言葉は、半分に切ると意味が変わる。
もっと正確に言えば、切った人間にとって都合のいい意味へ変わる。
学校公式アカウントへ動画が投稿されてから、まだ数分しか経っていなかった。
表題は、〈白王子が黒王子を見下していた?〉。
疑問符をつければ断定ではない、という卑怯者の知恵が、簡潔な一文へ凝縮されている。
再生すると、撮影後の音声が流れた。
『黒馬は本当に何も考えていない』
そこで切れる。
僕が続けて言った、
『だからあいつの言葉は嘘じゃない』
その一文は、最初から存在しなかったように消されていた。
動画は二十秒にも満たない。短いからこそ、何度でも再生できる。人間は長い説明より、短い悪意の方をよく覚える。
コメント欄には、公開から数分で反応が並び始めた。
〈白王子、思ったよりきつい〉
〈黒王子かわいそう〉
〈今まで仲よさそうだったのも演技?〉
〈これ、前後切れてない?〉
最後の一件だけを画面へ残し、僕は公開版を端末へ保存した。
削除を求める前に保存する自分が、ひどく冷静で嫌になる。だが、学校が一度出したものを、学校の都合でなかったことにされるよりはましだ。
「白鳥君、あれ本気?」
廊下で、同じクラスの男子に呼び止められた。
「編集されたものです。発言には続きがあります」
「でも、『何も考えてない』とは言ったんだ」
「そこは事実です」
答えると、相手は困ったように笑った。階段では、僕を見た一年生二人が会話を止めた。いつも通り挨拶を返す生徒もいれば、目を逸らす生徒もいる。
評判が壊れる時は、もっと大きな音がすると思っていた。
実際には、挨拶が一つ減り、視線が半秒早く外れ、名前の代わりに動画の中の一文が残るだけだ。
それで十分、人は孤立できる。
黒馬からの連絡はなかった。
校内連絡アプリで名前を開き、〈動画の後半は切られている〉と打つ。だが、送信する前に消した。
本人が見れば分かる。僕が何を言ったかではなく、僕がそういう人間だったことが。
以前、黒馬は僕の性格が悪いと知っても離れなかった。
けれど、知っていることと、自分が見下されていると公に示されることは違う。
僕はまた、先に結末を決めた。
黒馬も誤解した。そう思う方が、返事を待つより安全だった。
その直後、久世副校長から広報室へ来るよう連絡が届いた。
◇
広報室のモニターにも、同じ動画が表示されていた。
久世副校長は、僕が保存した画面より大きなサイズで、僕の失言だけを再生した。
「公開を停止してください」
挨拶より先に言った。
自分でも驚くほど静かな声だった。
「白鳥君。まず落ち着いてください」
「落ち着いています。全文を公開するか、動画を削除してください」
「君の発言そのものを捏造したわけではありません」
「後半を落として意味を逆転させることを、編集と呼ぶなら便利ですね」
久世副校長は怒らなかった。困った生徒を諭すための、わずかな笑みさえ崩さない。
「誤解を招いたなら残念です。ただ、反応が大きい段階で削除すると、かえって学校が事実を隠したと受け取られる可能性があります」
「公開前の本人確認もありませんでした」
「今回は、すでに撮影済みの素材を用いた短い告知です。企画本編とは扱いが異なると判断しました」
自由意思、いつでも辞退可能、公開前確認。
同意書へ印刷されていた言葉は、使われるたびに適用範囲が狭くなるらしい。最後には文字の縁だけ残り、中身はすべて学校の判断で満たされるのだろう。
モニター脇にいた小野寺が、両手で進行表を握り直した。
「副校長、あの音声は――」
「小野寺さん。公開版への問い合わせは広報で対応します。放送部は次回素材の整理をお願いします」
小野寺の口が閉じる。
