黒王子は、生配信開始から四分で迷子になった。
食堂の〈白王子の忖度なしレビュー〉が予想に反して好評だったせいで、次に用意されたのはオープンキャンパスの校内案内だった。
今回の主役は黒馬だ。
僕たちの作戦は、案内役を黒馬へ任せ、格好悪い失敗が起きても隠さないこと。前回までのように、僕が横から都合のいい意味へ直すのも最小限にする。
〈黒王子が先導する、在校生目線の麗峰ツアー〉
久世副校長から渡された題名は、道を知っている人間へ使うものだと思う。
「分からなくなったら、分からないって言う」
開始前、正面玄関脇の配信ブースで、黒馬は折り畳んだ案内図を制服のポケットへ入れた。
「それでは前回と同じだ。お前が正直で信頼できる人間として販売される」
「じゃあ、迷ったら隠さない」
「迷う前提で話すな」
「順路は覚えた」
そう言って、黒馬は自信ありげに案内図を軽く叩いた。
自信と能力が無関係だという見本を、僕は四分後に見ることになる。
小野寺がカメラの横で色分けした進行表を確認した。最初のオープンキャンパスの時より、紙を持つ手は安定している。
「最初は図書館、そのあと視聴覚室、特別教室棟を通って食堂です。ほかの見学班と重ならないよう、順路変更があれば私からお伝えします」
「分かりました」
黒馬の返事は明瞭だった。
意味まで正しく届いている保証はない。
赤いランプが点灯する。
「本日は麗峰学園のオープンキャンパスへお越しいただき、ありがとうございます。案内を担当する二年の白鳥衛です」
「黒馬柾です。今日は俺が案内します」
黒馬は余分な愛想を足さず、集まった受験生と保護者へ頭を下げた。
先導して正面玄関を入り、中央階段の前で左へ曲がる。
図書館は右だ。
僕は一歩遅れてついていきながら、黒馬の後頭部を見た。
まさか、作戦のためにわざと間違えているのか。
その疑いは、黒馬が理科室前の案内表示を見上げて止まった瞬間に消えた。
「図書館じゃない」
知っている。
「予定を少し変更して、先に理科実験室の前を通ります。こちらでは本日、化学部の体験展示を行っています」
僕はカメラへ笑い、見学者が止まらないよう手で先を示した。
「白鳥」
「何でしょう」
「俺が道を間違えたから?」
生配信中に事実確認をするな。
「そうですね。皆さんも校内では案内表示をご確認ください。先導する在校生が必ず正しいとは限りません」
受験生の何人かが笑った。
黒馬は気にした様子もなく、僕へ案内図を差し出す。
「次、どっち?」
「正面の階段を下りて、渡り廊下です」
「分かった」
格好悪さを見せる作戦としては、申し分ない。
問題は、黒馬が迷子になる姿さえ、妙に堂々としていることだった。
渡り廊下へ入ったところで、黒馬が急に足を止めた。
今度は何を見失った、と罵倒する準備をした僕の横で、黒馬は列の中ほどへ戻った。
中学生くらいの男子が、母親らしい女性の隣で唇を固く結んでいる。額に細かな汗が浮き、顔から血の気が引いていた。
「気持ち悪い?」
黒馬が尋ねると、男子は驚いたように顔を上げた。
「ちょっと……緊張しただけです」
「座った方がいい。白鳥、休める場所ある?」
相談ではなく、もう休憩を決めた声だった。
僕はすぐ先の空き教室を見た。
「こちらを休憩場所として使えます。小野寺さん、配信は校内設備の説明へ切り替えられますか」
「はい。固定カメラへ切り替えます。受験生の方は映していません」
「ありがとうございます」
男子と母親を教室へ案内し、近くの係へ水を頼む。黒馬は無理に励まさず、椅子へ座るのを確認すると列の先頭へ戻った。
「よく気づいたな」
小声で言うと、黒馬は振り返らず答えた。
「顔が白かった。呼吸も速い」
人の言葉に含まれた嫌味は一つも読めないくせに、呼吸の回数は見ているらしい。
再開して間もなく、今度は保護者の一人へ黒馬が声をかけた。
「右足、痛いですか」
「え? ああ、少し靴擦れしただけなので、大丈夫です」
女性は笑って答えた。
大人が見知らぬ高校生へ返す「大丈夫です」は、たいてい会話を終わらせるための蓋だ。僕なら表情と声から程度を推測し、休憩を勧める言葉を選ぶ。
