増産された王子様には、品質管理会議まで必要らしい。
〈完璧じゃないダブルプリンス〉の公開から三日後。放課後の旧放送室で、僕は王子様廃業同盟のノートを開いていた。
追加企画の準備という名目で広報室から鍵束を借り、ここへ来る。僕は端末とノートを持ち込み、黒馬は部活前の菓子を持ち込む。それが三日で放課後の手順になった。
学校が僕たちへ貸した待機場所は、いつの間にか、学校へ見せられない話をする場所になっている。実に管理の甘い組織だ。ありがたく利用させてもらう。
長机の扉側が僕、壁側が黒馬。最初に座った位置が、そのまま定着している。誰が決めたわけでもない。二日目に部屋へ入った時、僕たちは当然のように同じ椅子を引いた。
ノートの二ページ目へ、最初の作戦結果を書き込む。
〈作戦一 愛想と補完を減らす〉
〈結果 失敗〉
〈公開前比 フォロワー四百人以上増加〉
数字にすると、敗北が急に経営報告書めいて見えた。
「四百人って、多いのか」
向かいで黒馬が、塩味のクラッカーを噛みながら聞いた。
「少なくとも、人気を落とした人間へ与えられる数字ではない」
「全校生徒よりは少ない」
「比較対象が雑すぎる。お前は赤点を取っても、全国にはもっと低い点の人間がいると言って安心するのか」
「赤点より低い点はある」
「そういう話をしていない」
黒馬は納得したのかしていないのか分からない顔で、また一枚クラッカーを口へ入れた。咀嚼音だけが、防音された室内で妙に鮮明に響く。
「食べながら会議するな」
「部活前に腹が減る」
「では、せめて僕の分析へ塩味の効果音をつけるな」
黒馬は袋を閉じた。
本当に閉じるとは思わなかった。
「……食べていい。音量を下げろ」
「噛む音の?」
「お前には咀嚼の音量調節機能もないのか」
「ゆっくり噛む」
真顔で返されると、僕が無理難題を言っているような気分になる。実際、少し言っている。
僕は端末の画面を黒馬へ向けた。
「コメントは大きく三種類に分かれる。僕の愛想が減ったことを『親しみやすい』と受け取るもの。お前の停止を『正直』と評価するもの。そして、僕たちの関係がまだ完成していないことを楽しむものだ」
「完成って何だ」
「知らない。友達になる、相棒になる、もっと仲よくなる。そのあたりを勝手に期待している」
「俺たちが辞めたら、完成しない」
「だから辞めたいんだろ」
黒馬はクラッカーを持ったまま、画面を見た。
「嫌いな人は、どこにいる?」
「何の話だ」
「コメントにいない」
的外れに聞こえた質問へ答えようとして、僕は口を閉じた。
好意的な反応ばかりを集めた画面の外には、動画を途中で閉じた人間も、そもそも再生しなかった人間もいる。彼らは嫌いだと書かない。ただ関心を向けない。
「……なるほど。人気を失うには、嫌われる必要はない。見たいと思われなくなればいい」
「じゃあ、つまらなくする?」
「それができれば苦労しない。お前が真面目に失敗するだけで、疑問符を三つも飛ばされるんだぞ」
「白鳥が帰りたいって言っても笑われてた」
「僕たちは存在するだけで編集素材らしい。腹立たしいな」
「でも、今の質問は合ってた?」
「一度くらいはな」
黒馬が袋をこちらへ差し出した。
褒美のつもりか。
「いらない」
「分かった」
あっさり引っ込められると、なぜかこちらが拒絶されたように見えるから理不尽だ。
僕は端末を操作し、公開済みの動画を最初から再生した。ところが、旧放送室に残されている小型スピーカーは、雑音ばかりで台詞が聞き取れない。
「壊れてる?」
「老衰だろうな」
僕は鞄から有線イヤホンを取り出した。
「片方を使え」
黒馬は立ち上がり、長机を回って僕の隣へ来た。
「向かいのままでは線が届かないだろ」
「分かってる」
僕が右耳へ片方を入れ、残った方を渡す。黒馬が左耳へ装着すると、一本の細い線が僕たちの間をつないだ。
近い。
二脚の椅子を並べただけだ。肩は触れていない。膝も机の下で別々の場所にある。それでも、黒馬の体格が隣にあるだけで、古い椅子二脚分の空間が急に狭くなった。
「再生しないのか」
「今する」
声が普段より近い。本人の声が左側から届き、イヤホンの中の録音音声が右耳へ入る。黒馬柾が二人いるようで、どちらも邪魔だった。
