王子様たちの憂鬱

旧放送室の扉は、閉まっていた。

校内連絡アプリには、まだ黒馬の一文が残っている。

〈旧放送室に来て〉

配信が終わってから、ほとんど時間は経っていない。なのに特別棟三階までの階段は、普段より一段ずつ高くなったように感じた。

扉へ手を掛ける。

この向こうは、学校で唯一、笑顔の角度を整えなくてよかった場所だった。

今は、入る前に表情を作るべきかどうかさえ分からない。

僕はノックをした。

「入って」

黒馬の声だった。

扉を開けると、黒馬は壁側のいつもの椅子に座っていた。スポーツバッグを足元へ置いている。長机の上には、透明なファイルと王子様廃業同盟のノートが並んでいた。

僕の席だけが空いている。

黒馬は僕を見ても立ち上がらなかった。

僕は扉側の椅子へ座った。

長机の上には、僕たちが書き足してきたノートがある。食堂レビューの敗因、校内案内の反省、相性質問で互いの答えを外し損ねた記録。ページの端には黒馬の大きな字で、意味の分からないコメントへの疑問まで残っていた。

あれだけ文字を重ねても、長机を挟んだ距離は最初からこれだけだったはずだ。なのに今日は、向かい側がずいぶん遠い。

黒馬は、前置きもなく言った。

「嘘なのは分かった」

息が戻った。

胸の奥で固まっていたものが、わずかに緩む。

やはり気づいていた。配信中、僕の右手を見ていた。左手で親指を包んでいたことも、その時にしか出ない僕の声も、こいつは覚えていた。

僕たちは友達ですらない。

学校に言われて一緒にいただけ。

個人的に親しくなりたいと思ったことはない。

あれを、本当だとは受け取らなかった。

「そうか」

自分でも驚くほど、声が軽くなった。

黒馬の目が細くなる。

「だから余計に腹が立った」

緩んだものが、もっと深い場所へ落ちた。

「……嘘だと分かったなら、何に怒るんだ」

「分かってて言ったから」

黒馬は机の上へ両手を置いた。握ってはいない。僕へ触れようともしていない。

「学校に言われて一緒にいただけなら、ここで二人で辞め方を考えたのは何だったんだ」

僕は答えなかった。

「食堂で失敗して、校内案内で迷って、体育館で白鳥に触っていいか聞いて、配信で台本を捨てた。あれは学校に言われたことじゃない」

「分かっている」

「抱きしめたのも違う」

胸の奥が、反射的に縮む。

撮影のためではない腕の強さと、離れたいかと尋ねた声を、体が先に思い出した。

「分かっていると言っているだろ」

声量が落ちた。

黒馬はひるまなかった。

「じゃあ、なんで全部なかったことにした」

「なくすためだ」

「何を」

「学校が使える僕たちの関係を」

僕は机の縁へ指を掛けた。

「僕たちが親しくないと公に言えば、文化祭の仲直り企画は成立しない。お前が僕と並ぶ理由もなくなる。推薦や部費を人質にされてまで出演する必要が――」

「企画、終わった?」

言葉が止まった。

机の上で、僕の端末が震えた。

画面には学校公式アカウントの通知が浮かんでいる。

〈衝撃の決裂。文化祭で二人は最後に何を語るのか〉

黒馬は画面を見たが、笑わなかった。

「終わってない」

「今度は終わらせる」

「誰が決める」

「僕が――」

口にしかけて、止まった。

黒馬は首を傾げなかった。意味が分からない時の顔ではない。答えを知った上で、僕が何を言うか待っている顔だった。

「白鳥は、俺を守ろうとしたんだと思う」

責める声ではなかった。

その言い方に、僕は救われそうになった。

「そうだ。僕はお前を守ろうとした」

「頼んでない」

短い言葉が、救いの形を壊した。

「頼まれてからでは遅いこともある」

「俺が傷つく前に、白鳥が代わりに傷つくつもりだった?」

「その方がましだ」

「それも白鳥が決めた」

「何がだ」

「俺が何をされたら傷つくか。白鳥が何をしたら俺が助かるか。聞かないで、全部決めた」

「だから、白鳥が決めるのか」

「圧力をかけられた状態で選んだものは、自由な選択とは言えない」

「嫌だけど出るって、俺は言った」

「それは部員を巻き込みたくないからだろ」

「そうだよ」

黒馬の声も、少しだけ低くなった。

「部のことを考えて、俺が決めた。あとで変えるかもしれない。学校に従うかもしれないし、反抗するかもしれない。宮坂先輩たちに話すかもしれない。どれを選ぶかは、俺が決める」