黒馬は女性の足元を見た。
「右足を着く時間が短いです。次の階段はやめます」
大丈夫という言葉と、痛そうな歩き方が矛盾した時、こいつは身体の方を事実として採用するらしい。
「白鳥、階段を使わない道は?」
「この先のエレベーターから二階へ上がれます。図書館は最後に回しましょう」
「それで行く」
台本上の案内役は黒馬だったが、順路を組み直すのは僕になった。
腹立たしいほど、役割分担としては機能している。
中央棟へ戻る角で、向こうから別の見学班が現れた。階段からも部活動見学を終えた来場者が下りてくる。このまま三方向の流れが重なれば、狭い廊下で立ち止まる人間が出る。
僕がカメラへ向いたまま一歩下がった瞬間、右手首をつかまれた。
呼吸が一拍止まる。
黒馬が僕を自分の方へ引き、すぐに手を離した。僕がいた場所を、小さな子どもが保護者に手を引かれて横切っていく。
「ここで止める」
黒馬は見学班へ手のひらを見せた。
「先に向こうを通します。俺たちは壁側へ寄ってください」
声を張り上げなくても、大きな体は目印になる。黒馬が列の端へ立つと、見学者は自然に壁際へ寄った。
「小野寺さん、食堂前の説明をここで先に入れます」
「はい。別班の通過を確認したら合図します」
僕が食堂の利用時間を説明している間に、人の流れはほどけた。衝突も転倒もない。ニュースにも動画の見せ場にもならない程度の危険が、起きる前に消えただけだ。
「よく重なると分かったな」
「階段の人が下を見てなくて、向こうの班も止まる場所を探してた。あのままだと、ここに集まる」
体育館で選手の位置と動きを読むのと同じなのだろう。校舎の名前は覚えられなくても、動いている人間同士の距離は、一瞬で測れるらしい。
黒馬は僕の右手首を見た。
「痛かった?」
「いいえ。助かった」
緊急だったのだから、事前に尋ねる暇がないのは分かる。それでも事後に確認するところが、いかにもこいつだった。
人の含みは読めない。
けれど黒馬は、顔色、呼吸、足の運び、人の流れる方向を見ている。僕が言葉と表情から相手の逃げ道を読むなら、こいつは身体が出す、もっと早い合図を拾う。
ポンコツだから無害なのではない。
僕とは違う場所を見ているから、僕が見落としたものを止められる。
そう理解した途端、黒馬が隣にいることへ、初めて少しだけ安心した。
◇
配信終了後、旧放送室へ戻る途中で、黒馬はまた反対側の階段へ向かった。
「そっちは西棟だ」
「似てる」
「学校中の階段へ謝れ」
危機対応能力と校内方位は、同じ人間の中でも別部署らしい。
旧放送室で同盟ノートを開いた。
〈作戦三 黒馬に校内案内を任せ、格好悪さを隠さない〉
〈結果 開始四分で迷子。ただし安全対応が好評〉
公開画面には、すでに〈迷ってるのに周りは一番見えてる〉という反応が上がっている。配信アーカイブの仮題は、〈迷子の黒王子が見つけた安心ルート〉だった。道を間違えた人間へ「見つけた」と言える学校広報の加工技術だけは、今日も絶好調である。
「僕たちは欠点を出すたび、別の長所へ換金されるらしい」
「道は本当に間違えた」
「そこは疑っていない」
黒馬が部屋を出て、数分後に戻ってきた。手には自動販売機の水が二本ある。
一本を僕の前へ置いた。
「頼んでいない」
「飲んだ方がいい」
「どうして」
黒馬は僕を見て、一言だけ答えた。
「顔色」
反論する前に、自分の肩が朝より重いことへ気づいた。配信中、道を直し、説明を続け、見学者とカメラの両方へ笑っていた。自分の疲れなど、管理項目へ入れていなかった。
僕は蓋を開け、水を一口飲んだ。
黒馬は理由を美化しない。優しいからでも、心配だからでもなく、顔色が悪いから水を渡した。それだけだ。
それだけの判断が、妙に信用できた。
机の上で端末が鳴った。
久世副校長から、次回企画の告知案が届いている。
〈次回のダブルプリンス企画――黒王子が白王子へ教える、初心者向けバスケットボール講座〉
添付された撮影概要には、〈黒馬君が白鳥君のシュートフォームを直接指導〉とあった。
今日、僕は黒馬に進む道を修正してもらった。
次は体育館で、立ち方まで修正されるらしい。