動画の中で、黒馬が僕の左肩へ手を置いた。
触れる前に尋ねた声は入っていない。公開版だけ見れば、最初から当然のように距離の近い二人だ。
「ここ、俺が聞いたところはない」
黒馬も気づいたらしい。
「本編には不要と判断されたんだろう。映像としては不自然ではない」
「でも、何も聞かずに触ったように見える」
「視聴者はそこまで考えない」
「白鳥は考える?」
「今は動画の傾向を見ろ」
黒馬が字幕を読むため、少しだけ画面へ顔を寄せた。イヤホンの線が引かれ、僕まで数センチ前へ動かされる。
「近い」
「画面が小さい」
「お前の顔が大きい」
「顔の大きさは普通だと思う」
黒馬は画面から少し離れた。
「これならいい?」
わざわざ確認されると、僕が距離へ注文をつけたようになる。
「……そのままでいい」
動画が終わった。
次の映像へ切り替わるまで、数秒の無音がある。
僕は何も言わなかった。黒馬も言わない。
普段なら、沈黙は埋めるべき空白だ。相手が退屈していないか、機嫌を損ねていないか、会話を終えたいと思っていないか。表情と呼吸を読み、適切な話題を差し込む。
けれど黒馬は、黙っている時に意味を足さない。
僕が話さなくても、怒っているとも、困っているとも、嫌っているとも決めつけない。ただ次の映像を待っている。
沈黙が、課題ではなくなった。
その事実に気づいた途端、隣にいる体温の方が気になった。触れてもいないのに体温を意識するのは、椅子の配置が悪いからだ。ほかに理由はない。
黒馬が口を開いた。
「白鳥、近いの嫌だった?」
せっかく意味を足さない人間だと評価した直後に、なぜそこだけ拾う。
「お前が画面を隠すからだ」
「嫌じゃない?」
「何度も聞くな」
黒馬は首を少し傾げた。
「嫌なら嫌って言わないと分からない」
二度目だった。
広報室を出た廊下でも、こいつは同じことを言った。あの時は、社会を知らない人間の単純論だと思った。今も基本的にはそう思う。
「お前は、嫌だと言えば全部済むと思っているのか」
「全部は済まない。でも、言われないと選べない」
「言って嫌われるくらいなら、好かれる形に直す方が早い」
黒馬はすぐに反論しなかった。
イヤホンを片方つけたまま、僕の顔を見る。近い距離で無言になると、さっきまで居心地のよかった沈黙が、急に逃げ場のないものへ変わった。
「直した形を好きって言われたら、白鳥はうれしいのか」
単純な質問だった。
だからこそ、用意していた理屈の隙間へまっすぐ入ってくる。
好かれるために直す。嫌われないように整える。そうして評価されたものが僕かどうかなんて、考える必要はないはずだった。目的は関係を壊さないことで、喜ぶことではない。
「会議中に人生相談を始めるな」
「質問しただけ」
「答える義務はない」
「分かった」
黒馬は本当にそれ以上聞かなかった。
救われたはずなのに、胸の奥へ小さな棘だけが残る。
僕はイヤホンを外し、向かいの椅子へ戻れと顎で示した。黒馬は素直に従い、壁側の席へ座る。
さっきまで狭かった机の周囲が、今度は妙に広い。
気に入らない。
「次の作戦を決める」
僕は同盟ノートの新しいページを開いた。
「追加された昼休み企画を使う。学校の食堂メニューを紹介する動画を、こちらから提案する」
「食べるだけで人気が落ちる?」
「味、食感、量、値段。僕が忖度なく評価する」
「白鳥、食堂でいつも笑って食べてる」
「外で不満そうな顔をして、誰が得をする。好みに合わなくても『おいしいです』と言えば、その場は丸く収まる」
「また直してる」
「黙れ」
黒馬は閉じていた菓子袋をもう一度開けた。
僕は一枚だけ抜き取り、口へ入れる。塩が強く、表面の粉が舌へ残った。
「塩味で素材の単調さをごまかしている。二枚目を食べたいと思わせる工夫が、味ではなく口内の乾燥しかない」
黒馬が手元の袋と僕を見比べた。
「今のを食堂で言う?」
「もっと具体的に言う。たとえば人気の『ふわとろオムライス』なら――卵は冷めて膜になり、ケチャップは甘さで米の水分を隠している。『ふわ』は見当たらず、『とろ』は油だけだ」
黒馬は笑わなかった。
真剣な顔で少し考え、それから言った。
