王子様たちの憂鬱

笑顔は角度だ。

少なくとも、六月の僕はそう信じていた。

口角を同じ高さまで上げ、目元をわずかに緩める。声は半音高く、相手が安心する速度で。鏡の前で形を整えれば、その日の人間関係も大抵は整った。

今朝、僕は鏡の中の自分へ笑いかけなかった。

ネクタイが曲がっていたので直した。それだけだ。身だしなみと人格の偽造は、同じ作業ではない。

文化祭から、約三週間が過ぎていた。

あの日、舞台裏で黒馬は言った。

「学校の話は終わった。次は俺たちの話」

逃げるな、とも言われた。

直後に学校法人の調査担当者が僕たちを別々の部屋へ連れていき、事情確認は夕方まで続いた。以来、黒馬とは必要な連絡も、証拠の追加確認もした。けれど「俺たちの話」だけは、調査結果が出るまで互いに保留した。

学校への反撃と告白を同じ成功報酬にするほど、僕も救いようのない馬鹿ではない。

全校集会で配られた調査報告の概要は、A4用紙二枚に収まっていた。

全国スクールPR動画コンテストは、本人の自由意思、公開前確認、実態を偽らない編集という規定に反したとして失格。

久世副校長は広報責任者から外され、学校法人内の処分を受けた。

ダブルプリンス企画は廃止。学校公式アカウントの関連動画はすべて非公開となり、今後の利用も停止された。もちろん、転載された映像や保存された切り抜きまで消えたわけではない。インターネットは、学校より記憶力がよく、反省する機能だけがない。

新しい広報手続きでは、公開前に本人が完成版を確認し、公開後でも撤回を申し出られる窓口を設けることになった。推薦審査と広報活動の記録は分離され、出演の有無を加点にも減点にも使わない。

紙の上では、ようやく最初の同意書に書いてあった場所へ戻っただけだ。

それでも、戻ったことには意味がある。

校長が「生徒の皆さんへ負担をかけた」と頭を下げた時、体育館は静かだった。拍手する者はいない。後ろの方から、「文化祭で配信を止めたのは、やりすぎじゃない?」という声と、「止めなきゃ、また使われてた」という声が別々に聞こえた。