僕は彼女を見たが、何も聞かなかった。今ここで話させれば、副校長の前でどちらにつくかを選ばせることになる。
「黒馬君本人からは、削除の要望は来ていません」
副校長が言った。
胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
「だから問題ないと?」
「そうではありません。二人の間に行き違いがあるなら、文化祭で関係修復を見せればよいと思います。失敗もすれ違いも、その後にどう向き合うかで教育的な価値が生まれます」
僕たちが傷つけば、学校は絆を売る。
壊れなければ親密さを売り、壊れれば修復を売る。実に無駄がない。人間の感情を可燃ごみと資源ごみに分別するより手際がいい。
「僕たちの関係は、学校の教材ではありません」
「もちろん、無理に演じさせるつもりはありません。まずは企画案を見て、二人で話し合ってください」
話し合う前に企画案が存在することを、彼は一度も矛盾だと思わない。
僕は広報室を出た。
背後で小野寺が何か言いかけたが、振り返れなかった。
黒馬に会う方が怖かった。
◇
旧放送室の扉を閉めると、廊下の音が消えた。
長机の扉側。いつもの椅子へ座る。
壁際の鍵付き収納には、王子様廃業同盟のノートが入っている。僕たちは、相手の秘密を勝手に使わないことと、重要な作戦は必ず相談することを、同じ紙へ書いた。
僕は黒馬へ何も相談せず、守るつもりで距離を取った。
その結果、学校は僕の言葉を切り、黒馬を傷つけ、僕たちの不仲まで企画にしようとしている。
管理した結果がこれなら、僕の能力も大したものだ。
左手で、右手の親指を包んだ。
大きな嘘をつく前に出る癖だ。
今は誰もいない。嘘をつく相手すらいないのに、指だけが先に逃げ道を探している。
厚い扉が二度、叩かれた。
返事をする前に扉が開き、黒馬が入ってきた。まっすぐ僕を見つける。
「ここにいた」
「見世物の後始末なら、副校長へ行け」
「白鳥と話しに来た」
「動画は見たんだろ」
「見た」
喉の奥が固くなる。
「なら、もう話すことはない」
「ある。白鳥、俺が誤解したと思ってる?」
真正面から聞かれ、答えられなかった。
黒馬は僕の返事を勝手に埋めず、数秒待った。それから、ゆっくり言った。
「『黒馬は本当に何も考えていない。だからあいつの言葉は嘘じゃない』」
僕は顔を上げた。
「それが全文。俺は聞いてた」
「……どこで」
「撮影が終わったあとも、まだ近くにいた。白鳥は気づいてなかった」
「だったら、なぜ何も言わなかった」
「何を?」
「怒るとか、否定するとか」
黒馬は首を少し傾げた。
「何も考えてないのは、前から白鳥に言われてる」
「問題はそこだけじゃない」
「うん。後ろも聞いた。だから誤解してない」
あまりに文字どおりで、胸の内側に詰まっていたものが、少しだけずれた。
「校内では、お前が被害者になっている」
「聞かれたら、全文を言う」
「全員へ説明できると思っているのか」
「全員は無理。でも俺が違うって思ってることは、白鳥に言える」
簡単なことのように言う。
僕には、その一人へ言うことが一番難しかった。
「前のことは、まだ嫌だ」
黒馬が続けた。
安堵しかけた胸が、正しい位置へ戻される。
「撮影中は近づけって言われて、終わると白鳥が離れた。理由を聞いても、何でもないって言った。それは嫌だった」
「……お前の本当の反応を、撮らせたくなかった」
「何で」
「使われるからだ。お前が僕に言ったことまで、学校のものにされたくなかった」
「好きって言ったこと?」
防音室だからといって、何を口にしてもいいわけではない。
「その単語を、確認事項のように繰り返すな」
「違う?」
「違うとは言っていない」
右手の親指へ、左手の力が強くなる。