「それ、たぶん売れる」
〈完璧じゃないダブルプリンス〉の公開から三日後。放課後の旧放送室で、僕は王子様廃業同盟のノートを開いていた。
追加企画の準備という名目で広報室から鍵束を借り、ここへ来る。僕は端末とノートを持ち込み、黒馬は部活前の菓子を持ち込む。それが三日で放課後の手順になった。
学校が僕たちへ貸した待機場所は、いつの間にか、学校へ見せられない話をする場所になっている。実に管理の甘い組織だ。ありがたく利用させてもらう。
長机の扉側が僕、壁側が黒馬。最初に座った位置が、そのまま定着している。誰が決めたわけでもない。二日目に部屋へ入った時、僕たちは当然のように同じ椅子を引いた。
ノートの二ページ目へ、最初の作戦結果を書き込む。
〈作戦一 愛想と補完を減らす〉
〈結果 失敗〉
〈公開前比 フォロワー四百人以上増加〉
数字にすると、敗北が急に経営報告書めいて見えた。
「四百人って、多いのか」
向かいで黒馬が、塩味のクラッカーを噛みながら聞いた。
「少なくとも、人気を落とした人間へ与えられる数字ではない」
「全校生徒よりは少ない」
「比較対象が雑すぎる。お前は赤点を取っても、全国にはもっと低い点の人間がいると言って安心するのか」
「赤点より低い点はある」
「そういう話をしていない」
黒馬は納得したのかしていないのか分からない顔で、また一枚クラッカーを口へ入れた。咀嚼音だけが、防音された室内で妙に鮮明に響く。
「食べながら会議するな」
「部活前に腹が減る」
「では、せめて僕の分析へ塩味の効果音をつけるな」
黒馬は袋を閉じた。
本当に閉じるとは思わなかった。
「……食べていい。音量を下げろ」
「噛む音の?」
「お前には咀嚼の音量調節機能もないのか」
「ゆっくり噛む」
真顔で返されると、僕が無理難題を言っているような気分になる。実際、少し言っている。
僕は端末の画面を黒馬へ向けた。
「コメントは大きく三種類に分かれる。僕の愛想が減ったことを『親しみやすい』と受け取るもの。お前の停止を『正直』と評価するもの。そして、僕たちの関係がまだ完成していないことを楽しむものだ」
「完成って何だ」
「知らない。友達になる、相棒になる、もっと仲よくなる。そのあたりを勝手に期待している」
「俺たちが辞めたら、完成しない」
「だから辞めたいんだろ」
黒馬はクラッカーを持ったまま、画面を見た。
「嫌いな人は、どこにいる?」
「何の話だ」
「コメントにいない」
的外れに聞こえた質問へ答えようとして、僕は口を閉じた。
好意的な反応ばかりを集めた画面の外には、動画を途中で閉じた人間も、そもそも再生しなかった人間もいる。彼らは嫌いだと書かない。ただ関心を向けない。
「……なるほど。人気を失うには、嫌われる必要はない。見たいと思われなくなればいい」
「じゃあ、つまらなくする?」
「それができれば苦労しない。お前が真面目に失敗するだけで、疑問符を三つも飛ばされるんだぞ」
「白鳥が帰りたいって言っても笑われてた」
「僕たちは存在するだけで編集素材らしい。腹立たしいな」
「でも、今の質問は合ってた?」
「一度くらいはな」
黒馬が袋をこちらへ差し出した。
褒美のつもりか。
「いらない」
「分かった」
あっさり引っ込められると、なぜかこちらが拒絶されたように見えるから理不尽だ。
僕は端末を操作し、公開済みの動画を最初から再生した。ところが、旧放送室に残されている小型スピーカーは、雑音ばかりで台詞が聞き取れない。
「壊れてる?」
「老衰だろうな」
僕は鞄から有線イヤホンを取り出した。
「片方を使え」
黒馬は立ち上がり、長机を回って僕の隣へ来た。
「向かいのままでは線が届かないだろ」
「分かってる」
僕が右耳へ片方を入れ、残った方を渡す。黒馬が左耳へ装着すると、一本の細い線が僕たちの間をつないだ。
近い。
二脚の椅子を並べただけだ。肩は触れていない。膝も机の下で別々の場所にある。それでも、黒馬の体格が隣にあるだけで、古い椅子二脚分の空間が急に狭くなった。
「再生しないのか」
「今する」
声が普段より近い。本人の声が左側から届き、イヤホンの中の録音音声が右耳へ入る。黒馬柾が二人いるようで、どちらも邪魔だった。