どちらも僕の耳には届いた。

全校生徒が一つの正解へ揃う方が、よほど不自然だ。

久世副校長は壇上にいなかった。彼一人へ悪意を集め、分かりやすい悪役として処理するだけでは何も変わらない。人が外れても、手続きが同じなら次の誰かが同じことをする。

だから、頭を下げる姿より、紙に残った変更の方が重要だった。

僕の評判は、戻らなかった。

廊下ですれ違っても以前のように声をかけなくなった生徒がいる。僕の毒舌を面白がって近づく人間もいれば、切り抜きではなく全文を知った上で距離を置く人間もいた。

昼休み、クラスメイトの一人が文化祭報告の文章を僕へ差し出した。

「白鳥君、これ、読んでもらっていい? 遠慮なしで」

「三段落目が丸ごと不要です。『笑顔あふれる』を二回使っていますが、語彙が先に文化祭を欠席しています」

「うわ、やっぱりきつい」

そう言いながら、彼女は赤ペンで三段落目へ線を引いた。

その隣にいた生徒は、僕と目が合う前に席を立った。

僕は追いかけなかった。笑顔を作って誤解を解き、全員から以前と同じ評価を取り戻すこともできたかもしれない。

やらなかった。

丁寧に話したい時は丁寧に話す。笑いたい時は笑う。僕の毒舌を嫌う人間には、嫌う自由がある。

その結果まで管理しないことは、思っていたより静かだった。

昇降口では、一年生が僕を見つけて「白王子先輩」と呼び、すぐに口を押さえた。

「すみません。もう、その呼び方は……」

「その役は廃業しました」

僕が答えると、彼は少し迷ってから言い直した。

「じゃあ、白鳥先輩。落とし物、職員室でいいですか」

「生徒指導室の前に落とし物箱があります。そこへお願いします」

たったそれだけで会話は終わった。

呼び名を変えるのに、完璧な笑顔は必要なかった。



放課後、僕と黒馬は旧放送室にいた。

ダブルプリンス企画の廃止に伴い、待機場所として借りていた部屋を今週中に空け、鍵を返すことになっている。

長机の扉側が僕、壁側が黒馬。六月に誰が決めるでもなく選んだ席へ、今日も同じように座っていた。

一つのイヤホンを分けた日も、切り取られた言葉を信じてもらった日も、同盟を解散された日も、この机と二脚の椅子は同じ場所にあった。部屋は何も選ばない。ただ、ここで僕たちが選んだことだけが積み重なっている。

長机の上には、撮影予定表、公開済み動画の分析、失敗した作戦案、複製した台本が積まれていた。証拠の原本はそれぞれの保管先へ戻り、調査に使われた正式な複製は学校法人とコンテスト事務局に保存されている。小野寺が守った未編集映像も、放送部の記録として残った。ここにあるのは、処分しても事実が消えない紙ばかりだった。

「これは捨てる」

僕は〈素顔密着企画・下校編〉と書かれた予定表を紙袋へ入れた。

黒馬が、秒数指定のある文化祭台本を手に取る。

「これは?」

「複製は一部残す。二度と使わないための見本としては、完成度が高い」

「悪い見本?」

「最悪の見本だ」

黒馬はうなずき、残す箱へ入れた。三週間前なら、その手が僕の肩の近くを通るだけで、許可の言葉が先に来た。今日は机を挟んでいる。触れる理由もない。

理由がないのに触れてほしいと思うのは、僕の都合だ。

「部費は?」

僕が聞くと、黒馬は鞄から通知書を出した。

「特別遠征費は、広報の協力と切り離して再審査。満額になるかは分からない。部の実績と必要額を、別の委員会が見る」

「推薦評価も?」

「広報の記録は外した。競技成績と授業の成績で、もう一度見るって」

「結果が下がる可能性もあるな」

「ある。でも、それなら俺の結果だから」

黒馬は通知書を二つ折りにした。

勝った、という言葉は派手すぎる。

部費が満額保証されたわけでも、推薦が確定したわけでもない。ただ、出演したから与えられ、断ったから奪われる場所から、競技と必要性を審査する場所へ戻った。

黒馬が自分で受け取れる結果になった。

それでいい。

机の下段を開けると、最後に一冊の大学ノートが残っていた。

〈王子様廃業同盟〉

僕の字で書かれた表紙は、六月より少し汚れている。

最初の四規則。人気失墜作戦。コメント分析。失敗、失敗、また失敗。途中のページには、僕が破った第二と第三の規則があり、その先の余白には黒馬の大きな字で〈解散〉と書かれていた。

