王子様たちの憂鬱

校内案内で道を間違えた黒王子が、次に任されたのは、バスケットボール指導だった。

リングは壁際に固定されている。コートの線も引かれている。さすがの黒馬でも、ゴールを探して特別棟へ迷い込む心配はない。

もっとも、学校はその分、僕たちの距離を勝手に動かすことにしたらしい。

放課後の体育館には、ゴール正面へ向けたカメラと照明が置かれていた。僕は学校指定の体育着、黒馬はバスケットボール部の濃紺の練習着を着ている。普段の制服より肩幅がはっきり見えるせいで、同じ高校二年生という分類が急に大雑把に思えた。

前回、顔色だけで僕の疲れを見抜き、飲み物を押しつけてきた男だ。人の含みは読めなくても、体の変化は見ている。

「今回は、部活動と体育施設を紹介する短編動画です」

久世副校長が、僕たちへ撮影台本を配った。

〈黒馬、白鳥へシュートフォームを指導〉
〈黒馬、白鳥の背後へ入り、腰へ手を添える〉
〈二人の上半身の距離は十五センチ以内〉

十五センチ。

自然な学校生活は、ついに定規で測られるようになった。

黒馬がスポーツバッグから透明なファイルを出し、先に渡されていた進行案と今日の台本を並べた。

「前の紙は、横に立って教えるって書いてあります」

「映像でフォームの違いが伝わりやすいよう、構図を調整しました」

「腰を触ると、分かりやすいんですか」

「重心の位置を示せますし、黒馬君の指導力も伝わります。あくまで競技上の補助です」

副校長の説明は穏やかだった。十五センチ以内という指定だけが、競技より別の何かに熱心に見える。

黒馬は二枚の紙を重ね、いつものように二つ折りにしてファイルへ戻した。

「白鳥、嫌なら言って」

カメラの前で聞くな。

「まずは普通に教えてもらえますか。台本の場面は、そのあとでしょう」

外向きの声で返すと、黒馬はうなずいた。



僕は運動が不得手なわけではない。

走れば平均より速いし、長距離も人並みにはこなせる。跳び箱やマット運動も、手順が決まっているものなら問題ない。

球技だけは別だった。

投げた物が相手や床や空気に反抗し、予測していない方向へ戻ってくる。人間関係だけでも面倒なのに、球体まで意思を持つ必要があるだろうか。

「まず一回、いつも通りに投げて」

黒馬からボールを受け取り、フリースローラインへ立つ。

膝を曲げ、リングを見て、腕を伸ばす。放ったボールはバックボードへ当たり、リングの右側を弾いた。

「力が強い?」

「強さより、手だけで投げてる。あと肘が外に逃げた」

黒馬は僕の横へ立ち、ボールを構えた。

「足は肩幅。つま先と膝をリングに向ける。ボールは手のひらに乗せすぎない。膝を伸ばすのと一緒に、最後は指で押す」

言いながら、一度だけシュートを打つ。

ボールは高い弧を描き、ネットへ触れる音だけを残して落ちた。

普段の黒馬は、言葉が足りない。体育館では、余計な言葉がない。

どこへ立ち、どこへ力を移し、いつ指を離すか。本人の中に順序があり、それを僕にも分かる形へ分けて渡してくる。

「もう一回」

言われた通りに足を置く。今度はリングの手前へ当たった。

「方向は合った。今のは膝が途中で止まった」

「褒めるなら最後まで褒めろ」

「合ったところと、違うところがある」

慰めではなく、事実だけを返される。

食堂で僕の悪口を、何が駄目か分かるから役に立つと言った男は、自分の指導でも同じことをするらしい。

三度目のボールが、リングの内側へ当たって落ちた。

「入った」

「見れば分かる」

「白鳥、今ちょっと笑った」

「入ったからだ。お前に向けたものではない」

カメラの横で、小野寺が進行表へ視線を落とした。笑いを堪えているなら、記録には残さないでもらいたい。

「では、次は台本の指導場面を撮りましょう」

久世副校長の声で、体育館が急に学校の所有物へ戻った。

僕は指定された位置へ立ち、ボールを胸の前で構えた。黒馬が背後へ回る。

百八十八センチの体が後ろに立つと、視界へ入っていなくても分かる。床を踏む音も、空気の狭まり方も、僕より大きい。

黒馬が、スタッフには聞こえない声で言った。

「白鳥。腰、触っていい?」

「台本に書いてあるだろ」

「書いたのは白鳥じゃない」

以前、肩へ触れる時にも同じようなことを言った。

部活動では接触に慣れているはずの男が、演出で決められた僕の体だけは、僕へ確認する。

「……いい」

「分かった」

大きな手が、僕の腰へ添えられた。

押さえつける力はない。ただ、薄い体育着越しに、手の位置だけがはっきり分かる。

呼吸が一拍、止まった。

黒馬の指がわずかに緩んだ。僕の横顔を確かめたようだったが、何も決めつけず、台本どおりの位置に手を戻す。

「重心、右に逃げてる。真ん中」

耳に近いところから声が落ちてきた。

「肘を前。膝と一緒に上げる」

言われた通りに投げたつもりだった。

ボールはリングの手前へ当たり、こちらへ戻ってくる。

「はい、一度止めます」

小野寺の声と同時に、黒馬の手が離れた。

ほっとした。

そのはずなのに、腰の一箇所だけが、急に何もなくなったことを知らせている。