動画の中で、黒馬が僕の左肩へ手を置いた。
触れる前に尋ねた声は入っていない。公開版だけ見れば、最初から当然のように距離の近い二人だ。
「ここ、俺が聞いたところはない」
黒馬も気づいたらしい。
「本編には不要と判断されたんだろう。映像としては不自然ではない」
「でも、何も聞かずに触ったように見える」
「視聴者はそこまで考えない」
「白鳥は考える?」
「今は動画の傾向を見ろ」
黒馬が字幕を読むため、少しだけ画面へ顔を寄せた。イヤホンの線が引かれ、僕まで数センチ前へ動かされる。
「近い」
「画面が小さい」
「お前の顔が大きい」
「顔の大きさは普通だと思う」
黒馬は画面から少し離れた。
「これならいい?」
わざわざ確認されると、僕が距離へ注文をつけたようになる。
「……そのままでいい」
動画が終わった。
次の映像へ切り替わるまで、数秒の無音がある。
僕は何も言わなかった。黒馬も言わない。
普段なら、沈黙は埋めるべき空白だ。相手が退屈していないか、機嫌を損ねていないか、会話を終えたいと思っていないか。表情と呼吸を読み、適切な話題を差し込む。
けれど黒馬は、黙っている時に意味を足さない。
僕が話さなくても、怒っているとも、困っているとも、嫌っているとも決めつけない。ただ次の映像を待っている。
沈黙が、課題ではなくなった。
その事実に気づいた途端、隣にいる体温の方が気になった。触れてもいないのに体温を意識するのは、椅子の配置が悪いからだ。ほかに理由はない。
黒馬が口を開いた。
「白鳥、近いの嫌だった?」
せっかく意味を足さない人間だと評価した直後に、なぜそこだけ拾う。
「お前が画面を隠すからだ」
「嫌じゃない?」
「何度も聞くな」
黒馬は首を少し傾げた。
「嫌なら嫌って言わないと分からない」
二度目だった。
広報室を出た廊下でも、こいつは同じことを言った。あの時は、社会を知らない人間の単純論だと思った。今も基本的にはそう思う。
「お前は、嫌だと言えば全部済むと思っているのか」
「全部は済まない。でも、言われないと選べない」
「言って嫌われるくらいなら、好かれる形に直す方が早い」
黒馬はすぐに反論しなかった。
イヤホンを片方つけたまま、僕の顔を見る。近い距離で無言になると、さっきまで居心地のよかった沈黙が、急に逃げ場のないものへ変わった。
「直した形を好きって言われたら、白鳥はうれしいのか」
単純な質問だった。
だからこそ、用意していた理屈の隙間へまっすぐ入ってくる。
好かれるために直す。嫌われないように整える。そうして評価されたものが僕かどうかなんて、考える必要はないはずだった。目的は関係を壊さないことで、喜ぶことではない。
「会議中に人生相談を始めるな」
「質問しただけ」
「答える義務はない」
「分かった」
黒馬は本当にそれ以上聞かなかった。
救われたはずなのに、胸の奥へ小さな棘だけが残る。
僕はイヤホンを外し、向かいの椅子へ戻れと顎で示した。黒馬は素直に従い、壁側の席へ座る。
さっきまで狭かった机の周囲が、今度は妙に広い。
気に入らない。
「次の作戦を決める」
僕は同盟ノートの新しいページを開いた。
「追加された昼休み企画を使う。学校の食堂メニューを紹介する動画を、こちらから提案する」
「食べるだけで人気が落ちる?」
「味、食感、量、値段。僕が忖度なく評価する」
「白鳥、食堂でいつも笑って食べてる」
「外で不満そうな顔をして、誰が得をする。好みに合わなくても『おいしいです』と言えば、その場は丸く収まる」
「また直してる」
「黙れ」
黒馬は閉じていた菓子袋をもう一度開けた。
僕は一枚だけ抜き取り、口へ入れる。塩が強く、表面の粉が舌へ残った。
「塩味で素材の単調さをごまかしている。二枚目を食べたいと思わせる工夫が、味ではなく口内の乾燥しかない」
黒馬が手元の袋と僕を見比べた。
「今のを食堂で言う?」
「もっと具体的に言う。たとえば人気の『ふわとろオムライス』なら――卵は冷めて膜になり、ケチャップは甘さで米の水分を隠している。『ふわ』は見当たらず、『とろ』は油だけだ」
黒馬は笑わなかった。
真剣な顔で少し考え、それから言った。
「それ、たぶん売れる」