「捨てる?」

黒馬が聞いた。

「お前は捨てたいのか」

「分からないから聞いた」

「便利な脳だな。判断まで僕へ外注するな」

「白鳥は?」

僕は〈解散〉の二文字を見た。

消したくはなかった。あれを書かせた事実も、書かれたあとで僕が認めたことも、なかったことにはできない。

「残す」

「俺も残したい」

黒馬はノートを閉じた。それから、表紙へ置いた手を離さないまま言った。

「白鳥。俺、まだ怒ってる」

心臓が、静かに一度鳴った。

「知ってる」

「たぶん、白鳥が思ってるより残ってる。同じことをされたら、また離れる」

「当然だ」

「謝ったから、もういいとは思ってない」

「思わなくていい」

声は震えなかった。

ここで正しい返事を選び、黒馬の怒りを小さく編集することはできる。反省している顔も、傷ついている顔も、僕は作れる。

作らなかった。

「僕が怖かったから、お前の選択を奪った。その事実は変わらない。怒っているお前に、許せとも、前と同じに戻れとも言わない」

黒馬は黙って僕を見ていた。

僕は左手で右手の親指を包まなかった。手のひらを長机の上へ置いたまま、逃げ道のない言葉を出す。

「それとは別に、言うことがある」

「うん」

「僕はお前が好きだ」

防音された部屋は、告白まで外へ漏らさない。

「友達として?」

黒馬は、大事なところほど推測しない。

「違う。恋人になりたいという意味で好きだ」

「どこが?」

「分からないことを、分かったふりしないところ。僕の性格の悪さを、優しさへ勝手に翻訳しないところ。触れる前に聞くところ」

少し考え、付け足す。

「迷子になるところは好きではない」

「最後はいらない」

「全部が好きだと言うほど盲目ではない」

黒馬の口元が、ほんの少し緩んだ。それでも答えを先取りせず、僕の次の言葉を待っている。

拒絶される可能性も、その沈黙の中にあった。

「謝罪の見返りがほしいわけじゃない。学校に勝った褒美として選んでほしいわけでもない。まだ怒っていてもいいし、僕と付き合わないと決めてもいい」

一度、息を吸う。

「それでも僕は、お前と付き合いたい」

黒馬の肩から、ゆっくり力が抜けた。

「まだ怒ってる。でも好きなのもやめてない」

「二度目は、後半だけでよかっただろ」

「大事だから」

「そうか」

胸の奥で、何かが外れた。

壊れたのではない。長い間、僕自身が掛けていた鍵だった。

黒馬が首を少し傾げる。

「白鳥。俺と付き合う?」

皮肉へ逃げる言葉なら、いくつも浮かんだ。

今さら聞くのか。お前以外に誰がいる。質問が遅い。

全部捨てた。

「はい。僕も、お前と付き合いたい」

黒馬が、閉じた同盟ノートへ目をやった。

「新しい規則、書く?」

「書かない。関係が変わるたび契約書を作るのは、学校だけで十分だ。嫌なことはその都度言う。お前も言え」

「分かった」

僕は同盟ノートを鞄へ入れた。四規則も、失敗の記録も、黒馬の〈解散〉も、そのまま持ち帰る。

黒馬の口元が緩んだ。

「触っていい?」

「いい」

それだけでは足りない気がした。

「触ってほしい」

黒馬が長机を回り、僕の前へ来た。

大きな手が、まず僕の右手へ重なる。以前にも触れた手だ。けれど、今日は慰めでも撮影でも、作業上の接触でもない。

指がゆっくり絡む。

もう一方の手が、僕の頬の手前で止まった。

「ここも?」

「いい」

掌が頬へ触れる。日焼けした指先は思ったより温かく、僕の呼吸はやはり一拍止まった。

黒馬はそれを見ていたが、勝手に意味を決めなかった。

「キスしていい?」

心臓だけが、六月から何も学んでいない速度で鳴っている。

「いい」

今度は、言葉を足した。

「キスして。……好きだ、柾」

黒馬の目がわずかに見開かれた。

次の瞬間、唇が短く触れた。

本当に、それだけだった。

鼻先が少しぶつかり、僕の手はどこへ置けばいいか分からず、結局、黒馬の制服の袖をつかんだ。完成度で評価すれば、公開前確認で撮り直しを要求される出来だ。

けれど、離れたあと、僕は笑っていた。

口角の高さはそろっていない。目元も緩めるどころか、少し潤んで狭くなっている。声を抑えようとして、息だけが変に漏れた。

練習していない、ひどく不格好な笑い方だった。

「白鳥、今の笑い方、初めて見た」

「忘れろ」

「嫌だ」

「即答するな」

黒馬も笑った。

旧放送室には、鏡がない。

カメラもない。直す人間も、切り取る人間もいない。

僕はもう、笑顔の角度を整えなかった。

その顔を見せる相手だけは、僕が選んだ。