体格差のせいだ。後ろに大きな人間が立ち、触れると予告され、実際に触れられた。意識する方が正常で、何も感じない方が鈍い。

「もう一度お願いします」

僕が先に言うと、黒馬が僕を見た。

「また触っていい?」

「さっき許可した」

「今もいいかは別だろ」

意味が分からない。

意味が分からないのに、胸の奥だけが騒がしい。

「……いい。早くしろ」

二度目の手が、同じ場所へ触れた。

今度は呼吸を止めないよう意識した。そのせいで呼吸という行為そのものが不自然になったが、ボールは高く上がり、ネットを揺らした。

「入りました。今の、とてもよかったです」

久世副校長が満足そうに言った。

黒馬はすぐ手を離した。

成功したのだから、当然だ。

もう必要がない。それだけのことに、僕は自分でも説明できない不満を覚えた。



予定していたカットを撮り終える頃には、指先が少し熱を持っていた。

最後のパスを受け損ね、右手の人差し指の側面をボールのざらついた表面へ強く擦ったらしい。薄く皮がめくれ、赤い筋ができている。

大した怪我ではない。僕がそのままボールを戻そうとすると、黒馬が手元を見た。

「白鳥、指」

「これくらいで騒ぐな」

「血がつく」

競技者らしく、心配より先に事実だった。

撮影は終わり、カメラの赤いランプも消えている。小野寺たちは機材を片づけ、久世副校長は広報担当の教員と先に体育館を出た。

黒馬はスポーツバッグから消毒用の個包装と白いテープを取り出した。

「巻く。指、触っていい?」

また聞く。

腰より指の方が、よほど日常的な接触だろうに。

「……いい」

黒馬は僕の右手を取った。

ベンチへ並んで座るより、向かい合った方が巻きやすいらしい。僕の前へ片膝をつき、傷を拭いてから、人差し指へ細くテープを回していく。

指先を潰さない。関節も曲げられる。最後に一度、きつくないか確かめるように、僕の指を軽く曲げた。

「痛い?」

「少し」

「投げる時、指に力を入れすぎ」

「お前の教え方が悪い」

「そこは白鳥が直すところ」

「慰めるという発想はないのか」

「慰めたら、痛くなくなる?」

「ならない」

「じゃあ言わない」

カメラが回っていた時、僕たちの距離は十五センチ以内と指定されていた。

今は誰も測っていない。

黒馬は僕の手元を見るために顔を寄せ、僕も巻かれていくテープを見下ろしている。台本の時より、こちらの方が近い。

それなのに、不快ではなかった。

むしろ黒馬が指を離した時、もう終わったのかと思った。

その考えを認識した瞬間、腰へ触れられた時より強く動揺した。

僕は、触られることを嫌がっているのではない。

触れられたいと思った。

相手が黒馬だから、などという結論は早計だ。怪我を手当てされれば、誰でも多少は安心する。大きな手で慎重に扱われれば、体格差のせいで意識もする。

これは恋愛ではない。距離と状況が作った錯覚だ。

学校が喜びそうな名前を、自分からつける必要はない。



着替えを終えて旧放送室へ戻ると、確認用の編集データが届いていた。

題名は、〈十五センチの距離〉。

誰が数えたのかも分からない数字が、僕たちの関係を説明する言葉に昇格している。

映像では、黒馬が僕の背後へ立ち、腰へ手を添える。触っていいか尋ねた声は切られていた。

僕の呼吸が止まった最初のテイクから、黒馬の手と僕の横顔だけを使い、次のテイクでシュートが入った場面へつないでいる。

作られた十五センチの中へ、僕の本物の一拍だけが混ざっていた。

編集としては滑らかだ。起きていない成功を捏造したわけでもない。削除を求めるなら、何が嫌なのか説明しなければならない。

まさか、触れられた瞬間だけは演技ではなかったから、勝手に使うなと言えるはずもない。

僕は公開前確認の欄へ、問題なしと入力した。

自分で許可したことが、余計に腹立たしい。

公開から一時間もしないうちに、動画の反応は前回を上回った。

〈十五センチって近すぎない?〉
〈白王子、腰に手が来た瞬間だけ固まってる〉
〈黒王子の教え方、ちゃんと分かりやすい〉

最後のコメントだけを残し、ほかは焼却したい。

僕は同盟ノートへ書き足した。

〈球技に不慣れな姿を隠さない〉
〈結果 失敗〉
〈『十五センチの距離』として好評〉

僕の右手には、黒馬が巻いた白いテープが残っている。

画面の中の腰への手は学校が指定したものだ。

画面の外で指を取った手は、誰にも命じられていない。

二つを同じ種類の親密さとして消費されるのは嫌だった。だからといって、どちらも偽物だと切り捨てるのも、なぜかもっと嫌だった。

黒馬が向かいの席から言った。

「白鳥」

「何だ」

「さっき、腰触った時、息止めた?」

ペン先が、紙の上で止まった。

違うと言えばいい。

驚いただけだ。距離が近かった。体育館が暑かった。いくらでも答えは作れる。

けれど黒馬は、僕の呼吸を覚えている。

そして、勝手に意味を決めず、僕へ聞いている。

端末が鳴った。

久世副校長から、新しい企画書が届いていた。

〈次回撮影 ダブルプリンス相性質問〉
〈同じ答えがいくつそろうか、二人の相性を検証します〉

僕が答えられないまま、学校は次の答えまで商品にしようとしていた。