」
それなら今と何も変わらない。優希と俺は、ほとんど毎日一緒に登校して、時間が合えば一緒に帰って、怒られない範囲で寄り道をする。休みの日にはどちらかの家へ行くことが多いし、たまに買い物や映画にも行く。誕生日にはプレゼントを渡す。家族より長い時間を一緒に過ごす日だってある。
「……あと、変わることといえば、やっぱりあれなんじゃない? その……言いにくいけど、手を繋いだりとか、キスしたりとか、そういう」
友人が顔を赤くしながら、言いにくそうに言葉を並べた。確かに、優希とそういうのはしたことがない。でも多分、できる。俺がお願いしたら、優希は頷いてくれる。そもそも、優希がそういうことをするとしたら、相手は俺以外いない。
というより、いてはならない。優希の一番は俺で、俺の一番も優希だ。だからやっぱり、付き合っただけの相手が俺の立場を上回るなんて……、……。
「……あのさあ、一条。言いにくいんだけど、さっきから様子がおかしいのって、その……お前ってもしかして、桂木のことが好」
「違うよ」
「えっ、違うの? それはそれで驚」
「好きなのは当たり前だよ。でもおれは、それだけじゃ満足できない」
今は、いい。学校という閉鎖空間では、何もしなくても、優希は俺のそばにいる。
でも、これから高校へ行ったら。大学へ行ったら。社会人になったら?
俺たちはずっと隣の家に住んでいるわけじゃない。クラスだって変わる。学校だって変わる。これから優希は、俺の知らない人間に何百人、何千人と出会う。その中に、新しく優希の一番になる人がいるかもしれない。そうしたら、俺は。
「おれは、ゆうの全部が知りたいし、触れたいし、欲しいんだよ」
──誰かと比べられること自体が、駄目なんだ。数ある選択肢の中から俺を選んでもらうんじゃない。俺以外を選ぶという発想そのものが、優希の中に生まれなければいい。朝起きたら歯を磨くように、顔を洗ったらタオルで拭くように、桂木優希の当たり前になりたい。
そのためにはどうしたらいい?
「……俺、何にも聞かなかったことにしようっと」
友人──田口がそう言って視線をそらす。この時の彼はまさか、今後も俺と、高校はもちろんクラスまで一緒になるなんて、思ってもいなかっただろう。
あの日から俺は、優希が困るたびに手を差し伸べ、優希に必要なものを一つずつ引き受けていった。朝になれば迎えに行き、忘れ物がないか確かめ、どこへ行くにも隣を歩いた。そうして長い時間をかけて、優希の日常に、俺がいない方が不自然になるくらい深く入り込んだ。
そうして長い時間をかけてようやく、俺は桂木優希の当たり前になったんだ。


