王子様たちの憂鬱

「何」

黒馬の声は、体育館の壁を抜けてくるボールの音より低かった。

僕から二歩ほど離れた場所で止まり、それ以上は近づかない。肩に掛けたスポーツバッグの紐を、右手で握っている。

以前なら、僕の顔色か呼吸を見て、必要もないのに何か聞いただろう。今は待っているだけだ。

その距離を作ったのは僕だった。

「謝りたい」

黒馬は何も言わない。

用意してきた言葉はあった。けれど、相手の機嫌を損ねない順番に並べた瞬間、それはまた僕が結果を操作するための台本になる。

だから、いちばん醜いところから言うことにした。

「守ろうとした、とは言わない。それを理由にしたら、また自分だけ正しいことにする」

喉が乾く。

左手は下ろしたままだった。右手の親指を包んでいない。もう、嘘をつく前の癖へ逃げる資格もなかった。

「僕は、お前に拒まれるのが怖かった」

黒馬の眉が、ほんの少し動いた。

「お前が学校に出ると決めたことを尊重できなかったんじゃない。尊重したら、その先で僕が選ばれないかもしれないと思った。だから、選ばれる前に僕が結末を決めた」

配信で口にした三つの言葉が、もう一度、自分の耳の内側へ返ってくる。

友達ですらない。
学校に言われて一緒にいただけ。
個人的に親しくなりたいと思ったことはない。

どれも、黒馬が嘘だと分かるように選んだ。分かっていても傷つく場所だけを、正確に切った。

「お前なら嘘だと見抜くと思っていた。見抜けば、学校から離れられると思った。でも、分かった上で何を選ぶかは、お前のものだった。僕はそれを奪った」

黒馬はまだ答えない。

体育館の中で笛が鳴り、靴底が床を擦る音が重なった。誰かが決めた練習の手順に従って、人が一斉に動いている。

「学校は、生徒には自分の価値が分からないから、大人が見せ方を決めると言った」

僕は黒馬から目を逸らさなかった。

「僕も同じことをした。黒馬には分からないから、僕が決める。そう考えた。学校と同じことをした」

謝罪は、相手から許しを引き出すための言葉ではない。

分かっているつもりでも、沈黙が長くなるほど、胸の奥では都合のいい返事を待ってしまう。人間の反省など、少し目を離せばすぐ取引へ戻る。

「ごめん」

それだけを言った。

黒馬がスポーツバッグの紐から手を離した。

けれど、僕へ伸ばしたわけではない。腕はそのまま体の横へ落ちた。

切り抜き動画が出たあの日なら、こいつは僕の手を見ただろう。触っていいかと聞き、許せば大きな手で包んだ。僕を抱き寄せた時も、離れたいかと確認した。

今は、何も聞かない。

触れてほしいと思った。

思っただけで、口にはできなかった。謝罪した人間が慰めまで要求するほど、厚かましい取引はない。

やがて黒馬が言った。

「謝ったら、前に戻れると思ってる?」

「思ってない」

「俺、まだ怒ってる」

「分かってる」

「分かってるって決めるな」

胸の奥へ、まっすぐ刺さった。

「……そうだな。怒っていると、今お前が言った」

黒馬は一度うなずいた。

「すぐ前には戻れない。同盟も、戻さない」

即席の許しを与えられるより、その方が黒馬の言葉だった。痛いのに、少しだけ息がしやすくなった。

「分かった」

「白鳥がまた勝手に決めたら、その時はやめる」

「それでいい」

「よくない。白鳥も決めろ」

意味が分からず、今度は僕が黙った。

黒馬は首を少し傾げた。

「今度は俺に全部決めさせるのも違うだろ」

殴られるより正確だった。

選択権を返す、と言いながら、判断の責任まで相手へ押しつければ、形を変えただけで同じ支配になる。

「僕は、学校に反抗したい」

初めて、自分の望みだけを口にした。

「僕の言葉と、お前の言葉と、僕たちの関係を、これ以上勝手に使わせたくない。小野寺さんが残している未編集の映像も確認したい。できれば、お前と一緒にやりたい」

黒馬の視線が、僕の顔から外れなかった。

「でも、お前が僕とはやらないと決めても、止めない。学校の企画へ出ると決めても、反対はする。理由も言う。けれど、代わりに結末は決めない」

息を吸う。

これは告白ではない。
好きだと言って選ばせる場面でもない。
僕が壊した関係を、謝罪一つで元の形へ戻すための言葉でもない。

「今度はお前に選んでほしい」

黒馬はすぐには答えなかった。

「俺が、文化祭の撮影には出るって決めたら?」

「止めない。ただし、嫌だとは言う。お前の選択へ賛成することと、選択を奪わないことは別だ」

「白鳥とは、もう話さないって決めたら?」

息が詰まった。

それでも、答えを丸めなかった。

「受け入れる。僕が嫌でも」

「分かった」

その一言が、判決の保留に聞こえた。許しではない。けれど、言葉を受け取ることだけは拒まれなかった。

体育館裏へ伸びた校舎の影が、僕たちの靴の間を分けている。二歩の距離は埋まらない。

それでいい、と自分に言い聞かせた。

拒まれる可能性ごと渡さなければ、選択を返したことにはならない。

「俺は」

黒馬が、ゆっくり口を開いた。

「白鳥をまだ許してない」

「うん」