食堂の〈白王子の忖度なしレビュー〉が予想に反して好評だったせいで、次に用意されたのはオープンキャンパスの校内案内だった。
今回の主役は黒馬だ。
僕たちの作戦は、案内役を黒馬へ任せ、格好悪い失敗が起きても隠さないこと。前回までのように、僕が横から都合のいい意味へ直すのも最小限にする。
〈黒王子が先導する、在校生目線の麗峰ツアー〉
久世副校長から渡された題名は、道を知っている人間へ使うものだと思う。
「分からなくなったら、分からないって言う」
開始前、正面玄関脇の配信ブースで、黒馬は折り畳んだ案内図を制服のポケットへ入れた。
「それでは前回と同じだ。お前が正直で信頼できる人間として販売される」
「じゃあ、迷ったら隠さない」
「迷う前提で話すな」
「順路は覚えた」
そう言って、黒馬は自信ありげに案内図を軽く叩いた。
自信と能力が無関係だという見本を、僕は四分後に見ることになる。
小野寺がカメラの横で色分けした進行表を確認した。最初のオープンキャンパスの時より、紙を持つ手は安定している。
「最初は図書館、そのあと視聴覚室、特別教室棟を通って食堂です。ほかの見学班と重ならないよう、順路変更があれば私からお伝えします」
「分かりました」
黒馬の返事は明瞭だった。
意味まで正しく届いている保証はない。
赤いランプが点灯する。
「本日は麗峰学園のオープンキャンパスへお越しいただき、ありがとうございます。案内を担当する二年の白鳥衛です」
「黒馬柾です。今日は俺が案内します」
黒馬は余分な愛想を足さず、集まった受験生と保護者へ頭を下げた。
先導して正面玄関を入り、中央階段の前で左へ曲がる。
図書館は右だ。
僕は一歩遅れてついていきながら、黒馬の後頭部を見た。
まさか、作戦のためにわざと間違えているのか。
その疑いは、黒馬が理科室前の案内表示を見上げて止まった瞬間に消えた。
「図書館じゃない」
知っている。
「予定を少し変更して、先に理科実験室の前を通ります。こちらでは本日、化学部の体験展示を行っています」
僕はカメラへ笑い、見学者が止まらないよう手で先を示した。
「白鳥」
「何でしょう」
「俺が道を間違えたから?」
生配信中に事実確認をするな。
「そうですね。皆さんも校内では案内表示をご確認ください。先導する在校生が必ず正しいとは限りません」
受験生の何人かが笑った。
黒馬は気にした様子もなく、僕へ案内図を差し出す。
「次、どっち?」
「正面の階段を下りて、渡り廊下です」
「分かった」
格好悪さを見せる作戦としては、申し分ない。
問題は、黒馬が迷子になる姿さえ、妙に堂々としていることだった。
渡り廊下へ入ったところで、黒馬が急に足を止めた。
今度は何を見失った、と罵倒する準備をした僕の横で、黒馬は列の中ほどへ戻った。
中学生くらいの男子が、母親らしい女性の隣で唇を固く結んでいる。額に細かな汗が浮き、顔から血の気が引いていた。
「気持ち悪い?」
黒馬が尋ねると、男子は驚いたように顔を上げた。
「ちょっと……緊張しただけです」
「座った方がいい。白鳥、休める場所ある?」
相談ではなく、もう休憩を決めた声だった。
僕はすぐ先の空き教室を見た。
「こちらを休憩場所として使えます。小野寺さん、配信は校内設備の説明へ切り替えられますか」
「はい。固定カメラへ切り替えます。受験生の方は映していません」
「ありがとうございます」
男子と母親を教室へ案内し、近くの係へ水を頼む。黒馬は無理に励まさず、椅子へ座るのを確認すると列の先頭へ戻った。
「よく気づいたな」
小声で言うと、黒馬は振り返らず答えた。
「顔が白かった。呼吸も速い」
人の言葉に含まれた嫌味は一つも読めないくせに、呼吸の回数は見ているらしい。
再開して間もなく、今度は保護者の一人へ黒馬が声をかけた。
「右足、痛いですか」
「え? ああ、少し靴擦れしただけなので、大丈夫です」
女性は笑って答えた。
大人が見知らぬ高校生へ返す「大丈夫です」は、たいてい会話を終わらせるための蓋だ。僕なら表情と声から程度を推測し、休憩を勧める言葉を選ぶ。
黒馬は女性の足元を見た。