黒馬の視線が、僕の手へ落ちた。
「また親指、押さえてる」
「見れば分かることを報告するな」
黒馬は長机を回り、僕の前で止まった。大きな手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触っていい?」
逃げるための言葉が、いくつも浮かんだ。
台本ではない。撮影でもない。副校長の指示も、床の立ち位置もない。
だから、僕が答えなければ何も起きない。
「……いい」
黒馬の指が、僕の左手へ触れた。
無理にほどくのではなく、親指を包んでいた指先へ一つずつ触れ、力が抜けるのを待つ。左手が離れると、今度は右手を下から支えた。
バスケットボールで硬くなった指が、僕の手より少し熱い。
「今、嘘つこうとした?」
「分からない」
「じゃあ、分からないでいい」
僕の答えを、都合のいい意味へ直さない。
それだけで、呼吸の仕方を忘れそうになる。
黒馬は僕の手を持ったまま、もう一度聞いた。
「白鳥。抱きしめてもいい?」
「どうしてそうなる」
「今、俺がそうしたい」
「慰めれば大丈夫になるとでも?」
「大丈夫かは、俺には決められない」
黒馬は手を離さず、僕の顔を見た。
「嫌ならしない」
僕は、断れば止まると知っている。
知っているからこそ、答えには逃げ場がなかった。
「……いい」
黒馬が僕の手を離し、一歩近づいた。
長い腕が、肩と背中へ回る。引き寄せられ、額が黒馬の肩口へ触れた。制服の布と、かすかな洗剤の匂いが近い。
呼吸が止まった。
今度は一拍では済まなかった。
黒馬の腕が、すぐに緩む。
「白鳥、息」
言われて、ようやく吐いた。
「離れたい?」
僕を大丈夫だと決めつけない。拒絶を照れだと読み替えない。
離れるかどうかを、僕へ返す。
「……離れなくていい」
黒馬の腕が、もう一度だけ静かに戻った。
撮影ではない。
誰も見ていない。
何秒続けるかも決められていない。
僕は腕を上げられないまま、それでも一歩も退かなかった。
「さっきも止まった」
耳の近くで黒馬が言う。
「数えるな」
「腰に触った時も止まった」
「忘れろ」
「手順は覚える」
「これは手順ではない」
「じゃあ、何?」
答えられるなら、とっくにここまで困っていない。
黒馬は少し黙った。
「俺が前に言った、今の白鳥が好きっていうの、嫌だった?」
「嫌なら、こんなに困っていない」
「それは、白鳥も同じって意味?」
胸のすぐ近くで、黒馬の声がした。
僕は顔を上げた。
黒馬は答えを決めつけず、ただ待っている。
口を開いた瞬間、机の上で二台の端末が同時に震えた。
黒馬の腕が緩む。
「見る?」
「見ない方が面倒になる」
僕たちは離れた。
通知は、久世副校長からの一斉連絡だった。
〈文化祭に向けたダブルプリンス企画について、明日放課後、広報室で打ち合わせを行います。添付の企画案を事前に確認してください〉
添付ファイルを開く。
表紙には、大きな文字でこう書かれていた。
〈二人の王子、感動の仲直り〉
次のページには、進行が秒単位で記されている。
〈白鳥、黒馬へ謝罪〉
〈黒馬、十秒間、白鳥を見つめる〉
〈黒馬、白鳥の肩を抱き寄せる――八秒〉
〈黒馬、「これからも一緒」と言う〉
数分前、黒馬は、自分がそうしたいから僕を抱きしめた。
時間は測っていない。
僕は、離れなくていいと自分で答えた。
学校は今の僕たちを知らない。
知らないまま、同じ形を先回りして商品へ変えていた。
切り取られるのは、言葉だけではない。
距離も、沈黙も、抱きしめる時間も。
僕たちが自分で選んだものは、見せた瞬間から、学校が秒数をつけて所有する。
画面の中の〈八秒〉を見つめながら、僕はさっきの抱擁まで奪われたような気がした。