「前みたいに話せるかは、まだ分からない」

「うん」

「でも、学校にどうするかは俺も決める」

呼吸が止まりそうになり、無理に続けた。

「どうする」

「黙って、決められた仲直りをするのは嫌だ」

黒馬は自分の言葉を確かめるように、一つずつ続けた。

「俺が白鳥と話すか、触るか、隣に立つかは、学校に決めさせない。部のために出るかどうかも、もう一度俺が決める」

そして、わずかに顎を引いた。

「学校に反抗する。白鳥とやる」

許されたわけではない。

二歩の距離も消えていない。

それでも、僕は初めて、都合のいい答えではなく、黒馬自身が選んだ答えを受け取った。

胸の奥へ差した光は、希望と呼ぶには細すぎた。けれど暗闇の中では、細いほど目に痛かった。

「条件がある」

「何だ」

「俺が分からない時、勝手に分かったことにしない」

「説明する」

「白鳥が分からない時も、聞く」

「努力する」

「努力じゃなくて、聞く?」

「……聞く」

黒馬はうなずいた。

以前なら、そこで口元が緩んだかもしれない。今は笑わない。その正しさが痛く、同時に安心した。

黒馬は足元へスポーツバッグを下ろし、ファスナーを開けた。

「白鳥に見せるものがある」

中から出てきたのは、厚みのある透明なファイルだった。

「何だ、それ」

「もらった紙」

「見れば分かる」

黒馬は近くの低いコンクリートの縁へファイルを置いた。僕へ手渡さず、指を離してから一歩退く。

紙を受け取るだけなら、指先が触れても事故で済む距離だった。
事故すら起こらない。

僕はファイルを開いた。

最初に入っていたのは、六月に署名した出演同意書の本人控えだった。

〈本企画への参加は本人の自由意思による〉
〈参加者は、いつでも辞退できる〉
〈撮影・編集した映像は、公開前に参加者本人が確認する〉

僕の控えと同じ文面だ。

その次には、最初の仮台本、確定版、撮影ごとの修正版が、受け取った順に入っていた。

「全部取ってあったのか」

「内容が違ったから」

「普通は最新版だけ残す」

「前のが間違いだって、誰も言ってない」

黒馬は当然のように答えた。

僕は紙を順番に広げた。

最初は、並んで挨拶するだけだった。
次は肩へ手を置く。
その次は距離を縮める。
文化祭用の台本では、表紙に〈二人の王子、感動の仲直り〉、本文の見出しに〈自然な仲直り〉とあり、僕の謝罪、黒馬が僕を十秒見つめる時間、肩を抱く動作、「これからも一緒」という台詞、抱擁の秒数まで印刷されている。

修正されるたび、本人たちの意思だけが薄くなり、親密さの演出だけが濃くなっていた。

「どれが自然なのか、分からなかった」

黒馬が言った。

「握手するのと、肩を抱くのは違う。違うのに、どっちも自然って書いてある。だから残した」

僕は何度も、こいつの分からなさを補おうとしてきた。
曖昧な指示を翻訳し、沈黙へ意味を足し、周囲が欲しがる答えへ整えた。

けれど黒馬は、分からないものを分からないまま置いておける。
前の文言を、新しい説明で上書きしない。
食い違う紙を捨てず、両方残す。

僕が欠点だと思っていたものが、学校の言い換えを一枚ずつ保存していた。

「黒馬」

声が低くなった。

「これは証拠になる」

「何の」

「学校が最初に約束したことと、実際に僕たちへ求めたことが違う証拠だ」

同意書では自由意思と辞退権を認めている。
台本では自然を名乗りながら、視線も接触も台詞も指定している。
修正版を並べれば、反響に合わせて演出が段階的に強くなったことも見える。

さらに、ファイルの後ろには校内連絡を印刷した紙があった。

〈学校活動への貢献度は、校内推薦における総合評価の一要素となります〉

断定はしていない。
だからこそ、受け取る側だけが最悪の意味を補う。久世副校長が得意とする、責任を文の外へ置く書き方だった。

「小野寺さんが残している元映像と、公開版を比べる」

頭の中で、ばらばらだったものがつながり始める。

「僕の発言は後半を切られた。同意書には公開前確認がある。未編集映像が残っているなら、紙の約束と、実際の編集を同じ時系列に置ける」

まだ計画ではない。
どこへ、どの順番で、何を出せば学校の逃げ道を塞げるかも決まっていない。

それでも初めて、反撃に使える形が見えた。

僕の言葉は、矛盾を並べて意味を作れる。
黒馬の分からなさは、意味を作らず原形を残せる。

どちらか一方では足りなかった。

「これで全部か?」

黒馬は首を振った。

「もう一枚ある」

透明なファイルの内側、ほかの紙とは別に折られていた一枚を取り出す。

今度も直接渡さず、同意書の横へ置いた。

広報室から黒馬へ宛てた連絡文だった。
末尾には、印字された役職名だけではない。久世征司の署名がある。

本文の最後の一行を読んだ。

〈本企画を辞退した場合、男子バスケットボール部の部活動特別遠征費については、次年度計画を含め再検討します〉

参加は自由意思で、いつでも辞退できる。

ただし辞退すれば、自分ではなく、仲間の遠征費が再検討される。

曖昧に見せた脅しが、署名だけは妙に明瞭だった。