「右足を着く時間が短いです。次の階段はやめます」
大丈夫という言葉と、痛そうな歩き方が矛盾した時、こいつは身体の方を事実として採用するらしい。
「白鳥、階段を使わない道は?」
「この先のエレベーターから二階へ上がれます。図書館は最後に回しましょう」
「それで行く」
台本上の案内役は黒馬だったが、順路を組み直すのは僕になった。
腹立たしいほど、役割分担としては機能している。
中央棟へ戻る角で、向こうから別の見学班が現れた。階段からも部活動見学を終えた来場者が下りてくる。このまま三方向の流れが重なれば、狭い廊下で立ち止まる人間が出る。
僕がカメラへ向いたまま一歩下がった瞬間、右手首をつかまれた。
呼吸が一拍止まる。
黒馬が僕を自分の方へ引き、すぐに手を離した。僕がいた場所を、小さな子どもが保護者に手を引かれて横切っていく。
「ここで止める」
黒馬は見学班へ手のひらを見せた。
「先に向こうを通します。俺たちは壁側へ寄ってください」
声を張り上げなくても、大きな体は目印になる。黒馬が列の端へ立つと、見学者は自然に壁際へ寄った。
「小野寺さん、食堂前の説明をここで先に入れます」
「はい。別班の通過を確認したら合図します」
僕が食堂の利用時間を説明している間に、人の流れはほどけた。衝突も転倒もない。ニュースにも動画の見せ場にもならない程度の危険が、起きる前に消えただけだ。
「よく重なると分かったな」
「階段の人が下を見てなくて、向こうの班も止まる場所を探してた。あのままだと、ここに集まる」
体育館で選手の位置と動きを読むのと同じなのだろう。校舎の名前は覚えられなくても、動いている人間同士の距離は、一瞬で測れるらしい。
黒馬は僕の右手首を見た。
「痛かった?」
「いいえ。助かった」
緊急だったのだから、事前に尋ねる暇がないのは分かる。それでも事後に確認するところが、いかにもこいつだった。
人の含みは読めない。
けれど黒馬は、顔色、呼吸、足の運び、人の流れる方向を見ている。僕が言葉と表情から相手の逃げ道を読むなら、こいつは身体が出す、もっと早い合図を拾う。
ポンコツだから無害なのではない。
僕とは違う場所を見ているから、僕が見落としたものを止められる。
そう理解した途端、黒馬が隣にいることへ、初めて少しだけ安心した。
◇
配信終了後、旧放送室へ戻る途中で、黒馬はまた反対側の階段へ向かった。
「そっちは西棟だ」
「似てる」
「学校中の階段へ謝れ」
危機対応能力と校内方位は、同じ人間の中でも別部署らしい。
旧放送室で同盟ノートを開いた。
〈作戦三 黒馬に校内案内を任せ、格好悪さを隠さない〉
〈結果 開始四分で迷子。ただし安全対応が好評〉
公開画面には、すでに〈迷ってるのに周りは一番見えてる〉という反応が上がっている。配信アーカイブの仮題は、〈迷子の黒王子が見つけた安心ルート〉だった。道を間違えた人間へ「見つけた」と言える学校広報の加工技術だけは、今日も絶好調である。
「僕たちは欠点を出すたび、別の長所へ換金されるらしい」
「道は本当に間違えた」
「そこは疑っていない」
黒馬が部屋を出て、数分後に戻ってきた。手には自動販売機の水が二本ある。
一本を僕の前へ置いた。
「頼んでいない」
「飲んだ方がいい」
「どうして」
黒馬は僕を見て、一言だけ答えた。
「顔色」
反論する前に、自分の肩が朝より重いことへ気づいた。配信中、道を直し、説明を続け、見学者とカメラの両方へ笑っていた。自分の疲れなど、管理項目へ入れていなかった。
僕は蓋を開け、水を一口飲んだ。
黒馬は理由を美化しない。優しいからでも、心配だからでもなく、顔色が悪いから水を渡した。それだけだ。
それだけの判断が、妙に信用できた。
机の上で端末が鳴った。
久世副校長から、次回企画の告知案が届いている。
〈次回のダブルプリンス企画――黒王子が白王子へ教える、初心者向けバスケットボール講座〉
添付された撮影概要には、〈黒馬君が白鳥君のシュートフォームを直接指導〉とあった。
今日、僕は黒馬に進む道を修正してもらった。
次は体育館で、立ち方まで修正されるらしい。