もっと正確に言えば、切った人間にとって都合のいい意味へ変わる。
学校公式アカウントへ動画が投稿されてから、まだ数分しか経っていなかった。
表題は、〈白王子が黒王子を見下していた?〉。
疑問符をつければ断定ではない、という卑怯者の知恵が、簡潔な一文へ凝縮されている。
再生すると、撮影後の音声が流れた。
『黒馬は本当に何も考えていない』
そこで切れる。
僕が続けて言った、
『だからあいつの言葉は嘘じゃない』
その一文は、最初から存在しなかったように消されていた。
動画は二十秒にも満たない。短いからこそ、何度でも再生できる。人間は長い説明より、短い悪意の方をよく覚える。
コメント欄には、公開から数分で反応が並び始めた。
〈白王子、思ったよりきつい〉
〈黒王子かわいそう〉
〈今まで仲よさそうだったのも演技?〉
〈これ、前後切れてない?〉
最後の一件だけを画面へ残し、僕は公開版を端末へ保存した。
削除を求める前に保存する自分が、ひどく冷静で嫌になる。だが、学校が一度出したものを、学校の都合でなかったことにされるよりはましだ。
「白鳥君、あれ本気?」
廊下で、同じクラスの男子に呼び止められた。
「編集されたものです。発言には続きがあります」
「でも、『何も考えてない』とは言ったんだ」
「そこは事実です」
答えると、相手は困ったように笑った。階段では、僕を見た一年生二人が会話を止めた。いつも通り挨拶を返す生徒もいれば、目を逸らす生徒もいる。
評判が壊れる時は、もっと大きな音がすると思っていた。
実際には、挨拶が一つ減り、視線が半秒早く外れ、名前の代わりに動画の中の一文が残るだけだ。
それで十分、人は孤立できる。
黒馬からの連絡はなかった。
校内連絡アプリで名前を開き、〈動画の後半は切られている〉と打つ。だが、送信する前に消した。
本人が見れば分かる。僕が何を言ったかではなく、僕がそういう人間だったことが。
以前、黒馬は僕の性格が悪いと知っても離れなかった。
けれど、知っていることと、自分が見下されていると公に示されることは違う。
僕はまた、先に結末を決めた。
黒馬も誤解した。そう思う方が、返事を待つより安全だった。
その直後、久世副校長から広報室へ来るよう連絡が届いた。
◇
広報室のモニターにも、同じ動画が表示されていた。
久世副校長は、僕が保存した画面より大きなサイズで、僕の失言だけを再生した。
「公開を停止してください」
挨拶より先に言った。
自分でも驚くほど静かな声だった。
「白鳥君。まず落ち着いてください」
「落ち着いています。全文を公開するか、動画を削除してください」
「君の発言そのものを捏造したわけではありません」
「後半を落として意味を逆転させることを、編集と呼ぶなら便利ですね」
久世副校長は怒らなかった。困った生徒を諭すための、わずかな笑みさえ崩さない。
「誤解を招いたなら残念です。ただ、反応が大きい段階で削除すると、かえって学校が事実を隠したと受け取られる可能性があります」
「公開前の本人確認もありませんでした」
「今回は、すでに撮影済みの素材を用いた短い告知です。企画本編とは扱いが異なると判断しました」
自由意思、いつでも辞退可能、公開前確認。
同意書へ印刷されていた言葉は、使われるたびに適用範囲が狭くなるらしい。最後には文字の縁だけ残り、中身はすべて学校の判断で満たされるのだろう。
モニター脇にいた小野寺が、両手で進行表を握り直した。
「副校長、あの音声は――」
「小野寺さん。公開版への問い合わせは広報で対応します。放送部は次回素材の整理をお願いします」
小野寺の口が閉じる。