「間違った選択でもか」

「白鳥が間違いだと思っても」

「本当に間違えたらどうする」

「間違えたって分かってから、次を決める」

「推薦も遠征費も、やり直せないかもしれない」

「だから考える。分からないことは聞く。白鳥が反対なら、反対だって聞く」

黒馬は一度、机の上のノートへ目を落とした。

「でも、選ぶ前に俺の答えを消すな」

反論はすぐに浮かんだ。

僕の方が久世副校長の狙いを読める。推薦の評価も、部費の再検討も、直接的な命令ではないからこそ厄介だ。黒馬は曖昧な言葉の危険を読み違える。

だから僕が、先に最悪の道を塞ぐ。

そこまで考えて、口に出せなくなった。

黒馬が僕を見ていた。

「学校もお前も、俺が何も考えられないと思ってる」

「同じにするな」

ほとんど反射だった。

「副校長は、お前を利用している。僕は――」

「学校は、俺が分からなくて止まると、それを黒王子の魅力に直す」

黒馬は平らな声で言った。

「白鳥は、俺には分からないからって、俺の答えを白鳥の正解に直す。やってることは違って見える。でも、俺に決めさせないのは同じだ」

「守ってる?」

「そうだ」

「俺に聞かないで?」

机の上のノートが目に入った。

黒馬は表紙を開き、最初のページを僕の方へ向けた。

四つの規則。

二人で決め、二人で署名した文字が残っている。

黒馬の指が、三番で止まった。

「重要な作戦は必ず相談する」

読み上げられなくても、覚えていた。

「今回のは、重要じゃなかった?」

「相談すれば、お前は止めただろ」

「止めるかどうかも、俺に決めさせなかった」

返せる言葉がなかった。

黒馬の指が、一行下へ移る。

「どちらかが辞めると言ったら解散する」

「黒馬」

名前を呼んだだけで、その先が続かない。

何を言えばいい。

悪かったと謝れば、許すのか。

守りたかったと繰り返せば、理解するのか。

どちらも、相手の返事をこちらの望む形へ誘導する言葉に思えた。

黒馬は筆箱から黒いペンを出した。

署名の下に残っていた余白へ、迷いなく二文字を書く。

〈解散〉

僕の署名と黒馬の署名、その下に置かれた二文字は、どちらか一人では取り消せない決定に見えた。

「俺が辞める」

「企画を?」

「同盟を」

胸の奥が、遅れて痛んだ。

学校の企画なら、壊す方法を考えられる。数字を分析し、台本の穴を探し、相手の逃げ道を塞げばいい。

けれど、二人で決めた規則を使って黒馬が出した答えを、僕には壊せない。

壊せば、また同じことになる。

「僕が嫌いになったのか」

聞いた瞬間、自分の声の幼さに吐き気がした。

黒馬はすぐには答えなかった。

「嫌いになったとは言ってない」

「なら――」

「今は、好きか嫌いかの話に変えないで」

黒馬は僕の逃げ道を、怒鳴りもせずに塞いだ。

「それで答えが変わる話じゃない」

希望になりそうな言葉だった。

続きがなければ。

「でも、今のまま白鳥の隣にはいられない」

壁側の椅子が、わずかに鳴った。

黒馬は立ち上がり、透明なファイルを開いた。初版の出演同意書、撮影台本と修正版、文化祭の『自然な仲直り』台本、推薦と部費について書かれた連絡文。二つ折りの紙を順に確かめ、まとめてスポーツバッグへ入れる。

「それをどうする」

「持って帰る」

「捨てるのか」

「捨てない。書いてあることが違うから」

いつもと同じ理由だった。

分からないものを、分かったふりで処分しない。

その性質を僕は信頼していたはずなのに、黒馬自身の選択だけは信頼しなかった。

黒馬は同盟ノートには手を伸ばさなかった。

「これは?」

「ここに置く。壊したくない」

解散と書いても、破らない。

同盟を終わらせても、なかったことにはしない。

僕が配信でしたことと、正反対だった。

黒馬はスポーツバッグを肩へ掛けた。僕の横を通り、扉へ向かう。

手を伸ばせば、袖くらいには届いた。

伸ばさなかった。

触れていいかと尋ねられたことは何度もあるのに、僕は今、黒馬を引き止めていいかさえ尋ねられない。

扉の前で、黒馬が一度だけ振り返った。

「白鳥が俺をどうするかも、白鳥が決めることじゃない」

厚い扉が閉まる。

足音はほとんど聞こえなかった。

防音だけは、今日も完璧だった。

長机の向こうに、空の椅子が一脚ある。

いつも黒馬が座り、菓子を食べ、意味の分からない質問をした場所だ。誰もいないだけで、古いミキサーも、鍵付きの収納も、学校の備品へ戻っていた。

僕の端末がまた震える。

文化祭企画の打ち合わせ予定が、予定どおり追加された。

学校の物語は壊れていない。

同盟ノートを閉じる。

閉じても、余白へ書かれた二文字は消えない。

僕はノートを鍵付き収納の最下段へ戻し、扉を施錠した。解散したからといって、捨てていいものにはならない。

僕は泣かなかった。

泣けば失ったものの大きさを証明できるほど、感情は便利ではない。

ただ、空になった壁側の椅子を見たまま、動けなかった。

学校もお前も、俺が何も考えられないと思ってる。

意味は分かる。

分かるのに、認めたくない。

誰もいない旧放送室で、その言葉だけが何度も繰り返された。