僕は彼女を見たが、何も聞かなかった。今ここで話させれば、副校長の前でどちらにつくかを選ばせることになる。
「黒馬君本人からは、削除の要望は来ていません」
副校長が言った。
胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
「だから問題ないと?」
「そうではありません。二人の間に行き違いがあるなら、文化祭で関係修復を見せればよいと思います。失敗もすれ違いも、その後にどう向き合うかで教育的な価値が生まれます」
僕たちが傷つけば、学校は絆を売る。
壊れなければ親密さを売り、壊れれば修復を売る。実に無駄がない。人間の感情を可燃ごみと資源ごみに分別するより手際がいい。
「僕たちの関係は、学校の教材ではありません」
「もちろん、無理に演じさせるつもりはありません。まずは企画案を見て、二人で話し合ってください」
話し合う前に企画案が存在することを、彼は一度も矛盾だと思わない。
僕は広報室を出た。
背後で小野寺が何か言いかけたが、振り返れなかった。
黒馬に会う方が怖かった。
◇
旧放送室の扉を閉めると、廊下の音が消えた。
長机の扉側。いつもの椅子へ座る。
壁際の鍵付き収納には、王子様廃業同盟のノートが入っている。僕たちは、相手の秘密を勝手に使わないことと、重要な作戦は必ず相談することを、同じ紙へ書いた。
僕は黒馬へ何も相談せず、守るつもりで距離を取った。
その結果、学校は僕の言葉を切り、黒馬を傷つけ、僕たちの不仲まで企画にしようとしている。
管理した結果がこれなら、僕の能力も大したものだ。
左手で、右手の親指を包んだ。
大きな嘘をつく前に出る癖だ。
今は誰もいない。嘘をつく相手すらいないのに、指だけが先に逃げ道を探している。
厚い扉が二度、叩かれた。
返事をする前に扉が開き、黒馬が入ってきた。まっすぐ僕を見つける。
「ここにいた」
「見世物の後始末なら、副校長へ行け」
「白鳥と話しに来た」
「動画は見たんだろ」
「見た」
喉の奥が固くなる。
「なら、もう話すことはない」
「ある。白鳥、俺が誤解したと思ってる?」
真正面から聞かれ、答えられなかった。
黒馬は僕の返事を勝手に埋めず、数秒待った。それから、ゆっくり言った。
「『黒馬は本当に何も考えていない。だからあいつの言葉は嘘じゃない』」
僕は顔を上げた。
「それが全文。俺は聞いてた」
「……どこで」
「撮影が終わったあとも、まだ近くにいた。白鳥は気づいてなかった」
「だったら、なぜ何も言わなかった」
「何を?」
「怒るとか、否定するとか」
黒馬は首を少し傾げた。
「何も考えてないのは、前から白鳥に言われてる」
「問題はそこだけじゃない」
「うん。後ろも聞いた。だから誤解してない」
あまりに文字どおりで、胸の内側に詰まっていたものが、少しだけずれた。
「校内では、お前が被害者になっている」
「聞かれたら、全文を言う」
「全員へ説明できると思っているのか」
「全員は無理。でも俺が違うって思ってることは、白鳥に言える」
簡単なことのように言う。
僕には、その一人へ言うことが一番難しかった。
「前のことは、まだ嫌だ」
黒馬が続けた。
安堵しかけた胸が、正しい位置へ戻される。
「撮影中は近づけって言われて、終わると白鳥が離れた。理由を聞いても、何でもないって言った。それは嫌だった」
「……お前の本当の反応を、撮らせたくなかった」
「何で」
「使われるからだ。お前が僕に言ったことまで、学校のものにされたくなかった」
「好きって言ったこと?」
防音室だからといって、何を口にしてもいいわけではない。
「その単語を、確認事項のように繰り返すな」
「違う?」
「違うとは言っていない」
右手の親指へ、左手の力が強くなる。
黒馬の視線が、僕の手へ落ちた。
「また親指、押さえてる」
「見れば分かることを報告するな」
黒馬は長机を回り、僕の前で止まった。大きな手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触っていい?」
逃げるための言葉が、いくつも浮かんだ。
台本ではない。撮影でもない。副校長の指示も、床の立ち位置もない。
だから、僕が答えなければ何も起きない。
「……いい」
黒馬の指が、僕の左手へ触れた。
無理にほどくのではなく、親指を包んでいた指先へ一つずつ触れ、力が抜けるのを待つ。左手が離れると、今度は右手を下から支えた。
バスケットボールで硬くなった指が、僕の手より少し熱い。
「今、嘘つこうとした?」
「分からない」
「じゃあ、分からないでいい」
僕の答えを、都合のいい意味へ直さない。
それだけで、呼吸の仕方を忘れそうになる。
黒馬は僕の手を持ったまま、もう一度聞いた。
「白鳥。抱きしめてもいい?」
「どうしてそうなる」
「今、俺がそうしたい」
「慰めれば大丈夫になるとでも?」
「大丈夫かは、俺には決められない」
黒馬は手を離さず、僕の顔を見た。
「嫌ならしない」
僕は、断れば止まると知っている。
知っているからこそ、答えには逃げ場がなかった。
「……いい」
黒馬が僕の手を離し、一歩近づいた。
長い腕が、肩と背中へ回る。引き寄せられ、額が黒馬の肩口へ触れた。制服の布と、かすかな洗剤の匂いが近い。
呼吸が止まった。
今度は一拍では済まなかった。
黒馬の腕が、すぐに緩む。
「白鳥、息」
言われて、ようやく吐いた。
「離れたい?」
僕を大丈夫だと決めつけない。拒絶を照れだと読み替えない。
離れるかどうかを、僕へ返す。
「……離れなくていい」
黒馬の腕が、もう一度だけ静かに戻った。
撮影ではない。
誰も見ていない。
何秒続けるかも決められていない。
僕は腕を上げられないまま、それでも一歩も退かなかった。
「さっきも止まった」
耳の近くで黒馬が言う。
「数えるな」
「腰に触った時も止まった」
「忘れろ」
「手順は覚える」
「これは手順ではない」
「じゃあ、何?」
答えられるなら、とっくにここまで困っていない。
黒馬は少し黙った。
「俺が前に言った、今の白鳥が好きっていうの、嫌だった?」
「嫌なら、こんなに困っていない」
「それは、白鳥も同じって意味?」
胸のすぐ近くで、黒馬の声がした。
僕は顔を上げた。
黒馬は答えを決めつけず、ただ待っている。
口を開いた瞬間、机の上で二台の端末が同時に震えた。
黒馬の腕が緩む。
「見る?」
「見ない方が面倒になる」
僕たちは離れた。
通知は、久世副校長からの一斉連絡だった。
〈文化祭に向けたダブルプリンス企画について、明日放課後、広報室で打ち合わせを行います。添付の企画案を事前に確認してください〉
添付ファイルを開く。
表紙には、大きな文字でこう書かれていた。
〈二人の王子、感動の仲直り〉
次のページには、進行が秒単位で記されている。
〈白鳥、黒馬へ謝罪〉
〈黒馬、十秒間、白鳥を見つめる〉
〈黒馬、白鳥の肩を抱き寄せる――八秒〉
〈黒馬、「これからも一緒」と言う〉
数分前、黒馬は、自分がそうしたいから僕を抱きしめた。
時間は測っていない。
僕は、離れなくていいと自分で答えた。
学校は今の僕たちを知らない。
知らないまま、同じ形を先回りして商品へ変えていた。
切り取られるのは、言葉だけではない。
距離も、沈黙も、抱きしめる時間も。
僕たちが自分で選んだものは、見せた瞬間から、学校が秒数をつけて所有する。
画面の中の〈八秒〉を見つめながら、僕はさっきの抱擁まで奪われたような気がした。



